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第二章 怪しい潜入者たち 3

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 田名部教授の講義は、大変おもしろかった。要所要所で笑いを誘い、それでいて決して要諦を外さない。まさに、歴史漫談のように完成されていた。さすがは人気の講義と評される所以であった。しかし、ナオトの耳には半分も入ってはいなかった。カナタが作製した集音マイクのイヤホンを左耳に差し込んで、前席の風間慶一の私語に耳を澄ませていたからである。しかし、慶一は、一切私語をせずに黙念と講義を聞いていた。だがそれも、講義が始まってから六〇分くらい過ぎた時点で終わりを迎えた。
「行くぞ、彰男あきお
「まだ、授業の途中ですが、よろしいのですか?」
「ああ、かまわない。今日はどうも、気分ではない」
「わかりました」
 慶一と、慶一に彰男と呼ばれた男が、田名部教授の講義もそこそこに席を立つと、講堂の出口に向かって歩き出した。ナオトもその後を追うために立ち上がった。その場を後にしようとすると、薄い上着の袖を掴まれて引っ張られた。掴んだのはもちろんナオトの右横に座っていた優木瑞稀であった。ナオトは、振り返って瑞稀に目を向けた。瑞稀は、真面目な表情でナオトを見つめていた。
「どこ行くの?」
「ん、トイレだけれど」
「講義の途中で席を立つなんて、失礼だし不謹慎だし、不見識だと思うわ」
「そいつは同感だが、生理現象だ。我慢できそうにない」
「そう」
 納得したようにうなずくと、瑞稀は、掴んでいるナオトのシャツの袖を放した。
「今度から気をつけるようにね。じゃあ、行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
 どうも間の抜けた返答になってしまったことに気づいて、ナオトは頬をかいた。立ったまま一考すると、表情をやんわりとあらためた。今はまだ、急ぐこともないだろう思い、必要がないと思ったが、すぐに戻る旨を瑞稀に伝えると、講堂の後ろから出て行った。
 強烈な日差しで、視界が一瞬ホワイトアウトしたようになり、むっとした温かい空気に全身が包まれた。ナオトは、Tシャツの襟元を掴んでパタパタと揺らして胸元に風を送り込んだ。周囲に目を走らせて慶一の姿を探したが、見つからなかった。
「ふうー」
 息を吐きだすと、ナオトは、手をかざして空を見上げた。相変わらずそこには太陽が光り輝いていた。
 ナオトは、注意深く左右に目を走らせながら、多くの大学生がいるキャンパスを歩いて回った。トイレはすぐに見つかった。と同時に、対象を見つけた。
 トイレの入口に、慶一に彰男と呼ばれていた男が佇んでいたのである。ナオトは、なにごともないように装いながら、彰男に近づいていった。すると、トイレから慶一が出てきた。慌ててスマートフォンを取り出すと、ナオトは、しばらくその場でスマートフォンの画面に目を落とした。それから用心深く慶一に目を向けた。慶一は、彰男を伴って、キャンパスから出て行った。
「さてと、どうするか」
 優木瑞稀に戻るといった手前、戻らないわけにはいかなかった。スマートフォンをポケットにしまうと、ナオトは、一旦講堂に戻ることにしたのだが、ちょうど終業のチャイムが鳴り出したこともあって、踵を返して急いでキャンパスの出口に向かった。大学の門の先に慶一の姿を見とめると、その後を追いかけた。
 キャンパスは、大通りから五〇メートルほど入り組んだところに門を構えていた。門からは一直線に道が続いており、その道を真っ直ぐに行くと駅に到達する。充分に用心しながら距離をとって、ナオトは、慶一と彰男を尾行した。
 尾行は探偵にとって必要不可欠の技能スキルである。基本中の基本といってもよいだろう。対象には決して気づかれてはならない。もし気取られれば、ナオトは、二度と慶一の身辺調査ができなくなる。そのため、キョウジから徹底的に尾行のイロハを叩きこまれていた。ナオトは勘が良く、飲み込みも早かった。充分にひとりでなし得るほどに成長していた。スマートフォンを取り出すと、慶一に悟られないように後を追いかけた。ちょうど、信号が赤になったところであった。慶一たちは、なにやら話しながら信号が青になるのを待っていた。ナオトはスマートフォンに目を落としながら、慶一の背後に接近した。他愛のない会話が聞こえてきた。
「この信号、長すぎやしないか?」
「いつものことです。慶一さま」
 こんな時代に「さま」をつけて他人を呼ぶなど本当にあるんだなと、ナオトは少し驚き、微かに呆れ、ちょっと感心もした。前時代的だと思えたが、巨大グループの御曹司が相手となれば、自然とそうなるのかもしれないと思いなおしたのである。
 信号が青に変わると。慶一たちはゆっくりと歩き出した。距離をとって、ナオトは、その後を用心しながら追いかけた。すると慶一が、歩いている若い三人の女性たちに声をかけ始めた。
 ナオトは慶一と距離をとったまま、その場で空を見上げて嘆息した。
「にしても、この暑さは異常だな」
 ひとまずナオトは、アーケードの陰に入って暑さをしのぐことにした。その双眸は、慶一の背中に向けられていた。
 若い女性たちは、楽しそうに笑っていた。なにを話しているのかまではわからないが、ただ、道を尋ねているのではなさそうである。何度もうなずき、たまに首を横に振っている。
「まさか、ナンパでもしているのか?」
 ナオトの頭をよぎった想像は、実は当たっていた。慶一は、遊ぶために女性たちに声をかけたのである。「高級レストランで昼食でもどうだ」と持ちかけていた。当然のことではあったが、夜も遅くなる。
「婚約者がいるのに、非常識もはなはだしいな」
 ナオトは、アーケードの陰では我慢できずに、ミストが撒かれている場所へと移動して、ナンパ中の慶一の様子を窺っていた。不意に、慶一の視線がナオトの方を向いた。ナオトは、スマートフォンに目を落としてごまかした。
「自分が尾行されていることに気づいたのか? いや、まさかな」
 ナオトはおもむろにその場を離れると、大胆にも慶一たちがいる場所に向かって歩道を歩き出した。一歩、二歩と、慶一に近づいていくと、従っている彰男という男がナオトに目を向けた。
「ばれているとは思えないが」
 ここは慎重にならなくてはならない。スマートフォンを操作して連絡相手を選択すると、ナオトは、スマートフォンを左の耳に当てた。数回の呼び出し音を聞いている間、ナオトは、ともすれば慶一に向きがちな視線を我慢しながら、真っ直ぐに視線を固定して、歩いて行った。
「さりげなく、自然体にだ」
 周りの風景に溶け込むようにしなくてはならない。自分にそういい聞かせながら、ナオトは、たまに立ち止まったり、空を見上げたり、前髪を後ろへ梳いたりした。ようやく、連絡した相手が出た。
「ナオトか、どうした?」
 スマートフォンのスピーカーの向こう側から、野太い声が聞こえてきた。
「マスター、今、ちょっと時間をもらえないか?」
「かまわんが、どうした?」
「現在、マルタイに向かって歩いている。どうしてそうなったかは聞かないでくれ。とにかくだ、しばらく、電話を切らないでくれないか」
 ナオトは、慶一に向かって歩き続けた。今ここで歩みを止めると、余計に怪しまれるかもしれなかったからであったが、慶一に従っている彰男がナオトのことを疑わしそうに見ていた。
「ふう」
 ゲンイチロウが息を吐きだしたのが聞こえた。
「また早まったのか? 学習能力のない奴だな」
「いや、そうじゃない。彰男という男が慶一の側にいるんだが、こいつが勘が鋭いようだ。おれのことをじっと見ている」
 スピーカーの向こうから大きな溜息が聞こえてきた。
「ばれたらそれまでだぞ。もうお前は、二度と慶一の前には出られなくなる」
「ああ、わかっている。あと一〇メートルほどだ。なにか、笑える話はないか?」
「笑える話、か。そうだな……」
 ゲンイチロウは、スマートフォンを右の耳から左の耳に移動させて考え込んでいたが、しばらくして、なにか思い出したように口を開いた。
「さっきキョウジから連絡があった。笑える話じゃあないが、経過は順調だそうだ」
「キョウジは口から生まれてきた口だからな。ごまかすのも取り繕うのも、おれよりは長けている」
「違いない」
 ちょっとした駄洒落がおかしかったのか、ゲンイチロウの豪快な笑い声がスピーカーから聞こえてきた。ナオトは、スマートフォンを耳から離して、それでも聞こえてくる大音量のゲンイチロウの笑い声に閉口した。すでにナオトと慶一との距離は、五メートルほどに縮まっていた。ナオトは、さり気なく背後を振り返った。そして、少しの間、空を見上げると、視線を下げてから前に向き直り、再び慶一に目をやった。彰男がナオトを明らかに睨みつけていた。ナオトは、スマートフォンを右耳に当て変えると、ゲンイチロウに問いかけた。
「他にはないのか? 笑える話は?」
「そうだな……」
 ゲンイチロウは、口の端にかけたくもないことを小声で話し始めた。
「シオリがな、またぞろ新しいカクテルを考案したんだそうだ。困ったことに、そいつは今、わしの目の前に置かれている」
「ふっ、そいつは笑えない話だな」
「ああ、笑えない。こいつは健康を著しく害する事案だからな」
 ゲンイチロウが声をひそませているのは、おそらく側にシオリがいるためであろう。思わずナオトも声をひそませた。
「シオリには、決していえない台詞だな」
「そのとおりだ。どうか、祈っておいてくれ。わしが無事でいることをな」
「もうすぐマルタイの側を通り過ぎる」
 ゲンイチロウの話を無視して、ナオトは事態を正確に伝えた。ナオトと慶一との距離は徐々に縮まっていく。歩く早さを変えずに、ナオトは歩き続けた。
「もうすぐだ。もうすぐ、マルタイの側だ」
 ナオトは、ズボンの後ろポケットからハンカチを取り出した。額に滲んでいる汗を拭いながら、歩き続けた。そして、慶一の側を通り過ぎた。
「よし、ばれてはいないようだ」
 安心したナオトは、一方的に通話をきると、スマートフォンとハンカチを元々あったポケットにしまった。近くに喫茶店があったので、ひとまずそこへ入ることにした。ややもすると、早歩きになりそうなのをこらえながら、歩く早さは変えずに歩き続けた。その時である。
「おい、お前、ちょっと待て」
 不意に背後から声をかけられた。
「気づいたか」
 ナオトは悠然と背後を振り返った。彰男がいぶかしそうに眉を寄せながらナオトを凝視していた。言葉を発したのは、彰男ではなかった。
「おれのことかい?」
 ナオトは慶一と正対した。慶一の手がゆっくりと動いた。
「落とし物だ」
 慶一の指が、歩道のある一点を指さしていた。ナオトが目だけをそちらに向けると、ハンカチが落ちていた。ナオトは後ろポケットに手を突っ込んだ。しまったはずのハンカチはなかった。屈んで、落ちているハンカチを確認した。間違いなく、ナオトの汗が染み込んでいるハンカチであった。
「ああ、ありがとう」
 少々ぎこちなかったかもしれない。ナオトはハンカチを手にして立ち上がると、慶一に目を向けた。
「助かったよ。こいつは彼女からもらった大切なハンカチなんでね。無くしてしまうとえらい目にあっていたよ」
 ナオトはハンカチを、今度はちゃんとポケットにしまった。もう一度感謝の言葉をかけると、大胆な提案を持ちかけた。
「礼がしたいな。どうだ、涼しい場所で熱い飲み物でも? 当然、おれのおごりだが」
 慶一は黙っていた。警戒しているのであろうか、そこまでは読みきれなかった。
「そっちの彼と、彼女たち三人も一緒でも構わないが」
 ナオトの目が、慶一に従っている彰男とナンパされていた女性たちに向けられた。
 彰男は慶一に近づいて耳打ちした。慶一の目がナオトを観察するように、頭の天辺から足の先まで動いた。ナオトは、むず痒さを感じた。女性たちもナオトに目を向けていた。なにやら三人で話し込んでいる。話がまとまったのか、少し気の強そうな女性がはっきりとした口調でいった。
「三対三ね。なら構わないわよ」
 慶一は凛々しく、彰男は美男子で、ナオトは優しそうな風貌であった。特に、気が強そうな女性の後ろにいて恥ずかしそうにしている女性は、地味なナオトのことをチラチラと見ており、気になっている様子であったが、ナオトは気づいてはいなかった。そんなことより、あまり期待してはいなかったが、これは慶一と接触する良い機会だと考えており、それどころではなかったのである。
「礼なら不要だ。といいたいところだが、彼女たちも一緒ならば、おれは構わんが」
 意外な返答であった。普通こんなことはありえない。街なかで初めて出会った男と、礼とはいえ相席するなど。訝しみながらも、慶一が申し出を受けたので、ナオトは、慶一と彰男、そして、ナンパした三人の女性たちを引き連れながら、先に入るつもりであった喫茶店に入ることにした。
 高級ランチを期待していた女性が残念そうにしていたが、ゲンイチロウから経費について釘を差されたばかりであったので、安上がりで手軽な喫茶店しか選択肢はない。ナオトは吝嗇家ではないが、自分の懐事情というものとも折り合いをつけるしかないのである。
 自動ドアが開くと、冷やされた空気が全身を包み込んだ。
「あー、涼しい」
 気の強そうな女性が、そう感想を述べると、ナオトが応じた。
「そうだな、生き返るとはこういうことをいうのかもね」
「うん」
 恥ずかしそうにしている女性がナオトの言葉に小さくうなずいた。その時である、突然、慶一が楽しそうに笑い出した。自分を数段上において、他人を見下すような笑い方であった。気分を害されたナオトは、後ろにいた慶一を振り返って、眉を寄せて不愉快な表情を向けると、自分でも意外なほどのきつい口調で応じた。
「そういう笑い方は、正直、関心しないな」
 慶一が斜に構えて冷笑している。
「そういう笑い方はやめろといっている。日本語がわからないのか?」
 慶一が鼻で笑った。
「お前はいったい、誰に向かってものをいっているのか、わかっていないようだな?」
 慶一は、清楚で、恥ずかしそうにしている女性の肩を抱き寄せた。この女性がナオトに惹かれていることに気がついていたのである。女性は嫌がって慶一の手から逃れようとしていたが、その手を振り払う力がなかった。
「彼女が嫌がっている。その手を放せ」
「正義の味方にでもなったつもりか? お前だって男だろ? この女がお前に気があることぐらい、わかるよな」
「もう一度いう、その手を放せ」
 ナオトと慶一がいい争っている声が店内に響き渡った。客がなにごとかと目を向けていたが、慶一はかまわなかった。すると、気の強そうな女性が呆れたように口を挟んだ。
「あー、もう、どうでもよくなったわ。こんなの放っといて行こ」
「う、うん」
 肩をつかまれていた女性は、気の強そうな女性が無理やり慶一の手を解いて自由を回復させると、友人に挟まれるようにして店を出て行った。慶一は口の端だけを釣り上げるようにしてナオトを見ながら笑っていた。ナオトは眉間にしわを寄せたまま、不快感を隠そうともしなかった。
「で」
 頭を少したかむけて、慶一がナオトに冷めた目を向けた。
「どうするね? このまま男三人でお茶でもするのかい? ふふふ」
 ナオトは無言で財布を取り出すと、一万円札を一枚、人差指と中指でつまんだ。こいつは痛い出費であったが、そんなことはどうでもよく感じられた。指先を揺らしてから、一万円札を慶一に放り投げた。
「お釣りは不要だ。領収書でも欲しいところだがな」
「必要とあれば、今ここで、したためてやってもいいが、どうするね?」
 ナオトは慶一を鋭い眼光で睨みかえした。
「いや、前言は撤回する。領収書は必要ない。ハンカチのことは感謝している。それじゃあな」
 最後は彰男に目を向けて、ナオトは店を出て行った。短い間ではあったが、慶一の為人の一端を垣間見たように思えた。全く、不愉快きわまりなかった。最初から、こうするつもりであったのだと思えた。
 店の外には、先ほど愛想をつかして出て行った三人の女性が待っていた。気の強そうな女性が、清楚な女性の背中を押した。一歩前に出た女性は、恥ずかしそうにうつむいたままであった。
「ほら、いいなよ。ちゃんといわないと、想いは伝わらないんだよ」
「うん」
 うつむいていた女性が、意を決して顔を上げて、ナオトを見つめた。
「さっきは、助けてくれてありがとう。ただ、それだけをいいたくて……」
 おとなしそうな女性はペコリと頭を下げた。
「おれは、なにもしていないよ」
 そう告げると、ナオトは三人の女性の前から去っていった。歩きながらナオトは考えていた。キョウジなら、「なんてもったいないことを」とかいったに違いない。そう考えると、少しは気分が落ち着いた。
 ナオトは一度、振り返った。三人の女性が手を振っているのが見えた。ナオトがそれに応じるように手を振った。もう二度と会うこともあるまい。そう考えながら、背中を向けて歩き続けた。
 ナオトは空を見上げた。
「なんて、暑い日なんだ」
 文字通り目を細めて太陽を見上げて、ナオトは、とりあえず今日のところは慶一の後を追うことを諦めて、彰男と呼ばれていた男のことを調べるために、一旦、東都大学へ戻ることにしたのである。
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