萬倶楽部のお話(仮)

きよし

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第一章 2

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 少年が通う高校の制服は紺地のブレザーである。翻って中学の制服は詰め襟の黒い学生服であった。ダサいと思う生徒もいれば、毎日の服装に頭を悩ませる必要がないので楽でいい、という生徒もいる。先に上げた人たちの中には、みんなで同じ恰好というのが生理的に受けつけられないと考える人が大半であった。没個性、になると見なされていたのであろう。他人とは違うこと、他人がしないであろうことを成すのは、思春期の若者であれ大の大人であれ、一般的に、極自然に湧き上がってくる欲求であろう。それは、「個性」という甘美な響きに直結する。
 ある人がいっていた。
「着かた、崩しかた、アクセントをつける。このような自分なりのやりかたこそ、個性と呼ぶにふさわしい」
 そうでなければ、制服を変えたところで同じである。詰め襟の学生服であれ紺地のブレザーであれ、みんなと違いがないのだから。要は同じ制服でも、個性を出すことは可能であり、それこそが本来意味での個性である、と。
 まあ、そんなに堅苦しく考える必要はない。ただひとこと、どこかの誰かに苦言を呈しておきたかっただけなのである。
「ん?」
 少年は、鏡に映っている自分の姿を見て、首を左右ひだりみぎに動かしてみた。気になるところがあったのである。何回か櫛で梳いてみた。
「うーん。まあ、いっか」
 少年は部屋を出て、一階のダイニングに向かった。
 ダイニングのテーブルには、妹がいた。その対面に父が新聞を広げて座っていた。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
 よそよそしげな妹からは返事がもらえなかった。あのような会話を交わした後なのでしかたがあるまい。なにより思春期真っ只中の女の子である。無理もない。少々悪ノリしてしまったことは、胸の内で謝罪しておいて、少年はテーブルについた。
 母の姿はなかった。七年前に胃癌で他界していた。父は、母の看病と仕事、そしてふたりの子どもたちために無理をしてしまったのであろう、めっきり老け込んでしまったように見える。悲しいとか虚しいとかいう感情を、子供たちの前ではいっさい見せなかった。ただ、タイミングが悪く、七回忌法要が終わって親戚が帰った後、仏壇の前でお酒を飲んでいるのを見てしまった。少年は、そのことには触れなかった。父は気づいていたのであろうか。それを確かめることはできなかった。無理にでも明るく振る舞おうとしているのが痛々しかった。自分は、無力であった。
 母が亡くなった時、少年は泣けなかった。七歳の妹が、ベッドの上で動かなくなってしまった母に抱きついて泣きじゃくった。父は、そんな妹の姿を見て涙を堪えていた。後ろからふたりを見ていた少年は、「自分は、今ここで泣くわけにはいかない」と健気に思った。父と妹、ふたりを支えなければ、そのように考えていた。
 母が亡くなってわかったことがある。三食の食事の用意、ゴミの分別、買物、掃除、洗濯、あらためて主婦の大変さに気がついた。
 女性の社会的地位は、この国では高いとはいえない。極々限られた女性のみ社会進出できる。とはいえ、あまりでしゃばると陰口や批判の対象になる。まったく、難儀な国である。
 そのようなことをつらつらと考えながら、少年は呆れたように食パンにかじりついた。妹は無言でレモンティーをすすっている。父は新聞の記事に夢中である。
 コーヒーで食パンを胃に押し込むと、少年は洗面所に向かった。歯をみがき、顔を洗う。それから仏間に行き、仏壇の前に座ると手を合わせた。毎朝の日課である。写真の中の母が微笑んでいた。少年は声には出さないで、胸の内で語りかけた。
「母さんが亡くなって七年。時が経つのも早いね。おれは今日から高校生です。どうか安心してお眠り下さい。父さんを支え、真那海を助けることが、おれの使命だと思っています。自分のことは二の次でいい。とにかく、ふたりが幸せであれば。じゃあ、母さん、行ってきます」
 手をあわせてりんを鳴らした。澄明な響きが耳に心地よかった。
 仏間を出てダイニングに戻ってみると妹の姿がなかった。父は新聞に目を落としたままである。外で待ってるのか、と考えながら、父に行ってくる旨を告げて玄関に向かった。妹の靴があった。
「父さん、真那海はまだいるの?」
 少し声量を上げて、少年は父に尋ねた。父も負けじと声を張った。
「お前が仏間に行っている間に 歯を磨いてから二階に行ったみたいだぞ」
 少年は腕組みして考えた。
「人に早く起きないと遅刻するといっておきながら、どうゆう了見なのかね」
 靴を履き終わって妹を呼ぼうとすると、二階から扉を閉める音が聞こえてきた。
「さてと、なんていってやろう」
 少年は首を傾げて考え込んだ。どうやら、妹が下りてくるほうがまさったようである。
「お兄ちゃん、ちょっと待ってて」
「そのちょっとを、今まで待ってたんだが」
「じゃあ、あと少し待ってて」
 ちょっとと少しは、どちらがより短いのであろう。そんなことを考えてみたところで大したことではない。それよりも、妹がいつものように言葉のやり取りをしてくれたので安堵した。歯を磨いている間に冷静さを取り戻したのかもしれない。
「あと少しだけだぞ」
「うん」
 いうが早いか、妹は仏間に消えていった。ほんの数秒後、りんの音が響いた。その響きがおさまる前に、妹が慌てたように玄関にやってきた。妹は、玄関にある姿見に自分を写して、前髪を整え、身体を左右に振り、それから背中を確認している。
「そんなに気にすること無いと思うぞ」
「気にするわよ。どうせなら、カワイイって思われたいもの」
 妹にとっては、他人の目に映る自分の姿がとても重要な問題なのである。
「真那海は十分にカワイイと思うぞ」
「お兄ちゃんの評価は身内贔屓なのって、お兄ちゃん、寝癖ついてるじゃない」
「ん、ああ、そうみたいだけど、別に構わんさ」
 少年は興味なさそうにつぶやいた。
「わたしが構うのよ」
「なんで? 本人が構わんといってるんだが」
「寝癖に無頓着な兄の妹って思われるじゃない」
 妹が可憐な唇を尖らせた。
「兄の寝癖に無頓着な妹と思われる」
 少年は、どちらであろうかと考えたが、どちらも正しそうであった。
「まあ実際そうだからな。正しい評価だと思うぞ。それにー」
 一度取り繕うと、それからずっと身を飾らなければならなくなる。めんどくさい。この部分は妹の耳には届かなかった。足早に妹は二階へ上がっていったからである。まったく、今日はなにかと忙しい朝だな、と思っていると、ダイニングから父が出てきてもっともらしいことを口にした。
「ん? まだいたのか?」
「おれがどうでもいいことに、真那海がどうやらご執心のようでね」
「真那海もだんだん母さんに似てきたな。血は争えない」
 どうも微妙な空気になりそうであった。少年は会話の話題を考えていると、二階の扉が閉まる音が聞こえた。
「あ、出てきたか」
 この時ばかりは、妹の存在が、とてもありがたかった。
「父さんもそろそろ家を出るから、ふたりとも早くしろよ」
 そういって、父は洗面所に向かった。
 降りてきた妹は、兄に後ろを向くようにいった。少年は素直にその言葉に従った。
 妹は、まず整髪料を目的の個所にかけて、それから櫛で梳いた。しかし、かなりシツコイ寝癖のようで、一度や二度ではどうにもならなかった。妹は、まるで親の仇に対するかのような目つきで、ミスト、櫛、ミスト、櫛と繰り返したが、どうやらお手上げのようである。
「どんな寝方したら、こうなるのよっ」
「おれが知りたいよ」
 少年は適当に応えた。どうも、時間が無駄に消費されている。
「もう諦めたらどうだ」
 少年も高校生であり、人並みに身だしなみには気をつけていた。部屋で寝癖には気づいていたが、軽く二、三回梳いて諦めたのである。
「もう、頭きたっ」
 妹はその場を後にしてリビングに行って、戻ってきた。ハサミを手にしている。
「おいおい、落ち着け、それはダメだ、ダメなやつだ。落ち着いて、ハサミを置いて」
 少年は、人質を取った犯人をなだめる警官の気持ちがよくわかった気がした。妹の目は血走っている。口から蒸気を噴くように見えたのは、過剰な表現でもない。
「これはマズイ」
 このままでは、髪パッツンになってしまう。それは、寝癖がついたまま街中を歩くよりも避けたい、恥ずかしいことである。
「落ち着いて、まずは深呼吸をしよう。それから、ハサミを置いて、話をしよう」
 兄の交渉ネゴシエートの言葉は妹には届かなかった。
「大丈夫よ、わたし、案外器用だから」
「案外な器用って、それ大丈夫じゃないだろう」
 必死に妹をなだめてみたが、なにやら霊媒師のような答がかえってきた。
「さあ、座って、後ろ向いて。すべてをわたしに任せて。ねぇ、お兄ちゃん」
 妹の目がイッている。
「そんな目をした相手は信じられない」
 兄が不平を鳴らすと、ちょうど洗面所から父が出てきて、もっともなことをいった。
「なんだ、お前らまだいたのか」
 渡りに船とは、まさにこのことである。
「父さん、真那海からハサミを取り上げてくれないかな」
 父はなれたものである。真那海からハサミを取り上げると、優しく声をかけた。
「真那海、そろそろ学校に行かないと、遅刻してしまうよ」
 その言葉で、真那海のヤバいスイッチが切れたようである。少年は、ほっと胸をなでおろして、我に返った妹に声をかけた。
「馬鹿やってないで、行くぞ」
「あ、うん」
 少年は、ようやく、家を出ることができた。
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