ポーリュプスの籠絡

橙乃紅瑚

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3.Awakening

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 翌朝。
 私は物陰から島民たちの様子を観察していた。

 その日は曇りで、いつもよりずっと肌寒い日だった。鈍色の空の下、数十人もの島民たちが浜に座って何かをしている。彼らの放つ魚の臭いがこちらにまで漂ってきて、私は不安と吐き気が込み上げてくるのを感じた。

(昨日、なぜあんなことをしたのか問いたださなければならない)

 私は島民たちに話しかける機会を窺っていた。自分に敵意を向ける者と相対することに躊躇いはあったけれど、肌に残るルブラの体温が私を後押ししてくれる気がする。彼に感謝をしつつ、身体を襲うどんよりとした疲労感に溜息を吐いた。

(私……何であんな夢を見てしまったんだろう?)

 昨晩、大蛸に犯されるという夢を見た。

 吸盤に敏感な場所を吸われ、何度も絶頂を迎えさせられるといういやらしい夢。朝起きた時私の股座は湿りきっていて、まるで一晩中抱かれていたかのような倦怠感に襲われた。

(不思議な夢だった。まるで現実みたいにしっかりとした感覚があって、それにすっごく気持ちがよくて……呆れる。男に抱かれたからあんな夢を見たの? 大体なんで蛸なのよ……)

 肌にまだ生々しい感触が残っている。吸い付かれた胸の先や陰核がじりじりと疼いて、膣からとろりと液が溢れ出す。それはルブラから与えられた快楽と重なり、腹の奥に淫らな炎を灯していく。
 またルブラに抱いてほしい。あの大きな身体に押さえつけられたい。そんな欲求が込み上げてくる……。

(……駄目だ、これ以上は考えない方がいい)

 ルブラと蛸の足を無理やり頭から追い出し、注意深く浜を観察する。
 ふと、島民たちの様子がいつもと違うことに気がついた。

 一日四度、島民たちは総出で浜に集まり、海に向かって祈りを捧げる。その祈りは島全域に響き渡るくらいに騒がしく、私は毎日、うんざりとした気分でその声を聞き流した。

 だが、今日はやけに静かだ。早朝の祈りの時間はとうに過ぎているのに、熱狂的な声が聞こえてこない。そっと浜に近づくと、人混みの向こうに棺があるのが見えた。

(また誰かが亡くなったんだ。この島って本当に不気味ね、二週間毎に誰かしら亡くなるのだから)

 島民たちは浜で葬儀の準備を進めているようだった。死者を石の棺に入れ、水葬に付すために舟へ棺を乗せるのはいつもの光景だ。

 だが、私は並べられた棺の数を見て胸騒ぎがした。
 四つ。昨日、私を拉致した島民たちもおそらく四人。

(……偶然だろうか?)

 殺されかけたあの時。強い潮の臭いと共に、何かが砕け、何かが飛び散り、何かが蠢く音がした。
 私を攫った彼らはどうなった? ルブラは誰もいなかったと言ったけれど、島民たちが私を置いてどこかに行ってしまうだなんて、あまりにも不自然だ……。

 死者が出た日、村は歓喜に包まれるというのに島民たちが笑う様子はない。むしろ彼らの横顔には強い怯えが滲んでいる。島民たちは跪き、悲痛な声で海に向かって祈りを捧げた。

「偉大なる御方よ……。彼らに与えられた変化は、あなたの祝福なのですか? それとも我々に対する罰なのですか……?」

「これではあなたの眠る地に向かうことは出来ませぬ! どうかお許しを、xxxxx様……我らに御慈悲を!」

 この葬儀は何度見ても不自然だ。死者のためというよりも、崇めるのためにやっている。

 あなた方が信仰するものは、一体何なのか。
 私は心の中で島民たちに再びの問いをした。

 私は開かれた棺に目を遣った。棺の縁からだらりと垂れ下がった手に、破れた水掻きのようなものが付いているのが見える。それは青白い屍肉の色と合わさってとても不気味に見えた。
 あのような手を持っていた島民はいただろうかと考えを巡らせていた時、私は後ろからすっぽりと抱き締められた。

「ラズリ、冷えるぞ」

 ルブラは何の躊躇いもなく私の胸を揉んできた。振り向きざまに彼の頬を叩いてやる。ルブラはつれねえなと呟き、うっとりと目を細めた。

 一晩置いても変わらない。ルブラの金色の目には、私に対する真っ直ぐな愛情が込められているように見える。

(……何で急にこんな目をするようになったのかしら?)

 落ち着いて彼の目を見てみると、嬉しさよりも不気味さの方が勝った。

 離れるように言ってもルブラは私を抱き締めたままだった。仕方なくそのまま葬儀を見ていると、ルブラは可笑しそうに喉を鳴らし始めた。

「あの葬式っていいもんだよな。あいつらは何もかもが揃った世界に還れるんだ。陸よりも天よりも遥かに素晴らしい世界の住人になる。それってとても魅力的なことだとは思わねえか? ラズリ……」

 ルブラはあの葬儀をやけに褒める。
 打ち付ける波音と灰の空。少し荒れた天気の中で、ルブラの称賛は冷たく、寒々しく聞こえた。

「……ねえ。聞きたいことがあるの」

 嫌な予感がする。
 声が震えないように注意しながら、私はゆっくりルブラを見上げた。

「私を助けてくれた時、村の人たちは誰もいなかったと答えたわね。本当に? 本当に一人もいなかった?」

 ルブラは私を暫く見つめた後、わざとらしくにんまりと笑った。妖しく光る金の瞳に飲まれそうになる。彼は私の身体を撫でさすりながら笑い声を漏らした。

「可愛いラズリ。確かにお前の傍には誰もいなかったぞ」

「……私ね、村の人たちに殺されかけていたの。殺されそうになって、意識を失ってしまう前に何かが砕けたり、何かが飛び散る音を聞いた。人に対する暴力を想像させるような音だったわ。……私は、彼らが殺されたのかもしれないと考えている」

 ルブラはにやにやと笑い続けている。

「昨日私を拉致した村人は、おそらく四人。死者の数と同じなの。村の人たちは全員私に敵意を向けている。せっかく攫ってきた余所者を、殺さないでそのままにしておく理由がない筈よ。村の人が仲間を殺したとも考えにくい。……ルブラ、あまりこんなことは言いたくないけれど。村の人たちに何かした……?」

 金色の目に、冷たさと嘲りが再び宿る。

「くくっ、くくくくっ……はははっ! 村の奴らに何かしただって? まさか! 俺はそんなことしねえよ……。ラズリに手を出した奴は一人残らずやっちまいてえところだが、俺が誰かを殺しちまった日にゃ島中大騒ぎだろうが? 俺は奴らを無闇に刺激するつもりはねえ」

「…………」

「お、納得できねえって顔してるな? いいぜ、ラズリの気が済むまで付き合ってやる。四六時中俺を見張って証拠捜しでもしてみるか? お前が調べたい場所があるなら、島中どこへだって一緒に行ってやるぜ。……あ、そうだ。もし俺を尋問するならベッドの上がいい。素っ裸になってやるから、頭のてっぺんから足の先、俺のあそこまできっちり調べてくれよ。もちろんお前も裸でな、あははははっ!」

 また胸をぐにぐにと揉みしだかれる。人が真面目に聞いているというのに呆れた男だ。私はどうしようもなく苛ついて、ルブラの腕から無理やり抜け出した。

「おい……どこ行くんだ?」

「あの人たちのところ。昨日のことを聞かないと」

「やめとけって! お前が葬式を邪魔したらあいつらはぞ?」

「もう彼らの行いを見て見ぬ振りは出来ない。昨日の攻撃は法律違反よ」

 浜辺に向かおうとする私をルブラが引き止めてくる。手首をがっしりと掴まれ、私はそれ以上歩みを進めることができなくなってしまった。

「ルブラ、手を放して頂戴! 私は警備隊員として村の人たちに話を聞く義務があるの!」

「はあ……一人でのこのこ突っ込んでいく気か? 仕事熱心なのは結構だがやめておけ。この島にはお前しか警備隊員がいないんだぞ? いくらお前だって、あいつらが集団で襲ってきたら太刀打ちできねえだろうが」

「心配は結構よ。もう不覚は取らないわ」

「……頑固だな」

 ルブラの腕が絡みつく。自分よりずっと硬くて逞しい身体に抱き寄せられる。
 彼は私の顔を見下ろしながらぞっとする声で囁いた。

「お前って本当に強いよなあ、ラズリ。昨日あんな目に遭ったのに、もう何でもないって顔してる。……怖い思いをしたんだよな? 痛い思いもしたんだよな? あいつらに余計なことを言ったら、またろくでもねえ目に遭うかもしれねえぞ? 殴られて、酷えことされて……そして今度こそ本当に殺されちまうかもな」

 ぞわぞわとした恐怖が込み上げてくる。
 全てを狂わせ、全てを闇に引きずり込むようなあの笛のような声が頭を埋め尽くす。

「ああ、その反応。その怯えた顔! お前が俺に寄りかかってる……くくくっ、堪らねえ! そんな顔されたら放っておけねえよ。守って撫でてどろどろに甘やかしてやりたくなるっ! やっぱり怖くて仕方なかったんだよな? 必死に強がって可愛いなあ、ラズリ! 大丈夫。大丈夫だ。俺が守ってやるって言ったろ? 俺がいる限り、村の奴らには絶対に手出しさせねえよ。もう怖い思いをしたくないなら、俺の言うことを大人しく聞くんだ。……村の奴らには何も言うんじゃねえ。あいつらを刺激するな。そうすればお前も俺も平穏に過ごせるんだ。……いいな?」

 唇が、動かない。
 有無を言わせぬ圧力に頷くしかなくなる。

「こんな美しい女を傷つけようとした奴がいるなんて許せねえよなあ? あの棺の中に入ってるのがお前を攫った奴らだとしたら、きっと神罰が下ったんだ。家畜然り、作物然り、そして獲物然り。誰かのものに手を出せばどうなるか、あいつらは思い知ればいい」

 ルブラの顔には闇が見えた。彼に抱かれるとほっとするのに、同時に何か怖ろしいものに狙われているような悪寒がする。

「それよりもラズリ、今夜もどうだ? まともに歩けなくなっちまうくらい何度も達かせてやるぜ。お前は俺の女だからな……」

 彼に抱かれた時の快楽を思い出す。淫らな欲に飲まれてしまいそうになったが、私はルブラの誘いを断った。

「冗談やめて。あなたの女になったつもりはないわ」

 避妊薬を飲み、中に放たれた精は徹底的に洗い流した。
 この男の跡はもうない。ルブラとはもうあんなことをしない……。

 長方形型の瞳孔が憎しみに光る。
 ルブラはまた頑固だな、と呟いた。


 ********


 それからは、奇妙なことばかりが起きた。

 島民たちは私への攻撃をやめた。それどころか、私に対して急に優しくし始めたのだ。

 朝、駐在所を出ると元気な挨拶と共に魚を手渡される。巡視の際は温かい声掛けをされ、今まで立ち入ることが許されなかった村の中に招かれた。
 島民たちの突き出た目には親しみが込められている。なぜ私への態度を変えたのかと尋ねると、彼らはにやりと笑い「もうあなたは仲間ですから」と言った。

 葬儀の回数は大幅に増えた。浜にはいつも島民たちの姿があって、棺用の石を削り出す音や、祈りの声が絶えず響いた。

 不気味なことに、自ら海へ入水する者も現れた。私は必死に止めたが、これが我々の望んだことなのだと、島民は制止を振り切って海へと飛び込んだ。一人だけじゃない。数人が手を繋いで舟から飛び降りていく。残った者たちは歓声を上げながら彼らの入水を見守った。狂気の行為に、私は叫び出したくなった。

 前々から分かってはいたが、この島に住む人間たちはおかしい。こんな島で暮らし続けていたら、いつか絶対に狂ってしまう。

「……はあ」

 一日の終わり。天井を見つめながらぼんやりと思考する。

 警備隊本部に緊急の便りを出し続けているのに、返信も迎えの船もない。私はいつまでこの不気味な島に住まなければならないのだろうか……?
 不安で寝付けない。隣で眠るルブラは、私を抱きしめてぐうぐうと寝ている。この男は悩みなんて無さそうだと思いつつ、彼の太い腕をそっと摩った。

(目を閉じるのが怖い。閉じたらまたあの夢を見てしまう)

 島民たちの入水の他に、ずっと悩んでいることがあった。

 ルブラに抱かれた日から一ヶ月。
 あれから毎日、大蛸に犯される淫らな夢を見続けている。

 蛸の頭は見えない。薄暗い神殿の中、自分よりもずっと大きい蛸足に捕らわれて、身体をじっくり嬲られて、最後は海へと引きずり込まれる……そんな怖ろしい夢。

 嫌悪感だけならば良かった。なのに、夢の中の蛸は繊細さを感じるほど優しい手付きで、決してこちらを傷つけるようなことはしない。私の弱点を全て知り尽くしているかのように絶妙な動きで追い詰めてくる。
 逃れられない絶頂を何度も与えられて、私は蛸の虜になりつつあった。この快楽を味わい続けられるならば、海に飲まれてもいいと思ってしまうほどに……。

(私もおかしくなりつつある。このままでは色情狂になってしまうかも)

 夢の中で植え付けられた熱がいつまでも消えてくれない。

(ルブラ、助けて)

 思わず、この熱をどうにかしてくれと縋ってしまいそうになる。大きな身体で私を押さえつけながらめちゃめちゃに突いてほしい。この前みたいに、胸も陰核もしつこく虐めてほしい。そんないやらしい欲求に全身が支配され続けている。ルブラとはもうあんなことをしないと決めたのに、彼に甘えたくて堪らない。

 刺青の施された側頭部をそっと撫でると、ルブラはぱちりと目を開けた。

「ん……どうした、ラズリ? 寝れねえのか?」

 頷くと、ルブラは額に優しく口付けてきた。彼の唇の感触に浅ましい欲求はなお強くなる。薄暗い中でも輝きを放つ金の目を見つめると、ルブラは私に伸し掛かってきた。

「なあ、ラズリ。お前って本当に頑固だよな」

「……急に何よ」

「俺の隣で寝てくれるようになったのに、まだ素直に甘えてくれねえな。なあ、ラズリ。悩んでいることがあれば俺に頼ってくれよ。大切なお前が苦しんでいたら助けてやりたいんだ」

 野性的な顔が近づいてくる。
 ルブラは私を優しく押さえつけ、ねっとりとした調子で囁いてきた。

「目が潤んでる。汗もかいて、顔は真っ赤だ。それに、お前の股からずっと甘い匂いがする……。気づいてるぜ。俺が寝たのを確認した後、いつもここを弄ってるよな?」

「なっ!? なに、を……」

「身体が熱くて眠れねえんだろ? 夜通し弄ってる日もあったな。可愛いラズリ、お前って結構やらしい女だったんだな……」

 私は羞恥に呻き声を上げた。ルブラの言う通り、淫欲を抑えられない夜はそっと自慰に耽ることがあった。
 手を取られ、指を口に含まれる。ルブラの舌がぬめる蛸足のように絡みつく。

「ぁ、あ、やめ……」

「寝られないほど苦しいなら、俺を誘えばいいじゃねえか。発散するのは気持ちいいぜ? あの夜みたいに、お前の真珠を優しく擦ってやる。お前の指じゃ絶対に届かないところまで突いてやる。もう嫌だってくらいたんと達かせてやるよ、だから……俺に縋ってしまえ」

「ぁ……るぶ、ら……」

 ルブラの言葉に、期待の蜜が溢れ出る。

「我慢するな。俺はお前の欲求を完璧に満たしてやれるんだ。なあ、俺だってお前とやりたくて仕方ねえんだ。隣であんなやらしい音を聞かされ続けて、おかしくなっちまいそうだった。……ラズリ。もう我慢できねえ……」

 腿に熱い塊を押し付けられる。頬にルブラの生暖かい息がかかる度、全身が興奮に震えてしまう。

「……一回、だけ……なら……」

 私はとうとう自分から彼を求めてしまった。
 ルブラは興奮を抑えたようなくぐもった笑い声を上げながら、私の服に手をかけた。

 その夜、私はまたルブラに抱かれた。

 自分の指では届かなかった奥をずりずりと擦られ、何度も絶頂を迎えさせられる。もっと早くルブラに縋ればよかったと思うほどに気持ちよく、全身の疼きは彼によって完全に鎮められた。

 ルブラは喘ぐだけの私をにやにやと見下ろして、これでお前は俺の女になったなと囁いた。私はおかしくなりそうな快楽の中、必死にルブラを受け入れまいとした。冗談じゃない。あなたの女になるつもりはない、これは割り切りの関係だ……。彼はその弱々しい拒絶を鼻で笑い、更に私を追い詰めた。

 一度縋ってしまえば、後は転がり落ちるだけ。
 それから私は、月のものが訪れる日以外は毎夜ルブラに抱かれた。


 ********


 それから数ヶ月が経った。

 葬儀、あるいは狂気の集団入水は毎日行われるようになった。百五十以上いた島民たちは、いまや二十人余りしかいない。これだけの死者が出るのは異常だ。警備隊員として、島で何が起きているのかすぐに突き止める必要があった。

 なぜ毎日誰かが亡くなるのか、なぜ自ら入水するような真似をするのかと、島民を捕まえては強く問い詰め続けた。だが、誰に尋ねてもはっきりとした答えを得ることはできなかった。
 彼らの返す答えは漠然としており、どこか浮かされているような調子だったのだ。

 島民たちの答えはこうだった。

 旅立っていった者は死んだのではない、新たな存在へと生まれ変わったのだ。我々は海の民。今こそ陸に住んでいるが、やがては皆海へと還る運命。流麗なる地に眠るxxxxx様に仕えるため、我々は時間をかけてゆっくりと海に適応していく。そして変貌を遂げた者から海底へと向かうのだ……。

 魚に似た顔に喜色が浮かぶ。
 呼び声は日々強くなる。あの御方の復活の時は近い。我々が何を言っているのか、そのうちあなたも解るだろうと言った。

 島民たちのの他に、もうひとつ気がかりなことがあった。

 蛸だ。
 私は未だに、大蛸に犯される夢を見続けている。

 欲求不満からそのような夢を見てしまうのだと思っていたが、ルブラにほぼ毎日抱かれているにもかかわらず、蛸は私の中から消えてくれない。むしろ、以前よりもはっきりとした姿で夢の中に現れるのだ。蛸足のぬめる感触、吸盤を押し付けられる快楽、絡みつく触腕の力強さ。夢から覚めた後も、すべてが私の身体に残り続けている。

 そして、蛸の夢は「幻視」となり、日中のふとした瞬間に私の意識を乗っ取るまでになった。

 犯されている私の顔はとても幸せそうだ。自ら蛸足に抱きついて、海へと引きずり込まれていく自分に嫉妬してしまう。羨ましい。私もああなりたい。

 私は昼夜問わず蛸に犯されて、精神を蝕まれつつある……。

(……駄目だ。こんなのおかしい。あの蛸は何なの? 本当に私が生み出した妄想なの?)

 殺されかけたあの時、頭に流れ込んできた深淵を思い出す。
 天の彼方にある星の景色、奇妙な形の海中神殿、太古の神々の戦、そして巨大な蛸足。
 
 あの蛸足は、夢と幻視で見る赤褐色の蛸足とよく似ていた気がする……。

「よお、ラズリ。考え事してんのか?」

 夕暮れ時の海を眺めていた私の傍に、ルブラがやってくる。

「そろそろ飯にしようぜ。ほら、お前の好きな肉だ」

 ルブラは分厚いステーキが乗った皿を差し出してきた。肉が焼けるじゅうじゅうとした音と、食欲をかきたてる匂いに腹が鳴ってしまう。私はルブラに礼を言って、すぐさま料理に手をつけた。

「ルブラ、あなたがいるとありがたいわね」

「はははっ! そうだろ? お前のためにわざわざ獣を仕留めてやったんだぞ。たっぷり食ってくれ」

 この獣肉は変わった食感だが、歯応えがあってとても美味しい。私はここ数ヶ月、魚や貝に手をつけることを避けていた。入水した者たちを啄んだかもしれない海産物を食べることは、何となく憚られたのだ。

 ルブラは私の我儘を聞いて、獣肉を使った料理を作ってくれた。材料が変わっても、この男の作る料理は相変わらず美味しい。ステーキを平らげた私の皿にまた新しい肉が乗せられる。私は肉の歯応えを楽しみながら、ふと疑問に思ったことを尋ねた。

「ねえ、ルブラ。そういえばこれは何の肉なの?」

 魅惑的な味だが、こりこり、ぷにぷにとしている。
 何だか茹でた蛸に似ているような……?

「くくっ……秘密だ。だが別におかしな肉じゃねえよ。気にせず平らげちまいな」

 ルブラは肉を食べる私をじっと見つめている。金色に光るその目を見ると、私は不思議と何も言えなくなってしまう。私は頷き、変わった食感の肉を咀嚼した。

「それよりもラズリ。お前また村の奴らに聞き込みしてるだろ」

「ん? ああ……だって放っておけないでしょ? こんなに毎日死人が出て、村から凄まじい勢いで人が減っていってるんだから」

「気に入らねえ。あいつらがお前の笑顔を目にしたと思うと癪に障る。もうあいつらと喋るな。特に男とは目を合わせるな。というか駐在所から出るんじゃねえ」

「はあ……またそれ? 私は仕事をしてるだけよ。つまらない嫉妬はやめて頂戴」

 ルブラは私が島民たちと話すことを酷く嫌がる。
 こうして止められるのも何度目だろうか? 思い出せない……。

「お前は本当に俺の言うことを聞いてくれねえな。……村の奴らを刺激するなって、何度も言っただろ?」

 ルブラは急に低い声を出した。
 私が殺されかけてからルブラは変わった。甘い目を向けたかと思えば、こうして怒りが滲む声を出したりする。私を心配してくれているのだろうか? 変な言い方だが、以前よりもずっと人間らしい。

「別に刺激してる訳じゃない。自ら海に飛び込むような真似はやめろって言ってるだけ! 誰も私の言うことを聞いてくれないけどね……。はあ、参っちゃう。本部にも手紙を出し続けているのに、返信も何もないんだから。海鳥はちゃんと報告書を届けてくれてるのかしら? 迎えの船が来ないと、あなたをきちんと保護することもできないのに」

「ちっ……まだまともに思考できるとは」

「ルブラ?」

「驚いた、本当にお前は厄介だ。もっと穢してやる必要があるらしい」

「ちょ、むぐっ……!」

 ルブラが切り分けた肉を無理やり私の唇に押し付けてくる。私は思わずそれを口に入れてしまった。

(あ……あれ? 私……ルブラとどんな話をしてたんだっけ?)

 急に何も思い出せなくなる。
 ルブラを見ると、彼は金色の目をきらりと輝かせて微笑んだ。

「なあ、ラズリ。あいつらの望みは海へと還ることなんだ。望んでそうしているのだから、お前が心配してやることは何もないさ。だからもう村へは行くんじゃねえぞ」

「え? ……ええ」

「……くくっ。島で暮らす奴らが減っていったら、そのうち俺とお前の二人だけになるな。それってすごくいいことだよな。俺たちは何にも邪魔されることなく、二人きりで過ごしていけるんだぜ」

「……そう、ね」

「そういやお前、早くこんな島から出たいってぼやいてたよな? なあラズリ、外に行こうだなんて思うなよ。お前のいる場所はここだ。ずっとこの島で暮らすんだ。……逃さねえぞ。島から出ようとしたらどこまでも追いかけてやる」

 ルブラの声が、笛のようなあの声に重なる。

「俺はこの島が好きだ。ラズリもこの島が好きで仕方なくなる時がきっと来る。ラズリ、青い目のラズリ……。その瞳が俺の色に染まりきる時が楽しみだ」

 頬を優しく摩られる。
 その手の動きは、夢の中の蛸足によく似ている……。

「愛しいラズリ。これを食ったら一緒に風呂に入って、そして夜が更けるまでしような。今日も俺が満足するまで放さねえぞ。お前が途中で気をやっちまっても、気にせず可愛がってやる」

 淫らな欲が籠もった、どろりとした目で見つめられる。
 そんな目で見られると、思考がまとまらなくなってしまう。

 ああ、格好いい。私は彼の野性的な顔が、こうして甘く歪むところを見るのが好きだ。今日も徹底的に気持ちよくさせられる。どんなに暴れてもあの太い腕に押さえ込まれて、弱いところを吸い上げられて、悲鳴のような嬌声を上げることしかできなくなる。

 嬉しい、幸せ。ずっとルブラに触れていたい。

 ルブラは支配的になった。
 以前のように許可を求めず、自分がしたい時に身体を求めてくる。勝手にキスをされて、胸を揉まれて、人前でも構わず腰を撫で摩られる。もうすっかり、私を自分の女のように扱ってくる。

 でも、それでもいい。私は昼夜問わず想像の中で蛸に犯されていて、耐え難い疼きに悩まされ続けている。だから、この男に助けてもらわないと。今夜もこの男に犯してもらわないと……。

「ルブラ……。今日で、最後だから……」

 勝手に口が開く。欲に塗れきった女の声だ。私は他人事のようにそれを聞いていた。

「くくくっ、くくっ……はははっ……! 本当に強がりだなあ、ラズリ? 今日が最後と言いつつ、また明日も俺に抱かれるんだろ? ……いいぜ、うんと気持ちよくしてやるからな……」

 期待に目が潤むのを感じる。すぐにこの男に抱いてもらいたくなって、私は早く料理を平らげてしまおうと口を動かした。

「それにしてもこの肉、本当に美味しいわね。うっとりするほど美味しいわ……」

 ルブラはにんまりと笑った。
 陰のある、少しだけぞっとするような笑みだった。

「たくさん食え。食って体力をつけねえと、俺の相手は務まらないからな」

「ふふ、そうね」

 ルブラに抱かれるのは気持ちいい。蛸に抱かれるのと同じくらい気持ちがいい。
 私をこんなに気持ちよくしてくれる存在が愛おしい。好き。大好き。ずっと愛されていたい……。

「ああ……いい顔だ。不安そうで、心細くて、そして俺のことが愛しくて堪らないって顔だ。くくくっ、あははははっ! ラズリ、随分と素直になってきたじゃねえか。いいぞ、そのままだ。そのまま俺に寄りかかれ。他のことは何も考えるな。俺のことだけを考えるんだ……」

 誰も私の言うことを聞いてくれない。入水は繰り返され、島民の数は減っていく。
 本部からは未だに何の連絡もない。この島で頼りになるのは、この男だけ……。

「ああ、目も大分濁ってきた。深い深い海の色だ。綺麗だ、ラズリ……」

 もうどうでもいい。何もかもどうでもいい。
 ルブラさえいてくれたらいい……。

「ラズリ、早く俺の女になっちまえ」

 笛のような音が聞こえる。
 私はうっとりとした気分でその音に耳を傾けた。

 ルブラと触れ合う日々を送るうちに、私はすっかり堕落してしまった。
 警備隊員としての職務を忘れて、一日中ルブラに抱かれ続けた。昼も夜も駐在所に引きこもって、薄暗い中ひたすらルブラと絡み合った。避妊薬が残り少なくなっても、私は構わず彼を求めた。

 蛸に犯される。ルブラに抱かれる。その繰り返し。
 身体の疼きがずっと止まらなくて、私は狂ってしまいそうだった。


 ********


 珍しく晴れた日、青く澄んだ空を見上げたのがきっかけだった。
 その時、夢から急に覚めたようにはっきりとした意識を取り戻したのだ。

(待って……。私、おかしくなってない?)

 蛸の幻視も、毎日行われる葬儀も、入水も、ルブラからの過剰な接触も、全てが異常だ。

 最初は確かに受け入れてはならないと思っていたはずなのに。
 私はいつの間にか当たり前のことのように受け入れていた。一体、いつから?

(確か、魚を食べるのをやめた時から……)

 ――そろそろ飯にしようぜ。ほら、お前の好きな肉だ。

 ルブラが差し出すあの肉を食べると、急に思考がまとまらなくなったことを思い出す。あの不思議な食感の肉を食べると思考がかき消え、ルブラに抱かれることしか考えられなくなる。

 あの肉は何だ? 本当にただの獣肉なのだろうか? 混ぜものでもされているのではないだろうか?
 ルブラへの不信感が溢れ出て止まらない。

 ――別におかしな肉じゃねえよ。気にせず平らげちまいな。

(……今日から少しずつ、食べる量を減らそう)

 背にぞわぞわとしたものを感じながら、冷静な頭で考える。

 村人のことといい、肉のことといい、身体に施された刺青といい、ルブラには怪しい点が多い。
 ルブラは私が村人たちと話すことを嫌がる。そして自分の支配下に置くような言動ばかりする。ルブラが何を考えているのかは分からないが、正常な思考を取り戻したことを知られたら、彼はまた邪魔しに来るかもしれない……。

 私は島で何が起きているのか、今度こそ突き止めようと決めた。島民たちがまともな答えを返してくれないのなら、自ら答えを見つけるまでだ。

 その日から、私はルブラに気付かれないようにこっそりと村人たちをつけ始めた。蛸の幻視や日々の出来事に精神を蝕まれそうになった時は、空を見上げて落ち着きを取り戻した。

 ルブラの側頭部に施された刺青と、巡視の際に見かけた神殿の絵を思い出す。
 島民たちに殺されかけたことも、彼らの入水も、そしてルブラのことも。調べれば、行き着く先は全て同じな気がした。
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