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意地悪陰険腹黒ダリルの告白 - 2
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ダリル。
貴族の一人息子として生を受けた彼は、富に溢れた豊かな生活を送っていた。莫大な財産、国中に名だたる家柄。それに加え、自分に仕える執事もいる。兄弟姉妹がいないダリルは、両親からの愛情を一身に受けて育てられた。
ダリルの家には全てが揃っていた。
薔薇が咲き乱れる広い庭。美味な食事に、黒檀の書架に並ぶ高価な本。クリスタルのシャンデリアが輝く広間。そして、いつも後ろをついてくる執事の足音。一言何かを口にすれば、家中の使用人がそれに従う。それが彼の、綺羅びやかな日常だった。
何不自由ない生活。
しかしダリルは、いつも物足りなさを感じていた。
「見てくださいまし、このドレス。錬金術士に作らせた品ですの! 見る角度によって色が変わるのですよ。すてきでしょう?」
「あらあら、私のネックレスの方がずっとステキよ。最先端の人工宝石を百個も使っているのだから!」
張り合う貴族たちの傍らに、彼ら専属の錬金術士が得意げな顔をして控えている。ダリルは溜息を吐き、パーティー会場をそっと抜け出した。
(くだらない。自分なら、錬金術でもっと面白いものを作れる)
この国の貴族たちは、いかに実力のある錬金術士を迎え入れるかに執心している。高い給金をちらつかせて専属の錬金術士を雇い、毎日ドレスや華美な装飾品を作らせること……。それが、刺激に飢えた社交界の流行だった。
七歳のダリルは、幼いながら錬金術の面白さに魅了されていた。水と塩から薬を作り出す力も、人形を自在に動かす力もある。あらゆる願いを叶えられる究極の学問――錬金術を極めることこそ、自分の進む道なのだと信じて疑わなかった。
だからこそ、錬金術でつまらない品々を作らせて張り合う大人と、それを甘んじて受け入れる錬金術士たちが許せなかった。大いなる学問と欲望渦巻く世界が、醜く結び付けられてしまうような気がしたからだ。
(もうパーティーなんてうんざりだ! 父上のように作り笑いなんてできない。……社交界は、きっと自分の居場所じゃないんだ)
ダリルはむすっとした顔で人々の間を縫い進み、馴染みの執事に向かって叫んだ。
「じいや! 帰るぞ!!」
「坊ちゃま、挨拶はまだお済みでないかと存じますが。ご令嬢方が坊ちゃまとのお話を心待ちにしておられるようでございますよ」
細身の老執事が首を傾げる。ダリルは棒のような彼の腕を勢いよく引っ張った。
「こんなところにいるより、お前と錬金術の本を読んだ方がずっと楽しい。じいや、今夜も材料図鑑を読み聞かせてくれるのだろう? 待ちきれなくて少し読み進めてしまったから、今日は百三十ページからだ。ああ、楽しみだ! 早く帰ろう!」
せわしなく話しかけてくる主に、老執事は微笑みを溢した。
ダリルが錬金術に心酔したきっかけは、執事に読み聞かせてもらった一冊の絵本だった。市井の錬金術士の暮らしについて触れた本。その本に出逢った時、ダリルの人生は変わった。
……水を薬に、鉄を黄金に変える。魔法のような力を以て、錬金術士たちはこの国の発展を支えてきた。
錬金術士とは人々を幸せにする存在であり、夢である。
そしていつかは、無から有を作り出す存在なのだ……。
絵本の中には素晴らしい世界が広がっていた。
火、水、風、土。この世を構成する四元素四性質を表す絵、見慣れぬ錬金道具、そしてそれらを自由自在に操る錬金術士たち――。本の中の彼らは、いずれもダリルの目に輝いて映った。
不完全な物質から、より完全な物質を生み出すための試み。
塩酸、硝酸、硫酸。燐、硫黄、水銀……。錬金術士たちが追い求めた夢は、その過程でいくつもの有用な物質を発見した。
この世界は彼らのもたらした礎によって作られている。彼らは魔法使いだ。自分も彼らと同じように、立派な錬金術士になりたい。役に立つ品をたくさん作り出して、人々の生活をより良くしたい。
そしていつかは、この世界に自分の足跡を残すのだ。
それが、ダリルの思い描いた夢だった。
*
ダリルは日々、錬金術に没頭した。分厚い材料図鑑を持ち歩き、ジャム瓶をビーカー代わりにして簡易的な調合に取り組んだ。そんなダリルの熱意を両親は喜び、将来は王立錬金術学校に通わせてやろうと決めたのだった。
歳を重ねても、ダリルは社交界を好きになれないままだった。
嫌味を交わし、腹を探り合う。綺羅びやかな社交界の中で、友と呼べる者はひとりもいない。令嬢たちのつまらない話に耳を傾けるのも辛い。
行き場のない寂しさを抱え込みながら、ダリルは毎夜、ぼんやりと想像を巡らせた。
(もし自分が平民だったら……。豊かな自然の中で、誰かと思い切り遊んだり、走り回ることができたのだろうか? つまらないパーティーに出ることもなく、もっと錬金術の勉強に打ち込むことができたのだろうか)
(家に縛られず、自分のやりたい仕事ができたのだろうか。家同士の繋がりで決められた結婚ではない、本当に好きな女の子と一緒に過ごすこともできたのだろうか……?)
息が詰まる。胸に空虚が広がっていく。
ダリルは目を閉じ、脳裏に赤い輝きを思い浮かべた。
賢者の石。
書物でのみ語られる伝説の物質。無から有を生み出すことができるという、奇跡の霊薬。賢者の石を手にした者は、己の望みを何でも叶えることができるのだと云う。
(己の望みを何でも叶えられる……か。賢者の石があれば、この味気ない世界を、理想の世界に作り変えることもできるのだろうか?)
ぎゅっと拳を握る。
ダリルは本に描かれた赤い輝きに、己の希望を見出した。
いつか賢者の石を作り出し、この世界を理想の世界に作り変えてみせよう……それがダリルの、もうひとつの夢だった。
自由になりたい。他の子供たちのように外を駆け回りたい。
貴族の立場なんか気にしないで、自分がしたいと思ったことを思う存分してみたい。
(自分は天才だ。何だってできる。錬金術の力で、この世界を変えてみせるぞ)
ダリルは日々研鑽を積んだ。手がたこだらけになるほどペンを動かし、毎日分厚い材料図鑑を読んでは、錬金術材料に関する知識を詰め込んだ。彼を突き動かしたのは賢者の石に対する憧れと、己の生活に対する静かな絶望だった。
そんなダリルの暮らしは、十二歳の時に大きく変わる。
鬱屈していた彼にとって、王立錬金術学校は初めて自分を解放できた場所だった。
*
十二歳のダリルは高慢だった。
富も美しさも全て持っている彼は、華やかな暮らしの中で驕ることを覚え、すっかりひねくれた少年に育ってしまった。
王立錬金術学校創設以来の天才。教師陣から熱烈な称賛を受け取ったダリルは、ざわめく生徒たちを尻目に赤い天鵞絨の上を堂々と歩んだ。
しっかり胸を張って歩く貴族の少年は、十二歳とは思えないほどの威厳を放っている。燕尾服に似た黒い魔導衣装が、彼の上品さを引き立てていた。
爽やかな笑み――社交界に出ることで磨かれてきた完璧な作り笑いを浮かべながら、ダリルは内心、周囲の生徒を馬鹿にしきっていた。
(俺様が一番なのは当然だろう? お前たちが入学する何年も前から、俺様は錬金術に触れてきたんだ。誰も俺様には敵わない。これまでも、そしてこれからも。このダリルが頂点に立つ!)
難関といわれる王立錬金術学校の入学試験も、ダリルにとってはごく簡単なものだった。座学で満点を取った彼は、どこか冷めた気持ちを抱きながら表彰台に上った。
(……つまらない)
全て、色褪せて見える。
広々とした講堂も、薔薇のアーチが並ぶ温室も、自分の家と比べたら「素朴」と言わざるを得ない。王立錬金術学校に対して抱いていた憧れが、徐々に薄らいでいくのを感じる。
自分はこれから、このつまらない学校に通うのか。こんな学校に通ったところで、本当に世界を変える力が手に入るのか……?
ダリルが胸の内で溜息を吐いた時、視界の端に淡い桃色が見えた。
表彰台にもうひとり誰かが上ってくる。学長は微笑み、新たな入学生に向けて囁いた。
「おお、待っていたよ。今年は素晴らしい年だ。座学試験で満点のダリルくんと、実技試験首位の君を迎えられるのだから! 君たちの成長が楽しみだ。ようこそ、ようこそ。偉大なる王立錬金術学校へ!」
学長の言葉にダリルは目を見開いた。
(実技試験首位? それはつまり……実技では俺様が負けたということか!? この俺様の上を行くなんて、いったいどんな奴だ!?)
強烈な悔しさがこみ上げ、ぎっと横を睨んでしまう。
ダリルは視線の先にいる生徒を認め、あまりの衝撃に呆けてしまった。
「……ぁ」
彼の隣にいたのは、とても可愛らしい少女だった。
白いシャツに赤いスカートを纏った少女。彼女は淡くも、鮮烈な色彩を以てダリルの目に飛び込んできた。
ふわふわと揺れる薄桃色の髪。透き通った紅水晶の瞳に、華奢な体つき。長く美しい睫毛が、表彰台の明かりに照らされて光っている。ぱっちりとした目に、ダリルはたちまち心を奪われてしまった。
(か、わいい……)
ダリルは瞬きを繰り返し、そして顔を赤くした。
(ま、待て。なんだこの女は? いくらなんでも可愛すぎるぞ。妖精か?)
ダリルの視線に気が付いた少女が目を合わせてくる。不思議そうに首を傾げながら微笑まれ、ダリルは胸がどくどくと跳ねるのを自覚した。彼の頭が、少女に対する感情で埋め尽くされる。
可愛い。可愛すぎる。綺麗だ。目が離せない。見れば見るほど可愛らしい。好きだ。早く声が聞きたい。もし結婚するなら彼女としたい。今すぐしたい。このまま家に連れて帰りたい。
(えっ、本当に可愛い。こんな可愛い女が俺様に実技試験で勝ったのか? 信じられないぞ。どんな手を使ったのか問い詰めなくては!)
邪念に取り憑かれたダリルはみっともなく口を開いたまま、桃色の髪の少女を凝視した。
目を細めて注視すれば、桜の花びらに似た光が、少女の周囲をひらひらと舞っているのが見える。淡く溶けていく未知の光に、ダリルはたちまち魅了された。
(あの力……。あれは魔力だ。あんな風に外に滲み出すなんて……!)
ダリルは感動に身震いした。魔力とは本来不可視のものであるのに、少女の抱える魔力が並外れて膨大だから、花びらのような形となって外に漏れ出しているのだ。少女の存在は、神秘的なものを好むダリルにとって、奇跡のように思えた。
第五の元素、魔力。人が神に与えられし非物質。世界を変える力があるとすれば、それはきっと少女の中にある。
少女が発する桃色の光と、霊薬の赤い輝きが重なっていく。珍しい髪と目の色、そして膨大な魔力……。少女は人間ではない、きっと花の妖精なのだ。ここで捕まえなければすぐに消えてしまうだろう。
この子は自分の運命だ。絶対に逃さない!
初めての恋に転がり落ちたダリルは、入学の儀が終わるや否や、懸命に少女を呼び止めた。表彰台を下りようとする彼女に向け、大声で話しかける。
「おい待て! そこのお前! なんて名前なんだ?」
「えっ……わ、わたし? ルクレーシャ、だよ」
「ルクレーシャだって? そうか、お前に聞くことがある!」
ダリルは怯える少女にぐいっと顔を近づけ、矢継ぎ早に質問をした。
「出身はどこだ、どうして錬金術学校に入ろうと思ったんだ!」
「えっ? ええと」
「どこに住んでるんだ!? どうして髪も目も見たことがない色をしているんだ! 大体、どうしてそんなに体から魔力が溢れ出ているんだ!! いったいお前は何者だ!?」
「えっえっ、あ、あの……」
いきなり質問責めされて驚いてしまったルクレーシャは、大きな目をうるうると潤ませた。どうやら彼女は内気で人見知りらしい。眉を下げて後ずさる少女の手を、ダリルはがっしりと握り込んだ。
「待てルクレーシャ、逃げるな! お前に聞きたいことがたくさんあるんだ! 身長、体重、あと好みの男のタイプを教えろ! 好きなものはあるのか? 嫌いなものは? いつも何を食べてるんだ!? おい、早く答えろ!」
逃さないぞと念じながら、ルクレーシャの小さな手を撫で回す。はきはきしたダリルと違い、ルクレーシャはおっとりのんびりした調子で話す少女だったが、ダリルは我慢して彼女の話に耳を傾けた。
「ぁ……あの、ね。プリン、美味しくて……」
「プリン?」
「う、うん。錬金術で作ったプリンが美味しかったの。甘いものいっぱい食べたいし、お父さんとお母さんにお金を渡したいの。だから、ここに入ったの……」
ルクレーシャは可愛らしくはにかみ、ぽつぽつと自分の話を続けた。
要領を得ない彼女の話をまとめると、ルクレーシャは遠い田舎村からやってきて、貧しい両親のために金を稼ぐつもりなのだという。
内気な少女を見下ろし、ダリルはにやりと笑った。
(くっ、くく……。俺様の家に迎えるのにぴったりじゃないか? 俺様は貴族だし、この女は貧しい平民。俺様が家に来いと言ったら、この女は喜んでついてくるはずだ。将来は専属錬金術士にして、俺様の研究を手伝ってもらおう。仲が充分に深まったら、いずれは妻に迎えるんだ……!)
ダリルの夢が広がっていく。
彼はもじもじと指を組む少女に向けて、自信満々に言い放った。
「ルクレーシャ。俺様はお前を貰うぞ」
「え? もらうって、どういうこと?」
「そのままの意味だ! 俺様の家に来い、ルクレーシャ! プリン以外にも甘いものをたくさん食べさせてやるぞ! 平民のお前には勿体ないくらいの贅沢な暮らしをさせてやる! いずれは俺様の妻になる名誉もやろう!」
ルクレーシャは唸った後、ふわふわした眉をきゅっと寄せた。
「そ、それって……。ダリルくんと結婚するってこと?」
「ああそうだ! 喜べルクレーシャ。貧乏な田舎者のお前を、貴族の俺様が貰ってやろう!」
「え? やだよ。ダリルくんってなんか乱暴だし、お貴族様とは話が合わないだろうし……」
「はっ、はあぁぁぁ!?」
拒絶されると思っていなかったダリルは、ルクレーシャの断りに間の抜けた声を出した。目を見開き硬直する少年の手から、するりとルクレーシャの手が抜け出す。
じゃあねと言って去っていく少女を、ダリルは怒り顔で追いかけた。
「こんのっ……。生意気ルクレーシャ! 俺様の誘いを断るとは何事だ!? ちんちくりんの田舎者が、身の程を知れ! 俺様を拒絶するなんて許さないぞ!!」
「きゃっ!?」
行き場を失くした感情が爆発する。逃げるルクレーシャを追いかけ回し、ひとつに結ばれた桃色の長い髪を引っ掴む。
ダリルは柔らかい髪の毛を握り込み、羊の毛によく似ていると笑った。
「ははっ、随分変わった色の毛だ。こんなに変な色なら、お前と結婚したい男なんていないんじゃないか? 大人しく俺様の言うことを聞いておいた方が幸せになれるぞ」
「やっ、やだっ。そんなに引っ張らないで、放してダリルくんっ……!」
「放してだと? 貴族の好意を無下にするとは何て失礼な奴なんだ! 罰として、もっと引っ張ってやる! はははっ。よく伸びるな。まるで馬の尻尾みたいだ! ほら、ついて来い平民。早く俺様の家に行くぞ!」
「や、やめてよダリルくん。私をいじめないで……」
ぐいぐいと乱暴に桃色の髪を引っ張る。花の妖精を捕まえた満足感にダリルが笑うと、ルクレーシャは顔をくしゃりと歪めた。
「ふっ、う、ふえっ」
大きな目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
ルクレーシャの泣き顔に、ダリルはぎょっとした。
「お、おい……」
「だ、ダリルくんのばかっ……。髪のこと気にしてるのに! ふわふわでまとまらないけどっ、頑張って一生懸命リボン結んだのにっ! ダリルくんがひっぱるからぐちゃぐちゃになっちゃった。うぅっ……。うええええぇんっ……!」
ルクレーシャは声を上げて泣き始めた。大泣きする少女に気が付き、周囲の生徒がぞろぞろと集まってくる。ダリルは慌ててルクレーシャの頭を撫でた。
「す、済まなかった。つい」
「うぅっ、うあぁぁ……! ひどいっ、ひどいよお……」
ダリルが慰めてもルクレーシャの涙は止まらない。好きな女の子を泣かせてしまったショックにダリルは狼狽した。
「お、おい。いい加減泣き止めって。髪を綺麗に整えてやる。新しいリボンだって買ってやるからっ……。ああもう、ルクレーシャ! 本当に済まなかった! お願いだ、もう泣かないでくれ! そう泣かれると困るんだ!」
ダリルは何度も謝罪をしたが、彼が謝る度に薄紅色の瞳からぶわりと涙が溢れ出る。散々泣いた末、ルクレーシャはぐすぐすと鼻を啜りながら泣き腫らした目でダリルを睨んだ。
「ダリルくんのばか。ダリルくんなんて嫌い!」
「きっ……!?」
あまりの衝撃に言葉を失う。
ダリルが我に返った時、もうルクレーシャの姿は無かった。
(嫌い、だなんて。そんなこと言わないでくれ……)
ぶつけられた拒絶の言葉がダリルの胸に食い込み、鋭い痛みを発する。人目が無ければそのまま涙を流してしまいそうだった。
嫌い。その言葉がぐわんぐわんと頭の中に響いている。
執事が迎えに来るまで、ダリルはそのまま立ち尽くしていた。
その夜、ダリルはルクレーシャのことばかり考えていた。
日課の勉強と調合を休み、ぼんやりと星空を見上げる。いつもらしくないダリルに両親と執事は心配の目を向けたが、彼はそれに構わず、早々に自室に籠もったのだった。
――ダリルくんなんて嫌い!
「嫌い。ルクレーシャが俺様を、嫌い? いやだ、そんなの……。俺様はお前のことが好きなんだぞ」
ダリルは目を瞑った。
白いシャツと赤いスカート。ひとつに結んだ淡い桃色の髪に、ローズクォーツの瞳。可愛らしい顔、声、そして素晴らしい魔力。今日出逢ったばかりの少女の姿を、鮮明に思い出すことができる。
何を取っても、どれを見ても、ルクレーシャの全てが好ましかった。
「のんびりした女なのに、実技試験では俺様を上回ったのか」
一番になれなかった悔しさが込み上げる。少女への好意。嫌われてしまった寂しさと、拒絶された怒り。ライバルを見つけた高揚感。全てが綯い交ぜになって、ダリルはうめき声を漏らした。
ルクレーシャは自分の運命だ。拒絶されても、決して諦められない。明日も声をかけて、何とか距離を縮めなければ。
(泣き顔も可愛かった)
少年の心に闇が覗く。
ルクレーシャの弱々しい泣き顔が焼き付いて離れない。泣かせてしまったことを後悔しているのに、あの顔をもう一度見たいという欲求が込み上げてくる。
寂しい。ルクレーシャともっと話したい。
初恋に翻弄されたダリルは、その夜殆ど眠ることができなかった。
*
ルクレーシャと出逢ってからというもの、ダリルの生活は変わった。刺激的で、面白く、そしてもどかしい日々を彼は送り続けた。
花の妖精に触れたい。もっと話したい。ダリルはその一心でルクレーシャに近づいたが、彼女はダリルの顔を見るとすぐさま逃げるのだった。
「おい待て! 逃げるなルクス!」
「やだ。ダリルくん怖いもん」
「怖くないっ! 格好いいの間違いだろうが!」
「まっ、間違いじゃないよ。もう追いかけてくるのやめてってば……。きゃっ!?」
ルクレーシャは一生懸命走ったが、呆気なくダリルに捕まってしまった。のんびりしたルクレーシャは足が遅い。華奢な少女をぎゅっと抱きしめながら、ダリルは紅潮した顔を緩ませた。
「あははははっ! 捕まえたっ! ルクス、お前は本当に足が遅いな! そんなんじゃ俺様からは一生逃げられないぞ!」
「う、うぅぅ……。放してよダリルくんっ、ぎゅってしないで。シャツがしわになっちゃう」
目を潤ませるルクレーシャの顔を、ダリルは嬉しそうにじっと見つめた。己の腕の中でふるふると震える彼女がとても可愛らしい。ルクレーシャの柔らかな頬を伸ばすと、彼女は困り顔で啜り泣いた。
「うぅっ、わたひのほっぺのびひゃう。だひうくんなんてひらい」
「こら! 嫌いって言うな!」
「いやだ、ひらい」
ダリルは放課後、ルクレーシャを捕まえてはねちねちと虐め抜いた。
こんなことをしては嫌われる一方だと分かっているのに、顔を合わせた途端に逃げる少女を見ると、追いかけてちょっかいを出さずにはいられなくなる。
笑顔の少年と泣く少女。ふたりの姿を、静かに見守る者がいた。
「はぁ。坊ちゃま、レディにそんなことをしてはいけません。それではいつか、心の底から嫌われてしまいますよ……」
細身の老執事は溜息を吐き、不器用な己の主を木陰から何度も覗き見た。
*
夕食の時間。
早々にフォークを置いたダリルに、彼の父は首を傾げた。
「どうしたダリル。食欲がないのか?」
こくりと頷く少年を見遣り、老執事は朗らかな笑い声を上げた。
「失礼ながら、坊ちゃまは最近あるレディのことで頭がいっぱいのようでございます。そのお方のことを考えると、食事も喉を通らなくなってしまうのかもしれません」
「ま、待て! じいや、それは言うな!」
「ルクス、と。坊ちゃまがあえて違う呼び方をなさっているのは、その令嬢に意識してもらうためではないでしょうか。身だしなみにも特段のお気遣いをなさっているようです」
どっと笑い声が上がる。両親と執事に温かい目を向けられ、ダリルは顔を真っ赤にするのだった。
貴族の一人息子として生を受けた彼は、富に溢れた豊かな生活を送っていた。莫大な財産、国中に名だたる家柄。それに加え、自分に仕える執事もいる。兄弟姉妹がいないダリルは、両親からの愛情を一身に受けて育てられた。
ダリルの家には全てが揃っていた。
薔薇が咲き乱れる広い庭。美味な食事に、黒檀の書架に並ぶ高価な本。クリスタルのシャンデリアが輝く広間。そして、いつも後ろをついてくる執事の足音。一言何かを口にすれば、家中の使用人がそれに従う。それが彼の、綺羅びやかな日常だった。
何不自由ない生活。
しかしダリルは、いつも物足りなさを感じていた。
「見てくださいまし、このドレス。錬金術士に作らせた品ですの! 見る角度によって色が変わるのですよ。すてきでしょう?」
「あらあら、私のネックレスの方がずっとステキよ。最先端の人工宝石を百個も使っているのだから!」
張り合う貴族たちの傍らに、彼ら専属の錬金術士が得意げな顔をして控えている。ダリルは溜息を吐き、パーティー会場をそっと抜け出した。
(くだらない。自分なら、錬金術でもっと面白いものを作れる)
この国の貴族たちは、いかに実力のある錬金術士を迎え入れるかに執心している。高い給金をちらつかせて専属の錬金術士を雇い、毎日ドレスや華美な装飾品を作らせること……。それが、刺激に飢えた社交界の流行だった。
七歳のダリルは、幼いながら錬金術の面白さに魅了されていた。水と塩から薬を作り出す力も、人形を自在に動かす力もある。あらゆる願いを叶えられる究極の学問――錬金術を極めることこそ、自分の進む道なのだと信じて疑わなかった。
だからこそ、錬金術でつまらない品々を作らせて張り合う大人と、それを甘んじて受け入れる錬金術士たちが許せなかった。大いなる学問と欲望渦巻く世界が、醜く結び付けられてしまうような気がしたからだ。
(もうパーティーなんてうんざりだ! 父上のように作り笑いなんてできない。……社交界は、きっと自分の居場所じゃないんだ)
ダリルはむすっとした顔で人々の間を縫い進み、馴染みの執事に向かって叫んだ。
「じいや! 帰るぞ!!」
「坊ちゃま、挨拶はまだお済みでないかと存じますが。ご令嬢方が坊ちゃまとのお話を心待ちにしておられるようでございますよ」
細身の老執事が首を傾げる。ダリルは棒のような彼の腕を勢いよく引っ張った。
「こんなところにいるより、お前と錬金術の本を読んだ方がずっと楽しい。じいや、今夜も材料図鑑を読み聞かせてくれるのだろう? 待ちきれなくて少し読み進めてしまったから、今日は百三十ページからだ。ああ、楽しみだ! 早く帰ろう!」
せわしなく話しかけてくる主に、老執事は微笑みを溢した。
ダリルが錬金術に心酔したきっかけは、執事に読み聞かせてもらった一冊の絵本だった。市井の錬金術士の暮らしについて触れた本。その本に出逢った時、ダリルの人生は変わった。
……水を薬に、鉄を黄金に変える。魔法のような力を以て、錬金術士たちはこの国の発展を支えてきた。
錬金術士とは人々を幸せにする存在であり、夢である。
そしていつかは、無から有を作り出す存在なのだ……。
絵本の中には素晴らしい世界が広がっていた。
火、水、風、土。この世を構成する四元素四性質を表す絵、見慣れぬ錬金道具、そしてそれらを自由自在に操る錬金術士たち――。本の中の彼らは、いずれもダリルの目に輝いて映った。
不完全な物質から、より完全な物質を生み出すための試み。
塩酸、硝酸、硫酸。燐、硫黄、水銀……。錬金術士たちが追い求めた夢は、その過程でいくつもの有用な物質を発見した。
この世界は彼らのもたらした礎によって作られている。彼らは魔法使いだ。自分も彼らと同じように、立派な錬金術士になりたい。役に立つ品をたくさん作り出して、人々の生活をより良くしたい。
そしていつかは、この世界に自分の足跡を残すのだ。
それが、ダリルの思い描いた夢だった。
*
ダリルは日々、錬金術に没頭した。分厚い材料図鑑を持ち歩き、ジャム瓶をビーカー代わりにして簡易的な調合に取り組んだ。そんなダリルの熱意を両親は喜び、将来は王立錬金術学校に通わせてやろうと決めたのだった。
歳を重ねても、ダリルは社交界を好きになれないままだった。
嫌味を交わし、腹を探り合う。綺羅びやかな社交界の中で、友と呼べる者はひとりもいない。令嬢たちのつまらない話に耳を傾けるのも辛い。
行き場のない寂しさを抱え込みながら、ダリルは毎夜、ぼんやりと想像を巡らせた。
(もし自分が平民だったら……。豊かな自然の中で、誰かと思い切り遊んだり、走り回ることができたのだろうか? つまらないパーティーに出ることもなく、もっと錬金術の勉強に打ち込むことができたのだろうか)
(家に縛られず、自分のやりたい仕事ができたのだろうか。家同士の繋がりで決められた結婚ではない、本当に好きな女の子と一緒に過ごすこともできたのだろうか……?)
息が詰まる。胸に空虚が広がっていく。
ダリルは目を閉じ、脳裏に赤い輝きを思い浮かべた。
賢者の石。
書物でのみ語られる伝説の物質。無から有を生み出すことができるという、奇跡の霊薬。賢者の石を手にした者は、己の望みを何でも叶えることができるのだと云う。
(己の望みを何でも叶えられる……か。賢者の石があれば、この味気ない世界を、理想の世界に作り変えることもできるのだろうか?)
ぎゅっと拳を握る。
ダリルは本に描かれた赤い輝きに、己の希望を見出した。
いつか賢者の石を作り出し、この世界を理想の世界に作り変えてみせよう……それがダリルの、もうひとつの夢だった。
自由になりたい。他の子供たちのように外を駆け回りたい。
貴族の立場なんか気にしないで、自分がしたいと思ったことを思う存分してみたい。
(自分は天才だ。何だってできる。錬金術の力で、この世界を変えてみせるぞ)
ダリルは日々研鑽を積んだ。手がたこだらけになるほどペンを動かし、毎日分厚い材料図鑑を読んでは、錬金術材料に関する知識を詰め込んだ。彼を突き動かしたのは賢者の石に対する憧れと、己の生活に対する静かな絶望だった。
そんなダリルの暮らしは、十二歳の時に大きく変わる。
鬱屈していた彼にとって、王立錬金術学校は初めて自分を解放できた場所だった。
*
十二歳のダリルは高慢だった。
富も美しさも全て持っている彼は、華やかな暮らしの中で驕ることを覚え、すっかりひねくれた少年に育ってしまった。
王立錬金術学校創設以来の天才。教師陣から熱烈な称賛を受け取ったダリルは、ざわめく生徒たちを尻目に赤い天鵞絨の上を堂々と歩んだ。
しっかり胸を張って歩く貴族の少年は、十二歳とは思えないほどの威厳を放っている。燕尾服に似た黒い魔導衣装が、彼の上品さを引き立てていた。
爽やかな笑み――社交界に出ることで磨かれてきた完璧な作り笑いを浮かべながら、ダリルは内心、周囲の生徒を馬鹿にしきっていた。
(俺様が一番なのは当然だろう? お前たちが入学する何年も前から、俺様は錬金術に触れてきたんだ。誰も俺様には敵わない。これまでも、そしてこれからも。このダリルが頂点に立つ!)
難関といわれる王立錬金術学校の入学試験も、ダリルにとってはごく簡単なものだった。座学で満点を取った彼は、どこか冷めた気持ちを抱きながら表彰台に上った。
(……つまらない)
全て、色褪せて見える。
広々とした講堂も、薔薇のアーチが並ぶ温室も、自分の家と比べたら「素朴」と言わざるを得ない。王立錬金術学校に対して抱いていた憧れが、徐々に薄らいでいくのを感じる。
自分はこれから、このつまらない学校に通うのか。こんな学校に通ったところで、本当に世界を変える力が手に入るのか……?
ダリルが胸の内で溜息を吐いた時、視界の端に淡い桃色が見えた。
表彰台にもうひとり誰かが上ってくる。学長は微笑み、新たな入学生に向けて囁いた。
「おお、待っていたよ。今年は素晴らしい年だ。座学試験で満点のダリルくんと、実技試験首位の君を迎えられるのだから! 君たちの成長が楽しみだ。ようこそ、ようこそ。偉大なる王立錬金術学校へ!」
学長の言葉にダリルは目を見開いた。
(実技試験首位? それはつまり……実技では俺様が負けたということか!? この俺様の上を行くなんて、いったいどんな奴だ!?)
強烈な悔しさがこみ上げ、ぎっと横を睨んでしまう。
ダリルは視線の先にいる生徒を認め、あまりの衝撃に呆けてしまった。
「……ぁ」
彼の隣にいたのは、とても可愛らしい少女だった。
白いシャツに赤いスカートを纏った少女。彼女は淡くも、鮮烈な色彩を以てダリルの目に飛び込んできた。
ふわふわと揺れる薄桃色の髪。透き通った紅水晶の瞳に、華奢な体つき。長く美しい睫毛が、表彰台の明かりに照らされて光っている。ぱっちりとした目に、ダリルはたちまち心を奪われてしまった。
(か、わいい……)
ダリルは瞬きを繰り返し、そして顔を赤くした。
(ま、待て。なんだこの女は? いくらなんでも可愛すぎるぞ。妖精か?)
ダリルの視線に気が付いた少女が目を合わせてくる。不思議そうに首を傾げながら微笑まれ、ダリルは胸がどくどくと跳ねるのを自覚した。彼の頭が、少女に対する感情で埋め尽くされる。
可愛い。可愛すぎる。綺麗だ。目が離せない。見れば見るほど可愛らしい。好きだ。早く声が聞きたい。もし結婚するなら彼女としたい。今すぐしたい。このまま家に連れて帰りたい。
(えっ、本当に可愛い。こんな可愛い女が俺様に実技試験で勝ったのか? 信じられないぞ。どんな手を使ったのか問い詰めなくては!)
邪念に取り憑かれたダリルはみっともなく口を開いたまま、桃色の髪の少女を凝視した。
目を細めて注視すれば、桜の花びらに似た光が、少女の周囲をひらひらと舞っているのが見える。淡く溶けていく未知の光に、ダリルはたちまち魅了された。
(あの力……。あれは魔力だ。あんな風に外に滲み出すなんて……!)
ダリルは感動に身震いした。魔力とは本来不可視のものであるのに、少女の抱える魔力が並外れて膨大だから、花びらのような形となって外に漏れ出しているのだ。少女の存在は、神秘的なものを好むダリルにとって、奇跡のように思えた。
第五の元素、魔力。人が神に与えられし非物質。世界を変える力があるとすれば、それはきっと少女の中にある。
少女が発する桃色の光と、霊薬の赤い輝きが重なっていく。珍しい髪と目の色、そして膨大な魔力……。少女は人間ではない、きっと花の妖精なのだ。ここで捕まえなければすぐに消えてしまうだろう。
この子は自分の運命だ。絶対に逃さない!
初めての恋に転がり落ちたダリルは、入学の儀が終わるや否や、懸命に少女を呼び止めた。表彰台を下りようとする彼女に向け、大声で話しかける。
「おい待て! そこのお前! なんて名前なんだ?」
「えっ……わ、わたし? ルクレーシャ、だよ」
「ルクレーシャだって? そうか、お前に聞くことがある!」
ダリルは怯える少女にぐいっと顔を近づけ、矢継ぎ早に質問をした。
「出身はどこだ、どうして錬金術学校に入ろうと思ったんだ!」
「えっ? ええと」
「どこに住んでるんだ!? どうして髪も目も見たことがない色をしているんだ! 大体、どうしてそんなに体から魔力が溢れ出ているんだ!! いったいお前は何者だ!?」
「えっえっ、あ、あの……」
いきなり質問責めされて驚いてしまったルクレーシャは、大きな目をうるうると潤ませた。どうやら彼女は内気で人見知りらしい。眉を下げて後ずさる少女の手を、ダリルはがっしりと握り込んだ。
「待てルクレーシャ、逃げるな! お前に聞きたいことがたくさんあるんだ! 身長、体重、あと好みの男のタイプを教えろ! 好きなものはあるのか? 嫌いなものは? いつも何を食べてるんだ!? おい、早く答えろ!」
逃さないぞと念じながら、ルクレーシャの小さな手を撫で回す。はきはきしたダリルと違い、ルクレーシャはおっとりのんびりした調子で話す少女だったが、ダリルは我慢して彼女の話に耳を傾けた。
「ぁ……あの、ね。プリン、美味しくて……」
「プリン?」
「う、うん。錬金術で作ったプリンが美味しかったの。甘いものいっぱい食べたいし、お父さんとお母さんにお金を渡したいの。だから、ここに入ったの……」
ルクレーシャは可愛らしくはにかみ、ぽつぽつと自分の話を続けた。
要領を得ない彼女の話をまとめると、ルクレーシャは遠い田舎村からやってきて、貧しい両親のために金を稼ぐつもりなのだという。
内気な少女を見下ろし、ダリルはにやりと笑った。
(くっ、くく……。俺様の家に迎えるのにぴったりじゃないか? 俺様は貴族だし、この女は貧しい平民。俺様が家に来いと言ったら、この女は喜んでついてくるはずだ。将来は専属錬金術士にして、俺様の研究を手伝ってもらおう。仲が充分に深まったら、いずれは妻に迎えるんだ……!)
ダリルの夢が広がっていく。
彼はもじもじと指を組む少女に向けて、自信満々に言い放った。
「ルクレーシャ。俺様はお前を貰うぞ」
「え? もらうって、どういうこと?」
「そのままの意味だ! 俺様の家に来い、ルクレーシャ! プリン以外にも甘いものをたくさん食べさせてやるぞ! 平民のお前には勿体ないくらいの贅沢な暮らしをさせてやる! いずれは俺様の妻になる名誉もやろう!」
ルクレーシャは唸った後、ふわふわした眉をきゅっと寄せた。
「そ、それって……。ダリルくんと結婚するってこと?」
「ああそうだ! 喜べルクレーシャ。貧乏な田舎者のお前を、貴族の俺様が貰ってやろう!」
「え? やだよ。ダリルくんってなんか乱暴だし、お貴族様とは話が合わないだろうし……」
「はっ、はあぁぁぁ!?」
拒絶されると思っていなかったダリルは、ルクレーシャの断りに間の抜けた声を出した。目を見開き硬直する少年の手から、するりとルクレーシャの手が抜け出す。
じゃあねと言って去っていく少女を、ダリルは怒り顔で追いかけた。
「こんのっ……。生意気ルクレーシャ! 俺様の誘いを断るとは何事だ!? ちんちくりんの田舎者が、身の程を知れ! 俺様を拒絶するなんて許さないぞ!!」
「きゃっ!?」
行き場を失くした感情が爆発する。逃げるルクレーシャを追いかけ回し、ひとつに結ばれた桃色の長い髪を引っ掴む。
ダリルは柔らかい髪の毛を握り込み、羊の毛によく似ていると笑った。
「ははっ、随分変わった色の毛だ。こんなに変な色なら、お前と結婚したい男なんていないんじゃないか? 大人しく俺様の言うことを聞いておいた方が幸せになれるぞ」
「やっ、やだっ。そんなに引っ張らないで、放してダリルくんっ……!」
「放してだと? 貴族の好意を無下にするとは何て失礼な奴なんだ! 罰として、もっと引っ張ってやる! はははっ。よく伸びるな。まるで馬の尻尾みたいだ! ほら、ついて来い平民。早く俺様の家に行くぞ!」
「や、やめてよダリルくん。私をいじめないで……」
ぐいぐいと乱暴に桃色の髪を引っ張る。花の妖精を捕まえた満足感にダリルが笑うと、ルクレーシャは顔をくしゃりと歪めた。
「ふっ、う、ふえっ」
大きな目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
ルクレーシャの泣き顔に、ダリルはぎょっとした。
「お、おい……」
「だ、ダリルくんのばかっ……。髪のこと気にしてるのに! ふわふわでまとまらないけどっ、頑張って一生懸命リボン結んだのにっ! ダリルくんがひっぱるからぐちゃぐちゃになっちゃった。うぅっ……。うええええぇんっ……!」
ルクレーシャは声を上げて泣き始めた。大泣きする少女に気が付き、周囲の生徒がぞろぞろと集まってくる。ダリルは慌ててルクレーシャの頭を撫でた。
「す、済まなかった。つい」
「うぅっ、うあぁぁ……! ひどいっ、ひどいよお……」
ダリルが慰めてもルクレーシャの涙は止まらない。好きな女の子を泣かせてしまったショックにダリルは狼狽した。
「お、おい。いい加減泣き止めって。髪を綺麗に整えてやる。新しいリボンだって買ってやるからっ……。ああもう、ルクレーシャ! 本当に済まなかった! お願いだ、もう泣かないでくれ! そう泣かれると困るんだ!」
ダリルは何度も謝罪をしたが、彼が謝る度に薄紅色の瞳からぶわりと涙が溢れ出る。散々泣いた末、ルクレーシャはぐすぐすと鼻を啜りながら泣き腫らした目でダリルを睨んだ。
「ダリルくんのばか。ダリルくんなんて嫌い!」
「きっ……!?」
あまりの衝撃に言葉を失う。
ダリルが我に返った時、もうルクレーシャの姿は無かった。
(嫌い、だなんて。そんなこと言わないでくれ……)
ぶつけられた拒絶の言葉がダリルの胸に食い込み、鋭い痛みを発する。人目が無ければそのまま涙を流してしまいそうだった。
嫌い。その言葉がぐわんぐわんと頭の中に響いている。
執事が迎えに来るまで、ダリルはそのまま立ち尽くしていた。
その夜、ダリルはルクレーシャのことばかり考えていた。
日課の勉強と調合を休み、ぼんやりと星空を見上げる。いつもらしくないダリルに両親と執事は心配の目を向けたが、彼はそれに構わず、早々に自室に籠もったのだった。
――ダリルくんなんて嫌い!
「嫌い。ルクレーシャが俺様を、嫌い? いやだ、そんなの……。俺様はお前のことが好きなんだぞ」
ダリルは目を瞑った。
白いシャツと赤いスカート。ひとつに結んだ淡い桃色の髪に、ローズクォーツの瞳。可愛らしい顔、声、そして素晴らしい魔力。今日出逢ったばかりの少女の姿を、鮮明に思い出すことができる。
何を取っても、どれを見ても、ルクレーシャの全てが好ましかった。
「のんびりした女なのに、実技試験では俺様を上回ったのか」
一番になれなかった悔しさが込み上げる。少女への好意。嫌われてしまった寂しさと、拒絶された怒り。ライバルを見つけた高揚感。全てが綯い交ぜになって、ダリルはうめき声を漏らした。
ルクレーシャは自分の運命だ。拒絶されても、決して諦められない。明日も声をかけて、何とか距離を縮めなければ。
(泣き顔も可愛かった)
少年の心に闇が覗く。
ルクレーシャの弱々しい泣き顔が焼き付いて離れない。泣かせてしまったことを後悔しているのに、あの顔をもう一度見たいという欲求が込み上げてくる。
寂しい。ルクレーシャともっと話したい。
初恋に翻弄されたダリルは、その夜殆ど眠ることができなかった。
*
ルクレーシャと出逢ってからというもの、ダリルの生活は変わった。刺激的で、面白く、そしてもどかしい日々を彼は送り続けた。
花の妖精に触れたい。もっと話したい。ダリルはその一心でルクレーシャに近づいたが、彼女はダリルの顔を見るとすぐさま逃げるのだった。
「おい待て! 逃げるなルクス!」
「やだ。ダリルくん怖いもん」
「怖くないっ! 格好いいの間違いだろうが!」
「まっ、間違いじゃないよ。もう追いかけてくるのやめてってば……。きゃっ!?」
ルクレーシャは一生懸命走ったが、呆気なくダリルに捕まってしまった。のんびりしたルクレーシャは足が遅い。華奢な少女をぎゅっと抱きしめながら、ダリルは紅潮した顔を緩ませた。
「あははははっ! 捕まえたっ! ルクス、お前は本当に足が遅いな! そんなんじゃ俺様からは一生逃げられないぞ!」
「う、うぅぅ……。放してよダリルくんっ、ぎゅってしないで。シャツがしわになっちゃう」
目を潤ませるルクレーシャの顔を、ダリルは嬉しそうにじっと見つめた。己の腕の中でふるふると震える彼女がとても可愛らしい。ルクレーシャの柔らかな頬を伸ばすと、彼女は困り顔で啜り泣いた。
「うぅっ、わたひのほっぺのびひゃう。だひうくんなんてひらい」
「こら! 嫌いって言うな!」
「いやだ、ひらい」
ダリルは放課後、ルクレーシャを捕まえてはねちねちと虐め抜いた。
こんなことをしては嫌われる一方だと分かっているのに、顔を合わせた途端に逃げる少女を見ると、追いかけてちょっかいを出さずにはいられなくなる。
笑顔の少年と泣く少女。ふたりの姿を、静かに見守る者がいた。
「はぁ。坊ちゃま、レディにそんなことをしてはいけません。それではいつか、心の底から嫌われてしまいますよ……」
細身の老執事は溜息を吐き、不器用な己の主を木陰から何度も覗き見た。
*
夕食の時間。
早々にフォークを置いたダリルに、彼の父は首を傾げた。
「どうしたダリル。食欲がないのか?」
こくりと頷く少年を見遣り、老執事は朗らかな笑い声を上げた。
「失礼ながら、坊ちゃまは最近あるレディのことで頭がいっぱいのようでございます。そのお方のことを考えると、食事も喉を通らなくなってしまうのかもしれません」
「ま、待て! じいや、それは言うな!」
「ルクス、と。坊ちゃまがあえて違う呼び方をなさっているのは、その令嬢に意識してもらうためではないでしょうか。身だしなみにも特段のお気遣いをなさっているようです」
どっと笑い声が上がる。両親と執事に温かい目を向けられ、ダリルは顔を真っ赤にするのだった。
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