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第三章

48.悪夢 ※残酷描写あり

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 リアは活発な子ではなかった。
 幼い時から物静かで、内気な子供だった。

 それは人間でありながらドワーフの建築物に興味を持ち、自ら進んで岩窟に住むことを選んだ変わり者で偏屈な父と、穏やかで優しくも、外を怖れ殆ど岩窟から出ることのないドワーフの母親からの影響かもしれなかった。

 近くの村にある学校に通う以外、リアは殆どの時間を住処である岩窟の中で過ごした。

 ドワーフである母が造った家は、岩窟特有の冷たさやごつごつとした鋭さや硬さは全く感じられない。
 丸く滑らかに岩をくり抜いた空間。壁には綺羅びやかな、色とりどりの宝石がたくさん埋め込まれている。外からの光を上手く取り込んだ家は、ドワーフの建築技術の妙を活かした素晴らしいもので、リアは壁の宝石を星空に喩えたりしながら、本を読んだり、絵を書いたり、母を真似て宝石を磨くなどして過ごした。

 リアは特に、本を読むことが好きだった。自分の知らない世界に出会うことに、新たな知識を得ることに夢中になった。特に登場人物に共感しながら読み進めると、自分が本の中に広がる世界の住人になれたような気がした。

「私も、お姫さまになれたらいいのに」

 幼いリアはそう呟いた。彼女は特に王子と姫の物語を読むことが好きだった。
 灰被りの少女に自分を重ね合わせ、いつか私も王子様と結婚するのと両親に繰り返し言っては、彼らの顔を綻ばせた。

「リア。あなたもそのうち素敵な王子様と出会えるわよ」

 たっぷりと生えた髭の奥から、リアの母は優しい言葉を掛けた。だがリアは、丁寧に三編みにされた母の髭をくいくいと引っ張りながら、頬を膨らませて不機嫌に言った。

「お母さん。でもね、ピエール君からお前はお姫さまにはなれないって言われたの。こんな真っ赤な髪のお姫さまは、世界中どこを探してもいないんだって」

「まあ、そんなことないわ。世界は広いから、色々なお姫さまがいるのよ。赤い髪のお姫さまだって当然いるわ」

 母がリアを抱いて背中を摩ると、リアは顔をくしゃりと歪めた。

「……私、また言われたの。お父さんとお母さんは茶色い髪なのに、お前だけどうして真っ赤な髪なんだって」

「リア」

「お前は本当の子じゃないんだろって。私、誰に似たんだろう。おじいちゃんも、おばあちゃんも、ご先祖さまも。ずっとずっと茶色い髪だったんでしょう?」

「リア……」

「私だけ、何で真っ赤なんだろう。こんな髪をしてたらきっと王子様は見つからないっ……」

「リア、よく聞きなさい」

 今にも泣き出してしまいそうな子供を抱きしめ、母は優しい声を掛けた。

「あなたは正真正銘、お父さんとお母さんの子供よ。どんな髪の色をしていたって、あなたはあなたなの。お父さんとお母さんにとっての宝物なの」

「リア。あなたが生まれた日はね、外に赤い綿毛がたくさん飛んでいた日だったの。綺麗な赤い色の綿毛よ。あなたの髪はね、きっと神様からの贈り物なのだわ。だから自分の髪を誇りに思ってちょうだい。あなたは可愛いわ、リア」

「お母さん」

「その髪とお揃いの赤い目だって。とっても可愛いわよ。私のリア」

 リアの母は優しい茶色の目を細めて、リアが落ち着くまで優しい言葉をかけ続けた。
 リアの父もやってきて、大きな手で赤い髪をくしゃくしゃと撫でた。

「リア。そうだぞ。お前は誰よりも可愛いんだ、自信を持ちなさい。お前のことを大好きだと言ってくれる王子様が絶対に見つかるからね」

「お父さん」

 幼き日の、大切な両親との思い出。リアの心の拠り所のひとつ。

「ありがとう。私、すてきなお姫さまになるね」

 それが、黒く塗りつぶされていく。


「お父さん、お母さん……?」

 慣れ親しんだ岩窟の家の中で、リアは呆然と呟いた。

 ある日学校から帰ったリアは、不気味なほどに静まり返った家の異変にすぐ気が付いた。

 宝石が埋め込まれた美しい岩壁に、赤錆色の何かが夥しく飛び散っている。

 部屋の中心には黒いどろどろとした液体が流れていて、その液体からは時計や服が顔を覗かせていた。見覚えのあるそれらに、リアはざっと顔を青褪めさせた。父が着けていた時計。母のエプロン。黒くどろどろとしたものは、よく見るとかろうじて人の形を保っていた。何か強酸性のものでも掛けられたように、顔面の判別が付かないほどに溶けたそれ。

 変わり果てた両親の姿に、リアは身体をがくがくと震わせ、絶叫した。

「いっ……」

「いやあああああああああああああああああっ!!」







 リアはベッドから飛び起きた。ばくばくと跳ねる胸を押さえ荒い息を吐く。

「はあっ……はあっ……!」

 赤い夕日が窓から射し込む。息を落ち着かせながら辺りを見渡せば、そこはよく見慣れた自分の部屋だった。
 ラベンダー、ローズマリー、ユーカリ等のドライハーブがぶら下げられた天井。宝石が飾られた壁。大量の本を押し込めた棚。

(…………ゆ、め?)

 リアはほっと息を吐いた。両親のあんな姿など決して見たくなかった。黒くどろどろに溶けた怖ろしい姿。リアは額に手をやり、大きく息を吸い込んだ。

(はあ……昼寝なんて、するものじゃないわね……)

 規則正しい生活を送るリアは滅多に昼寝をしなかった。昼寝をすれば必ず夜眠れなくなってしまう体質だった。滅多にしないことをしたから悪夢を見たのだと決めつけ、水を勢いよく呷る。寝台に座りこんでいると、ばたばたと走ってくる音がした。

「リア! どうした!?」

 寝室の扉が勢いよく開かれ、強張った表情のマルティンが飛び込んできた。

「マル……」

「叫び声が外まで聞こえた。何があった?」

 マルティンは寝台に勢いよく近づき、そして自身の鋭い茶の目をリアに向けた。外で薪を割っていたマルティンから草と僅かな汗の匂いが漂う。よく嗅ぎ慣れたその匂いに、リアは段々と自分の意識が落ち着いていくのを感じた。

「あ、えっと……何でもないの。うるさくしてごめん、気にしないで」

 リアは、マルティンの強い視線から逃げるように俯いた。

「……何? 体調でも悪いのか」

「ううん、体調は平気……」

「そう。鉱山で腕を怪我したばかりだから、そのせいで悲鳴を上げたのかと思った」

 リアは自分の右腕を見た。落盤に巻き込まれそうになったリアは、数日前腕に怪我を負った。意識すると、じくじくとした痛みを右腕に感じる。

「心配掛けてごめんなさい。私は大丈夫よ」

 リアが誤魔化すように微笑むと、その笑顔が気に入らないとでもいうように、マルティンの眉がぴくりと跳ね上げられた。

(この子に、要らない心配を掛けてはいけない)

 マルティン=ベアクロー。

 共に暮らして四年程になるが、この少年は未だ自分に心を開いていない。反抗期真っ盛りのマルティンは、よく棘を含ませた物言いをした。誰にも頼れない、誰にも頼らないという頑なさを感じさせる少年。

 自分は彼の保護者となることを決めたのだから、情けないところは決して見せたくないとリアは思った。自分の情けなく弱いところを見せてしまえば、彼はまた独りを選んでしまう気がした。

 リアが寝台から立ち上がろうとすると、マルティンはそれを押し止めた。

「言えよ、何であんな悲鳴を上げたの」

「……」

「腕だって庇ってる。平気そうに振る舞ってるけどまだ痛いんだろ」

「…………」

「何で黙ってんの。口が利けない訳じゃないだろ」

「……え、と……」

「さっさと話して」

 ぶっきらぼうな声がリアに投げられ続ける。
 自分の前から全く退く気配のないマルティンに、リアは観念しふう、と息を吐いた。

「……あのね、嫌な夢を見て」

「どんな夢?」

「それは……」

 リアは身体を小さく震わせた。黒くどろどろに溶けた両親の悍ましい姿を思い出し、額に手を遣る。

「っ……」

 息を落ち着かせようとしても、ばくばくとした心音が自分の中に響き続ける。平常とは異なり、顔を青くして黙り込んだリアに、マルティンは手を伸ばしそっと背を摩った。リアはその優しさに、幼き日の親の温もりを思い出した。

「父さんと母さんが、酷い死に方をして……」

 マルティンの手がぴたりと止まる。
 リアははっと口を噤んだ。両親のことは、マルティンの前で言うべきではなかったと後悔した。

「……そう」

 マルティンの静かな声が落ちる。棘を含まない静かなその声に、リアは彼を傷付けてしまったのだと後悔した。

 はずれの村で出逢ったこの少年は、彼が十の時に両親を流行り病で亡くしている。

(あれは、ただの夢。私の父さんと母さんはまだ生きている。だからマルの前でこんなことを言ってはいけなかった……。彼の両親は、もういないのに)

「マル、あの……」

 声を震わせるリアに、マルティンはまた静かな声を落とした。

「いいよ別に。謝んなくても」

 マルティンはリアから顔を逸らした。

「……っ、ごめんなさい、私……」

「謝らなくていいって言った」

 マルティンは深く息を吸うと再び茶の瞳をリアへと向けた。その瞳に棘はなく、優しさを宿していた。

「僕の前で親の話をするべきじゃなかったって思ってるんだろ」

「……」

「そりゃ悲しいさ。もう僕の父さんと母さんはいないんだって思うたびに」

「……マル」

 窓から射し込む夕日がマルティンの顔を照らす。影になった彼の顔をリアはじっと見つめた。
 暫しの沈黙が降りる。ひとつの深い嘆息の後、マルティンはリアに切り出した。

「ねえ、リア。……ずっと君に話したいって思ってることがあるんだ。聞いてくれる?」

 リアはそっと目を瞬かせた。マルティンはいつも口数が少なく、リアの前で滅多に自分から話をすることはない。リアから話しかけて、一言二言それに対してぶっきらぼうに返すだけ。リアは平常とは違うマルティンの様子に意識を傾けた。

 リアがひとつ頷くと、マルティンはリアの横に腰掛けた。
 赤い夕日が、大人びてきた十四歳の少年の横顔を眩く照らした。

「……あの、さ。えっと……。僕は、心の整理がつくようになった。今はもう、殆ど父さんと母さんを思い出して泣くことはなくなった。寂しさを感じる時はあるけど、受け止められるようになったんだ……」

 つっかえながらも、マルティンは話し続けた。

「ひとり遺された時、僕はどうしようもなく寂しかった。村の人たちは気遣ってくれたけど、僕に対する壁や、実の子との扱いの差を目の当たりにする度、仕方のないことだとはいえ辛かった。この村のどこにも僕の居場所は無いんだって、そう思った」

「村の人たちからの腫れ物に触るような目も辛かった。僕はやけになって、この村を出てやろうと思った。それで無謀にも山を越えようと思ったんだ。馬鹿だよな」

「父さんからさ、お前はまだ山には入るな、危険な獣がうろついてるからって散々言われてきたのに。狩人だった父さんが遺した銃さえあれば、獣なんて怖くないと思ってた……」

 亡くした父を思い出したのか、マルティンの声に震えが混じる。リアは彼の硬い手を握った。

「僕は山に入った。道なんて分からないまま、とにかく進める方に進んだ。そして山の深いところに入って、僕は熊と遭ってしまった。熊を前に、僕はただ震えることしか出来なかった。銃を構えようなんて思えなかった。ただ、自分より大きい熊のことが怖くて仕方なかった。自分はここで喰われて殺されるんだって、泣くことしか出来なかった」

 リアは身を縮こませながら、木陰で怯えるように泣いていた少年の姿を思い出した。
 今より、ずっとずっと小さな後ろ姿を。

「でも、僕は助かった。その日、ちょうど村に引っ越してきたハーフドワーフが、行方不明の子供探しを手伝って、その子供を見つけて、持っていた斧で熊を追い払ってしまったから」

「……信じられなかった。母さんより背丈が小さいくせに、大きな斧を片手で振り回して大きな熊を追い払ってしまったことが。そして、もっと信じられなかった。僕が両親を亡くして独りだと知ったハーフドワーフが、僕の手を取って一緒に暮らそうって言ってきたことが」

 茶の瞳から、ひとつ雫が流れた。

「……っ。今日から私の弟だって一方的に言ってきて、嫌がる僕を無理やり抱きかかえて、半日で作ったとは思えない立派な小屋に連れて行って。僕は、君のことが最初はすごく怖かった」

 リアがそんな風に思っていたのかと言うと、マルティンは薄い笑みをこぼした。

「だってそうだろ? 知り合ったばかりの痩せぎすで薄汚いガキを、いきなり自分の家に連れ込んでさ。服も食事も用意して、絶対に何か狙いがあると思ってた。理解できなかった。僕に、そこまで優しくしてくれる理由が分からなかった。君のことを信頼するつもりはなかったんだ……」

 マルティンの頬を涙が伝い、ぽたりぽたりと落ちていく。リアはそれをぼんやりと見つめた。
 マルティンがリアの前で泣くのは、出会った時以来だった。

「誰かを信じて、心を預けることが怖かった。誰かを信頼したとしても、また父さんと母さんのように僕の前からいなくなってしまったら、今度こそ耐えられないと思ったから。僕は弱いから、もう誰にも寄りかかりたくなかった」

「マル……」

「僕は、本当に糞ガキだ。どうしようもない糞ガキだ。君がせっかく作ってくれた食事を食べなかったり、何も言わずに家を空けたり。おまけにぶっきらぼうな物言いしかできない」

「僕は世話になっている身で、おこがましくも君を試した。この親切な人はどこまで僕を大事にしてくれるんだろうって。どこまで僕を許してくれるんだろうって。僕を捨てることを期待してた。反対に捨てないでとも思ってた。込み上げる苛立ちをそのまま君にぶつけてきた。……リアが、僕のその態度に酷く傷付いていることは、とっくに解っていたのに」

 リアの手が強く握られる。マルティンが鼻を啜る音が静かな部屋に響いた。

「でも……リアは僕が酷いことを言っても、試すような真似をしても、必ずこの手を取って家に連れ帰ってくれた。君はひたすらに優しかった。ただ困っている人を見過ごせなかったから、それだけの理由で僕を助けてくれたんだってすぐに解った」

「神様はいるんだって思った。嬉しかった、こんなに優しい人と出会えたことが。君を大好きになるのはあっという間だった。リア。父さんと母さんはいなくなってしまったけれど、新しい家族がずっと僕の傍にいてくれたから、真っ赤な髪の姉さんが傍にいてくれたから、僕は寂しくなくなった」

「ずっと君に言いたかったんだ。……ありがとうって」

 リアはマルティンにぎゅっと抱き寄せられた。
 草の匂いを纏う背中をリアが優しく摩ると、マルティンの腕に力が込もった。

「リア、僕の姉さん。君は、僕が一番辛い時に、傍でずっと支えてくれた」

「……マル、マル……」

 リアはマルティンの名を何度も呼び、ぽろぽろと涙を流した。共に暮らしているのにずっと遠かったマルティンからの想いが、リアには嬉しくて堪らなかった。

「君が、僕の前で無理して振る舞ってるのは知ってる。そして、そうさせてしまったのは僕だ。ごめんなさい。本当にごめん。もう……謝っても遅いかもしれないけど、僕は、君とこれからも家族でありたい」

「だから、君が辛い時は頼ってほしい。苦しい時は僕が支えたいんだ」

 怪我をした右腕を労るように摩られる。じんわりとした温かさが、腕の痛みを取り除いていくように感じた。
 リアは微笑み、マルティンの目尻に滲む涙をそっと指で拭った。柔らかな茶色の目が擽ったそうに細められる。リアは弟をしっかりと抱きしめ返した。

「可愛いマル。私の弟、私の宝物……ありがとう、マル……」

 赤い夕日と草の香り。それはリアの記憶の中の宝石のひとつだった。

(ああ、そうだ。この日、こうしてマルと話をして。それからやっと私達は、本当の家族みたいに仲良く過ごせるようになったんだ)

(あの時のマルは天使だったな。茶色の髪はさらさらしてて、指通りが良くて、顔立ちも整ってて。将来どんな美青年になるのかわくわくしてた)

 ふとマルティンの姿が過ぎる。たっぷりとした体毛を生やした、二十歳とは思えない程に貫禄のある姿。優しげに垂れ下がる茶色の眉。リアはくすりと笑みをこぼした。

(二十歳になる前に途端に髭が伸びてきて、私につられてたくさん食べるようになったから横幅も広くなって……本人は熊みたいだって気にしてたけど、ずっと私の可愛い弟には変わりない)

 リアは違和感を覚えた。

(……あれ? 私……何で?)

 強烈な違和感が、迫り上がってくる。

(……何で、二十歳のマルのことを知っているんだろう? 今、ここで見て感じていることが、どこか過去のように思える。私、何をしていたんだっけ……?)

 思い出さなくてはいけない何かがあった筈だ。

 そう認識した途端、どぷり、どぷりと粘っこい音を立てて、リアの周りのものが黒く溶けていく。リアは声にならない悲鳴を上げた。

「っ……あ、あ……!」

 腕の中のマルティンもまたどろどろに溶けていく。リアの腕からすり抜け、流れ落ち、黒く悍ましい残滓を床に残す。夢で見た両親と同じ姿。肉が溶け、骨が曝される。窓から射し込む夕日に照らされるそれは酷く怖ろしく、リアは慄き、絶叫した。

「ま、る……マル! いや、いやああああああああっ……!」








 冷たい風が吹いている。風に混じる鉄の臭いに、リアは背筋を震わせた。

 自分はまだ、悪い夢の中にいるのだと信じたかった。マルティンの残滓がこびり付いた腕のまま、助けを求めるように村を彷徨う。薄暗い空は不気味な程に赤い。赤錆色の空は、色褪せた血を思わせた。

「マルトおばさんっ……リファさん、ビョルンさん、村長……! 誰かっ……だれかっ……!」

 馴染みの村人たちの名を、リアは必死で呼んだ。しかし、リアの問いかけに応える者は誰もいない。

「どうしてっ……!? どうなってるのよ、どうして誰もいないのっ……」

 戸を叩いても誰も出ない。畑の中には誰の姿もない。そして生臭い風に導かれるように、リアはとうとう村の高台に辿り着いた。

 血の臭いが濃くなる。

「っ……!?」

 込み上げる吐き気を抑え、リアはそれに近づいた。

 案山子が、高台に並んでいた。

 串刺しにされ等間隔で並べられた四十余りのそれらは、黒い鷹に啄まれその中身を曝している。自分が嗅いだ血の臭いはここから流れていたのだとリアは気が付いた。

 リアは声を上げることも出来ず、その場にへたり込んだ。鷹のばさばさという羽音が、甲高い鳴き声が薄暗い空の下に響き渡る。磔にされた村人たちの姿を見て、リアは絶望にひとつ涙を流した。自分の理解を超える目の前の風景に、思考回路が焼き切れていく。

(……もう、疲れた)

 諦めるように目を閉じる。そしてリアは纏わりつく血の臭いの中、気を失った。








 リアは白く清潔な寝台の上で目を覚ました。灰色の天井が目に飛び込んでくる。寒々しい印象を与える、石造りの建物。ここは避難所だ、とリアは一拍遅れて理解した。

「よく寝てたね。目ぇ覚ました?」

 メルローが顔を覗き込んでくる。リアはぼんやりと彼女の顔を見つめた後、力の抜けた身体をゆっくりと起こした。

「……怠い」

 リアが強い倦怠感にそう呟くと、メルローは水が注がれたコップを手渡してきた。リアがそれを受け取って飲むと、胸に溜まった澱みが少しだけ薄れたような気がした。

「魔力を抜くのは身体に負担が掛かるからね。調子が悪いならまだ寝てたら?」

 メルローはリアの肩のあたりに両手を添え、そこから光を放った。春の陽気のような温かさがリアの全身を巡っていく。湯に浸かるような安らかな心地で、リアはうっとりと目を細めた。

「ありがとう、メルローちゃん。大分楽になったよ」

 リアが微笑むと、メルローは照れくさそうにはにかんだ。紫色の刈り上げた髪をひとつ掻き、メルローは寝台に腰掛けた。

「あー……。リアちゃんを前にすると、なんか胸の辺りがそわそわするわ」

「そわそわ……?」

 リアはぱちり、と目を瞬かせた。

「どう扱っていいか分からねえ。あたしの部署は女がいねーからさ、あんたみたいな歳の近い女の子に、あたしは何を話したらいいんだろって……」

「その、仕事以外で女の子と話すことはないの?」

「個人的な会話は滅多にねえな。諜報任務で対象ターゲットに近づいてあれこれ会話するくらい。別に女友達もいねえしな」

 メルローは自嘲的に笑った。

「そっか。じゃあ、私と友達になってよ」

 リアがそう言って微笑むと、メルローはゆるゆると顔をリアの方に向けた。

「私ね、ずっと岩窟と人の少ない田舎村で育ってきたから、全然女の子の友達が居なかったの。だから、メルローちゃんみたいに気楽に話しかけてくれる女の子と会えて嬉しい。メルローちゃんとの会話は楽しいよ、気晴らしになっているの。だからね、友達になってほしいなって」

「マジで? 変わったハーフドワーフもいたもんだな」

 メルローは笑った。

「あたし、あんたと全然タイプ違うじゃん。おまけにこの前すげー酷いこと言ったし。それでもあたしと友達になりたいって?」

「うん」

 リアが頷くと、メルローは言葉を詰まらせた。ピアスだらけの耳が照れたようにひくついた。

「へへっ……んじゃ、あんたとあたしは友達。これからもよろしくね、リアちゃん」

 リアとメルローが笑い合っていると、部屋の扉が静かに開かれオリヴァーが入ってきた。そして面白そうな顔で顔を赤らめているメルローを見た。

「メルロー、楽しそうで何よりだ。貴様の笑い声が廊下まで聞こえたぞ」

「おう、今リアちゃんと友情を深めてたからな」

「ほう? 良かったじゃないか。貴様の照れた顔を見るのは珍しい。気難しい貴様に新たな友が出来て嬉しい限りだ」

「気難しいのはオリヴァーのおっさんも一緒だろ。あんたも孤独深めてないでダチでも作れよな」

「ふっ、この才能溢れるオリヴァーと友情を深められる者は中々見つからなくてな。それよりもメルロー、言っただろう? 私はおっさんという歳ではない。まだ百二十七だ」

「百超えたら立派なおっさんですぅー」

「何だと!?」

 オリヴァーがさらさらとしたおかっぱ頭を振り乱しながら大声を上げた。

「撤回しろ! 私はまだお兄さんで通る! このさらさらつやつやの髪! そしてしみのひとつもない肌! 美しいだろう! 当然だ、手入れに毎日三時間は掛けているのだからな! 見ろ、私は紛うことなき美青年だろう!」

「うっせ……」

 メルローは耳を塞ぎたくなる程の声に顔を顰めた。リアは二人のエルフの掛け合いをくすくすと笑いながら眺めた。ふと、リアはオリヴァーにもずっと疑問に思っていたことを訊ねてみようと思った。

「あの、オリヴァー様。聞いてもいいですか? メルローちゃんとは家族ですか? それとも親戚?」

 リアが尋ねると、オリヴァーがぎょっとしてリアを見た。

「ううむ、この奇抜で奇天烈な葡萄女と家族とは。こやつが私の妹のように見えたか?」

「おい、キテレツって何だよ」

 怒るメルローを無視して、オリヴァーは若草色のおかっぱ頭をさらりと揺らし首を傾げた。

「ブラッドスターという姓が同じだからです」

「ああ……なるほどな。貴様はエルフについて詳しくなかったか。メルロー、説明してやれ」

「あいよ」

 サイドテーブルの花を綺麗に飾っていたメルローが、リアに向き直った。

「リアちゃん、あたしとおっさんは仲が良いけど、実際は親戚でも何でもないんだ。この国のエルフってのは姓が三種類しかなくてさ。ブラッドスターなんて姓は他に何百何千もいるんだよ」

「え、そうなの?」

「そうそう。この国を大雑把に真ん中でぶった切って、北で生まれりゃオルフィアン、南で生まれりゃブラッドスターっていう姓を貰うわけ。んで、貴族や王族に生まれつけばパルナパ。エルフの姓は、姓って言うより出身を表す記号みたいなもんだよね」

「そうなんだ……」

「エルフってさ、魔法が使えるし、長生きだし、国にいたら色々と便利じゃん? だから国がエルフの出生を管理してんの。血を重視するパルナパと違って、一般的なエルフは試験管の中で作られる。産まれてきたエルフの子供に、つまらねー教育を一斉に施して、育った後は中央政府やら軍やら何やらにぶち込む」

南部ブラッドスター北部オルフィアンの姓を貰ったエルフは、親兄弟の顔なんて知らない。家族がどういうものなのかも分からない。オリヴァーのおっさんも、あたしもそうやって生まれ育ってきたんだよ」

(想像がつかない……)

「名付けだって酷いもんさ。エルフの名付けは大抵、教育を担当した先公がやるんだけどさ。あたしの先公はどうしようもねえ酒好きで……あたしは、そいつのせいでワインに使われる葡萄の名前になっちまった。同期の奴らはみんな葡萄の名前さ。あたしの右隣の奴はカベルネ、左に居た奴はピノタージュ、後ろの奴はシャルドネ。前の奴はモスカートときた。こんな具合さ、最悪だよ」

 メルローの苦い顔に、オリヴァーは腹を抱えて大笑いをした。むっとするメルローを窘めながら、オリヴァーはリアの方を向いた。

「そういう訳だ。綿毛女、分かったか?」

「……ええ、よく分かりました。ありがとうございます」

 ――俺の夢は、家族を作ることなのだ。俺には家族というものが無かった。いつしか愛した女と契りたい。出来れば子供も持って、仲良く暮らしていきたいのだ。俺は、ずっとそんな願いを持ち続けている……。

 誰かの言葉を思い出す。リアは二人のエルフに気付かれないように、そっと目を瞑り、眉を寄せた。

(……これ、誰の願いだっけ……?)

 長きを生きてきた誰かの孤独に触れた気がして、リアの胸がつきりと痛んだ。

(あの人は……きっと寂しかったんだな。……私との暮らしは、あの人の心を少しでも癒せたんだろうか……)

 黒く広い背中。愛おしい後ろ姿。自分は、彼を……。

(……思い出せない……私は何をしていた?)

 何か大事なことを忘れているのに、頭の中に靄がかかったようでそれを思い出すことが出来ない。リアが頭に手を遣って違和感を探ろうとすると、また一人部屋にやって来るものがいた。

「リローラン殿。元気か? 見舞いに来た……が、先客がいるな」

「おっ、お貴族様じゃん。レントはここにはいねえぞ?」

「メルロー。あなたは相変わらず派手だな」

 アンジェロが大量の菓子を持って部屋に入ってきた。ミルクティー色の波打つ髪と細く長い首筋、無表情であるが整った顔。如何にも高貴な優男という風貌であるのに、両手いっぱいに抱えた色鮮やかな菓子の包みが彼に親しみを感じさせるようで、リアは顔を綻ばせた。

「おいおいおい、なんだその腕いっぱいの荷物は?」

「菓子だ。大通りから花の小道を入ったところにある菓子屋、そこの焼き菓子をリローラン殿は好むとレントから聞いたものでな。買い占めてきた」

 腕いっぱいに抱えた包を置き、アンジェロはぱちりと指を鳴らした。すると寝台の傍に、忽ち別の包が現れる。雪崩れてきそうな大量の包を必死に押さえ、メルローは目を丸くした。

「え? これまさか全部食いもんか!?」

「ああ、そうだ」

「うええマジかよ、すげえ量だ! いくらリアちゃんだってこんなに食わねーぞ!」

「問題ない。余った分は悪くなる前に私が食べる」

「はあ……。よく食うとは聞いていたが、まさかここまで貴様が食いしん坊だとは思わなんだ」

「オリヴァー様も召し上がりますか?」

「貰おうか。何、私は少食なのでな。ひとつだけでいいぞ」

 オリヴァーに一等綺羅びやかな包を手渡しながら、アンジェロは無表情な顔をリアに向けた。

「リローラン殿。あまり顔色が良くないな。苦労を掛けて済まないが、もう少しの辛抱だ。気晴らしに×××××へ手紙でも書いたらどうだ?」

 どくり、と心臓が跳ねる。言いようのない不安がリアの胸に込み上げた。

(え、今……?)

「×××××にはあなたの近況を都度伝えているが、本人から手紙を貰えれば×××××も安心するだろう」

 聞き取れない。アンジェロが発するある言葉を、認識することが出来ない。冷や汗がぶわりと吹き出し、自分の鼓動がいやに響く。

「ふむ……。この菓子、×××××にも贈っておこうか。彼はこの時期干し肉ばかり食べてるだろうからな」

 ×××××。

 ×××××。×××××……。

(アンジェロ様の言葉が聞き取れない。どんなに耳を澄ませても……どんなに注意深く聞いていても……)

 どろり、と景色が溶けていく。

(これは夢? それとも、これは現実?)

 リアは蒼白な顔でエルフたちを見上げた。メルローも、オリヴァーも、そしてアンジェロも。黒くどろどろした物体に変わっていく。肉が溶け、物言わぬ骨と変わり果てる……。

「あ……あ……!」

 リアは震えながら床に広がる汚泥を見つめた。自分の中から急速に体温が失われていく。

 そしてリアの視界は、黒一色になった。







 リアは暗闇の中にいた。僅かな光を辿って歩いていくと、一人の男が立っていた。男はリアの姿を認めると、唇を片方だけ上げる特徴的な笑みを浮かべた。

「リア」

 低い声がリアの耳を打つ。彼の声に共鳴するように、どくりと胸が跳ねた。

(血の臭いがする)

 目の前のダークエルフからは、濃い鉄の臭いがした。生理的嫌悪を催すようなその臭いにリアは強く顔を顰めた。そして頭の中で、警鐘が強く鳴り響く。目の前のこの男こそが、自分に悍ましい夢を見せた犯人なのだとリアは直感的に理解した。

「何のつもりなの」

 リアは硬い声で男に問いかけた。

「私の大切な人たちを、よくもあんな風にしてくれたわね……! あなたが犯人でしょう? ただじゃおかないわよ!」

 リアが吼えると、ダークエルフは可笑しそうにくつくつと笑った。

「くくっ、ははははっ! 俺に啖呵を切るとはな! だが、啖呵を切ったところで君に何が出来るんだ? 監禁され縛られた君は、俺に好き勝手貪られるばかりじゃないか。なあ、赤い髪の姫君」

「っ……!」

 リアは息を詰まらせた。

「あ……! あ、なた……」

 黒い壁、不気味な水音、手足に繋がれた分厚い鎖、そして壊れそうなほどの快楽と深い悲しみ。
 記憶が、一気に流れ込んでくる。リアはずきずきと痛み始めた頭を押さえながら、目の前のダークエルフを必死に見つめた。

「ぜ、ゼル……!」

(そうだ……私は……!)

「私の大切な人たちを……!どうして、傷付けたの……!?」

(レントさんの視た未来を避けようと……。ゼルが、私の大切な人たちを手に掛けるのを避けようとしてたじゃない……!)

 リアが荒い息を吐きながらへたり込むと、ゼルドリックは低い笑い声を漏らしながらリアに一歩一歩近づき、そして目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。貴石を思わせる青が、リアの顔を嬉しそうに覗き込む。

「ふむ……。大切な人たちと言うが、君はその存在を思い出せるかね?」

「え……?」

 リアは思い出そうとした。だが、記憶の中にぽっかりとした穴が空いてしまったように、大切な存在を思い出すことができない。必死に思い出そうとしても、黒くどろどろとした液体がリアの脳裏を埋め尽くしていく。それは取り返しのつかない、どうしようもなく怖ろしいことのような気がした。

「あ、あ……?」

 自分を抱きしめてくれた人。傍にいてくれた人。助けてくれた人たちが確かにいたはずだ。
 なのに、その人達の姿かたち、名前を……思い出すことができない。困惑を顔に浮かべ、ぽたぽたと涙を流すリアを嬉しそうに抱き寄せ、頬に伝う涙をゼルドリックはねっとりと舐め取った。

「くくっ……。君がここに来るまでに、一体何を見たのかは知らない。だが、君はもう何も思い出せないはずだ。俺は、君が心の拠り所とする者たちをすっかり溶かしてしまったのだから……」

「う、ううっ……思い出せ、ない……! 何よ、どうして、どうしてこんなことしたの……!」

 ゼルドリックは微笑んだ。

「君が頑なだから。いつまでも諦めないから。君の心の支えがなくなれば……。リア、君は俺の手に堕ちてきてくれるだろう?」

 リアの頬を撫でながら、ゼルドリックは優しく甘い笑みを向けた。「黒の王子様」さながらの、リアが拠り所とする笑み。リアは目を見開き、その笑みを見つめた。

「う、ふっ……うあああっ……!」

 リアは唇を戦慄かせ、恐怖に喘いだ。

 殺戮の風景が脳裏に過ぎる。赤錆色の空、群がる鷹、中身を曝す案山子、夕日に照らされて溶けた肉体……。

(ゼル、は……人を、殺してしまったの? 私のせいで……!)

 リアは絶望に噎び泣いた。ゼルドリックが執着に狂い自分の大切な存在たちを手に掛けてしまったという事実に、リアの心がひび割れていく。

「酷い……! ひどい、よおっ……! どうして、どうして殺したのっ……? わたし、は、何のために……! うわああああっ……!! ゼル、ぜるうっ……!」

 泣きじゃくるリアに、ゼルドリックは血に濡れた腕を伸ばし彼女の顔を上げさせた。リアの唇にゼルドリックの唇が重なる。滲む鉄の味に、リアの心がばらばらに壊れていく。

「愛しい愛しいリア……。絶望に歪む君の顔は美しい……。さて……。メインディッシュといこうか、右を見ろ」

「ううっ……。ふ、ううっ……あ……?」

 涙でぼやける目で、リアはゼルドリックが指し示す方向を見つめた。

(あ、……あれ、は……?)

 暗闇の中、赤が飛び散っている。そして、誰かが倒れている。

「う、ううっ……」

 呻き声を上げ、身を捩るそれ。髪は血に汚れ、身体にはいくつもの杭が突き立てられている。リアは目を凝らしその正体を掴もうとした。そしてその正体を認め、擦り切れた悲鳴を上げた。

「レントさんっ! いやあああああああああっ!」

 リアは地を這いレントに縋り付いた。彼の身体には酷い暴力を受けた後があって、足や腕が拉げている。血を流す腹を必死に押さえながら、リアはレントに呼びかけた。

「目を、目を覚ましてくださいっ! レントさん、おねがい……! おねがいっ……」

 夥しい量の血がリアの身体を濡らしていく。美しい金の髪は今は赤錆に汚れ、血を流しすぎた肌はぞっとするほど青白かった。リアの呼びかけでゆっくりと目が開かれる。何も見えていないようなぼんやりとした灰色の瞳。生を感じさせないそれに、リアは震える手で強くレントを抱きしめた。

「レントさんっ……嘘、うそよ、こんなこと……! レントさん、しっかりしてっ、起きて! ねえっ……!」

 涙を流しながら必死にレントの名を呼ぶリアを見て、ゼルドリックは可笑しそうに声を上げ、そしてぞっとするほど冷たい瞳を向けた。

「ああ、本当に気に入らない。そんなに泣いて、そんなに縋って。何度も何度も名を呼んで……やはりそやつが、君の王子らしいな」

 ゼルドリックは這いつくばるレントを蹴飛ばそうとしたが、レントの前に座り込み彼を庇ったリアに大きな舌打ちをした。

「そこを退け。そやつは俺が直接殺してやる。君の中からそやつの存在を掻き消してやる……!」

 どろりとした狂気を含んだ声が落ちる。リアが今までに聞いたことのない、怖ろしさを含んだ声。

「そやつだけは許さない。俺が直々に手を下してやらなければ気が済まない。俺が得られなかった君の心を、そやつは簡単に奪い去った。憎い、妬ましい……!」

「ひっ……うああっ!」

 リアはゼルドリックに突き飛ばされた。力の入らない身体はいとも簡単にレントから離れ、リアは血塗れの地面に倒れ込んだ。鞘から剣を抜く音が響く。静かな暗闇の中で、ゼルドリックの持つサーベルが不気味に輝いた。

「やっ、やめて! お願い、殺さないで!」

 リアはゼルドリックの足元に縋り付いた。震えて力が入らない身体を必死に伸ばし、彼の足を掴む。

「レントさんは何の関係もないの! これ以上っ……これ以上殺さないで、お願いよ……ゼル……! 何でもするから、あなたの望むことは、何でも聞くから……だからっ……」

 ゼルドリックは縋るリアを無視し、レントの髪を乱暴に掴んだ。

「……本当に苛々する。君がそう縋れば縋るほど、こやつへの殺意が強くなる」

 ゼルドリックはサーベルを構えた。

「リア。君の愛おしい王子もここまでだ。助けは来ない。君はずっと俺のもの……」

「い、いやっ、やめて、やめてゼル! やめてええっ!!」

 美しい一閃の後、ごとり、と音がした。吹き出した赤が、リアの顔を汚していく。

「あ、ああ……あ、あっ……」

 目の前に転がったレントの首。濁った灰色の瞳と目が合った時、リアは自分の心が拉げる音をはっきりと聞いた。

(私のせいで……レント、さんが……)

 ゼルドリックの笑い声が響き渡る。殺戮の現場に相応しくない明るい笑い声だった。

 首を刎ねられたレントが、リアの前でどろどろと溶けていく。

(レント、さん……私を、救おうとしてくれたのに……私のせいであなたを死なせてしまった……)

 高笑いを上げるゼルドリックもまた、暗闇の中に溶けていく。拠り所であった「黒の王子様」が血に汚れていく。リアはもう、彼の甘い微笑みを思い出すことが出来なかった。

(ゼル、ゼル……私、あなたに手を汚してほしくなかった……)

 一体、どうすれば良かったのだろう。どうすればゼルドリックを、皆を救うことが出来たのだろう。
 強い後悔と悲しみがリアの何もかもを塗りつぶしていく。そしてリアの意識は、暗闇の中に堕ちていった。
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