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第三章

46.狩り ★

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 ぽたり、ぽたりと響く水音の他に、何かがこちらに近づいてくる音が聞こえる。リアが寝台から顔を上げるのと同時に、黒い靄がリアの身体を覆い隠し、そしてその中からゼルドリックが現れた。

「ふ、あっ……!?」

 リアはゼルドリックに寝台の上に押し倒された。手首を掴まれ、腿の間に膝を突かれ、逃げられないように縫い留められる。手首に繋がれた鎖がじゃらじゃらと耳障りな音を立てた。

 ゼルドリックはなおやつれていた。彼の頬はこけ、目は落ち窪み、また痩せたようだった。青い瞳ばかりが不自然に輝いている。リアが目を逸らすと、ゼルドリックはリアの顎を掴み、顔を自分の方に無理やり向かせた。

「何をそんなに泣いている」

 リアの泣き腫らした顔を見て、ゼルドリックは目を見開きながらそう訊ねた。

「はっきりと聞こえたぞ、王子様と呼ぶ声が。誰だ? リア……。君は一体誰を呼んだ?」

 ゼルドリックの顔がぶつかってしまいそうになる程にリアに近づいてくる。リアの視界は彼の青く昏い瞳に覆い尽くされた。一切の甘さや優しさがない瞳に、リアはがたがたと身体を震わせた。

「助けて、か。……助けなど来ない。君がどんなに助けを求めようとも無駄だ! ……呆れた。素直に俺の言うことを聞くようになったかと思えば、少し休ませた途端にまたこうなる……君は精神も丈夫なようだな。壊れたかと思ったのに、まだ俺から逃げようとする」

「ゼ、ル……」

「どうしたら、どうしたら君は俺だけを見るようになるのだ? どうしたら……!」

 ゼルドリックの心に、またひとつひびが入る。ぱきりと音を立てて、自分を保っている意思が、理性が失われていく。泥に汚れた薔薇を思い出し、彼はぎりぎりと奥歯を食いしばった。

 ゼルドリックは焦りを感じさせる手付きでリアの服を脱がせた。ゼルドリックの手によって露わになった白い胸。ゼルドリックはそれに黒く大きな手を添え、何度もリアの胸に口付けを落とし、赤い花びらを残した。

「……ゼル。お願い……もうこんなことは止めて……」

 リアの声に、ゼルドリックは手を止めた。リアは悲しみを込めた声で、ゼルドリックに問いかけた。

「ねえ、あなたも辛いのでしょう? もう止めてよ……。このままでは、あなたが破滅してしまう」

 リアはゼルドリックの垂れ下がる黒髪から見える、落ち窪んだ目を痛ましげに見た。

「破滅? ははっ……。破滅か。……どうでもいい。君が手に入るのなら、破滅だって何だって迎えてやる。言っただろう? 俺は、役人としての立場などどうでも良いのだ」

「違う、あなたの命が危ないわ」

 リアは首を振った。

「あなたは寝ていないのでしょう。私が逃げないようにずっと見張っている。頬はこけて、目は窪んで、それから随分と痩せたわ……。いつまでこんなことをするの? あなたの体が持たないわ」

「本当に君には驚かされる。あれだけ追い詰められていたのに、三日休めばすぐ元通りになるのだな……」

 ゼルドリックは苛立ちに歪む目を瞬いた。リアの赤い瞳には、物静かながらも確かな意思が宿っている。

「……優しいリア。だが、君のその姿勢が気に入らない」

 ゼルドリックは舌打ちをした。

「リア、君は俺を説得しようとしているのだろうが、もう耳は貸さんぞ。君が俺から離れるためにどんなに下らないことを言い出すのか、考えただけで頭が痛くなる! 俺は、何も聞きたくない……! 俺にとっての一番の苦痛は、君が俺の傍から居なくなることだ。君を逃さないためならどんなことだって出来る、数日寝なくたって構わない!」

「ゼル、お願い……」

 リアの懇願に、ゼルドリックは狂気に濁った瞳を向けた。

「……やはり、外には出せんな。閉じ込めてまた君の意思を折らなければ。逃げ出そうとしないように。俺に反抗しないように」

「あっ!? ふ、あっ……」

 ゼルドリックはリアの胸の頂きを口に含み、ねっとりと舐り始めた。背徳的な快感がリアの胸に走る。

「ふ、ふうっ……! あっ……ゼル……」

「んんっ……は、あっ……くくっ、敏感な身体はそのままだ。これならまた折るのも容易い……」

 ゼルドリックは赤い舌で円を描くようにリアの乳輪を力強くなぞり、巻き付くように乳首を舐める。じわじわとした抗いようのない切ない快感に、リアは口から短い喘ぎを何度も出した。

「あ、あ、あああっ……や、やめてっ……」

「ん、れろっ…ちゅ、はあっ……なあ、リア。君があんなに泣くところを俺は初めて見た」

「あ、う……?」

「大人しい君があんなに泣き叫んで、子供のように助けを求める……。俺が見たことのない泣き顔だ。あれほどに縋り付くなんて、君はその王子のことをよほど好いているのだな」

「あ、あっ……!」

 リアの白い首を、ゼルドリックの黒い手が掴む。優しくも、急所を圧迫されるような行動にリアは本能的な恐怖を感じた。

「……それほどまでににレント=オルフィアンが大事か」

「あ、かっ……う、うっ……ぜ、る……」

「なあ、君はあやつのどこを好いたのだ? 外見か? 性格か? 答えろ」

「ち、ちがっ……ひっ、……ちがうっ……」

 リアは頸部を圧迫されながらも、必死で首を横に振った。

「何が違う? レントの奴が好きなのだろう? あの男が憎い、君が憎い。どうして、どうしてだ? 俺は君の心を得るために色々なものを捧げてきたのに、なぜ君はあの男を選んだ……? あんなに縋って、助けを求めて、奴を強く信頼しているのだろう!? ずっと君の傍にいた俺を差し置いて!」

 ゼルドリックの手に少しだけ力が込められる。リアは恐怖から弱々しく身を捩らせた。

「ちが、う……ぜ、る……くる、し……」

「苦しいのは俺だ……。この苦しさ、君には絶対に分からんのだろうな……」

 ぽたぽたとリアの顔に雫が落ちる。リアは必死に声を絞り出した。

「ちが、う……ちがうの、レントさんは関係ない……」

「……奴を、そうまでして庇うのか……?」

 ゼルドリックはぽつりと呟いた後、リアの赤い目をじっと覗き込んだ。

「言え、君の王子の名を」

「あっ!?」

 リアの頭の中できん、と音が響く。ゼルドリックの声が頭の中を埋め尽くし、唇が戦慄く。リアはゼルドリックに何らかの魔法を掛けられたのだと思った。

「自白魔法だ。君が嘘を吐くつもりなら、俺が本当のことを言わせてやる」

「う、んんっ……」

 リアは唇を噛み締めて必死に耐えた。ここでゼルドリックの名を溢してしまっては、彼を突き放した意味が無くなってしまうと思った。

 ゼルドリックは自分と共にいてはならない。自分は彼に嫌われなければいけないのだと、必死にそう自分に言い聞かせた。ゼルドリックは答えを返さないリアに苛立ち、尚更強く魔法を掛けた。

「何を我慢している? 言ってしまえ、君の王子の名を! 早く、……なあ、早く言えっ……」

 ゼルドリックは首を絞める力を強め、懇願するように項垂れた。リアの頬にまたぽたぽたと雫が落ちる。リアは思わず、愛しの王子の名を吐いてしまった。

「あ、ああっ……ぜ、る……」

「……リア?」

「っ……ぜる、ぜる……!」

 リアはぼろぼろと泣きながらゼルドリックを見上げた。涙でぼやけて、リアからゼルドリックの表情は見えなかったが、ゼルドリックは目を見開き、悲痛を顔に浮かべた。そして、そっとリアの首から手を放した。

「どうしてっ……」

 ゼルドリックは眉を下げ、声を震わせた。

「リア……。どうして、そんな酷い嘘が吐けるんだ……? そんな悲しくて残酷な嘘は、聞きたくなかったっ……君は、俺の薔薇を受け取ってくれなかっただろう? 俺が君の王子であるはずがない! レント=オルフィアンを守るために、自白魔法まで退けるかっ……! なあ、本当のことを言え、早くっ……!」

「うあああっ! ……ゼル……ゼル……」

 リアの頭が軋むように痛む。リアは頭の中の命令に従うまま、何度もゼルドリックの名を出した。ゼルドリックは己の名を出すリアを呆然と見た。

「はっ……。くくっ……ははははっ……君は、頑固だな……。レント=オルフィアンの名を出さぬとは、君は本当にっ……。俺がどうすれば傷付くのか良く分かっている。リア、君の頑固さが本当に恨めしい……君はやると決めたらやり通すのだったな……」

 ゼルドリックは涙を溢しながらリアにキスをした。彼の唇は震えていた。

「ふあっ……んんっ……」

「リ、ア……」

 ゼルドリックの舌がリアの腔内に入ってくる。舌を掬い上げ絡め取るゼルドリックの舌が、リアに切ない快感を与えてくる。ゼルドリックのキスは優しかった。ふたりはお互いの顔を涙で濡らしながら、何度も何度も深い口付けを交わした。

 ゼルドリックはそれからまた、リアの身体を暴き始めた。耳や首、鎖骨、胸、腕、あらゆるところに唇を落とし、赤い花を咲かせていく。リアの身体を気遣っているのか、ゼルドリックからの接触は穏やかなものだった。リアの快楽の芯を無理やり揺り動かすようなことはしない。優しく乳首を噛まれ、指で弾かれ、リアはとろとろと自分の秘部が濡れていくのを感じた。

「んっ……君のここ、すっかり尖っているな……」

(こんな風に触れられたら、私……)

「ん、は、あああっ……」

 感じ入った吐息を漏らしてしまう。穏やかな快楽に夢で見たゼルドリックの甘い微笑みを思い出して、リアは優しい彼が戻ってきたような気がした。ゼルドリックの長い指がそっとリアの秘所をなぞる。とろとろと蜜を溢すそこに、ゼルドリックはつぷりと長い指を差し入れた。

「……こんな簡単に濡らすとは」

「あ、あああっ……」

「顔が真っ赤だ。堪らないという風に眉も寄せて……今自分がどんなに淫らな顔をしているか分かっているのか? 嫌いな男に触れられて、そんな顔をするなんて……」

「ふあっ……ああ……あああああっ……」

 肉芽に愛液を絡められ、指で柔らかくなぞられる。陰核に強烈な振動を与えられながら、ゼルドリックに奥を何度も穿たれ強烈な絶頂を迎えた記憶が蘇り、リアは自分のうつろがひくひくと痙攣するのを感じた。自分の奥が疼いて仕方がない。ゼルドリックに早く埋めて欲しく、リアは強い切なさに身を悶えさせた。

「あああっ……うう、ふ、うっ……」

「俺の指を食らうようにうねって、締め付けて……埋めてほしいのか?」

 ゼルドリックは愛液に塗れた指をリアに差し出した。リアは顔を背けていたが、やがて頬を染めながら、ゼルドリックの指におずおずと舌を這わせ、己の愛液を舐め取った。ゼルドリックは従順なリアの赤い髪を撫でた。

「……ああ、俺が夜通し抱いてやった日のことでも思い出したのだろう? 快楽に弱いのは変わりない。さあ、リア……また君を壊してやるからな……」

「あ、ああっ……あ、はああああああああああんっ……」

 リアの内にずぶずぶとゼルドリックのものが挿入されていく。うつろをみっちりと満たされ、リアは満ち足りたように目を閉じ、ゼルドリックの熱を感じた。ゼルドリックはリアに口付けながら腰を動かし始めた。黒く逞しい腕がリアをしっかりと抱え込む。寝台のスプリングを利用するような腰の動きに、リアは声を抑えきれず、そのまま淫らな声を上げた。

「ああっ…あむっ……ぜ、るぅっ……ああああっ……あ、あああっ、だめ、だめっ……」

「はっ、はあっ、はあっ……リア、リア……気持ち、いいっ……」

「や、やあっ……つよい、よおっ……ふあああんっ、いやああっ……」

「駄目だ、逃げるな……しっかり受け止めろっ……俺は君に三日も触れられなくて、おかしくなりそうだったっ……」

「あ、あああっ……そこ、よわいからっ……ずりずりしないでっ……おねがっ……あ、あ、ああああああんっ……」

 腹の裏側を執拗に擦られ、リアは呆気なく絶頂を迎えた。ゼルドリックはびくびくと震えるリアを愛おしそうに見つめ、また彼女の唇に舌を這わせた。

「ふっ……は、ああっ……また、また君の中にたくさん注いでやるっ……」

「あ、あっ、あっ、あっ……だめ、こど、もが……できちゃうよおっ……」

「作りたい。君との子が欲しいっ……」

「ふああっ……だ、め、おねがい……もうはなして……」

(どうして、そんなこと言うの……。だめ、自分からあなたを求めてしまいそうになるっ……)

 リアはきゅ、きゅとゼルドリックを締め付けながら、大きな切なさに涙を溢れさせた。

「う、あ、出すぞ……あああっ……」

 ゼルドリックが低い色気のある声を漏らし、リアの最奥にどくどくと精液を放つ。そして間もなくまた腰を動かし始めた。今日もきっと何十回もゼルドリックの精を受け入れてしまうのだ、リアは快楽に身を捩りつつ、静かな絶望に涙した。

「やあああっ……も、だめ……」

(こんなの、絶対に妊娠しちゃう……いや……)

「は、あっ……リア、気持ちが良いな……」

「あ、あ……あっ、やあっ、ふあああっ……」

「ははっ……君も悦んでるじゃないか、こんなに溢れさせて……。身体を念入りに堕としてやった甲斐があったっ……。可哀想になあ? 君には愛しの王子が居るというのに……」

「あっ、あっ、あっ……ひゃめ、ひゃめええっ……うああああっ……」

 リアはゼルドリックに耳元で囁かれ、「黒の王子様」との甘く淫らな時間を思い出し、ゼルドリックをぎゅっと締め付けてしまった。

 ゼルドリックはその瞬間、ごっそりと表情を顔から抜け落ちさせた後、眉を寄せて悔しそうな顔をした。腰の動きがどんどんと速まり、肉を打ち付ける音が響く。リアは白い身体を揺らされながら、大きな声で喘いだ。

「……レントを思い出したか? ……奴に、抱かれたかったか」

「ふあっ、ああっ、あああっ、あああああっ……」

「くそっ……リア、今君を犯しているのは誰だ?」

「あ、あああっ……ぜ、る……」

「ああそうだ。俺だ……君を抱くのは俺だけなんだ!」

「やあああああっ……それだめ! やだあああっ……ああああっ、また、またいっちゃううっ! ……っ! いやあああああ……」

 リアの膝を抱え、ゼルドリックは男根をリアに深く突き立てた。体重をかけたゼルドリックの姿勢に、リアは切羽詰まった悲鳴を上げる。ゼルドリックの男根が震え、そしてまた温かい精液がリアの奥を満たした。

「うっ……は、ああっ……」

「あ、あああああ、あ、ああっ……」

 リアの身体がぐったりと寝台に沈み込む。ゼルドリックは荒い息を吐きながら、リアの耳元に唇を寄せた。赤い舌がちろちろとリアの耳を舐める。耳から伝わる水音は、まるで脳まで犯してくるようだった。リアは深い絶頂を迎えた後の敏感な身体で、ゼルドリックから与えられる快楽をそのまま受け入れるしかなかった。

「はあっ……なあ、リア……よく聞けよ。俺と君の今までの睦み合いは、全部これに収められている。勿論、今のもだ……」

「あ、あ……?」

 リアはぼんやりとゼルドリックの手を見た。彼の手の上には以前見た水晶球が浮かんでいて、その中には淫らな声を上げ、ゼルドリックに抱かれるリアの姿がくっきりと映っていた。リアの背筋がぞっと冷える。

「な、なに、これ……!」

『ゼル……ゼル。ずっと欲しかったの……あなたが、欲しかったの……。あなたに抱いてもらえて、本当に幸せ……』

 水晶球の中の自分が、蕩けきった顔をしてゼルドリックを求めている。リアは身体を震わせた。

「や、やだっ……どうしてっ……?」

「くくっ……あははははっ……俺と君の睦み合いを記憶の中だけに留めておきたくない。いつでも観れるように、しっかりと記録しておかなければならないと思ったのだ……君の豊満な胸。陰核を舐られ何度も達く姿に、自分から俺のものを咥え込むところ……。全部全部、この水晶球の中に記録されているぞ? 今度一緒に観ながら交わろうな……」

 ゼルドリックの昏い瞳が楽しそうに歪められる。リアは悲鳴を上げた。

「いやあああっ……消して、消してよっ……! こんなの耐えられないっ!」

「駄目だ。愛しの赤い髪の姫君との逢瀬、誰が消すものか。これは俺の宝物だ……」

 ゼルドリックは笑いながら水晶球を消した。そして怯えるリアの顔を覗き込み、脅すような低い声音で言った。

「なあリア、君を王子の元になんて絶対に行かせない。覚えておけ。君が逃げようとした時は、この記録をばら撒いてやる」

「あ、あ……」

「くくっ……楽しいな。試しにレントの奴に、映像の一つでもプレゼントしてやろうか? 君が俺に抱かれ、何度も何度も絶頂する姿を見たら……奴は一体どんな顔をするのだろうな?」

「いやああっ、やだ! そんなことしないで!」

「必死だな……。ああ、君のその姿勢が本当に頭に来る。リア、記録を俺と君の二人の秘密に留めておきたければ……俺の支配を大人しく受け入れろ。一切抵抗せずにな……。分かったか?」

「ふ、うあっ……」

 リアは涙を流し、無理やり頷いた。ゼルドリックはリアの頭をひとつ撫でた後、またリアを犯し始めた。リアからまた体力が失われていく。

 眠った間に見た幸せな夢を思い浮かべながら、リアは涙を堪えて嵐が過ぎ去るのを待った。


 ――――――――――


 ゼルドリックは度々、リアを一人残した。
 彼は仕事に向かったのかそうでないのかリアには分からなかったが、ゼルドリックのいない時間は、リアにとって淫欲に塗れた身体を休ませ、正常な精神を取り戻すための貴重な時間だった。

 近頃のゼルドリックは痩せていくリアを気遣い、椅子に縛り付け快楽責めにすることはしない。手足に頑丈な鎖は付けられているが、リアは今の所、牢の中であれば自由に歩くことが出来ていた。

 体力と気力が日毎に失われていく中で、リアを支えたのは優しい夢の記憶だった。監禁され、ひたすら身体を貪られ続ける終わりの見えない生活。自分をしっかり保っておかないと、気が狂ってしまいそうだった。

 ――リア。

 黒の王子様の微笑みを思い出す。

(……大丈夫。彼が守ってくれる。……王子様は、いつか戻ってきてくれる)

 リアは目を瞑ってそう自分に言い聞かせた。ダークエルフの甘く優しい微笑みは心の拠り所だった。

(レントさん、オリヴァー様、メルローちゃん。きっと私を助けに来てくれる……。マルも、父さんも、母さんも絶対に死なせない。耐えて、耐えて……。いつしか逃げる機会を得る)

 リアは見えない陽の光を焦がれ、熱心に祈り続けた。


 そして、その機は突然に訪れた。

 身体を繋ぎ止める鎖が、ある日ふっと消え去った。リアは自由になった足と手を訝しげに見つめた。

(どうして急に? この鎖は、ゼルが魔法で作り出したものでしょう? どうして魔法を解いたの……? ゼルに、何かあった……?)

 リアはよろよろと立ち上がった。鎖に繋がれることなく、自由に歩き回れる感覚。それはリアの心に忽ち希望をもたらした。

(とにかく、ここから逃げなきゃ……)

 リアは躊躇いの中、牢から出ることを決めた。気がおかしくなりそうな暗闇の中で、僅かな光と自分の感覚だけを頼りに歩いていく。酷く冷たい階段を上り、力の入らない腕で石造りの扉を精一杯押した。光が差し込んでくる。リアはその明るさに赤い目を眇めた。

 そして気が付く。暗闇に慣れきった目で見たから、外が眩しく感じたのだと。

 リアは昼にしてはやけに外が暗いことに気が付いた。湿っぽく冷たい空気が肌を撫でていく。リアは思わず小さく震えた。

「ここは……」

 牢から出た先は薄暗い森だった。樹海。神々しくもおどろおどろしい、植物に埋め尽くされた領域。巨大な樹が何本も生え、空は樹の枝で埋め尽くされ殆ど見えない。僅かな光だけが、じめじめとした地に届いた。

「…………」

 リアの心を静かな絶望が襲う。
 牢から出られたとしても、深い深い森の中で助けを求めて彷徨うのは、命を捨てるような真似だと分かっていた。

「……そんな」

 リアは震える声で呟いた。

(こんな森の中にいては……誰も、私に気が付いてくれないかもしれない。どんなに待ったって、助けは来ないかもしれない……)

(私は一人で牢の中に閉じ込められて、ずっとゼルに監禁されるの? そしてあの未来通りに、ゼルは死んでしまうの……?)

 淡い希望が失せていく。リアは牢の壁にもたれ掛かるようにして、その場にしゃがみ込んだ。

(……いやだ。いやだよ。ゼルを死なせたくない。ゼルは私といては駄目なんだ。離れなきゃ)

(もう牢には戻りたくない。ここから逃げよう。どこに行き着くか分からなくても、ここにいるよりはましだと思うから。この機を逃したら、もう逃げられない)

 リアは立ち上がり、ぬかるんだ地面を踏みしめて歩き始めた。裸足に纏わりつく泥の感触が不快で仕方ない。リアは前に一歩一歩、自分の足を傷つけないようにそっと進んだ。

 鳥の囀りや風の音すら聞こえない。辺りは気がおかしくなりそうな静寂に満ちている。
 リアは強い不安から、自分の息が上がるのを感じた。

 幹に石で傷を付けながら慎重に進んでいく。生き物の気配が全く感じられない薄暗い森は、酷く不気味だった。ぬかるんだ地面には何か潜んでいても良さそうなのに、蛇も虫も見かけない。繁茂する植物以外に生けるものがないように思えた。

(鳥でも何でも、居てくれたらいいのに)

 リアは孤独のあまりそう思った。栗鼠りすか鳥でも居てくれたら、この孤独な逃亡の慰めになるかもしれないと感じた。

「……あ」

 リアは足を止めた。朽ちた樹の枝に一羽の鷹が留まっていた。黒く美しい羽の光沢、どこか高貴さを感じさせる凛とした横顔。鷹は静寂の森の中、やけに目立って見えた。神秘的なその姿に、リアは導かれるようにしてその鷹のもとへ歩いていった。鷹はリアが近づいても微動だにせず、ただ枝の上で羽を休め続けていた。

(綺麗ね。鴉みたいに真っ黒で……珍しい鷹だわ)

 リアは薄い笑みを浮かべ、横を向く鷹を見た。

(どこかで見たことがあったかもしれない。はずれの村でも見たことがある気がする。後は、王都でも見たことが……)

「…………っ」

 リアは息を呑んだ。リアの方に首を向けた鷹の瞳に大きな衝撃を受けた。

 サファイアの如き美しい青色。それがじっとリアを見据えている。

「……この、鷹は……」

 リアは顔を強張らせ、後ずさった。そして気が付いてしまった。
 何十羽もの黒い鷹が、周囲の樹に留まってリアを見下ろしている。いくつもの青い目が、逃げ場はないというようにリアを鋭く見据える。大量の鷹に獲物として狙われているような恐怖に、リアは口から小さな喘ぎを漏らした。

 ――あれを見るな。

 アンジェロの言葉が頭の中で響く。はずれの村に現れた、黒煙の如く渦を巻き、空を飛び交う鳥たち。

 あれは、この鷹ではなかったか。

「もしかして……ゼルの魔法?」

 リアの呟きを皮切りに、一斉に鷹たちがリアに向かって飛び掛かった。

「きゃっ……いやあああああああああああっ!」

 リアは恐怖から大きな悲鳴を上げた。リアが身に着けている薄い服を、鷹の嘴が啄み、鉤爪が引き裂いていく。
 身体を隠すようにぼろぼろになった服を掻き抱くリアの前に、鷹が寄り集まって一人の男を形作った。

「あ、あ……ぜ、る……」

「…………」

 ゼルドリックは怖ろしいほどに無表情だった。怯えて涙を流すリアを何も言わずに見下ろす。リアは目の前のゼルドリックを突き飛ばして必死に逃げようとした。だが背を向けたリアは、横から何かに右腕を掴まれた。そして左腕も何かに強く掴まれる。そして腰にも腕が纏わりつく。リアは突然に現れたそれに、強く混乱した。

「……ど、ういうこと?」

 リアの目の前にはゼルドリックがいる。だが、リアの横から右腕を掴むのも、彼だった。左腕を掴むのも、腰に手を回しているのも彼だった。屈強な男たちに身体を抑え込まれ、リアは震えながらゼルドリックを見上げた。

「ねえ何で? 何であなた……四人もいるの……? どれが、本物なの……?」

「くくっ……あはははっ……!」

 呆然とするリアを前に、ゼルドリックの一人がおかしそうに笑った。

「どれも本物の俺だよ、リア。言っただろう? 俺は凄い魔法使いなのだと。数人の自分を創り出すことくらい、俺にとっては造作もない」

 リアは身を捩って腕から逃げようとしたが、自分を囲むゼルドリックたちに強く抑え込まれた。

「本当に、君はお転婆だな」

 リアの腕を掴むゼルドリックの一人が、呆れたように呟く。その外見から声音まで、全てがゼルドリックと同じで。オリヴァーがゼルドリックを怖ろしいエルフだと評した訳を、リアは心の底から思い知った。魔法を理解しないリアでも分かった。己の分身を創り出すなどという行為は、きっと一握りのエルフしか出来ないだろうということを。

「君は力が強いから、一人では抑え込むのに難儀する。だがいくら力の強いハーフドワーフとはいえ、大の男三、四人を振り払うのは難しいだろう?」

「く、ううっ」

「無駄な抵抗を続けてみるか? 何人もの俺から逃げる自信があるのなら、そうすればいいさ」

「うああっ……!」

 リアが必死に身を捩ってゼルドリックの腕から逃げようとしても、別のゼルドリックがリアの身体を抑え込む。屈強な男の前に体力がどんどんと削られていく。やがてリアは失意の中、抵抗を諦めた。

「気は済んだか? リア」

 唇の片端を曲げる特徴的な笑い方。リアはそれにどうしようもなく苛つきを覚えた。

「おお、怖い顔をする。だが君の睨む顔もまたそそられる……」

 ゼルドリックはうっとりとした顔をリアに近づけた。
 だがその後、リアの体温を奪うような氷の瞳を向けた。低く唸るような声がリアの耳に落ちる。

「なあ、なぜ逃げた?」

「……っ」

「油断も隙もあったものではない。僅かの間に逃げ出すのだからな。本当に癪に障る。リア、俺は君に言ったよな? 何度も何度も言ったよな? 逃げるなと。逃げれば君の恥ずかしい記録をばら撒いてやると。君の愛しの王子に送りつけてもいいのか? 俺に犯されて情けなく喘ぐ姿を」

 揺れる赤い瞳を、ゼルドリックはじっと覗き込んだ。

「馬鹿な女だ。逃げればもっと酷くなることくらい充分に分かっているだろうに、なぜ――」

「馬鹿なのはあなたもでしょう」

 リアは凍る青い瞳を、目を潤ませながらも真っ直ぐに見返した。

「こんなことをいつまでも続けていい筈がない。私だってあなたに何度も言ったわ。待っているのは破滅だと」

「……」

「ゼル。あなた、また痩せたわね。鎖は自分から解いた訳じゃないんでしょう? きっと体力が持たなくて、意図せず解けてしまったのよ。四人も分身できるあなただもの、あの鎖の維持なんて何てことないはず。それを解いてしまうほどにあなたは疲れ切っている」

「煩い」

「このままではあなたが死んでしまう」

さえずるな。帰るぞ、リア」

「帰らない! こんなことはもうやめてよ!」

 ゼルドリックの腕のひとつを、リアは渾身の力で振りほどいた。燃える赤い瞳に、ゼルドリックは唇を戦慄かせた。

「……リア。本当に、本当に君は……」

 ぱきりと、またゼルドリックの内がひび割れる。泥に塗れた青い薔薇がまた脳裏に過ぎり、胸の奥底から血が流れていく。ゼルドリックはリアの赤い瞳に、どうしようもない痛みを感じた。

「……どうして、そんなに頑ななんだ? 監禁して、外にも出さないで、脅さなければ食事だって満足に摂らなくて。君は相当辛い筈なのに。毎日身体を好きでもない男に貪られ続けて、あんなに泣き叫んで、そんなに痩せたのに」

「なのに、折れない。いつまでも壊れない……。やっと俺の手に落ちてきたと思ったら、また逃げようとする。まだ俺を説得しようとするっ……」

 ゼルドリックの声に震えが入り混じった。

「なあ、もう諦めろよ……君も見ただろう? ここは深い深い森の中だ。誰も助けには来れない。混ざり血の女一人が消えただけでは、誰も危険を冒してまで樹海に踏み込もうとはしない。君は一人だ。俺の傍にいるしかないんだ」

「だから……だから、全部諦めて俺に縋ってしまえ。ずっと大事にするからっ……」

 リアはゼルドリックの懇願に、静かに首を振った。

「誰かが助けに来てくれるわ、絶対に。オリヴァー様もレントさんも、アンジェロ様も、メルローちゃんも。皆、私を必死に捜してくれているはずよ」

「リ、ア……」

「だから諦めない。あの場所には戻らない」

「っ……。いい加減にしろ、虚勢を張るな!」

(どうしたら)

 諦めを示さないリアを前に、ぱきり、ぱきりと、ゼルドリックの内がどんどんと割れていく。
 つぼみのままの青い薔薇が酷く散らされ、泥に捨てられる想像が脳裏に過ぎる。

(どうしたら)

 魂が削られていく。また契りの薔薇が頭の中に過ぎる。自分の恋情の結晶が、愛おしくて堪らない女自身に砕かれる。

(どうしたら、リアは俺の傍にいてくれる?)

 何を賭しても得たいと思う女。捧げられるものは捧げてきたのに。

 どれほど求めても、恋い焦がれる女は自分から逃げようとする。
 ゼルドリックは悪夢の中にいるような感覚を覚えた。

(どうしたら俺を愛してくれる?)

 ぱきり。
 殊更大きなひびが、ゼルドリックの内に入った。

(ああ、そうか)

(壊れないのなら、壊すまで続けるだけだ)

(俺が全てを捧げたように、俺もリアの全てを奪ってしまえばいい)

(リアが心の拠り所とするものを、壊してしまえばいい)

「そうだろう、リア……」

「あっ……?」

 ゼルドリックはリアを昏倒させた。赤い瞳が驚愕に見開かれ、そしてその後すぐに閉じられる。ぐったりとしたリアを強く抱きかかえて、ゼルドリックは再び地下牢へと足を運んだ。

 今度こそ、リア=リローランを壊しきると決意して。
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