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第二章

26.〈花笑み〉

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 俺はそのままリアの部屋の前に向かった。魔力を辿り、リアが自室に居ることを確認する。ああ、彼女の中に俺の魔力がある。しばらく会えなかったが薄れてはいない。本当に良かった……。

 早く、早く、彼女に会いたい。長期の任務で身体は疲れているが精神は昂ぶっている。彼女を抱きしめて、匂いを嗅いで、声を聞いて、夜は「夢」を見せて、愛を交わすのだ。俺の飢えた心と身体をすっかりリアで満たさなくては……。

 部屋の扉を叩いてもリアは中々出てこない。強く叩き続けても扉は開かなかった。逸る気持ちが抑えきれない。もう自分から開けてしまおうかと思っていたところ、少しだけ扉が開かれた。

 か細い声。折れそうな手首。何かを誤魔化すような微笑み。

 一体、どうしてしまったんだ?

 俺はリアの姿を見て顔が強張るのを感じた。腕の力が抜けていく。思わず紙袋を床に落としてしまっても、拾おうとは思えなかった。ただ目の前のリアの姿が信じられなかった。

 何だ、君のその姿は?
 君の手はどうしてそんなに骨ばっている? 
 何故、肩の骨が出るほどに痩せてしまった? 
 ……何か、あったのか?

 俺はリアの手首を掴み急いでベッドに横たわらせた。リアは元気が無く、声に力も無い。立っていることすら辛そうに見えた。リアを見下ろし何があったのか尋ねても、彼女は一向に口を割らず首を横に振るだけ。俺の手を振りほどけない程に衰弱しているのに、ただ微笑みを浮かべて何も無いのだと繰り返す。

 彼女の頑なさに感心をした。穏やかで落ち着いた女だと思っていたが、こうも頑として譲らぬところがあるとは。それは彼女の美徳の一つであると思ったが、今はとにかくそれが厭わしかった。頑固者が。何故口を割らない?

 胸が痛い。胸が苦しい。
 ああ、何故、君は俺に何も話してくれないんだ? 
 頼む、俺を頼ってくれ。こんなにやつれて、元気もなくて。このままでは君が死んでしまう……!

 そして俺は、嗅ぎ慣れない薬品臭のようなものが部屋に漂っていることに気が付いた。つんとした臭いは、姿見の前にある小瓶から漂ってきている。とろりとした茶色の染料に満たされたそれ。見慣れないものではあったが、俺はひとつの予想をした。

 もしや。リアは髪を染めようとしていた……?

 その予想をした途端、俺は気持ちが悪くなった。不快な気分が迫り上がる。背筋がぞわぞわと震える。
 あの百年以上恋い焦がれ続けた、パルシファーの綿毛の如き美しい髪の色が損なわれる……?

 リアに問いかければ、彼女は微笑みを浮かべて肯定した。瓶を渡すように求める彼女を無視し、瓶を屑箱に突っ込めば彼女は珍しく怒りを露わにした。彼女が怒る様を見たのは初めてであったが、それ以上に俺の方が怒りを感じていた。

 君の美しい赤い髪を、こんな汚らしい茶色の染料で染めようとしたのか? 
 許されない! 君の髪の色が一番美しいのに! 
 なぜ自分の美しさを損ねる真似をするのだ!?

 リアは珍しく俺に食いついてきた。お洒落だ、自分の自由だ何だとその様子には必死さが滲んでいて。挙げ句にこの屋敷を出ていくとまで言い出した。

 何だ、その必死な様は……。君らしくないじゃないか。

 まさか、好いた男でも出来たというのか? 
 だからこの屋敷を出ていくというのか? 

 させない。そんなことは絶対にさせない! 
 俺がどれだけ君を求めていると思っているんだ。
 どれだけ君に会いたかったと思ってるんだ!

 赤い髪を一房取り、パルシファーの綿毛の様だと評した途端に彼女は空虚な微笑みを崩した。そして、涙を流した。

 俺は、リアがなぜ泣くのか分からなかった。
 ただ、リアの泣く顔を見ると心が苦しくなって仕方がない。赤い瞳を潤ませて、肩を震わせて、声が漏れ出ない様に必死で耐えているその姿。

 笑ってほしいのに。泣いてほしくないのに。

 リアはそれから堰を切ったように話し始めた。泣き笑いしながら、震える声で必死に声を紡いでいた。

 俺を始めとしたエルフから髪や体型を論われるのが辛かったのだと。毎朝エルフたちから揶揄われることが辛かったのだと。痩せてしまえば、髪を染めてしまえば、何も言われなくなると思ったのだとリアは言った。

 心が抉られる感覚がした。
 目の前が暗くなって、頽れそうになる。
 リアにそんな顔をさせたのは、俺だ……。

 俺は……馬鹿だ。大馬鹿者だ。
 彼女がずっと嫌がっていたなんて、そんなこと全く思ったことはなかった。ただ、自分の好意を押し付けて、彼女の気持ちなど一切考えていなくて。何が彼女が好きだ。俺は彼女を尊重せずに、子供のように自分のことばかり考えていたじゃないか。

 馬鹿だ。どうしようもない愚か者だ。
 俺が、ここまで彼女のことを傷付けた。

 それ以上自分を腐すリアの言葉が聞いていられなくて、俺は彼女を抱きしめた。もう格好悪いとか、子供っぽいとか。リアにどう思われても良かった。自分を取り繕うことをやめた。

 俺がいつまでも捻くれているせいで、俺は大事なものを失いそうになってしまったのだ。何よりも大事なリアを、ここまで傷付けてしまったのだ。謝罪の気持ちと、俺がどんなにリアを好ましく思っているのか。とにかくそれだけをリアに伝えたかった。

 口が勝手に動いていく。リアの髪も、体型も、その柔らかさも、良い香りも。俺がずっと欲しかったもの。こうして触れたかったもの。どうか、自分で自分を損なわないでくれ。どうか……。

 リアは俺の胸を叩き暴れた。彼女の明確な拒絶に、心が酷く痛む。やはり許してもらえなかったのかと思うと、涙を溢してしまいそうになった。

 しかし……しかし。

 リアは、俺を許してくれた。俺の手を握って、これからはきちんと食べるし、髪も染めないと言ってくれたのだ。空虚な表情とは違い、リアの瞳には意思があって。俺は心から安心した。見慣れたリアが今戻ってきたのだと。

 リアの顔が赤い。調子でも悪いのかと思いどうしたのかと聞けば、リアは俺が恥ずかしいことばかり言うからだと呟いた。……そして俺は気が付いたのだ。俺がリアに謝罪する時、どんな言葉を彼女にかけたのかを。物凄い羞恥が背込み上げる。リアの顔が見れなかった。彼女に格好悪い、気持ち悪いと思われてしまっただろうか? ああ、情けない……!

 その後はリアのベッドに腰掛けて、伺うようにリアの赤い髪に触れた。彼女はそれを受け入れてくれた。

 ゆっくりと何度も何度も、ふわふわした良い香りの髪を撫でる。そうしている内にリアが少しではあるが、自分から俺に身体を寄せてくれた。それがとても嬉しくて。心があっという間に温かくなっていくのを感じた。

 菓子をリアの唇に柔らかく押し付ければ、彼女はその甘さに顔を綻ばせた。俺の気に入った菓子屋があるから共に行こうと誘えば、リアは満面の笑みを俺に向けてくれた。

 その日の夜は、リアが眠りに落ちるまでずっと赤い髪を撫で続けた。目の前のリアは安らかな寝息を立てている。ずっと、リアに触れたかった。リアの身体の柔らかさが恋しい。でも、今はこうして髪を撫でているだけで心が満たされる。彼女をしっかり休ませて、明日はたくさんケーキを食べさせることにしよう。彼女は喜んでくれるだろうか? 

 そんなことを考えながら髪を撫でる。
 その時間は、とても幸せだった。



 翌日。
 俺とリアは共に休みを取った。
 清々しく晴れた、心地良い日だった。

 俺とリアは一緒に料理をしたり、庭の薔薇を見たりした。そして昼下がりには、俺の好きな菓子屋にリアを連れて行った。

 リアは非常に喜んだ。特に甘いものが好きなのだと笑う彼女は、本当に可愛らしかった。リアの髪に言及するエルフがいたが、彼女は意に介さないようだった。俺にもう大丈夫だと微笑む彼女からは、何か意思のようなものを感じた。

 花が咲くような、明るくて綺麗な笑顔。
 俺がずっと求めていた笑顔。
 太陽の光を受けて眩しく笑うリア。

 その笑顔を、ずっと見ていたいと思った。

 それは俺にとって、かけがえのない宝物になった。


 ――――――――――


 あれからリアとの距離は順調に縮まった。

 彼女と共に起き、共に食事をし、庭の薔薇を見ながら散歩をする。そうして工場に向かう彼女を見送った後に俺も登庁する。俺は仕事にうんざりしていた。リアに興味を持つ者は多い。同僚も違う部署の者も、油断ならなかった。

 同僚たちにリアの監視はもうしなくて良いと伝えれば、俺はどういう訳か非難を浴びた。監視に加わっていた数人の男たちはどうやらリアに強く関心を抱いた様で、彼女を独り占めするなだの、あの愛玩動物はそんなに良いのかと言ってきた。

 あまりにも烏滸がましいその言葉に、俺は魔力でそやつらを追い払った。リアは愛玩動物ではない。俺のただ一人の愛おしい姫君なのだ。身体目的で近づこうとする貴様等とは違う! 
 監視を頼んだオリヴァーもまた男ではあるが、俺の真剣な姿に何か感じるものがあったらしい。何も言わずに応援すると言ってきた。聡明な奴だ。

 そして、王女召抱えの職人となったリアの元には、絶えず手紙が届いた。ファティアナ王女はどうやら、リアが作った装身具を身に着けてあちこちに顔を出しているらしい。貴族から他国の者たちにまで、その装身具の見事さが話題になっていると聞いた。

 私にも作品を作ってもらえないだろうかという手紙から、あなたに会ってみたいという手紙まで……何十通もの手紙がリア宛に送られていた。俺はその手紙を燃やした。何一つ、リアに見せたくはなかった。

 リアに近づく男共を脅し、追い払う生活は続いた。気の抜けない生活を送る中で、リアと過ごす時間だけが癒やしであり、心から安らげる時間だった。

 リアの料理を食べ、また俺が作った料理をリアが食べる。美味しい美味しいと言いながら料理をすっかり平らげるリアを見て、俺は自分が受け入れられた様な感覚を覚えた。毎日仕事終わりに菓子を買い、手ずから彼女に与えれば、頬を赤らめつつもリアは素直にそれを受け取った。一月経つ頃には、すっかりリアの身体付きも元通りになった。

 俺は毎夜リアを愛した。リアに月のものが訪れていない間は、丹念に丹念に彼女の身体を愛撫した。

 いけないことだ、やってはならないことだ、俺のこの行いが露わになった時、今度こそ彼女に嫌われてしまう。怖くて仕方がない……。そう思いつつも、俺の身体はリアを想って一日中疼いていて。リアに触れることを止められなかった。

 リアは麻薬の様だ。一度味わったら抜け出せなくなる。日毎愛撫を受け続けているリアの身体は尚更敏感になり、俺を悦ばせた。リアは快楽に従順で俺に可愛く縋り付きいやらしく強請ってくる。その様が余計に俺を依存させる。

 リアは常時、軽い魔力酔いを起こしている様だった。俺の魔力に慣れた故、高熱を出して寝込むことこそないが、常に身体が火照っているようだった。何度も口付けをして魔力を吸い出し、また新たな魔力を注ぎ込む。

 リアは確実に、俺の魔力に慣れてきている。
 嬉しかった。同時に、切なかった。

 俺は魔力に頼らなければ一線を越えられない。魔力に頼ることなく、いつか彼女に堂々と触れられる日が来るのだろうか。役人という俺の立場なしに、王女召抱えの職人という彼女の立場なしに。何のしがらみもなく、何の後ろめたさもなく、近くにいることが許されて……そうして、リアに触れられる日が来るのだろうか?

 そうした感情を持て余しながら過ごし、俺はとうとうリアの内に「魔力の器」を見出した。

 見つけた時は歓喜に打ち震えた。笑ってしまわないように我慢するのが難しかった。工場に向かう彼女を見送った後。俺は歓喜と後悔の中で、笑ったり溜息を吐いた。自分で自分が分からなかった。相反する感情が滂沱の様に溢れ、零れ、俺を苦しませた。

 リアが欲しい。リアに拒絶されたくない。

 リアから拒絶される痛みを想像しただけで、俺は死んでしまえる気がした。


 ――――――――――


 鬱陶しい、鬱陶しい、鬱陶しい! 本当に鬱陶しい……!
 やはり、リアは人目を引いてしまうのだ! 彼女と関わりを持とうと、有象無象が次々とリアに話しかけてくる。虫けら共め! 俺が何度追い払っても、俺が何度牽制しようとも蛆虫の如く湧いてくる!

 俺は王都にも魔力で創った鷹を放った。鷹の記録は毎夜必ず確認し、そしてその記録に……強く歯軋りをした。

 リアに対して下卑た視線を向ける命知らずの輩が、何人も何人も居る……。リアの行動範囲は広くない。俺の屋敷と工場を往復し、時々市場に買い物に出るだけにもかかわらず、リアに話しかけようとする男が次々と現れる! リアの髪を揶揄って関心を引こうとした男共は、夜半、そやつの元を訪れて強い幻惑魔法を施してやった。あるいはリアに話しかける前に鷹を使って邪魔をしてやった。もう二度と馬鹿な考えを起こさないように、入念に脅した。

 虫はたくさん居る。

 俺の同僚たち。
 通りすがりに、リアに話しかけてきた愚かな男共。
 市場の人間。
 リアの作品に興味を持って接触しようと手紙を送ってくる貴族。

 虫だ。虫。リアにたかろうとする愚かな虫共!

 リア。君は知っているか? 
 君がどれほど関心を引いているのかを。

 俺が保護しているにも拘らず、王女召抱えの赤髪の職人を一目見ようと、君と接触を図ろうと、幾人もの愚か者が工場や俺の屋敷付近を彷徨うろついているのだ! その度に俺が追い払っていることなど、君は知らないのだろうな……。

 そして……奴だ。レント=オルフィアン。俺は奴が気に入らぬ! リアの帰りが遅いと思って探してみれば……リアと奴が打ち解けた様子で話している……。

 リアが取られてしまう!
 湧き上がる不快感に俺は感情を抑えきれなかった。気が付いた時には魔力で奴を威圧していた。

 本当に気に入らない。リアに名を呼ばれ、リアに自分の名を呼ばせるなど! リアもリアだ。何故、彼奴にも打ち解けた笑みを向ける? 俺よりも、君のことを四六時中考え続けている俺よりも、奴の方が仲が良いのか……?

 駄目だ! 気に入らない。気に入らない。気に入らない。汚泥の様にこびり付く黒い感情が俺の心を汚していく。
 俺は、君にこんなにも焦がれているというのに! 
 君は俺の感情など知らずに他者に笑顔を向ける! 
 苦しい、苦しい……。

 ああ、……理解している。これは嫉妬だ。自分の劣等感に基づく、醜く弱い感情だ。

 レント=オルフィアン。奴は物腰が柔らかく、素直に他者を褒める。純血のエルフでないゆえに魔力量では俺に劣るが、未来視という珍しい固有の能力を持ち、中央政府の中でも重用されている。混ざり血であるということは同じ立場のリアに親近感を抱かせるだろう。そして、確かリアと年齢も近かったか……。

 見目も良い。金の髪に灰色の美しい目。
 奴を「王子」と形容する者も居たか。

 俺とは違う。相手に威圧感と恐怖を与えるような俺とは。眉間が盛り上がった険しさを感じさせる顔に、やたらに背が高く、度重なる任務で筋肉が付いてしまった厚みのある身体。ファティアナ王女に怯えられたこともある。俺の外見が女に人気が無いというのは、自分でも分かっている。

 ……苦しい。苦しい。苦しい。心が軋んで仕方がない。俺は、魔力を操ることでしか、不正な工作を試みた末に君を囲い込むことでしか。奴に勝てない。君に近づけない。

 ……目の前のリアが俺に話しかけている。

 何か返さねばと分かっているのに、リアに聞きたいことが次々と出てきて、俺はリアの手首を掴み続けることしか出来ない。

 ふと、頬に伝わる柔らかさに我を取り戻す。じんわりと伝わる柔らかさと温かさ。心配そうに俺を見る赤い目。……頭が冷えていく。俺は嫉妬に駆られた末に、本当にらしくないことをしてしまった。

 どうかしたのかと優しく問いかけてくれるリアに、俺は拙くも自分の感情を溢した。リアの答えはレント=オルフィアンとの特別な関係を匂わせるものではなくて、俺は心底安心した。そして、新たな欲を持った。

 リアに、俺の名を呼んでほしい。「夢」以外の場所でも打ち解けた様子で呼んでほしい。誰にも呼ばせたことがない愛称で。俺も、堂々とリアと呼びたいんだ……。

 何度も何度も懇願した末にリアは俺を呼んでくれた。ゼル、と。
 鼓膜を震わせる甘い声を認めた瞬間に、歓喜から背筋に鳥肌が立った。リアが俺の名を呼んでくれている。まるで恋仲のような呼び方で! 

 俺は嬉しくて、何度もリアの名を呼んだ。彼女の身体を強く抱き締め続けて。髪の匂いを嗅いで。リアの甘い声が、心まで溶かしてしまいそうだった。

 その日に見せた「夢」は、いつもより殊更に甘かった。

 リアが己の愛称を呼びながら喘ぐ。リアはすっかり「夢」を受け入れているようで、日毎に淫らに振る舞う。快楽を求めいやらしく誘惑するように身体をくねらせながら、自ら俺の肌に触れる。

 一人慰め続けた俺の男根に、リアがぷっくりとした桃色の唇を寄せてきた時は、これは本当に現実なのだろうかと思った。リアの柔らかく白い手が、桃色の唇が、赤い舌が……俺自身に纏わり付く。

 彼女が俺の欲の象徴に自ら唇を寄せ、先走りを味わうようにゆっくりと舐め上げる。俺の顔を見上げながら、快楽を拾う箇所を探るようにねっとりと唾液を纏わせる。リアが、俺を気持ち良くさせようとしている。背筋が震え、涙が零れそうな強い歓喜に、俺は熱を解き放った。

 幸せな夜だった。お互いの名を何度も呼びながら、お互いを強く求め合う。彼女の内に入りたかったが、入らなくても充分に幸せだった。リアが俺に与えた熱は俺の心を満たした。

 その夜はまるで本当に恋人になったかのようで、熱に溺れるままにリアに愛の言葉を捧げた。だが、これは己が創り出した歪な夜だと思うと、本当に、本当に切なかった。

 まずい。リア……。
 君にどんどん溺れていく。
 君のことになると自分で自分が制御できなくなる。

 もし、君に拒絶されてしまうことがあったら。
 それが本当に怖い。怖くて仕方がない。
 絶対に君を失いたくないのだ。

 何を賭しても、何を失おうとも、何を捨てても……
 君が得られるならば良い。そんな風に考えている。

 このまま、何もかも打ち捨ててしまうまでに君のことしか考えられなくなって。その時俺は一体どうなるのだろうか? 狂ってしまうのだろうか?


 ――――――――――


 俺がリアを好きになったきっかけは、心の内に住む赤い髪の姫君そのままの姿で現れたことがきっかけだった。何せ、その姫君に俺は百年以上恋い焦がれ続けてきたのだ。リアと出会った時の衝撃は凄まじいものだった。

 だが、もし俺の心の内に赤い姫君が住んでいなくても、俺はリアに恋をしたと思う。それほどにぴったりと自分の心に沿う、好ましい女だった。彼女の内面は美しく、複雑で、俺に様々な表情を見せる。共に生活を送る上で少しずつ知っていく彼女の人となり。

 優しく誠実で、だけど一度決めたことは頑として譲らないところもある。好き嫌いは特になく何でも口に入れ、甘いものは特に好む。植物や花が好きで、薔薇の花を特に好む。自分で装身具を作り出すことが趣味。忍耐強く、辛いことがあってもつい我慢してしまう。

 恥ずかしがり屋で、俺が肌に触れようとするとすぐさま距離を置き、顔を赤くする。そのくせ「夢」の中では快楽に従順で、昼間とは全く違った表情を見せる。意外に交渉上手で、礼儀正しい。手先は器用だが大雑把なところもある。

 穏やかで誰に対しても友好的に接しようとするが、礼を欠いた行動にはすぐに怒りを示す。誤魔化したいことがあると、目をじっと見て微笑みを絶やさない。嬉しいことがあると、えくぼの入る満面の笑みをこちらに向ける……。

 何もかもが好ましい。彼女自身に惹かれない訳がなかった。穏やかで優しくも、自立し世間を知る複雑な表情を持ったひとりの女。

 リアが好きだ。どんな姿をしていても好きだ。痩せてしまっても、あの赤い髪が損なわれたとしても。俺はきっと、彼女が好きなままなのだ。

 共に暮らし、共に買い物に行き、共に食事をし、色々な話をし……夫婦とは、こういうものなのだろうか。

 これからもリアと幸せを積み重ねていきたい。穏やかな生活の中で、いつしかリアが俺に心を開き、俺の手を取ってくれることを望んでいる……。

 彼女を手放したくなかった。あの女は自分のものなのだ、だから俺から奪うなと周囲に伝えたかった。だから、何重もの魔法を込めたチョーカーを手渡した。

 ……リアの言う通りだ。あれは俺の色。俺の目の色を身につけて欲しかった。汚い独占欲の塊だ。それでも、俺の独占欲は大いに満たされた。リアの白い首に、あの黒いチョーカーは輝いて見えた。

 ずっと、傍にいて欲しい。大切にするから。どうかずっと俺の傍にいて欲しい。


 ――――――――――


 俺はまた「夢」を見せた。

 その日のリアはいつもと違った。俺がリアに触れたいと言えば、彼女は肩を震わせて泣き始めた。自分のうつろを満たしてくれと必死に懇願するリアを前に、俺が感じたのは興奮と……強い後悔だった。

「あなたが欲しい」と、そうリアに言われたくて堪らなかった。
 ……その言葉が、肉欲から出るものでなければ。

 リアの身体さえ手に入れてしまえばと思っていたのに。俺は途中から、あの満面の笑顔を見た時から……リアの心が欲しくて堪らなくなった。

 一線を超えてしまえば、彼女の内を暴いてしまえば。その事実がいつしかリアに知られた時、リアはきっと心の底から己を軽蔑し嫌う。「夢」を見せて好き勝手に身体を暴いてきたなどど、彼女に知られたくない。

 リアに嫌われることが、俺にとっては一番怖いものだった。彼女に触れたい。だが嫌われたくない。矛盾した気持ちを抱え、毎夜毎夜熱を誤魔化すように「夢」を見せている。

 彼女の身体が堕ちてきたというのに、俺は苦しかった。リアに心から俺を求めてもらいたかった。だが俺は、誘いの言葉をかける艷やかな唇から、首に回される柔い腕から、愛しい彼女から逃れる術を知らなかった。

 俺は禁忌を犯した。
 愛を囁き、肌を嬲り。
 そして……とうとうリアのうつろを貫いた。

 リアの幸せそうな顔に思わず涙を零してしまいそうになる。肌をぴったりと重ね合わせて、指を恋人のように絡ませながら好きだと言えば、リアは応えるように内をうねらせた。俺は子種を内に放った。強い強い魔力がリアの中に染み渡るのを見て、罪悪に塗れた満足感を覚えた。

 俺はリアの純潔を奪った。
 俺はリアをとうとう犯してしまった。

 そして俺は、俺の罪を……。

 君が酔いを起こす程に多量の魔力を注ぎ込んでいること。
 書類を偽造してまで俺の屋敷に住まわせたこと。
 君に近づく男共を脅して追い払っていること。
 君に関する手紙を全て廃棄していること。
 君に淫らな「夢」を見せ続けていること。
 そしてその末に、純潔を奪ったこと。

 それら全ての罪を、何としてもリアから隠し通すことに決めた。彼女はこの逢瀬を「夢」だと思っているのだ。だからそれが現実に起こったものだと、絶対に彼女に知られないようにしよう。

 彼女に嫌われたくない。彼女を絶対に失いたくない。
 この秘密は、俺だけが抱え続けていくのだ。

 俺はリアの純潔を奪うという罪を犯した。
 もう何があろうとも決して手放すことは出来ない。

 リアは、俺のものだ……。俺だけのものにするのだ。

 彼女と契ろう。
 本当の夫婦になろう。
 家族を作ろう。
 責任を取ってこの先ずっと彼女の面倒を見よう。




 かつて、エルフが契る時は薔薇を贈りあったと聞く。

 古の時代に構築され、そして禁呪指定を受けた「契りの薔薇」という魔法。俺はその魔法を使うことにした。
 相手の魂を自分に縛り付ける魔法。

 魔力で作られた薔薇。
 魂を削りながらひとひらを編み、長き一生涯の内に一度しか創り出せぬ誓いの薔薇。

 「契りの薔薇」に込められた魔術が発動すれば、リアの魂は未来永劫俺に縛り付けられる筈だ。

 君に逢えた奇跡に、薔薇を贈ることにしよう。
 薔薇が好きな君は、喜んでくれるだろうか。
 受け取ってくれるだろうか。
 俺を受け入れてくれるだろうか……。

 あの花が咲くような満面の笑みを、どうか俺に向けてくれますように……。
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