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第一章

13.星彩に込めた感情

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 ゼルドリックがリアの元を訪れ治療を施した翌日から、リアはまたいつも通りに働き始めた。村の仕事を休ませてもらっているため特に働く必要はないのだが、リアにはどうしても次の視察日までにやっておきたいことがあった。

 ゼルドリックに感謝の気持ちを示したい。そのために、彼に何かを作って贈りたい。

 彼はいつも高慢で嫌味な物言いをするが、それでも、熱を出して苦しんでいる自分の元をわざわざ訪れて、回復魔法を施してくれたのだ。重く怠かった身体は、すっかり元通りになった。だから、鍛冶屋である自分が出来ることとして、何か普段使いできるものを作り、ゼルドリックに手渡したいとリアは考えていた。

(男の人には何を贈れば喜ばれるのかしら……? 父さんとマル以外の男性ひとに、個人的な贈り物をしたことがないからよく分からないわ。カフスボタンとか、ペンとか、そんなものしか思いつかないなあ……)

 空を見上げたり、庭の花に水をやりながら、ゼルドリックに何を贈れば良いのかリアはずっと考えていた。

 ふと、視界の端を黒いものがよぎった。何かと見ればそれは昨日見た黒い鷹だった。鷹は見事な旋回をして、鍛冶場近くの木に留まった。

(あの黒い鷹……今日もここにいるのね)

 リアはふと、ゼルドリックをもし動物に例えるとしたら、彼は「鷹」だと思った。

 跳ね上がった眉、高い鼻から引き結ばれた唇にまで、ゼルドリックの顔つきは、ある種の厳しさを感じさせる。そして鋭くも大きな目は猛禽類によく似ている。彼がいつも肩に羽織っている黒いコートは、強い風に吹かれる度にはためいて、羽が広がったように見えることがあった。

(鷹……。そうか、鷹か……)

 彼に贈るものは、鷹の意匠を施したものが良いのではないか? 鷹なら、一般的に悪いイメージを与えることもないだろう。中央政府の黒い制服に合うように、純金で鷹の羽根を模した台座を作る。そして、煌めく鷹の瞳をイメージして、大きな宝石を台座の上に据え付けるのだ。

 確か、自分の鉱物コレクションの中には、行商人から買ったスターサファイアの原石があった筈だ。コレクションの中でも最も高く貴重だが、彼に贈るものにはそれを使いたい。原石を丁寧にカットし研磨していけば、白く美しい光を放つはず。その青い貴石は、きっと羽根を模した金の台座の上でも負けじと輝くだろう。

 鷹から着想を得て、リアは次々に良い案を閃いた。リアは、彼の胸元を彩るブローチを作ろうと決めた。作るものが決まってしまえば、後は一心不乱に取り組むだけ。髪を手早くまとめると、リアは早速ブローチの製作に取り掛かった。


 ――――――――――


 ゼルドリックに鷹の羽を模したブローチを贈る。そう決めてから、リアは朝から晩まで鍛冶場でブローチの製作に取り掛かっていた。

 これでは何のために村の仕事を休んだのか分からない。本来、自分は身体を休めているべきで、こんな作業の仕方をしては本末転倒だと分かっていたが、リアはそれでも、作業の手を止めることは出来なかった。

 マルティンが度々リアの様子を見に来て、熱心に鍛冶場で働くリアに対し小言を溢した。しかし、いつも以上に真面目な顔をして宝石を研磨し続けるリアに対し何か思う事があったらしく、マルティンは結局リアを気遣う言葉をかけて立ち去った。

(彼に贈るものに対して、一切の妥協はしたくない)

 王都で暮らす彼の周りにはきっと見事な宝飾品が溢れていて、これからリアが贈ろうとしているものは、彼にとって取るに足らないものなのかもしれない。しかし、今の自分が持つ最高の力を以って満足の行くブローチを作り上げる。リアはそう決めていた。

 頭の中には常にゼルドリックの姿があって、リアは思い出す度に自分の中がかき回されるような感覚を覚えた。

 嫌味たらしく高慢で、でも少しの優しさがある役人のゼルドリック。リアに甘く優しく、でも少しだけ意地悪な黒の王子様。二人のことを考えていると境界が曖昧になって、一人のゼルドリックとして捉えてしまいそうになる瞬間があった。リアはその考えを振り払うように、必死で作業に取り組んだ。

 作業に疲れたら、泉から水を掬い、布を濡らして身体を拭いた。そして、ゼルドリックがサイドテーブルに置いていった香りの良い紅茶を淹れ、ゆったりと味わう様に飲んだ。紅茶を飲む度にゼルドリックの優しさを思い出して、リアは心が温かくなった。

 安らぎながら空を見上げると、いつでも黒い鷹を見ることが出来た。

 一羽だけ飛んでいる時もあれば、何羽も木に留まっている事もあった。きっと、この近くに黒い鷹の巣があるのだろう。鷹たちが自分を見守ってくれている気がして、リアは疲れた気分を切り替えることが出来た。そうして、短い時間の間にしっかり身体を休めると、また長い鍛冶場での作業に戻るのだった。

(ブラッドスター様のために、王子様のために……頑張らなくちゃ)


 ――――――――――


 ブローチは、満足の行く出来に仕上がった。

 磨き続けたスターサファイアは輝き、星の様な白い六条の光をしっかりと放っている。鷹の羽根を模した純金の台座も工夫が凝らされていて、見事なものに仕上がった。リアは煤や汗で汚れた頬を擦って、強い達成感に浸った。

 リアはブローチを作る間、ひたすらにゼルドリックの事を考えた。高慢で、毎週会う度に自分の髪を毒草に例えたり、肩や手を許可なく触ってくるダークエルフの役人。自分よりずっと大きく、顔も怖い。けれど、熱に苦しんでいた自分を助けてくれる優しさもあって。今思えば、彼が村の住民に対し、熱心にからこそ、自分は休む事が出来た。

 そして何よりも、高台で熱を交わしあった甘く優しい黒の王子様。自分が生み出した都合の良い幻の存在だとはいえ、黒の王子との蕩けるような時間は、どこか空虚だった心を満たし幸福に震えさせた。あの甘く淫らで美しい時間は、自分の宿願を不完全でも叶えてくれた気がしたのだ。

 本物のゼルドリックと、自分が生み出した黒の王子であるゼルドリック。視察の応対から外れたら、ゼルドリックに会う事はこの先基本的に無い。そして、黒の王子となった幻のゼルドリックのことも、実在するゼルドリックとの別れと共に胸の内に封印するつもりでいた。

 このブローチは、二人のゼルドリックに対する想いを昇華させるもの。これを手渡すことで、自分は二人への想いを手放す。そうして、変わり映えのしない、何事もない日常へと戻っていくのだ……

 リアはそう考えた。
 視察の日は明日に迫っていた。込み上げる「寂しい」という感情に蓋をして、リアは自分をごまかすように、薄く笑った。


 ――――――――――


 視察の日。リアは村長に、今週だけ視察の応対に出るからと許可を貰って、自警団の事務所で二人の役人を待っていた。平常であれば、事務所の掃除をした後てきぱきと茶の用意をするというのに、強い眠気から自警団の机に突っ伏したリアを見て、マルティンは呆れたように言った。

「リア、無理したでしょ」

 マルティンはリアと顔を合わせた際、化粧で隠れてはいるが、良く見ればリアの目にしっかりとした隈が出来ているのを見た。あのダークエルフの役人はそれを目敏く見つけて、きっと自分にのだろう。マルティンは、これからの視察の時間を容易に想像する事ができて、小さな溜息をついた。

「ちょっとね……色々考えてたら、眠れなくて……」

 リアは申し訳なさそうに呟いた。

(これでお別れかと思ったら、なんだか凄く寂しくなっちゃって、全く寝付けなかったの。いつも会うのが憂鬱だって思ってたのに、不思議ね……)

 無言になったリアを、マルティンはしばらく見ていたが、リアの手に握られている包みを見て気遣うように言った。

「リアが、その包みの中身をあまりにも熱心に作ってるものだから、声をかけられなかったんだけどさ。……ダークエルフのお役人さん、もしかしたらリアのことを気に入ってるんだと思う」

 マルティンは自分の長い髭を指でくるくると弄りながら、リアの反応を伺った。リアはがばりと起きて、どうしてそう思うのと高い声で聞いた。

「先週、言い合ったんだよ。もうリアの髪を馬鹿にするなって。そしたらお役人さんはリアの髪を随分と褒めていったんだ。可愛いとか、美しいとか、いい匂いがするとか……その、僕も恥ずかしくなるくらいの褒め方で」

「マル! それは皮肉と言うものよ」

 リアは、何だそんな事かと言わんばかりに肩を落とした。

「僕は別に皮肉とは思わなかったけどなあ。まあ、何が言いたいかというと、リアが応対から外れても、多分ブラッドスター様はリアの事を気にして、何かと理由をつけてリアに会いに行く予感がするんだよね」

「え……? ちょっと、どういうこと?」

「だから、リアもそんな寂しそうな顔をするなってこと」

 マルティンは優しげな目を細めて、リアを慰めた。

「その包みを渡したら彼は喜ぶよ。でも、それで終わりじゃない。きっとまた顔を合わせることになる。お別れって訳じゃないさ」

 リアは聡い弟に自分の感情と、そしてこれからしようとしている事を、全て見透かされているような気がした。なんとなく感じるばつの悪さから、リアはお茶を淹れてくると席を立った。

(マルの馬鹿。期待しそうになるじゃない)

 リアはじくりと自分の心が痛むのを感じた。

 現実のゼルドリックは、確かに自分を嫌っている。毎週、ある種の執念を感じるほどに、必ず自分の髪を毒草に例えていく。可愛いとか、美しいとか、そういった褒め言葉は、上げて落とすための道具でしかない。期待してはいけない。期待しては、またいたずらに自分を傷付けるだけだ。あの熱を出した日のように。

(何事もなくこれを渡して、終わりにするのよ)

 てきぱきと茶の用意をするリアに向けて、マルティンは伸びやかな声で言った。

「あ、そうそう。リア、その包みを渡したら、すぐ家に帰って休んでね」

「どうして? せっかく村長の代わりに応対に出るんだから、しっかり最後までやるわよ」

「お化粧でうまく隠してるようだけど、しっかり隈が出来てるのを見たからね! リアがそんなんじゃ、僕たちは誤解から怒られる羽目になるだろ」

「ごめん……そうね。これだけ渡して帰ることにする」

「一週間頑張った分、ゆっくり休むといいよ」

 マルティンはリアに優しく声をかけ、そしてたっぷりとした口髭の中で微笑んだ。リアの作ったブローチが、どんなにあのダークエルフの役人を喜ばせる事だろうと。あの高慢なエルフが喜ぶ様を、間近で見るのが楽しみだと思った。





「入るぞ」

 いつも通りの乱暴なノックの後、返事を待つ事なく、勝手に自警団の扉が開かれた。ゼルドリックはリアの姿を認めるやいなや、すぐに駆け寄ってリアの手を握り込んだ。

「リローラン! 久しいな、先週は君と話せなかったゆえ、帳簿の妥当性が確認できずに戻る事になってしまったのだ。村の住民共は、君をこき使ってはおるまいな? 混ざり血の女をこき使うなど、多種族差別解消法に基づいて、絶対にあってはならないことだからな……」

 ゼルドリックはさすさすとリアの手の甲から指先、掌までをなぞり上げた。彼の長い指が執拗に纏わりつく感覚に、リアはぞくりと背筋が震えるのを感じた。

「それにしてもリローラン、君の手は随分と、まともになってきたじゃないか。ささくれやひび割れが消えつつある。私の手が傷付かないと思うと大変喜ばしい」

 リアの手を好き勝手に撫でくり回しながら、ゼルドリックは唇の片端を曲げるあの特徴的な笑みを浮かべる。リアは心の中で苦笑した。皮肉げな笑みを浮かべた高慢なダークエルフ、これが現実のゼルドリックなのだと。蕩けるような甘い笑みを浮かべたゼルドリックは幻なのだと、改めてリアは実感した。

「ブラッドスター様が下さった軟膏のお陰です。あの軟膏は、酷く荒れていた私の手をすっかり治してくれました。ありがとうございました」

 リアが礼を言うと、ゼルドリックは少しだけ目を見開いた。そして尚更嬉しそうに続けるのであった。

「そうかそうか! 私にとっては全く高いものではないが、あの軟膏が荒れていた君の手をここまで治してくれるとはな。精々毎日塗りたまえ。そして軟膏が無くなった時は、必ずこのゼルドリック=ブラッドスターに言うことだ。軟膏など、いつでも恵んでやるからな」

 ゼルドリックは大きな両の手で、リアの滑らかさを取り戻した手を確かめるように、親指を器用に動かしてゆっくりとなぞり上げた。手のひらを強く弱く、執拗に摩られる時はいつもぞくぞくしてしまうが、リアは負けじと、ゼルドリックの指を自分から握り込んだ。珍しいリアの行動に、ゼルドリックの動きが止まる。

 ブローチは満足の行く出来に仕上がったが、渡すとなると怖かった。

 彼の好みでなかったらどうしよう? こんな田舎の鍛冶屋が作ったブローチなど、洗練された王都で暮らすエルフには、きっと面白みがなくてつまらないものに見えてしまう...。
 リアは後ろ向きな考えに支配され、緊張した。

(受け取ってもらえるだろうか?)

 リアは恐る恐る口を開いた。

「ブラッドスター様。先週は、熱に苦しんでいた私を治療して下さり、本当にありがとうございました。お陰様で体調も良くなり、問題なく動く事ができております。いただいた紅茶も香りが良く、楽しませてもらっています」

「ほう? 随分と素直じゃないか。君からそこまで礼を言われるのは悪くないな」

 リアは唾を飲み込んだ。落ち着いて、無事にこのブローチを渡さなければ……。

「それで……いつも何かしらの品をいただいていて、私もブラッドスター様にお返しをしたいと考えていたのです。私がいただいてきた品と比べると、どうしても見劣りしてしまう部分はありますが、一生懸命作りましたのでどうかこちらを受け取っていただけませんか」

 リアはブローチが入った包みをゼルドリックの手に握らせた。ゼルドリックは不思議そうに包みを見ていたが、開けても、とリアに聞いた。了承すれば、彼は幾分丁寧な様子でその包みを開けた。

「これは……」

 わあ、とマルティンが髭の中で感嘆の声を出した。基本的に無表情であるアンジェロも、目を見開いて包みから出てきたものを見ている。

 純金と、大きなスターサファイアで出来た鷹の羽根を模したブローチ。それは窓からの光を受けて、神々しいまでの輝きを放っていた。スターサファイアが放つ白く美しい六条の光が、ゼルドリックの手の中で煌々ときらめいている。ゼルドリックも、アンジェロも、マルティンも無言でしばらくそのブローチを見つめていた。誰が見ても強く心惹かれるような、誠に見事な出来のブローチでだった。

 しかし、リアはひたすら不安に思っていた。ゼルドリックがしばらく無言でブローチを見つめ続けていることに対して、これから何を言われるのか気が気でなかった。

(……え……どうしよう、何で、何も言わないの……!?)

 リアは冷や汗が吹き出て、背中を滴っていくのを感じた。

「これは、本当に君が作ったのか」

 ゼルドリックは静かな声音でリアに問いかけた。

「は、はい」

「なるほど。君の目の隈は、それが原因か」

「え!? ……はい、一週間かけて作りましたので……あ、でも村の仕事は一切行ってません!」

 また住民に対し高圧的に道徳を説かれたら堪らないので、リアは急いで釈明した。

(お化粧してしっかり隠してきたのに、まさかこんな短時間で隈が出来てるのを見破られるなんて……)

 リアは羞恥と何を言われるか分からない恐怖で、ゼルドリックから顔を逸らした。ゼルドリックはそのまま暫く手の中のブローチを見ていたが、やがて針を外し、自らの胸元に着けた。

「似合っているか」

 リアはゼルドリックの胸元に視線を戻した。中央政府の黒い制服に、純金のブローチはよく映えた。

 ゼルドリックがリアの作ったブローチを着けてくれている。彼を想いながら作ったブローチが、彼の胸元で光っている。リアは胸がいっぱいになった。嬉しくて、顔が緩むのが止められない。

「はい、とても」

 リアは微笑んだ。ゼルドリックはリアの頬に手を添えて、彼女の顔を上げさせた。

「今日は、化粧をしているのだな」

 リアは彼と会う最後の日、少しでも綺麗だと思って欲しくて、彼から贈られたルージュを唇に乗せた。ゼルドリックの視線が唇に落とされているのを見て、リアは顔に熱が集まるのを感じた。

「唇に塗っているのは、私が以前贈った紅だな?」

「はい……」

(うぅ……恥ずかしい……あれ、そういえば……ブラッドスター様、髭を伸ばすのやめたのかな?)

 彼の顎には、いつも跳ね上がった髭があった筈だ。その髭がないせいか、彼の艶がある黒い肌がよく見えてその顔を若く見せていた。リアがゼルドリックの顎に気を取られていると、頬に添えられた手が、さすりとリアの顔を撫でた。

「その口紅は忙しい仕事の合間を縫って、私が君のために時間をかけて選んだものなのだ……。いつも疲れている君のその顔が、少しでも明るくなるかと思ってな。どの色が似合うのか、じっくり想像しながら選んだ。その甲斐あってよく映えている」

(え、時間をかけて選んでくれたの……?)

「中央政府の者として、君には特別目をかけた。田舎者の混ざり血の女。いい年だというのにその身を着飾ることもなく、ただひたすら働いている……年頃の女らしく過ごしてほしい、そのような気持ちから君にそれを恵んだのだ。紅を差した君は悪くない。苦労して選んだものを相手が身につけているというのは、中々に良いものだな」

 高慢さを含んだ言い方ではあるが、リアの頬を撫でるゼルドリックの手は、とても優しかった。リアは、自分の胸がとくり、とくりと切なく跳ね上がるのを感じた。

「君も、きっとこの中央政府の黒い服に似合うと思って、随分悩みながらブローチを作ってくれたのだろう。実はな、鷹は一等好きな動物なのだ。金の羽根も、鷹の瞳のような宝石も、全てが美しく気に入った。リローラン、石の色は私の目の色に合わせてくれたのか?中々素敵な気遣いをしてくれるじゃないか。私は君の気持ちをこんな風に貰うことが出来て実に嬉しいよ」

 ゼルドリックは微笑んだ。その笑みは、口の端を曲げる皮肉げな笑みではなく、ごく甘いものだった。その微笑みの甘さは、リアが熱にうなされたあの日に出会った黒の王子様と重なった。

「礼を言う。ありがとう、リローラン」

 リアの胸が、どくりと大きく跳ねた。また現実と幻のゼルドリックの区別が付かなくなってしまう。今目の前にいるゼルドリックは、恋人に向けるような蕩ける笑みを自分に向けている。リアはあたふたしながら顔を真っ赤にした。

(……あれ? ブラッドスター様ってこんな感じだったっけ? 高慢で、少し嫌味たらしいのは変わりないのに、笑う顔はとっても格好良くて……駄目だ! 目の前のブラッドスター様が、どうしても王子様に見える! 顔が爆発しそう!)

 頬に添えられた手に少しだけ力が込められ、ゼルドリックの顔がゆっくりと近づいてくるのが見えた。

(えっ!? そんなに近づいたらくっついちゃう……!)

 リアが反射的に目を瞑ると、マルティンがゼルドリックとリアの間に急いで割り込んだ。

「ちょ、ちょっと待ってください! 何をしようとしているんですか!?」

「邪魔をするな、ベアクロー」

 ゼルドリックは甘い微笑みから一転、眉間に皺を寄せて険しい顔でマルティンを睨んだ。

「ここは! はずれの村の! 自警団の! 事務所なんです! 場所を考えて下さい!」

 まるでここがどんな場所であるか初めてゼルドリックに教えるとでも言うように、マルティンは言葉を区切って強く言い含めた。

「先週言いましたよね? リアの身体をべたべた触らないで下さいって!」

「問題ない。これは都会式の挨拶だからだ」

「ここは田舎ですから問題あります! 何のためにここに来たのか思い出して下さい! さあ、帳簿の報告を始めますよ!」

 マルティンは椅子を引いて、二人の役人に早く座るように促す。ゼルドリックは名残惜しいという様子で、リアから手を離した。

「君の口からどう過ごしていたかを聞いて、帳簿の報告と突き合わせしたいところだ。しかし、君の目の隈がそれ以上深くなってはいけないな。……仕方ない。今日はゆっくり休むんだぞ」

 ゼルドリックはリアの手をもう一度しっかり握って労りの声をかけた。リアは礼を言い、寂しさを押し殺して微笑んだ。これで終わりだ。彼と毎週必ず会う事も無くなるのだ。ブローチを無事に手渡して、最後に感謝の言葉と甘い微笑みを貰うことができて良かった。

 リアは、心の中で別れを告げた。自分の心の中で萌芽しかけていたものを摘み取るように。

(さようなら、ブラッドスター様)

 甘くとろける笑みを、そっと胸の奥底に押し込んだ。

(………さようなら、黒の王子様)

 別れを告げ、少しの感傷に浸る。



 そして、大事なことを思い出した。

(あ、そうだ)

 世話になったのは、ゼルドリックだけではない。リアは胸元からもうひとつの包みを取り出した。

「パルナパ様にもお世話になったので、よろしければこちらを受け取っていただきたいのです」

 手渡された包みに対し、アンジェロは礼を言いつつ隣に座るゼルドリックをちらりと見た。自分だけにブローチを作ったと思っていたゼルドリックが、不機嫌そうに顔を顰めたのを見逃さなかった。これは、視察が終わってから大変かもしれない。リアから受け取ったものを買い取ると言われるのか、あるいは、決して着けるなと言われるのか。どちらにしても面倒そうだと、アンジェロは出された茶を飲みながら思った。
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