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第一章

11.熊と鶴

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 マルティンはゼルドリックの行方について、ずっと気を揉んでいた。

 視察の案内を行いながら、アンジェロと共に一通り村を巡ったはずだが、ゼルドリックの姿を見つけることはできなかった。たまたま顔を合わせた村の住民達にゼルドリックの姿を見なかったか聞いても、誰一人として首を縦に振る者は居なかった。

 マルティンは嫌な予感がしていた。

(まさか……あのお役人さん、リアの家がどこにあるか気が付いて、会いに行ったとか……?)

 リアの家は高台から林の中の小道を進んだ先の、切り離された場所に建っている。彼が簡単に見つけられるとは思えないが、マルティンはエルフであるゼルドリックのことを警戒していた。

(まあ……それはないか。さすがにリアの家を探し出して押し掛けるなんて真似は……しないか。でも、エルフだし、魔法とか使って簡単にリアの家を探し出しそうなんだよね)

 マルティンは自分の予想が外れることを願った。あのダークエルフの役人は、一体何処に行ってしまったのだろうかと溜息を吐いた。



 やる気のないもう一人の役人を伴っての視察は、早くに終わった。アンジェロはゼルドリックと違い、細部を突く様な真似はしない。以前と特に変わりないのであれば特に報告は要らないとマルティンに伝えた。

 マルティンはアンジェロのやる気のなさを感じ取っていた。折角視察に来たのなら、もう少し熱心に見ても良いのではないかと思ったが、早く終わればありがたいとも思ったので何も言わなかった。

 そして今。
 村を巡り終えたマルティンとアンジェロは、湖畔のベンチに腰掛けてゼルドリックを待っている。

 また村を歩き回って行方不明の役人を探すのは骨が折れる気がしたので、夕暮れ時には戻ってくるのではないかというアンジェロの言葉を信じ、大人しく船のある湖畔で待つことにした。

(もう、どこに行ったっていうんだよ。待ちくたびれたし、お腹が空いたなあ……)

 マルティンは湖畔のベンチに腰掛けて、何の気なく、ポケットから干し肉を取り出し齧り出した。真夏の青い空と煌めく水面を眺めながら、身体を寛げて干し肉の塩気を楽しんだ。

(ふう、いい天気だな……)

 行儀の悪い行為だとは分かっていたが、全くやる気のないこの役人の前であれば、自らの行為は咎められない気がした。

 ふと視線を感じ、マルティンは横を向いた。無表情のエルフがじっと食い入るように干し肉を見ている。

(えっ……何? ちょっと、食べ辛いんだけど……)

 マルティンはアンジェロの視線に気が付かぬ振りをして、そのまま干し肉を齧り続けた。

「それは、何というのだ」

 アンジェロは干し肉を指差し、マルティンに話しかけてきた。マルティンはいつも無表情で、こちらから話しかけない限り一切口を開かないエルフが、自分から尋ねてきたことを意外に思った。

「干し肉ですよ。見たことがないんですか?」

 マルティンはこんなもので良ければと自作の干し肉をいくつか差し出した。アンジェロはそれを興味深げに伸ばしてみたり、匂いを嗅いだ後に口に含んだ。はむはむと口を動かし続けるアンジェロは相変わらずの無表情であるが、不快さのようなものは感じなかった。

「こんな乾涸びた皮の様なものは、見たことがなかった」

 アンジェロは手元の干し肉を見て、ぽつりと呟いた。

「強い塩気と癖がある。貴腐ワインやトリュフ入りチーズと合いそうだ」

「ちょっと。そんな高級な食べ方をするもんじゃないですよ。これは、火でさっと炙ってそのまま食べたり、野菜と一緒にスープに入れるんです」

「下民が食べるものの中にも、それなりに美味いものがあるのだな」

「下民って……」

 マルティンはアンジェロの言葉にぎょっとした。声には嘲りの色は感じられないが、だからこそ田舎の村に住む人間に対しての、根深い差別意識のようなものが感じられた。

「中央政府に勤めるエルフというのは、皆こうなんですか」

 マルティンは憤りを隠さず問いかけた。

「こうとはどういう意味だ?」

「はっきり言って高慢で、自分の方が立場が上であるというような言い方。僕たち田舎の人間を見下している様に聞こえます」

「なるほどな」

 アンジェロは平坦な声で受け答えをして、また新たな干し肉を口に運んだ。

「事実、私は貴族出身だ。王都に永らく住み、この国を支え続けた高貴な家の生まれ。その血は現在の王族に連なっている。君とは身分が違う」

「ええぇっ!? 本当に立場が上じゃないですか! すみませんでした!」

 エルフの貴族を前にすっかり萎縮したマルティンに対し、アンジェロは平坦な声で別に良いと言った。

「私が貴族であることを抜きにして、エルフというものはそういった教育を受けて育っているのでな。君たちが高慢と評するのはその教育ゆえに。一般的なエルフは、おおよそこういった態度になる。君も幼少期に染み付いた教えというのは中々抜けないだろう?」

「まあ、……そうですね。では、特別馬鹿にしている訳ではないと」

「そうだ。馬鹿になどしていない。私は身分問わず、私に食料を与えてくれる者に対しては好感を抱く」

 マルティンは肩の力を抜いた。高慢ではあるが、その裏に攻撃的な悪意はないと知って安堵した。

「ですがその、エルフ式の教育抜きにしても……ブラッドスター様は特別リアのことを苛めているように見えます」

 アンジェロはまた干し肉を口に運んだ。何と言おうか少し考えている様子だった。

「それは……。彼自身にも問題はある。だが、混ざり血のリローラン殿を特別気にかけているゆえに、あのような態度を取っているのだ」

「リアのことが嫌いな訳ではないんですね?」

「嫌いであれば、手ずから品を渡すこともないだろう」

 平坦な声であったが、マルティンはアンジェロの答えに真を感じた。ゼルドリックの付き人であるアンジェロがそう言うならば、ゼルドリックは別に嫌悪をリアに対してぶつけている訳ではないのだろうとマルティンは結論付けた。



 それから、マルティンとアンジェロは緩やかながらも干し肉を食べながら色々な話をした。

 アンジェロは継承順位が低い故に、貴族の家に生を受けながらものびのびと育ったこと。社会勉強としてゼルドリックの付き人をしていること。食べることが好きなこと。紅茶を淹れるのが得意なこと。ゼルドリックがリアに贈るものを悩み、自分に頻繁に相談をしてくること。

 マルティンも話をした。リアが熊から自分を助けてくれた話。自分は猟銃の扱いが得意なこと。美味しい干し肉の作り方。リアは料理も上手なこと。ドワーフの母を思い出すと言って、リアが頻繁に自分の髭を三つ編みにすること。いつか、村を出て旅をしてみたいと思っていること。

 若者が少ないはずれの村に住むマルティンにとって、アンジェロとの会話はところどころに高慢さを感じながらも、どこか温かいものだった。同性の友人が一人増えた様で楽しかった。日が沈み始め、鳥が巣に帰る頃まで二人の会話は続いた。その頃にはマルティンの中で、中央政府の役人に対する怒りや嫌悪は、どこかに消えてしまっていた。


 ――――――――――


「待たせたようだな」

 辺りが赤一面に染まる夕暮れ時。

 マルティンが座るベンチの横に黒い靄が唐突に立ち上り、そこからゼルドリックが姿を表した。初めてエルフの魔法を目にしたマルティンは驚き、頓狂な声を出した。

「ブラッドスター様! 何処に行ってたんですか!」

「リローランの家だ」

「えっ、どうしてリアの家に?」

「彼女が熱を出しているゆえに、お前は私をリローランに近づけたくなかったのだろうが、愚かな選択をしたな。私は魔力を細やかに操ることができる。人間が出す熱などすぐに魔法の力で冷ますことが出来るのだよ。覚えておけ、ベアクロー」

 胸を張り、顎を突き出し、高慢な物言いでゼルドリックはマルティンに言い放った。

「つまり……? 魔法でリアを治療してくれたんですか!?」

「そういうことだ。明日にはもう動けるだろう。今は寝ているからそっとしておけよ。それから、もし彼女がまた熱を出すことがあれば、このゼルドリック=ブラッドスターにすぐに言うことだ」

「ああ、何とお礼を言ったらいいか……。本当にありがとうございます! リアはいつだって元気なのに、一週間も体調が悪いのが続いていて、普通の風邪じゃないように見えたから本当に不安だったんです。リアの体調が、もっと悪くなってしまうんじゃないかって……」

 マルティンは勢いよくゼルドリックに頭を下げた。その声は震えていて涙を堪えている様に聞こえた。

「……ふん」

 頭を何度も下げるマルティンに対してゼルドリックは鼻を鳴らした。しかし、マルティンは全く不快に思うことはなかった。

「帳簿の妥当性を評価できないまま戻るのは心苦しいが、体調の悪いリローランと話す訳にもいかないからな。今回の視察はこれで終わりとする」

 行くぞ、とゼルドリックがアンジェロに声をかけた。アンジェロはマルティンからまるごと手渡された干し肉の袋を持ち、軽く頭を下げた。

「ところでだ、ベアクロー。お前は次週の視察の日までにその長ったらしい髭を剃れ」

「あの、急に何を言い出すんですか?」

「リローランがお前の髭を編むのが気に入らぬ」

「剃りたくないです、この髭は剃ってもすぐに伸びちゃうんです」

「言い訳をするな! 剃らないなら燃やしてやる」

「ちょっ……。本当に止めて下さい、引っ張らないで下さい! 待って、僕の姉ちゃんは髭のない男の方が好みですよ!」

「……何だと?」

 ゼルドリックの長い耳がぴくりと動いた。

「以前そんなことを言ってました」

「だが、あの女は髭が好きなのではないか? お前の髭を頻繁に触っているだろう」

「ああ、それは……。ドワーフの母さんを思い出すからって。リアは髭のない男性の方が好きだってしっかり聞いたことがありますけど」

「そういうことは早く言え髭面! ……はあ、髭を剃る件は良い。剃るな。そのままでいろ」

 ゼルドリックはぶっきらぼうに言い、掴んだマルティンの長い髭を放した。マルティンは、顎の痛みに眉をしかめつつも、たっぷりとした口髭の中で笑みを作った。このダークエルフの役人は、よく見れば分かりやすいものだ。リアのことが嫌いではなく、むしろ好いているのだと。次週の視察の日、きっとこのダークエルフの役人は、髭のない姿でやって来るのだろうという確信があった。

 ゼルドリックとアンジェロは船に乗り、はずれの村を後にした。マルティンはいつになく穏やかな気持ちでそれを見送って湖畔を後にした。


 ――――――――――


「ん……」

 リアはすっきりとした気分で目を覚ました。起き上がり、手を握ったり開いたりして、自分の身体に力が入ることを確かめる。

 窓を見ると、もう辺りが暗くなり始めていた。マルティンに世話になってから、随分と寝て過ごしてしまったらしかった。ふとサイドテーブルを見ると、マルティンが剥いてくれた果物の他に、見覚えのない小包と、優美なデザインのカードが置いてあった。

「……これは……?」

『治療を施しておいた。安静にしておけ』

 カードを手に取ると、綺麗な字でそう書き置きがされていた。そして小包を開けると、美しい装飾が施された高級そうな茶葉の缶が出てきた。リアはその缶のデザインに見覚えがあった。毎週ゼルドリックが手渡してくる、優美なエルフ様式のものによく似ていた。

(……え。……えっ、えっ!? ……まさか、ブラッドスター様、ここにいらっしゃった……!?)

 リアは缶を抱きしめあたふたした。そして思い出してしまった。熱に魘され眠っていた間に、自分が見た夢を。

 自分はどんな夢を見た? 
 やたらに自分に甘いゼルドリックが出てきて、彼と何度も口付けをして、胸を下もたくさん触られて、いやらしい声を何度も上げて……!

「あ、あ、ああっ……! まずいわ、私、私、なんていう夢を見てしまったの……!?」

 ゼルドリックに抱き込まれ唇に触れられた先週の視察日。その続きを自分の中でずっと希っていたかとでもいうように、夕暮れの高台でゼルドリックと口付けをし、秘められた部分を彼に暴かれる夢を見た。

 リアの夢に出てきたゼルドリックは黒の王子様にそっくりで、あまりにもリアに甘く、都合の良い夢だった。身体中に落とされた彼の手や唇の感触は、夢にしてはあまりにも真に迫ったもので、リアの身体に再び熱を灯らせた。

「いやあああ……! どうしよう、どうしよう……。私、とうとうおかしくなっちゃったのかも……本当にどうしよう!? ブラッドスター様の前で変な寝言を言ってたら……」

 リアはベッドの上で身悶えた。自分の作り出した幻だとはいえ、夢の中のゼルドリックはあまりにも鮮烈で、もうその姿を忘れることなんてできそうになかった。目を瞑り、無理やり眠ろうとするが、元気になった身体には一向に眠気がやって来ない。リアはとうとう布を剥ぎ、勢い良く起き上がった。

(駄目だ、少し頭を冷やしてこよう……)

 リアは缶を置き、上着を羽織って外に出た。夏だとはいえ、日が落ちればあっという間に涼しくなる。リアはしばらく風に吹かれ、自分の熱を冷ましながらぼんやりと過ごした。

 丸々一週間ほど、体調が悪いのが続いていたのに、ゼルドリックから施された治療のお陰で身体は軽く、頭も冴え渡るような感じがした。

(彼は一体、自分にどんな治療を施してくれたのだろう?)

(それにしても……ブラッドスター様は優しい。彼は、私を嫌っているのに。私を治療してくれて、そして……。書き置きも、紅茶缶も残してくれる。すごく、優しいな……。)

 リアは心に温かいものが宿るのを感じた。ゼルドリックからの親切が、本当に嬉しかった。明日は、ゼルドリックが置いていった紅茶を淹れて飲んでみようか……。そんなことを考えながら、リアはふとゼルドリックはどうやって自分の家を探し当てたのだろうかと思った。自分の家は林の中を進んだ先にあって、中々見つけられるものではない。しかし、おそらくマルティンか他の住民がゼルドリックに教えたのだろうと思い、気にしないことにした。

(……彼のことが、気になる)

 リアは熱の籠った息を吐き、夜の帳が降りる前の薄明の空を見上げた。紺と橙が混ざり合う美しき色を背に、大きな黒い鷹が、悠々と空を飛び回っている。飛び回る黒い鷹は、この辺りでは見たことがないような、ごく珍しい鷹だった。その美しい黒色に、リアはゼルドリックを見出した。

(王子様)

 リアは心の内で黒の王子様に呼びかけた。心が歓喜に切なく震え続けている。彼のことを想えば、景色が鮮やかに色づく気がした。彼は自分の心の拠り所になってくれる。リアは胸に手をあて、王子との甘い時間を思い出した。

(王子様、ありがとう)

 鷹は見事な羽を広げて、リアの家の上空を旋回している。リアは良いものを見たと思い、微かに笑みを浮かべた。
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