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第35話 孤独の城――マイの回顧録A
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恐怖に飲まれそうになる心を奮い立たせて、息を吸い込む。
「マイ! いるなら返事をしろ」
俺の声がエントランスに反響する。
何の物音も返ってこなかった。
――いや。
もう一度耳を澄ますと、かすかな雑音が聞こえてくる。
ザーと断続的に響くその音は、雨音だろうか。
……違う、もっと無機質なものだ。
そう、まるで子どもの頃祖母の家で見たブラウン管テレビの砂嵐のような。
どこからだ?
耳を澄ましてみても、音の方向がつかめない。
ふと思い立ってしゃがんでみると、少しだけ音が近くなったような気がした。
「……地下か?」
周囲をしばらくうろついてみたものの、地下に続く階段は見つけられなかった。
エントランスにあるのは、上の階へと続く朽ちかけの階段だけだ。
俺は膝をつき、もっとよく音を聞こうと床に耳を近づけた。
漂うカビの臭いに思わず顔をしかめる。
だが、間違いない。奇妙な音はこの下にある階から聞こえてくる。
となると、必ずどこかに地下へ続く道があるはずだ。
「探してみるか」
誰にともなく呟いて、床から立ち上がると――
次の瞬間、何の前触れもなく床がなくなった。
落とし穴のようにぱっかりと左右に開いたのだと気づいたときには、もう底の見えない闇の中へと猛スピードで落ちていた。
「う、うわあああああ!?!?」
悲鳴は長く尾を引き、俺もろとも奈落の底へと吸い込まれていった。
…………。
■
何もかも、幼い頃の記憶と同じだ。
電気もついていない部屋の中で、あたし――愛沢マイは膝を抱えてなるべく小さくなっていた。
目の前には、リサイクルショップで買ったレトロなテレビがある。
すでに放送時間は終わっていて、砂嵐があたしの膝を青白く照らしていた。
小学校から帰った後、夜眠れるようになるまで、物語の中の煌びやかな世界だけがあたしにとっての救いだった。
ドラマやアニメに夢中になってる間だけは、荒れ果てた部屋の中も、お母さんのやつれた姿も一時だけ忘れることができた。
もう少し成長した後には、現実逃避のためのラインナップに小説も加わって、傷みを紛らわすことばかりうまくなったっけ。
あたしは膝を抱えていた腕をほどき、まじまじと自分の手を見た。小さい。
幼くてぷくぷくした、幼児特有の手だ。
そういえばここはどこなのだろう?
目に見えている光景は、確かに幼い頃を過ごした家の中のものだ。
でも、幼くて小さな体のあたしは、大人の心を持ったまま再びここにいる。
これは記憶の中?
それとも……夢の中?
隣の和室からはずっとお母さんの嗚咽が聞こえている。
駆け寄って慰めたいけれど、ウイスキーの瓶でぶたれかけた記憶が頭をよぎって、足がすくんだ。
狙いを外して床に飛び散った瓶のかけらは鋭くて、触れてもいないのにあたしの心に傷をつけた。
『あんたはお父さんがいなくなっても平気なの!?』
お母さんはそんなことを言ってたけれど、あたしだって平気なわけがなかった。
この時の我が家は、お父さんを亡くして半年が経つ頃だった。
仕事の帰りに事故に遭ったという連絡が来て、お母さんは受話器を持ったまま崩れ落ちた。
お父さんは、お母さんが高校生の頃に教育実習で来た先生だったという。
お母さんが猛アタックして連絡先をゲットして、その後何年もかけて付き合うことになった話をよく聞いていた。
十代の後半から、お母さんはお父さんとずっと一緒にいたのだ。
大人になった今振り返ってみれば、当たり前にいた人――当たり前にずっと自分を守ってくれた『大人の男の人』がいなくなって、お母さんは混乱していたのだろう。
お母さんはまだ誰かに守られるべき子どもだったんだ。当時のあたしと同じように。
「おかあさん」
幼いあたしはじっとお母さんの嗚咽を聞いていることに耐えきれなくなって、和室に行ってみた。
ちゃぶ台に両肘をついたお母さんの背中が揺れている。手に持っていたグラスはほぼ飲み干されていて、すぐ側にウイスキーの瓶が転がっていた。
この人はずっとこうなのかな。
もう前みたいに笑ってはくれないのかな。
駄目かもしれない。
だって、呼びかけたって振り向いてくれない。
あたしの存在なんてもう忘れられちゃったみたい。
途方に暮れた私の唇から、懐かしいメロディが響く。
お父さんが好きだった歌のメロディ。
これならお母さんの気を引けると、無意識にそう思ったのかもしれない。
「マイ……」
お母さんがこちらを振り向いて、涙で濡れた瞳を大きく開く。
元々の美貌も相まって、その表情はまるであどけない少女みたいだった。
「マイは歌が上手なのね。知らなかった。あの人もそうだったのよ。もう聞けないけど、私の中にはずっと聞こえてる」
一瞬だけ私に向けられた笑顔は、すぐにまたお母さんの記憶の中にいるお父さんに向けられた。
それでも私は嬉しくて、笑い返したつもりなのに、頬には涙がつたっていた。
ああ、これは、紛うことなくあたしの記憶の中だ。
私の中に確かにあった、幼いあの日の記憶。
忙しい日々を過ごすうちに、いつの間にかほとんど忘れかけていたけれど。
■
裕美さんがやってきたのは、このもう少し後……お母さんがアルコール中毒になって入院することになった頃だった。
その頃のあたしは家にいることが酷く怖くて、ヒステリックに怒鳴るようになったお母さんの視界から隠れるようにして暮らしていた。
お母さんの入院の手続きを手伝うために訪ねてきた親戚、それが裕美さんだった。
今もまだ実感のない話だけど、裕美さんはお母さんの年の離れた妹だ。
つまりあたしの叔母さん。
お母さんとは確か10歳差くらいだったと思う。
お母さんはお父さんと結婚した時に実家と縁を切っていたから、会うのはこのときが初めてだった。
綺麗な人だと思ったけど、私の存在に戸惑っていることが伝わってきてなかなか打ち解けられなかった。
「マイ……ちゃん、だっけ。よろしくね」
あの時のぎこちない笑顔から察する限り、裕美さんも私とどう接したらいいのかわからなかったのだと思う。
お母さんが入院している間、あたしをどこに預けるのか、親戚は揉めに揉めていた。
そこで裕美さんが一時的にあたしを預かってくれることになったのだった。
幸いあたしは家事が出来なくなってしまったお母さんの代わりに料理も洗濯も出来たから、日中は一人きりでも問題なかった。
「はい。スターリープロモーションの藤村です」
裕美さんは電話に出る時、有名な芸能事務所の名前と一緒にお母さんの旧姓を名乗った。
裕美さんは当時駆け出しの芸能人のマネージャーをしていて、忙しい合間を縫ってなんとかあたしの面倒を見てくれていたらしい。
電話に出る裕美さんの声を聞くたび、あたしの頭の中に、いつも孤独から救ってくれたテレビドラマが流れる。
エンドロールには、スターリープロモーションの名前も刻まれていた。
お母さんが入院して、あたしはこれからどうなるのだろう。
どこに行っても望まれないあたしは、この先生きていけるのだろうか。
不安でいっぱいになったあたしは、目の前に急に浮上した現実味のない希望に触れてみたくなった。
覚悟なんてなかったのかもしれない。
あれは、溺れた子どもが必死で水面に手を伸ばすようなものだった。
「ゆみさん。あたし、芸能界に入ってみたい」
ある日急に思いついて伝えてみたその一言が、すべての始まりだった。
芸能界に入れば、物語の世界の主役になって辛いことしかない現実を忘れられるし、それに――
歌を歌えば、もう会えないお母さんが、いつかどこかで聞いてくれるかもしれないから。
裕美さんは驚いたように私を見て、それからしばらく黙り込んだ。
やがてあたしが裕美さんからの返答を諦めかけた時、赤い口紅を引いた唇が静かに開いた。
「あなた、今までやりたいことなんて何もできなかったでしょう。いいわ。やってみなさい」
そう言ってから、覚悟を決めるように唇をきゅっと結んだ裕美さんの表情を、今でも覚えている。
「……私が、あなたを守ってあげる」
ああ、あたしはきっと、この人のことを大好きになる。
そう直感した。
「マイ! いるなら返事をしろ」
俺の声がエントランスに反響する。
何の物音も返ってこなかった。
――いや。
もう一度耳を澄ますと、かすかな雑音が聞こえてくる。
ザーと断続的に響くその音は、雨音だろうか。
……違う、もっと無機質なものだ。
そう、まるで子どもの頃祖母の家で見たブラウン管テレビの砂嵐のような。
どこからだ?
耳を澄ましてみても、音の方向がつかめない。
ふと思い立ってしゃがんでみると、少しだけ音が近くなったような気がした。
「……地下か?」
周囲をしばらくうろついてみたものの、地下に続く階段は見つけられなかった。
エントランスにあるのは、上の階へと続く朽ちかけの階段だけだ。
俺は膝をつき、もっとよく音を聞こうと床に耳を近づけた。
漂うカビの臭いに思わず顔をしかめる。
だが、間違いない。奇妙な音はこの下にある階から聞こえてくる。
となると、必ずどこかに地下へ続く道があるはずだ。
「探してみるか」
誰にともなく呟いて、床から立ち上がると――
次の瞬間、何の前触れもなく床がなくなった。
落とし穴のようにぱっかりと左右に開いたのだと気づいたときには、もう底の見えない闇の中へと猛スピードで落ちていた。
「う、うわあああああ!?!?」
悲鳴は長く尾を引き、俺もろとも奈落の底へと吸い込まれていった。
…………。
■
何もかも、幼い頃の記憶と同じだ。
電気もついていない部屋の中で、あたし――愛沢マイは膝を抱えてなるべく小さくなっていた。
目の前には、リサイクルショップで買ったレトロなテレビがある。
すでに放送時間は終わっていて、砂嵐があたしの膝を青白く照らしていた。
小学校から帰った後、夜眠れるようになるまで、物語の中の煌びやかな世界だけがあたしにとっての救いだった。
ドラマやアニメに夢中になってる間だけは、荒れ果てた部屋の中も、お母さんのやつれた姿も一時だけ忘れることができた。
もう少し成長した後には、現実逃避のためのラインナップに小説も加わって、傷みを紛らわすことばかりうまくなったっけ。
あたしは膝を抱えていた腕をほどき、まじまじと自分の手を見た。小さい。
幼くてぷくぷくした、幼児特有の手だ。
そういえばここはどこなのだろう?
目に見えている光景は、確かに幼い頃を過ごした家の中のものだ。
でも、幼くて小さな体のあたしは、大人の心を持ったまま再びここにいる。
これは記憶の中?
それとも……夢の中?
隣の和室からはずっとお母さんの嗚咽が聞こえている。
駆け寄って慰めたいけれど、ウイスキーの瓶でぶたれかけた記憶が頭をよぎって、足がすくんだ。
狙いを外して床に飛び散った瓶のかけらは鋭くて、触れてもいないのにあたしの心に傷をつけた。
『あんたはお父さんがいなくなっても平気なの!?』
お母さんはそんなことを言ってたけれど、あたしだって平気なわけがなかった。
この時の我が家は、お父さんを亡くして半年が経つ頃だった。
仕事の帰りに事故に遭ったという連絡が来て、お母さんは受話器を持ったまま崩れ落ちた。
お父さんは、お母さんが高校生の頃に教育実習で来た先生だったという。
お母さんが猛アタックして連絡先をゲットして、その後何年もかけて付き合うことになった話をよく聞いていた。
十代の後半から、お母さんはお父さんとずっと一緒にいたのだ。
大人になった今振り返ってみれば、当たり前にいた人――当たり前にずっと自分を守ってくれた『大人の男の人』がいなくなって、お母さんは混乱していたのだろう。
お母さんはまだ誰かに守られるべき子どもだったんだ。当時のあたしと同じように。
「おかあさん」
幼いあたしはじっとお母さんの嗚咽を聞いていることに耐えきれなくなって、和室に行ってみた。
ちゃぶ台に両肘をついたお母さんの背中が揺れている。手に持っていたグラスはほぼ飲み干されていて、すぐ側にウイスキーの瓶が転がっていた。
この人はずっとこうなのかな。
もう前みたいに笑ってはくれないのかな。
駄目かもしれない。
だって、呼びかけたって振り向いてくれない。
あたしの存在なんてもう忘れられちゃったみたい。
途方に暮れた私の唇から、懐かしいメロディが響く。
お父さんが好きだった歌のメロディ。
これならお母さんの気を引けると、無意識にそう思ったのかもしれない。
「マイ……」
お母さんがこちらを振り向いて、涙で濡れた瞳を大きく開く。
元々の美貌も相まって、その表情はまるであどけない少女みたいだった。
「マイは歌が上手なのね。知らなかった。あの人もそうだったのよ。もう聞けないけど、私の中にはずっと聞こえてる」
一瞬だけ私に向けられた笑顔は、すぐにまたお母さんの記憶の中にいるお父さんに向けられた。
それでも私は嬉しくて、笑い返したつもりなのに、頬には涙がつたっていた。
ああ、これは、紛うことなくあたしの記憶の中だ。
私の中に確かにあった、幼いあの日の記憶。
忙しい日々を過ごすうちに、いつの間にかほとんど忘れかけていたけれど。
■
裕美さんがやってきたのは、このもう少し後……お母さんがアルコール中毒になって入院することになった頃だった。
その頃のあたしは家にいることが酷く怖くて、ヒステリックに怒鳴るようになったお母さんの視界から隠れるようにして暮らしていた。
お母さんの入院の手続きを手伝うために訪ねてきた親戚、それが裕美さんだった。
今もまだ実感のない話だけど、裕美さんはお母さんの年の離れた妹だ。
つまりあたしの叔母さん。
お母さんとは確か10歳差くらいだったと思う。
お母さんはお父さんと結婚した時に実家と縁を切っていたから、会うのはこのときが初めてだった。
綺麗な人だと思ったけど、私の存在に戸惑っていることが伝わってきてなかなか打ち解けられなかった。
「マイ……ちゃん、だっけ。よろしくね」
あの時のぎこちない笑顔から察する限り、裕美さんも私とどう接したらいいのかわからなかったのだと思う。
お母さんが入院している間、あたしをどこに預けるのか、親戚は揉めに揉めていた。
そこで裕美さんが一時的にあたしを預かってくれることになったのだった。
幸いあたしは家事が出来なくなってしまったお母さんの代わりに料理も洗濯も出来たから、日中は一人きりでも問題なかった。
「はい。スターリープロモーションの藤村です」
裕美さんは電話に出る時、有名な芸能事務所の名前と一緒にお母さんの旧姓を名乗った。
裕美さんは当時駆け出しの芸能人のマネージャーをしていて、忙しい合間を縫ってなんとかあたしの面倒を見てくれていたらしい。
電話に出る裕美さんの声を聞くたび、あたしの頭の中に、いつも孤独から救ってくれたテレビドラマが流れる。
エンドロールには、スターリープロモーションの名前も刻まれていた。
お母さんが入院して、あたしはこれからどうなるのだろう。
どこに行っても望まれないあたしは、この先生きていけるのだろうか。
不安でいっぱいになったあたしは、目の前に急に浮上した現実味のない希望に触れてみたくなった。
覚悟なんてなかったのかもしれない。
あれは、溺れた子どもが必死で水面に手を伸ばすようなものだった。
「ゆみさん。あたし、芸能界に入ってみたい」
ある日急に思いついて伝えてみたその一言が、すべての始まりだった。
芸能界に入れば、物語の世界の主役になって辛いことしかない現実を忘れられるし、それに――
歌を歌えば、もう会えないお母さんが、いつかどこかで聞いてくれるかもしれないから。
裕美さんは驚いたように私を見て、それからしばらく黙り込んだ。
やがてあたしが裕美さんからの返答を諦めかけた時、赤い口紅を引いた唇が静かに開いた。
「あなた、今までやりたいことなんて何もできなかったでしょう。いいわ。やってみなさい」
そう言ってから、覚悟を決めるように唇をきゅっと結んだ裕美さんの表情を、今でも覚えている。
「……私が、あなたを守ってあげる」
ああ、あたしはきっと、この人のことを大好きになる。
そう直感した。
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