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第27話 本当に望むものは

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「……なるほど。あなたの考えももっともです」

 丁寧な口調に戻して微笑みかけると、魔女は興味深そうに片眉を上げた。

「同意していただけるのですか? さっきまで、私に敵意を抱いているように見えましたが」
「いえ、むしろあなたの話を聞いて安心しました」

 俺は平静な声で魔女に語り掛ける。
 穏やかで無害そう、それでいて押しの強い態度は、俺が仕事の中で身に着けた数少ないスキルだった。
 ……いや、実際にはなんだか良心が痛んであんまり使ったこともないんだけど。

「今の話しぶりを聞く限り、少なくともあなたはマイを――人魚の肉を食べる気でここに置いているわけではないのでしょう。それに、今のところ軍事利用をする気もない」

 魔女の話を振り返ってみると、どうやらこの地は他の魔女が支配している領土もあるらしい。マイをここに置いているのは、兵器の役割も果たす価値ある『人魚』を保有し、他の領土に力を示すためでもあるということだ。
 それは防衛のためであって、侵略のためではないのだろう。
 少なくとも、今のところは。
 魔女は魔女なりの倫理観を持ってマイを利用しようとしている。
 ということは、根っからの暴君ではないのだ。
 対話を試みることはできる。――少なくとも、時間稼ぎ程度には。

「俺はマイに助けられた身ですから、あまり酷い扱いをされているようなら黙ってはいられないと思っていたのですが。そうではないのなら、部外者である俺が何か言うことでもないでしょう」
「物分かりが良くて結構です。それでは、牢へと戻ってください」

 魔女は興味を失くしたように俺から視線を逸らすと、指を鳴らした。
 それに応じて部屋のドアが開き、廊下から警備兵が二人入ってくる。
 ――待機させてたのか。

「お前、いつの間に牢のスペアの鍵を奪った!」

 どうやら鍵がひとつなくなっていることには気づいていたらしい。
 まさか夢見に掠め取られていたとは思っていないだろうが。

「あなたがたに捕らえられる前、廊下に落ちていたのをたまたま拾ってたんです。
 すみませんでした。今渡しますから」

 気色ばむ警備兵にびくついているふりをして、そろそろと下手に出つつそちらに歩み寄る。
 警備兵は俺を警戒している。牢にぶち込んだ時とはまた違った顔だ。
 彼らの中での俺が、ただの無力なコソ泥から、なんらかの手段で牢を抜け出した謎の人物に昇格したせいだろう。

 加えて、彼らが持っている武器は腰の剣だ。
 おそらくこの場所では魔女の許可がないと抜くことはできない。
 魔女と話している中で薄々感じられたが、彼女は会話や振舞いにおいても主導権を握りたがる、支配欲の強いタイプなのだろう。
 絶対的な力を誇示するために、軽率な命令はしない。
 ここで警備兵に剣を抜かせれば、俺を脅威として認識していることになる。

 相手が持ってるのが飛び道具じゃなくて助かった。
 おかげで、数秒の時間が作れる。
 あとは一か八か、賭けてみるだけだ。

 俺は警備兵に向かってのろのろ歩きつつ、ポケットに入れた鍵を探るそぶりを見せてから――
 急に方向を変えると、素早くベッドに駆け寄り、枕元へと手を伸ばした。

「お前、何を……!」

 指先が冷たいガラスに触れる。
 ……届いた!
 兵士たちに捕まるよりも早く目的の小瓶を掴み、俺はすぐさま窓の外へと投げた。

「なにをするのです!」

 魔女の悲鳴じみた声も届かず、小瓶は夜空めがけて跳んでいった。

「マイ、ちゃんと受け取れよ! で、すぐに逃げろ!」

 俺は窓の下に届くよう声を張り上げながら、後ろから伸びてきた警備兵の腕を、身体を捻ってなんとか避ける。

 ……すごくないか俺!?

 謎の反射神経を発揮してしまった。
 多分高校生の頃の体育の授業の時より機敏に動いてた。
 この勢いを殺さないまま窓枠に手をかけ、身を躍らせて――

 直後に襲ってきた、腹の底がひゅっと浮くような落下の感覚に、俺はやっと我に返った。

 ――しまった。

 映画だ何だと考えていたせいか思わず映画俳優ばりのスタンドを演じてしまったが、俺はただのしがないサラリーマンだった。
 こんな高い階にある窓から躍り出て華麗に地面に着地するなんて芸当が出来るわけもない。思いきり両足で窓枠を飛び越えてしまったせいで、今さら登ってきた梯子に足をかけることもできない。

 落ちる。地面が近づく。
 登ってきた梯子を掴もうと手を伸ばし、一瞬触れたが掴めなかった。
 さすがに無事で済む高さではない。現実だったらきっと、何かを考える間もなく天国に行けるような高さだろう。

 一瞬のはずの落下の時間は永遠にも思えた。
 焦りながらも、ふいに走馬灯のような連想が頭をよぎる。

 以前ニュースで見た、どっかの国の祭り。高い塔から猫が落とされ、トランポリンで跳ねてから無事着地する。
 ……駄目だ、応用はできない。安全は確保されるがトランポリンから下りるのに手間取って逃げられない。
 それなら、学校の避難訓練。ベランダから布製の滑り台のようなものを伝って滑り落ちていく生徒たち。下には白いマットが敷かれていた。

 そうだ、マット!
 落ちるよりも先に、衝撃を吸収するようなものを想像して、具現化することが出来れば――

 夢とは思えないほどリアルな風の抵抗にぞっとしながら、俺は目を閉じた。
 想像しろ。想像しろ!
 避難訓練で使っていたマットはたしか真っ白で、体育の時間で使うマットよりも厚みがあって……
 そういや、あれって見た目ちょっと豆腐みたいだよな?

 そんな考えが頭をよぎってしまったのが運の尽きだった。
 もったりしたプールに頭を突っ込んだような衝撃が俺を襲う。
 豆の匂いと、白く染まった視界。
 幸い予想していたよりも身体は沈み込まず、ちょっと腰が痛い程度だった。

「豆腐くせえ……!」

 もたつきながらもなんとか立ち上がる。
 目の前では、マイと夢見が驚いたような表情で俺を見つめていた。
 俺はマイが胸元にさっきの青い光を閉じ込めた小瓶を抱えていることを確認して、ほっと胸をなで下ろした。

 いや、そんな風に安心している場合じゃない。頭上から怒号が聞こえる。
 俺は振り向きざまに慌てて側にあった梯子を蹴って外した。
 まさに梯子を伝って降りてこようと身を乗り出しかけていた警備兵二人が、悪態をついて窓から離れたようだった。

 どうやら俺に倣ってこのでっかい不気味な豆腐に飛び込む勇気はないようだ。
 意気地なしめ。
 これで少しは時間が稼げるだろう。
 城の階段を駆け下りてここに来るまで、どんなに急いでいても数分はかかるはずだ。
 今のうちに早く逃げなければ。

 ……それにしても高野豆腐くらいの硬さの謎豆腐でよかった。
 絹絹豆腐だったらたぶん助からなかった。
 夢の中で豆腐に突っ込んで落下死なんぞ御免だ。

「うわあ……また珍妙なもの出しますね」

 全身豆腐まみれで白和えのような有様なっている俺を眺めながら、夢見がちょっと引いている。

「うるせえな! それよりさっさと走れ、追ってくるぞ!」

 頷いたマイの手を掴み、とにかく城から離れようと走り出す。
 けれど木々の間からゾンビの姿を見つけて、俺は一瞬立ち止まった。
 ――くそっ。

 方向転換しようとしたところで、逆にマイに手を掴まれる。

「っ、おい……!」

 柔らかい掌と、しっかりとこちらの手を掴んでくる細い指にどきっとする暇もなく、マイは確信をもってどこかへ俺たちを案内した。

 ◆

 足音に気を付けながらしばらく走り、たどり着いたのは静かな入り江だった。
 やけに大きな月が辺りを照らし、夜空を映して揺れる波間にもきらびやかな光を投げかけている。

 周囲はコの字型の岩肌に囲まれるようになっていて、ゾンビの姿はない。
 マイは安心したように俺の手を離した。ゆったりと走ってついてきた夢見も足を止め、辺りを見回す。

 どうやらここは安全地帯らしい。
 マイはくるりと俺の方を振り向くと、小瓶を握った右手を振り上げた。
 そしてそのまま近くにあった岩へと勢いをつけて叩きつける。

「うおっ!?」

 ガラスが割れる音が高く響いたあと、割れた小瓶の中から、薄青い光をまとった水晶のようなものがふわりと浮かび上がる。
 マイは薄桃色に色づいた唇を開けると、それをぱくりと食べた。
 さながら妖精の食事といった幻想的な光景に、改めてここが童話じみた夢の中なのだと実感する。
 こくりと小さく喉を鳴らしたあと、マイが再び唇を開く。

「……ありがとう。声を取り戻してくれて」

 高く澄んだ声。
 現実では何度も聞いているはずなのに、なぜか酷く懐かしいような気がした。
 いつもはよく通るはずの声が少し潜められているのは、彼女の声に惹かれて寄ってくるという魔物――ゾンビを気にしてのことだろう。

「いや。喋れるようになってよかったな」

 実は小瓶の中身が声じゃなかったパターンを密かに恐れてはいたのだが、そんなことはなかったようだった。
 夢の中は予想がつかないものだが、同時にセオリーに弱いものでもあるらしい。

「この後はどうするんだ?」
「海に帰るよ。久しぶりだから、ちょっと不安だけど」

 マイがはにかんだような笑みを浮かべる。
 気が付けば、この夢の中で出会ってからずっと人形のような透明さをたたえていたその瞳が、いつの間にか確かな意思を持って輝き始めていた。

 マイが海の方へと一歩踏み出す。

 おとぎ話の人魚姫は、確か惚れた王子のために人間の足を得たことになっていたが、マイの夢にその設定は踏襲されてはいないらしい。
 俺たちを助けてくれた時もそうだったように、自在に人魚の姿になれるのだろう。
 変幻自在に姿を変えられるその特性は、プライベートと仕事で徹底的に顔を使い分けているマイの性質を表しているように思えた。

 海に帰ろうとするマイの後ろ姿を見守りながら、俺は夢見に小声で話しかける。

「なあ夢見。声が探してたマイの『希望』なら、そろそろ夢から覚めるはずだよな? 前回もたしかそうだっただろ」
「そうなのですが……どうやら、この夢にはまだ続きがあるようですね」

 どこか苦い口調で夢見が言った直後――

「無駄なことはおやめなさい」

 凛とした声があたりに響き渡った。
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