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第六章 「仕事の秩序を乱す奴を、いくら同僚でも見逃すわけないでしょ」

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 Ⅰ

 アチラは自身が担当している部屋、通称「通るべき者」で、一人の転生者と向き合っていた。
 つまり、仕事中である。
 今回の場合は、シノビやユウが担当している仕事を回してもらっているわけで。普段はアチラの仕事では相手にしない転生者を相手にしていた。
 ちなみに、今回はシノビが本来担当している案件の一つであった。
 アチラはスマートフォンの中身を確認しつつ、質問を繰り返し、転生者の言葉に耳を傾けた。

 ――今回の転生者は、二〇代半ばとまだ若く亡くなった青年であった。

 原因は、過労死。いわゆるブラック企業に勤めていて、身体に無理が祟ったのだろう。彼曰く、出勤しようと家を出た瞬間、意識が途切れ、気がついた時にはこの空間にいたと言う。
「こちらは死神のアチラです。あちらに行くのにあなたが相応しいか、判断しにコチラに伺いました」
 アチラがお決まりの台詞を吐いても、彼は呆然とそれを見つめているだけであった。

 ――生きる気力をなくした、そう言っているかのような姿だったのだ。

 アチラは目の前にいる彼を見つめる。それから、スマートフォンの情報に目を落とした。
 情報にも問題なし、素行も問題なし、オールクリア……。久々にこんな転生者を相手にしたねえ。
 アチラは何となく感動してしまった。自分の心が疲れているのだろうか。厄介な者を相手にしていないだけで、心が洗われていく気がする。
 さーて、上の許可も降りたことだし。
 アチラは青年へ声をかける。
 彼の名は、水無瀬みなせ海璃かいりと言った。
「……ねえ、海璃。君はアニメやゲームが好きかい?」
 アチラは今までよりも優しく問いかけた。
 だが、青年は唐突な質問だったからなのか、曖昧な返答をするだけだ。言葉にならない声を発し、それ以外を口にはしない。
 アチラは続けて問いかける。
「君は、生まれ変わるとしたら、生前と同じ世界が良いかい?    それとも――」
「……僕は、幸せになってはいけないんだ。僕が悪いから、会社は、上司はっ……!」
 アチラはそれを聞いて目を見張る。だが、それはほんの一瞬で、すぐに蒼い瞳が細められた。
 ……なるほど。
 アチラの中で、ようやく合点がいった。
 ずっと疑問だった。何故、アチラが――いや、シノビやユウが担当している仕事に、彼のような転生者が回ってきたのか。
 普通なら、こんなに問題ない転生者はカズネが担当しているはず。彼には何一つ問題点は上がらない。だが……。
 アチラは再度スマートフォンの情報に目を向けた。
 いわゆるブラック企業に勤めていた彼は、その会社の中でパワハラを始めとしたハラスメントの数々を受けていた。おそらく、その中で次第に自信がなくなっていき、あろうことか「すべて自分が悪い」とまで思うようになってしまったのだろう。
 アチラはやれやれと心中で思う。目の前にいる青年には悟られないように配慮した。きっと、彼は気にするだろうから。
 典型的ではあるものの、これは酷いものだよねえ……。パワハラ、セクハラ、モラハラ……、ハラスメントのオンパレードって……。久しぶりに見たよ、こんなやばい会社。
 アチラは情報に目を通しつつ、肩を竦める。よく勤めていたものだと、心底感心する。即刻辞めてもおかしくない状況だというのに、それでも続けていたのは何かしらの理由があったのだろう。もしくは、自信がなくなったことにより、そこまで考えられなくなっていたのかもしれない。
 アチラは少しだけ息をつく。きっと、ため息をつけば、彼は気にするだろうから、隠すようにして一つついたのである。それから、言葉を選ぶようにして、アチラは言葉を紡いだ。
「……海璃、君は確かに良くないことをしている。君のせい、そう言うのは語弊があるけどね」
 アチラの言葉に、海璃はビクリと身体を震わせた。
 海璃は項垂れ、弱々しく言葉を発する。
「やっぱり――」
「それだよ」
 すぐに海璃の言葉を遮って、アチラは言葉を紡いだ。
 海璃は突然のことで、小さく「え」と発するだけであった。呆気にとられているようで、目を何度も瞬いている。
 アチラは安心させるかのように優しく微笑んだ。
「君が今までどんな酷いことを受けてきたのか、俺は表面上なら知っている。けど、それは君が悪いわけではないと、はっきりと言うことができる。そして、君が悪いとするなら、それはその君が君自身を追い込む行動だ」
「ぼくが、ぼくを……」
「誰かに否定ばかりされていたら、自信はいつかなくすだろう。それは周囲の者たちが悪い。そして、その自信をなくした経験については仕方がないと思うよ。……ただ、確実に言えることは、幸せになってはいけない者など、誰一人として存在していないということだ」
「……っ!」
 海璃が息を呑む音が、アチラにはしっかりと聞こえた。
 アチラはそれに気がつきつつも、触れることなく言葉を続ける。
「君には、幸せになる権利がある。転生する権利も、今目の前に存在しているんだ。……俺に、君が第二の人生を歩けるように、その手伝いをさせて欲しい。そのために、君がどの世界に転生したいか、教えて欲しいんだよ」
「……僕が、選んで良いの?」
 海璃はまだ困惑しているようだ。子どもが許可を得るかのように、アチラを見つめる。まだ、言葉を信じ切れていない部分もあるのだろう。
 アチラはニコリと彼に笑いかけた。アチラにしては珍しい行動である。それだけ、目の前の青年を安心させたいのだろう。
 アチラは言葉を選びつつ、口を開く。
「……本来、選択権はあまりないんだけどね。これは、今まで頑張ってきた君へのご褒美だ。好きなほうを選択して良いよ。その意思を、俺は尊重する」
 アチラが言い終えれば、海璃は静かに涙した。声も上げずに、一筋流したと思ったら、とめどなく溢れて零れていく。
 アチラはそれを静かに見守った。彼を見つめるその眼差しは、とても優しいものである。
 ……今まで頑張ってきたんだ、身も心も殺すようにして。なら、少しぐらい、わがままを通すのも、悪くはないだろう……?
 アチラは海璃が落ち着くのを、優しく微笑んで見守った。その空間は、とても穏やかで、温かいものであった。

 ――海璃が、転生先を決断した理由は、アチラと彼以外知る由もなかった。



 Ⅱ

 アチラは海璃を転生先に送る。しっかりと見届けた後、アチラの口からは自然とため息が出ていた。
 アチラは一旦休憩とばかりに、自身の革張りの椅子にドカリと腰掛ける。長く息をつきながら、天井を見上げた。
 ――考えるのは、先ほどの転生者のこと。
 何も前科もなく、周囲の環境によって苦しく辛い経験をした後に、潰されてしまった彼。

 彼が、何故シノビの担当だったのか――。

 ……考えられる理由としては、一つ。
 アチラは身体を起こして、椅子の上であぐらを組むかのように片足だけを椅子の上に引き上げた。肘掛けに頬杖をつき、考えを頭の中でまとめていく。
 ……カズネが担当だったなら、彼を潰しかねない。
 アチラはつい先日対峙した、第一の階層を任せられている同僚のことを思い出す。
 彼女は誰が相手だとしても、手厳しい。悪気があるのかないのか、真相は定かではないが、一言一言が胸に突き刺さるほど、痛いところをついてくる。人によっては、その言葉に傷つく者もいることだろう。もっとも、アチラは特に気にしたことはなかったが。
 前科もなく、周囲の環境によって、ただ理不尽に潰された彼を、わざわざ第二の階層を担当しているシノビに任せた理由はおそらく――。
「……おそらく、これ以上彼を傷つけないようにするため」
 アチラは予想をポツリと言葉にした。
 彼女は手厳しい。人によって、言い方や態度を変えることなど、一切しないことだろう。それこそ、先の転生者である青年に何を言うかは検討つかないものの、再起不能にしていた可能性もある。
 アチラはやれやれと首を振った。
 俺ですら、少しは接し方を考えるというのに……。だから、第一階層を任せられているんだろうけど。
 アチラは失礼なことを考える。
 良く言って真面目で規律正しい性格、悪く言って他人に気を遣えない自分勝手な性格といったところだろう。だからこそ、彼女は第一階層から変わることなく、ずっとその場所を担当させられているのだと、アチラは考えたのだ。
 少し考えれば、それこそ俺を超えるのは簡単だと思うけど……。ま、負ける気はしないんだけどねえ。
 アチラはそこまで考えてから、「それにしても、」と一人呟いた。誰もその言葉の先を促す者はいないが、彼は気にすることなく独り言を続けた。
「……ようやく、理由が分かった」
 アチラは蒼い瞳を細めた。

 ――ずっと疑問だったのだ。

 以前、局長が部屋に呼んだのは、アチラとユウの二人だけ。それは、今後仕事が忙しくなるかもしれないというものだった。それなのに、シノビも仕事に追われ、最終的に倒れそうにまでなっていた。
 アチラの手元に来ている、本来シノビとユウの仕事だった案件の数を見ても、それは酷いものだった。アチラでさえ、自分の仕事の量を見ても嫌になるというのに、同等の数をあの真面目代表であるシノビとユウが担当しているなど、それこそ過労死一直線である。
 だが、本来シノビに関しては、仕事の量が少ないはずだった。
 局長であるレイが懸念していたことは、アチラとユウの仕事の量が格段に増えることであった。シノビについては、何も言っていなかったのである。
 アチラはそこまで考えて憶測を立てる。
 おそらく、本来カズネが担当すれば良いはずの仕事を、どういうわけかシノビに回している……。
 アチラは目を細める。その蒼い瞳には、怒りが込められていた。
 ……しかも、局長は分かっていてシノビに回しているだろうしねえ。
 それが打開策だと思っているのかもしれない。

 だが――。

 アチラはため息混じりに告げる。
「……本当、困った子だねえ」
 アチラの声は、低く冷たかった。
 その声は誰にも届くことはなかったが、誰かが聞けばきっと背筋が凍ったはずだ。それほど、冷たく、厳しいものであった。



 Ⅲ

 アチラはローブのポケットに手を伸ばし、スマートフォンを取り出す。だが、アチラが電話をかけるより先に、一本の電話が鳴り響いた。相手を確認したアチラは、「お」と嬉しそうに声を上げた。自分がかけようとしていた相手で、待ち望んでいた相手でもある。嬉しさのままに、ワンコール以内で電話に出た。
「はい、こちらは死神のアチラです。ナイスタイミングだねえ、局長」
『……そうまで嬉しそうに声を出されると、気味が悪いな』
 ――電話の相手は、アチラたちの上司である、レイ局長であった。
 レイは今頃、きっと電話越しで眉をこれでもかと寄せていることだろう。アチラはそれを思い浮かべて笑いだしそうになったが、何とか堪えることに成功した。ここで期限を損ねて電話を切られては困るからである。
「で、用件は?」
 アチラは自分の用件を告げる前に、局長の用件を聞くことにした。早々に話を切り出したいため、局長の用件をさっさと終わらせたいのである。
 局長であるレイは、気分を害した様子もなく、淡々と告げた。
『アチラ、お前、<>に行ってこい』
 アチラはその言葉を聞いて、ピシリと固まった。思いもよらない言葉に一瞬反応が遅れるも、すぐに正気に戻りスマートフォンに向けて叫ぶ。
「はああああああああ!?    なんで、俺が『奈落』に!?    絶っっっっっっっっ対、嫌だ!」
『駄々をこねるな。様子を見て来いと言っているだけだろうが』
 アチラの主張を、レイが冷たく跳ね除ける。だが、アチラは断固として頷かなかった。
「嫌ですけど。あそこには、がいるんだから、絶対に行きたくない」
『お前以外に行ける者がいないだろうが』
 レイの言葉に、今まで断固拒否の姿勢を貫いていたアチラがぐっとたじろぐ。アチラはぐぬぬ……と静かに葛藤した。
 レイはさらに続ける。
『お前が一番詳しく、そしてすべての情報を理解している。お前ほどの適任者はいないと思うが?』
 アチラはさらに葛藤した。呻き声のような、唸り声のような声が口から絶え間なく零れ出ていく。
 分かっている、分かっているけど……。俺しか行けないのも事実だけど……!
 アチラはぐぐぐっ……と言いたいことをすべて耐え、やがて盛大に息を吐き出した。それから、やけくそになりつつ声を荒らげる。
「……分かった、分かった、分かりましたよ!    行けば良いんでしょ、行けば!    けど、今日は行かないから!」
『いつでも良い。……だが、少し気になることがあってな。何かが起こっているのであれば、すぐに対処したいところだ。報告を待っている』
「気乗りはしないけど、はーい、了解です。……で、俺の用件に入って良い?」
 アチラは局長の用件が済んだと分かると、早々に話題を切り替えた。これ以上考えたくないことはさっさと切り替えるに限る、そう考えたのだ。大体にして、元々こちらの用件はこれとは別にあるのだから。
 俺の言いたいことを言えずに終わることだけは、マジで勘弁……!
 アチラの言葉に、レイは諦めがついたのか、盛大に息を吐くだけで咎めようとはしなかった。代わりに、短く話を促すように言葉を紡ぐ。
『……なんだ』
 レイの言葉に、アチラはホッとしつつも、早々に話題を切り出す。
「……シノビの仕事のことなんだけど」
『……ああ』
 レイの声に緊張が走る。
 アチラはそれに気がつきつつも、触れることなく用件を切り出した。
「カズネの仕事を回しているんじゃない?」
 アチラは直球で問いかけた。
 ハッキリと断言するアチラに、局長はふっと返す。どこか安心したような、それでいて「気がついてしまったか」とでも言いたげな様子である。もっとも、姿は見えないので、アチラの憶測でしかなかったが。
 レイは困ったように言葉を紡ぐ。
『……お前には、お見通しか』
 アチラはそれにため息混じりに言葉を返した。
「当たり前でしょ。シノビは気がついているの?    何も言わないわけ?    ……不思議だったんだよねえ、シノビの仕事がなんでそこまで忙しいのか。忙しくないとは思っていないけど、俺やユウと同等の仕事量が回ってきているっていうのは明らかにおかしいし、カズネの仕事量はそこまでじゃないはず。むしろ、暇なぐらいでしょ」
 アチラはハッキリと断言した。

 ――それもそのはず、実はアチラ、局長に電話をかける前に情報管理部に問い合わせていたのである。
 率直に聞いたところで教えてくれないだろうと踏んだアチラは、「仕事の割り振りがしたいから、現在の全員の仕事量を教えて欲しい」と伝えていた。疑うことなく、すぐに対応してくれた情報管理部から送られてきたデータを確認すれば、アチラは唖然としてしまったのである。
 アチラが貰ったのは、各自が現在対応している仕事量の数のみ。だが、それだけでも驚いてしまったのだ。むしろ、愕然とした、が正しいかもしれない。
 名前が最初に挙がっていたのは、当然、アチラであった。ユウやシノビの仕事も請け負っているのだ、それは間違いないだろう。それぐらいは把握済みである。次いで、ユウの名前が挙がった。それも予想通り。
 だが、ここから番狂わせであった。次いで名前が挙がったのが、シノビだったのである。第三階層を任せられている「執行人」と、倍以上の仕事量を請け負っていることになっていたのだ。
 さらに、最後に名前が挙がっていたのは、カズネで。それは予想通りであったが、カズネが担当している案件は、第三階層の「執行人」を遥かに下回る数字であった。シノビの件数と比べてみれば、四分の一程度と見て良いほどだ。
 さすがにおかしすぎる、そう思ったアチラは、局長に問い合わせることにしたのであった。

 アチラはさらに言葉を紡ぐ。
「……シノビは人一倍優しい。表情には出にくいけど、俺たちの中では、ダントツで真剣に話を聞いてくれるだろうし、対応してくれる。俺が今相手にしたような転生者なら、間違いなくシノビが適任だとは思うよ」
 アチラは局長に思い出しつつ語る。先ほどの転生者に関しての結果は、すでに局長であるレイにも共有されていた。誰を相手にしたのかは、上司である彼女も把握済みだろう。
 だからなのか、レイがアチラに聞き返すことはなかった。電話越しに静かに話を聞いているだけである。
 アチラは局長が何も言わないことを良いことに、さらに続けた。
「……けど、もし、今後もそんな仕事のやり方を繰り返すなら、階層分けした意味がない。シノビには、シノビの仕事がある。彼の担当は、第二階層。第一階層の仕事ではない。そんなことで、シノビが潰されてしまえば、それこそ困るのは俺たちだ。こちらのメンバーに問題があって、仕事を勝手に操作されるのは困るんだよ。……今後も、こんなことで仕事のバランスを崩すぐらいなら、俺はハッキリと言わせてもらうよ」
 アチラは一度言葉を区切る。目の前には誰もいないが、局長が目の前で立っているかのように、鋭い蒼い瞳を前方に向けて言い放った。
「――カズネを、第一階層の担当から外して欲しい」
 その言葉を聞いたレイは、すぐに反論をしてくる。
『お前の言いたいことは分かる。だが、カズネを外せば――』
「負担が回って来るって?    そんなこと分かり切っている。けど、今の状態を続けて、シノビが潰れるぐらいなら、カズネを外したほうがマシだ。有能な人材を潰すことが、ここのやり方なら、それこそブラック企業と同じだよ。なんなら、カズネの仕事も俺に回してくれて構わないよ。……仕事の秩序を乱す奴を、いくら同僚でも見逃すわけないでしょ」
 アチラはお構いなしにハッキリと告げた。彼の意思は固い。それに比例するかのように、彼の瞳も蒼く鋭く輝いていた。
 前方へ向けられた視線が、目の前にはいないはずのレイに突き刺さる。それはさらにカズネへも向けられている気がした。
 できない奴のために、できる奴が苦労するなんておかしい。シノビは、シノビの仕事に専念させてあげねえと。……カズネが直さなきゃ行けないところを、これ以上無視してたまるか。

 ――この現状を、見逃していいはずがないのだ。

 アチラはこう考えていた。
 カズネの言い方や態度が改善されないから、仕方がなくシノビに仕事を回している。だが、その結果、シノビが潰れそうになっている。
 ならば、今、現状を理解しているアチラがしなければいけないことが、少なくともいくつかはあるということだ。
 一つ。シノビが倒れないように、本来カズネが担当している仕事を元に戻すこと。
 二つ。カズネが上からも問題視されないように、転生者への接し方を改めるように指示すること。
 三つ。それでも改善されない場合は、カズネを除いたことを検討し、仕事の分担及び後継を作ることを考えておかなくてはいけないこと。

 アチラはそこまで考えて、レイに直談判しているのである。
 意思のこもった物言いに、レイは沈黙する。やがて、電話越しに深いため息が発せられ、アチラの耳元に届くのであった。



 IV

『……分かった。カズネには少し話をする。まったく、お前とカズネはどれだけ仲が悪いんだ』
 その言葉に、アチラはムッとして言い返す。
「酷いなー。向こうが勝手に敵視しているだけだよ。……もっとも、そんな仕事のやり方しているんだったら、負けるつもりも譲るつもりもないけどねえ」
『何か言ったか?』
「何もないでーす」
 アチラの最後の言葉は、小声すぎて局長であるレイの耳元には届かなかったらしい。聞き返されたが、アチラはそれをひらりと躱した。
 アチラはカズネを思い出し、そこにはいない相手を捉えるかのごとく、目を細める。
 ……いくらでも相手してやるよ、俺と同等の仕事ができるようになったら、だけどねえ。
 アチラは隠れるようにクスリと笑った。それから、レイに向かって告げる。
「……じゃあ、頼んだよ、局長」
『カズネと話をしたら、また報告してやる。それと、〈奈落〉の件、忘れるなよ』
「うえー……」
 上司から返ってきた言葉に、アチラは隠すことなく嫌な顔をした。嫌な仕事のことを思い出して、気が重くなる。
 それ以上、何も言うことなく、局長は電話を切った。
 電話が切れたことを知らせる音が、スマートフォンから鳴り続けている。アチラは切れた電話の画面をじっと見つめたまま、肘掛けについていた手を外して、自分の腹部辺りに手を置く。スマートフォンを顔の上で掲げて、画面を切る。真っ暗な画面の中に映る自身に言い聞かせるかのように、彼は口を開いた。
「……ま、これでシノビの負担が軽くなるんだったら良いか」
 アチラは安心したように呟いた。

 だが――。

「けど、それはそれとして……、『奈落』には行きたくねえ!」
 上司の言葉を思い出して、一人で大声で騒ぐ。


 ――どこまでも、締まらない青年であったのだった。
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