僕の愛しい廃棄物

ますじ

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私の悪夢を叩き壊して

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 重い体を引きずりながら脱いだジャケットをラックにかけると、帰宅してすぐスイッチを入れていたスピーカーから音声が流れ始めた。また今日もこの時間が来たらしい。夕食は後回しにしてソファーに崩れ落ち、音声に意識を集中させる。
『……てんじゃねぇぞ、おい! 稼いだ金これっぽちじゃねえだろ、さっさと出せ!』
 はじめはノイズ混じりだった声もだんだんと鮮明になっていき、一字一句はっきりと聞き取れるようになる。お前の声はいらないんだよ、うるさいな。聞こえるわけもない相手に向かって毒を吐く。しばらく男の罵声が続いたあと、弱々しい悲鳴と嬌声が聞こえてきた。
「あ……」
 心臓が跳ねる。血液が沸騰して体の奥が焼けるような感覚。これが怒りなのか、それとも別の何かなのか、脳内物質に酔い始めた頭では判断できない。
『ぁ゛、あ、……め、なさ、ごめんなさ、っ、ぐ、ぁあ゛っ、ぃ゛っ……』
『何泣いてやがんだ、なあ? 大人しく股だけ開いて可愛く喘げねぇのか? 本当にあの女そっくりだな!』
『ひっ、ぃ゛、ごめ、なさっ、ぁ゛、ぃ゛たい、いだ、ぁ゛、あぅ゛うっ……』
 ああ、また始まった。今日は少しあの子の元気がないみたいだ。心配になったが、手は自然と下半身に伸びる。ズボンの前を寛げて、中からすっかり勃起したペニスを取り出した。男のやかましい罵声は脳から弾いて、控えめに洩れる苦しげな嬌声に集中する。
『ぁ、あ゛、……っ! や、やだ、それいや、いややっ、お、おねが、ゆるし……ひぎゃっ!!』
 急に甲高い悲鳴が上がり、控えめだった嬌声が激しいものに変わる。それと同時に機械のモーター音も流れて来たため、何が起きたのかなんとなく想像できた。それにいっそう興奮が高まり、握った性器がどくりと脈打つ。
 ああ、君の中に入れたいな。腹が膨れるくらい奥に出して妊娠させたい。男の子だって、きっと沢山愛されたら赤ちゃんも作れる。俺だったら君のことめいっぱいでろでろに愛してあげられるよ。
「はあ……っ」
『ひっ、ひぃっ! も、ゃっ、やらぁっ、ごぇんなしゃ、ひぃっ! ごぇ、ぁ゛ッ、あ゛ぁああ~~ッ!!』
「はっ……はぁ……葵くん……葵くん……っ」
 譫言のように名前を呼び、勢いよく白濁をまき散らす。昨日も出したおかげで勢いはそれほどなかったが、机にも大量に貼られた写真のひとつにかかってしまった。ああ早く綺麗にしないと。そう思いながら、いまだ続く嬌声に意識が持っていかれる。葵くんが悪いんだ。そんな可愛い声を出して、俺のことを誘うから。
『も、やっ、やらぁ゛、ゆるひて、ぁ゛、あ゛ぁっ、ひ、ぐっ、ぅ゛う~ッ!』
『うるせぇ!!』
 ヒステリックな男の声と同時に、鈍い音が響き渡った。すっと全身の熱が冷めていき、俺の息子も力を失う。ほんの数秒前まで情欲にまみれていた感情が、その一瞬で怒りと苛立ちに支配されていった。
「なんだこいつ……邪魔なんだよ……」
 鈍い音はまだ続いている。葵くんの嬌声はうめき声と嗚咽に変わっていた。映像はない、ただ音声でしか伝わらないが、それでも彼がどんな目に遭っているのかは容易に想像できた。今日もまたこれだ。精液にまみれてしまった葵くんの写真を見下ろし、深くため息をつく。

 ああ……声は聞こえているのに、どうして手を伸ばせないのだろう。


 上城葵くん。彼はまだ17歳の高校生で、父親と二人で暮らしている。
 平均的な高校生より少しばかり華奢な身体と、ふわふわと柔らかくて少し跳ねた黒い髪。そして眠たそうに瞼の下がった目元や、目尻にぽつりと付いているホクロがとても可愛らしい。声質は落ち着いているが、なんとなくたどたどしい話し方が幼い雰囲気を醸し出していて、一層強く庇護欲を掻き立てられる。
 葵くんの父親は働いている様子がないので、彼が外で金を稼いでなんとか生活をやりくりしているようだ。それもまっとうなアルバイトではなく、街に出て大人を誘い、体を好きにさせるかわりに金を受け取っている。盗み聞きした会話からして、父親もそれを黙認どころか、進んで斡旋までしているようだった。子供に身体を売らせ、金を稼がせ、それを搾取している。そして自分は酒とギャンブルに溺れて借金を作り、働きもせず子供に暴力ばかり奮っているのだ。とんだクソ野郎である。
 俺が葵くんを知ったのは一年前の春だ。連日の残業と持ち帰りの仕事で疲れ切っていた俺は、その日なんとなく普段近寄りもしない繁華街にふらりと入って、適当な飲み屋にでも寄ろうと考えていた。そんな俺に声を掛けたのが、客を探していた葵くんだ。よかったら食事だけでもしませんかと誘われ、当時まだ立ちんぼやパパ活というものをろくに知らなかった俺は、本当にただ食事をするだけだと思って了承してしまった。
 そして気が付いたらホテルにいて、葵くんを抱いていたのだ。それが正真正銘、俺の童貞卒業である。行為が終わって煙草をふかす葵くんは、言動のわりにはとても幼い顔をしていた。本人は二十歳だと言っていたが、それが嘘だと知ったのは数ヵ月後のことである。
 結論からいうと俺は葵くんをつけ回すようになった。一般的にいうストーカーだ。自覚はしている。
 はじめて葵くんを抱いたあと、俺は苦手な繁華街にわざわざ出入りして葵くんを探すようになった。前回の羽振りがよかったことを覚えてくれていたのか、意外にも簡単に葵くんとは再会できた。何度か会って金を渡して、少しずつ『常連』としての信頼を構築していき、盗聴器つきのプレゼントを渡した。
 はじめはただ、盗聴器から聞こえる音声に耳を傾け、葵くんという子供に思いを馳せるだけで満足していた。さすがに葵くんが虐待を受けていることを知ったときは驚いたけれど、父親に犯されて喘ぐ葵くんの声がどうしようもなくいやらしくて興奮したのは事実だ。
 葵くんへの想いは次第にエスカレートしていって、自力で彼のことを調べ上げ、住んでいる場所や学校、行動パターンまで何から何まで把握して、部屋中の壁が埋まるほど盗撮した写真も集めて、そして葵くんをおかずに抜くという生活が続くようになった。自分でも異常だと自覚はしているが葵くんへの思いは止められないので仕方がない。好きになってしまったら、もうどうしようもないのだ。
 そのうち葵くんは客漁りの拠点を変えたのか出会うことはなくなってしまった。未成年らしき男の子が毎晩徘徊していると通報があったらしいから、きっとそのせいで移動せざるを得なかったのだろう。
 いくら今は離れていても葵くんを感じられるとはいえ、本当は直接触りたいし沢山愛したい。俺が葵くんの父親になれたらよかったのになあ。そうしたら葵くんのことあんなふうに怖がらせたり泣かせたりしないで、毎日優しくて甘いセックスだけするのに。もちろん街に立たせて客を引っかけるなんて危ないこともさせない。学校には通いたければ通えばいいし、面倒ならずっと家にいればいい。俺だったら、何も心配しないでいい環境を葵くんに与えられる。
「本当に邪魔だな、あの男」
 毎日葵くんの声を聞いて抜くことだけを楽しみに生きているのに、そのたび邪魔をしてくる煩いおっさんの声。思い出すとむかむかとした殺意が込み上げてくるので、なるべく葵くんのことだけを考えることにした。
 今日も日課となった盗聴器を立ち上げて音声を流す。どうやら家に葵くん一人らしく、忌々しい男の声はしなかった。聞こえてくるのは微かな生活音くらいだ。スピーカーからヘッドフォンに切り替えれば、より間近で葵くんの音を感じられて、まるで同じ空間にいるように錯覚した。
 いつかは葵くんを迎えにいきたい。
 正直すぐにでも児童相談所に駆け込めるほど証拠は集まっているが、それは同時に俺がストーカーであることを証明することにもなるし、もし彼が施設に入ることになったら盗聴や盗撮が難しくなる。独身の俺では葵くんを養子として迎え入れるのは難しいから、合法的に一緒に暮らすことはかなりハードルが高いだろう。
 手っ取り早い方法といったら誘拐だが、それで俺が犯罪者として捕まってしまったら元も子もない。あのタイプの虐待親は子に対しての所有欲が強いことが多いから、それを横取りされたとなれば血眼で取り返そうとするだろう。自分のしたことは棚に上げて、子を奪われた哀れな親を演じるのだ。そうなれば俺はただの異常な誘拐犯としか見られなくなる。俺が捕まってしまったら、もう葵くんを守れる人間はいなくなってしまう。
 さてどうやって葵くんを迎えにいこうか。俺にもっと権力があればよかったのに、悲しいことに俺はただのしがないサラリーマンだ。そんな俺に今の葵くんをどうにかしてやれる力はないのだ。


「はぁ……やっちまった……」
 電車を降りてとぼとぼと薄暗い住宅街を歩く。このところどうにも注意散漫で、今日はついに大き目のミスをやらかして盛大な説教を食らってしまった。気分は萎える一方で、せめて何か美味しいものでも買って帰ろうかと思ったが、コンビニに並ぶ商品を見てもこれといって食欲はそそられない。仕方がないので、新発売と書かれていた珍しい味のガムだけ購入した。
 体を引きずるようにして誰もいない自室に帰り、重い鞄を放り投げる。普段はこまめに部屋を片付けているが、ここ数日さぼりがちだったせいで随分と散らかって来た。葵くんの写真も増えすぎてそろそろ飾る場所がない。
 いつも通り盗聴器の音声を流す。今日はとくに疲れたので、早く葵くんの声が聞きたかった。仕事に身が入らないのも、葵くんのことばかり考えているせいだろう。最近、どうにも葵くんの元気がないのだ。元々彼は大きな声を出さない子だったけれど、このところ本当に衰弱しているようで心配だ。もちろん暴力は恒常的に続いていて、力のない嬌声を聞くたび胸の奥がざわついた。
「早く迎えにいかないとな……」
 今日はなかなか葵くんの声がしない。時間を確認するともうじき日付が変わろうとしている。終電ぎりぎりまで残業していたので、俺の眠気も限界に近かった。葵くんの声を聞かずに眠るのは寂しいが、今日は諦めるしかないのかもしれない。明日も仕事だ。いつか葵くんを迎えにいくためにも、しっかり働いて貯金しなければならない。
『ぁ……きょ、は、おねが……めて、くださ……』
「あっ」
 小さく掠れた声が耳に届いて、思わず体が飛び上がった。相変わらず弱々しく消え入りそうなそれに、嬉しさよりも心配する気持ちのほうが勝る。疲れも相まってか強い焦燥感に駆られた。今、こうして盗聴器から声を聞いているだけの自分にも腹が立った。
『っひ、く、も、ゃめ……ぁ゛、ぅ、う、くるし……』
 思い返せばここ数日、ただでさえ頻繁だった性暴力が悪化して毎日続いていたし、俺がいつスイッチを入れても殆どいつも声がした。つまり葵くんはろくに外にも出られないまま、四六時中この男に犯されていたことになる。あの折れそうなくらい繊細な身体に、一体どれだけの負担がかけられているというのだろう。今にも消え入りそうなくらい衰弱しきった声が、葵くんの限界を訴えているような気がした。
 俺が行動できず尻込みしていたせいで、あのこが殺されてしまうかもしれない。
 ざわざわと嫌なものが胸の奥で膨れ上がっていく。知らずのうち爪を噛んでいたらしく、抉れた指先から血が滲んでいた。
『逆らってんじゃねえぞクソガキ、殺すぞ!』
 鈍い音がする。葵くんの悲鳴はほとんど声になっていなくて、ただ弱々しい呼吸がかろうじて聞こえる程度だった。俺はお前じゃなくて葵くんの声が聞きたいんだ。邪魔だな。ほんとうに邪魔。がりがりと爪を噛みながら、視線が部屋の隅に向かう。そこに立てかけられたものを視界にとらえて、ふと、爪を噛むのをやめた。
 あ、なんだ。方法はあるじゃないか。
 ぐちゃぐちゃになっていた思考が、急激に冴え渡るのを感じた。


 丸く肥えた月に見守られながら、寝静まった住宅街を駆け足で進む。肩に下げた鞄の重さも、足の疲れや息の乱れも気にならなかった。午後からは雨が降る予報だったのに、今はからりと乾いた心地よい空気があるだけだ。別に雨だろうと雪だろうと関係なかったが、葵くんを連れ出すなら悪天候では可哀相だ。今頃くそじじいの下で震えているだろう葵くんを思うと、自然と走るスピードも速くなった。
 葵くんの住む家は幸いにもそう遠くない場所にある。最初は車で移動したが、一方通行の入り組んだ路地に当たったので、走った方が早いからとパーキングに停めた。軽く準備運動もしておきたかったからむしろ好都合だ。
 そう時間もかからず一件のアパートに辿り着く。ほとんどの部屋はすでに眠りについているようだったが、一つだけ灯りがついたままになっていた。号室は一致している。あの部屋だ。
「ふふっ……」
 誰か笑ったような声がしたが聞こえなかったふりをする。きっと俺自身だ。ここへ来るまでのあいだ暴れまわっていた心臓が、今は嘘のように落ち着いていた。
 重い鞄を地面に落とし、大振りの斧を引きずり出す。『いつか』のために購入して、いつも丁寧に磨いていたものだ。刃先が月明かりを受けて美しく輝いている。
 古い階段は随分と錆びついていて、一段昇るごとにぎしぎしと軋んだ。葵くんは二階の一番奥の部屋にいるはずだ。斧を両手に握りしめ、老朽化した扉の前に立つ。
「……ふぅ」
 一度、深呼吸をする。ここからは力仕事だ。重心に気を付けて地面を踏みしめ、大きく斧を振り上げる。鈍い音がして、刃先が少しだけ扉に埋まった。想定していたより脆い扉で助かった。斧を引き抜いてもう一度叩きつける。今度は完全に突き抜けて大きな穴が開いた。俺一人くらいなら通れそうだ。今日ばかりは、身体が大きいほうではなくてよかった。
 破片で怪我をしないよう気を付けながら潜り込み、靴のまま部屋の奥を目指す。中は狭いワンルームになっていて、こちらを見て固まる人影が二つ見えた。一人は見間違えるはずもない、俺の愛しい葵くんだ。やっぱり怪我をしているようでぐったりしていた。もう一人はそんな葵くんに覆いかぶさる中年の男で、いまいち焦点の合わない濁った眼をして俺を見ている。
「葵くん! よかった、無事だったんだ……怪我してるね、ごめんな、来るのが遅くなった……」
「え……だ、だれ……?」
「ひどいな、俺のこと忘れたの? 逸見だよ。ほら、俺の童貞、貰ってくれたじゃないか」
 葵くんの目が少し動揺したように揺れる。一応は俺のことを思い出してくれたらしく、あのときの……とぼそぼそ呟いていた。なにはともあれ葵くんの無事は確認できたので、あとは仕事を終わらせるだけだ。
 もう少し騒がれるかと思っていたが、意外にも部屋の中はしんと静まりかえっていた。突然斧を持った男がドアに穴をあけて現れたのだから、当然といえば当然なのかもしれない。唖然としている男の前に立ち、肩に担いでいた斧を握り直す。男の背後にある窓からは相変わらず丸い月が俺を見下ろしている。自然と気分がよくなった。
「あ、ま、まってくれ、た、たすけっ、殺さないでくれぇっ!!」
「うるさ」
 扉とは違う固いものに刃が深く埋まった。

「……っ、ぁ、あの……は、やみ……さん……?」
「んー、ちょっと待ってね葵くん。悪いけどきちんと部屋を荒らしておかないと」
 あらゆる収納をひっくり返し、少しでも金目になりそうなものは根こそぎゴミ袋に詰め込んでいく。とはいえろくなものは見つからなかったので、現金や通帳の類だけ取りこぼしがないようしっかりと探した。
「なに、してるんですか……?」
「家探しだよ。まあ、換金すると足がつくから、川にでも捨てるんだけどね」
「な、なんで……?」
「そりゃあ『借金の取り立てに襲われた』んだから、金目のもの残したら駄目だろう?」
 おおかた目についたものを集め終え、重り代わりの斧も一緒に入れておいた。最悪これが見つかったとしても、警察の手が回る前に逃げるつもりだ。とりあえず少しの時間が稼げればいい。
 葵くんはへたり込んだままで、呆然と俺の作業を眺めていた。もう怖いものは何もないというのに、どうやらまだ少し怯えているようだ。かわいそうに。それだけ深い心の傷を植え付けられてきたということだ。
「……葵くん」
「ひっ……!」
 作業を終えて葵くんに近づこうとすると、小さく掠れた悲鳴を上げた葵くんにじりじりと後退りされてしまった。もう斧も持っていないし、暴れる鬼はただの肉塊になっているのに、何が怖いのかと考えを巡らせそういえば返り血がそのままだと気づいた。臭いし汚いしこんな恰好では怖がられても仕方がない。着ていた服はゴミ袋に押し込み、適当に拝借した葵くんの服に袖を通す。俺と葵くんはあまり背丈が変わらない。しかしジム通いのおかげで俺は厚みがあるので、細身な葵くんの服はややきつかった。
「葵くん、本当に細いなあ。ちゃんとご飯食べないと駄目だよ」
「は、ぇ……」
 さっさと荷物をまとめて、未だ混乱している葵くんの腕を引く。本当はすぐに手当してやりたかったが、あまりここに長居もしたくない。簡単に汚れだけ拭って服を着させ、よたよたと覚束ない足どりの葵くんを連れて部屋を出た。
 深夜を回った住宅街はすっかり寝静まっていて、俺達の足音と息遣いくらいしか聞こえなかった。まるでこの世界に俺と葵くんの二人しか存在していないみたいで、なんだか嬉しくなる。本当にそうなってしまったらいいのに。そうすればもう二度と葵くんが傷つけられることもないだろう。
 パーキングに停めておいた車に乗り込み、葵くんの身体が冷えてしまわないよう暖房をかける。正直俺は暑いくらいだったが、葵くんが風邪を引いてしまう訳にはいかない。そろそろ桜の季節だとはいえ、夜はまだまだ冷え込む。やはり寒さを感じているのか、葵くんは小刻みに震えていた。これ以上凍えさせないよう、自分の暑さは我慢して暖房の温度を上げる。
 途中立ち寄った川にゴミ袋を投げ捨て、住宅街を外れた田舎道を進む。森の手前で車を停めて、木々の生い茂る奥に入っていく。『いつか』が来ることを想定して、念入りに下準備しておいてよかったと心から思った。葵くんはいつまでも不安そうにきょろきょろと周りを見渡していたが、俺から逃げるようなことはしないで素直に着いてきている。葵くんが賢い子で本当によかった。できれば手荒なことはしたくない。
 道なき道を進んでいけば、殆どボロボロになった家屋が一つ見えてくる。古い知り合いの伝で買い取った小屋なので、電気も水道も通っていない。水は近くの井戸から汲んで来なければならないし、灯りは火を起こさないといけないが、それでも少しのあいだ身を隠すには十分だろう。もちろん定期的に掃除はしていたので室内は綺麗だ。埃臭い布団に葵くんを寝かせるわけにはいかない。
 まずは葵くんを布団で休ませて、風呂の準備をすることにした。井戸から汲んだ水を溜めて火を起こして……原始的な工程だが、葵くんのためだと思えば苦ではない。
「少し待っててね。お風呂沸かしてくるから」
「あ……あ、あの!」
 葵くんから離れようとした途端、くいっと服を引かれてバランスを崩しそうになった。慌てて布団に手を置くと、意図せず葵くんに馬乗りになってしまう。泣き腫らした大きな瞳に見上げられ、心臓が大きく跳ね上がった。こうやって葵くんを組み敷くのは酷く久しぶりだ。声と写真で抜くばかりの生活が続いていたから、本物の葵くんを目の前にしているという事実が刺激的すぎて、今更ながら眩暈がしそうな気分になった。
「俺のことは、殺さないの……?」
「はっ……? なんで?」
「俺、ぜったい殺されると思って……そうじゃなくても、何か酷いことされるんだと思ってたから……」
 それなのに大人しく着いてきたのかという疑問と、それでも逆らうことができないくらい追い詰められてきたのか、という怒りと悲しみが同時に込み上げてきた。人はあまりにも理不尽に虐げられ続けると正常な判断力も失ってしまう。葵くんがこんな状況でも妙に大人しく冷静に見えるのはそのせいだろう。自分が殺される可能性があったとしても、それ以上の恐怖と常に隣りあわせでいたから、普通の人間みたく命乞いや逃亡を図ろうという考えに至らないのだ。
 ああ、なんて可哀相な葵くん。本当は幸せになるべきだったのに、すべてを奪われ踏みにじられて生きてきた。殺人鬼だと思っている相手から逃げるという選択さえ、この子はもうできなくなってしまった。きっと俺が本当に葵くんを殺そうとしても、大人しく受け入れてしまうのだろう。俺が救い上げてやらなければ、簡単にこぼれ落ちてしまう脆い命だ。
「大丈夫だよ」
「え……」
「もう何にも怖いことなんてない。葵くんに酷いことするやつは、みんな俺が消してあげる」
 細い体を抱き寄せ、汗ばんだ首筋の匂いを嗅ぐ。葵くんはくすぐったそうに身じろぎしていたが、力の差で叶わないことが分かったのか、すぐに力を抜いてされるがまま抱きしめられていた。
「あの……当たってる……」
「あっ」
 さすがに俺も聖人君子ではないので、愛しの葵くんを前にして興奮を抑えることはできなかったようだ。俺の下半身はいとも簡単に勃起して、へこへことみっともなく揺れて葵くんの腰に擦りつけていた。
「ごめん……駄目だな……なあ葵くん、痛くしないから挿れてもいいかい? ちょっとでも嫌だと思ったら、殴って止めて貰っていいから……」
 たまらず服を脱ぎながらみっともなく懇願すると、葵くんが顔を背けながらもごもごと何事か呟いた。ほとんど聞き取れず、もっかい言ってくれと頼み込む。俺は葵くんの嫌がることも、怖がることも、痛がることもしたくない。これから葵くんには、気持ちいいことだけを感じてほしい。
「……お、おなか、苦しくなったら……やめてくれる……?」
「……! 当たり前だろう!」
「痛いこともしない……?」
「気持ちいいことしかしない!」
「……じゃあ、少しだけ、なら」
 濡れた眼光が俺の心臓を貫く音がした。こんなのもう無理だろう。我慢できる男がいたら教えてほしい。おずおずと足を開かれて、受け入れるつもりになってくれたのだと分かるのが、また余計に嬉しくなった。
 早々に下半身の布を取り払って、葵くんも裸に剥いて、まだ忌々しい精液で濡れてる穴に指をそっと挿入する。怖がらせてしまわないよう気を付けながら、葵くんの顔や体に唇を降らせ、萎えたままの小ぶりな性器も一緒に手で刺激する。
「ぁ、あ……あの、そこは……」
「ああ……そういえば、勃起しないんだったね」
「うん……おれ、中でしかイけなくて……っあ」
 辛抱たまらず勃起した自身を葵くんの尻に擦り付ける。少し怯えた顔をされてしまったが、痛いことも苦しいこともするつもりはないので、安心してほしいという意味を込めて額にキスを落とした。
「ゆっくり入れるから……奥までいくかもしれないけど、痛かったり苦しかったりしたら、すぐ言うんだよ?」
「う、ん……」
 折れそうなほど細い葵くんの腰を掴んで、少しずつ自身を埋めていく。葵くんの中は怖いくらいに温かくて柔らかくて、すぐにでも達してしまいそうになった。
 多幸感とはきっとこういうことを言うんだろうな。これからは、俺が葵くんを幸せにしてやるからな。そう誓う意味も込めて、葵くんの奥を優しく突き上げた。



 逆らえば殺されてしまうのだろうと思っていた。けれどこの殺人鬼があまりに優しく触れてくるものだから、自分の認識が間違っているのかと困惑してしまうのだ。
 腹の奥まで埋められた長大すぎる熱量に、ふぅふぅと息をしてどうにか呼吸を整える。殺人鬼……もとい、逸見さんはじっと止まって待ってくれているが、それでも苦しいものは苦しい。首を絞められたり殴られたり蹴られたりはしないけれど、俺の身体じゃ受け止めきれないくらいに逸見さんのは大きくて、自然と涙が溢れてきた。
 死への恐怖とはまた少し違う。
 あのとき客を漁る場所を変えたのは、単純に通報されたせいもあるし、逸見さんのことが怖くなったからでもあった。上手く説明はできないけれど、この人はどこか異常だった。最初は羽振りのいい客だと思って重宝していたけれど、なんとなく言動に狂気がにじみ出ているのを感じ取れてしまって、本能的な恐怖を抱くようになったのだ。それで会うのをやめたのだけれど、それがまた、こうして抱かれることになるなんて。
 一体どんな手段を使ったのか知らないけれど、逸見さんは俺の生活環境を把握して、家まで特定して、俺の父親をあっさり殺した。それはもう少しの躊躇もなく、まるで飛んでいる蚊を叩き潰すように、顔色一つ変えず殺してしまった。正直、その瞬間は逸見さんのことを救世主だと思った。けれどすぐに恐怖のほうが強くなった。正常な人は、たとえどんな理由があったとしても、あんなに涼しい顔で人を殺さない。
「ぁ゛、は、はぁっ、あ……は、やみ、さ、……ぅ、あ゛ッ、ゆ、ゆっく、り……」
「あっ、ごめんね、痛かった?」
「い、いたく、は、ない……けど……」
 慈しむように優しく髪を撫でられる。この手はほんの数時間前、俺の父親を斧で叩き切った。最初は肩に向けて一発、次は脳天をかち割って、最後に首を切り落とした。確実に蘇生させないという強い意志があった。その時の返り血はもう綺麗に落とされているけれど、体液まみれになった逸見さんの姿は、どれだけ気を逸らそうとしても脳裏にこびりついて浮かび上がってくる。
「ひっ……! ぃ、う、~~っ、ぁ、あ゛っ、あっ……!」
「葵くん……あおいくん……っ」
 逸見さんの息がどんどん荒くなっていく。最初は優しかった腰使いも激しいものに変わって、腹の奥をごりごりと苦しいほど抉られる。本当は怖かったし辛かったが、それを言葉にしようとするたび、斧を持った血まみれの逸見さんが脳裏にちらついた。
 セックスと、死と、どっちが苦しくて怖いんだろうと考えたことがある。今はハッキリと答えられる。死ぬほうが怖い。あんなにも冷静に人を殺せる逸見さんを怒らせたら、どんなことをされるか分からない。怖い。怖いから、受け入れるしかない。怖いから、股を開いて喘いで、機嫌を取るしかない。だからこれは合意じゃないし、俺の意志でもない……はず、なのに。
「っあ゛! ぁ、ひぃっ!? まっへ、は、はやみさっ、なんか、へんっ、おなか、あつ……ぁ゛!? あッ、あぁあ゛~~っ!?♡」
 体が勝手にびくびく跳ねて、頭の中が真っ白になる。内臓が押し潰されて苦しいはずなのに、予期しない快楽が濁流のように流れて、指の先まで怖いくらいに甘く痺れた。
「ゃ、だ、やだやだっ、こわ、ぃ゛! ぁ゛っ、あッ、あっ、まってぇっ! あ゛ぇっ、あぁあッ、あ゛っ……!!」
「ん……きもちいい?」
「ひゃっ……!? わ、わかんにゃ、ぁ゛ぁあッ!!」
 上体を倒した逸見さんに密着され、苦しいくらいに抱き締められる。中を抉る角度が変わって、弱いところを激しく嬲られた。本能的な恐怖と、無視できない強烈な快楽が、理性をずたずたに切り裂いて壊していく。
「ぁ゛、あ、あっ、き、もちっ、きもちぃ、きもち、ぃ゛ッ! ぁ、あ゛ッ、だめ、だめぇっ!」
 一度口にしてしまうと、そこからは崩れ落ちていく一方だった。自分が馬鹿にでもなってしまったんじゃないかと思うくらい、頭の中が「気持ちいい」ばかりになる。怖いと思っていたはずの相手に犯されて、最初はただ機嫌を取るためだけのつもりだったのに、いつの間にか快感に支配されていた。きっと今の俺はみっともない雌の顔を晒しているんだろう。
「葵くんずっとイってるみたいだね……俺の、奥まで当たってるだろう……?」
「ん、ぎっ、ぃ゛、おくっ、おぐやば、ぁ゛! あ゛っ、ッめ、また、いっ! いっちゃ、いっ、ぎゅぅうっ……!!」
 逸見さんの言う通り先程からずっとイきっぱなしだった。中でしかイけないと言ったのは本当は嘘で、なにをされても感じないから、『ふり』ができるようにそう言っていただけだ。それなのに今の俺は、はじめて本当の絶頂を知って、それに翻弄されている。こんな快感、知らない。俺の身体が、俺のものじゃなくなってしまったみたいだ。頭の中はぐちゃぐちゃになって、何も考えられなくて、腹の奥を抉られるたび意識が飛びそうになる。……こんなのは、知らない。
「ひぃっ、ひ、ぁ゛……! こ、こわ、ぃいっ、やだやだぁっ! やっ、ひっ、ひぃっ……!」
「いや? いやなのかい? やめる?」
 逸見さんに優しく抱きしめられ、髪をくしゃりとかき混ぜられる。確かに怖いし止めて欲しかったが、このまま続けてほしいとも思ってしまって、何も答えられなくなった。気持ちよすぎて怖いだなんて言えるはずもない。
「あ、ぅ……」
「葵くん?」
 毒みたいに甘くて優しい声だ。胸の奥が締め付けられるような苦しさと、腹が疼くような切なさに襲われて、無意識に中を絞めつけてしまう。
「……っちょと、あおいくん、きついよ」
「ぁ……ごめ、なさ……」
「なあ、どうするんだい? 君が嫌がるなら、俺はやめるよ」
 宥めるように声を掛けられる。無言で首を左右に振ると、中にいる逸見さん自身がまた膨らんだのを感じた。本当のことをそのまま口にはしたくなかったので、言葉ではなく態度で続けて欲しいと示す。ひっきりなしに零れる涙を乱暴に拭って、覆い被さる逸見さんを見上げる。
 ぼやけた視界に映るのは、俺の親を叩き切った殺人鬼の、優しさと愛情に溢れた一生懸命な顔だった。
 確かに逸見さんは人を殺した。けれど俺を助け出してくれたのは紛れもない事実だ。ちょっとだけ頭がおかしいけれど、俺のことを大切に思ってくれているのはきっと間違いなくて。逆らったりしたら殺される可能性はゼロではないけれど、こうやって愛されているうちはなにも酷いことはされないだろう。あれ? じゃあ、この行為は? セックスって、痛くて辛くて苦しい行為じゃなかったっけ? でも今はこんなに気持ちいい。それならこれはセックスじゃない?
 もしかしたらこんなふうに気持ちいいのが本当のセックスなのかもしれない。それなら別に、いいのかな。セックスなんて嫌いだった。痛くて苦しくて気持ち悪いだけで、俺の身体を道具みたいに使うだけで、そこに愛情もなにもなくて虚しくて悲しいだけの行為だと思っていた。けれど、どうだろう。今でもそう思うのかと聞かれたら、上手く答えられない。だってお腹の中がこんなに熱くて、頭の中が真っ白になるくらい気持ちよくなったのは初めてだ。これが本当のセックスだっていうなら、もしかしたら俺は、逸見さんとのセックスが好きになったのかもしれない。
「はやみさん……」
 汗ばんだ逸見さんの後頭部に手を回す。首筋にすり寄って深く息を吸うと、逸見さんの匂いがいっぱい広がって思わず興奮した。
 ずっと嫌いだったセックスも、このひとに抱かれるのなら、喜んで受け入れられる気がする。
 

 ふっと意識が浮上する。見慣れない天井が目に入った。ぼやける思考を少しずつ動かして、ようやく状況を把握する。隣には俺を抱きしめたまま眠る逸見さんの姿があって、すうすうとあどけない寝息を立てていた。
 俺の家はなくなった。逸見さんがドアを叩き壊して、そのまま親父を切り殺して、金目のものは全部捨てられて、気が付くとこんな古びた小屋に連れて来られていた。そこで逸見さんに抱かれて……行為中の記憶は、正直あいまいだ。頭が馬鹿になっていたことだけ分かる。まだ腹の奥が疼いているような気がした。自分が淫乱だとは思いたくないけれど、きっとまた逸見さんに押し倒されたら、俺は喜んで股を開いて喘いでしまうだろう。
 ゆっくりと身体を起すと、腹に置かれていた逸見さんの腕が布団に落ちていった。窓の外は白みかけていて、もうじき朝が来るのだろうと分かる。逸見さんは深く眠っているみたいで、俺が動いても起きる気配はなかった。ただ、もにゃもにゃと小さな寝言のようなことを言って、幸せそうに口元を緩めている。とても昨日人を殺したばかりの人間とは思えない。
 今のうちに逃げなければと本能が叫んでいるのに、俺は結局そのまま布団に戻った。逸見さんの隣で丸くなって、少し幼い寝顔をじっと見つめる。
 今更逃げたって、もうどこにも俺の居場所はない。帰る家もないし、あんな家、惜しくもない。警察に行ったところで、どうせ施設に預けられるだけだ。新しい家族が出来るかもわからないし、そこが幸せな場所だという保証もない。
 逸見さんは人殺しだし誘拐犯だけど、俺には驚くほど優しい。俺のことを殴らないし、怒鳴らないし、好きだよ愛してると言ってくれる。気持ちいいセックスをしてくれる。それなら俺は、この人の側にいれば幸せになれるのかな。
 今でも目を閉じれば、返り血に塗れた逸見さんの姿が映る。月明かりに照らされた刃先は、きっと美しく磨かれていたんだろう。だってあんなにも綺麗に首を切断してしまったのだ。それによく見なくても逸見さんの身体はしっかり鍛えられている。あんなに大きな斧を振り回していたんだ。そりゃあ力も強いわけだ。もしかしたらこの日のために鍛えていたのかもなんて、普通なら勘違いも甚だしいことだと思うけれど、逸見さんに限ってはなんだか真実味がある。
 逸見さんは俺の親を殺したストーカーだ。どんな理由があっても人殺しは人殺しだ。けれどこの人が俺を地獄から救ってくれたのも事実だった。俺にはもう逃げる先なんてどこにもない。だからこの優しくて残酷な殺人鬼と、手を取り合って生きるしかないのだろう。
「ほんと……こわいなあ……」
 言葉とは裏腹に、自然と笑みがこぼれた。逸見さんの頬に手を添えて、そこに優しく口づける。まだ外は薄暗いから、起きるには早い時間だ。逸見さんがどんな逃亡計画を企てているのかは知らないが、今は眠って体力を蓄える時だろう。
「ん……むぅ」
「はやみさん?」
 夢でも見ているのか、逸見さんがまた小さく寝言を呟き寝返りを打った。向かい合う姿勢になって、逸見さんの寝顔がより間近に見える。何と言っているのかは分からなかったが、なんとなく名前を呼ばれたような気がして、応える代わりに逸見さんの胸元に顔を埋めた。ちょっと汗臭くて、男らしく分厚い体だ。これにずっと抱かれていたのだと思うと、また体の奥が熱を持ちそうになった。
 遠くのほうから鳥の歌声が聞こえてくる。本格的に朝が来てしまう前にもう一度目を閉じる。俺も逸見さんも特別大柄ではないけれど、それでも二人で身を寄せあうには、一枚ばかりの布団は少し狭い。けれどその窮屈さが心地よくて、穏やかな眠気に誘われる。
 また脳裏に鮮血と肉塊が浮かび上がった。きっといい夢なんて見られないだろう。
「……俺が魘されていたら、逸見さんが助け起こしてね」
 最後にそれだけ呟いて、泥濘に意識を明け渡す。
 俺と変わらない背丈で、でも俺よりもずっと分厚い体の温かさが、なんだか泣きそうなほど安心した。
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