幸福の食卓

ますじ

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 ショウの話を要約すると、次のような内容だ。
 長年謎のままだった朔の出生についてだが、ショウ曰く、とある研究施設の出身らしい。主にバイオテクノロジーの研究を行っている施設で、聖慈は聖斗の率いるチームのメンバーということだった。聖斗のチームが何を研究しているのか詳しくは語られなかったが、そこで多くの子供が生まれ育っているのだと聞いて、朔は首をかしげた。それなら自分の母は? 自分はどうやって生まれた? 朔の疑問はショウによって笑い飛ばされた。本題はそこじゃないから後で話すと言って、ショウは話を続ける。
 ことのいきさつとしては、聖慈が産まれたばかりの朔を連れ去り、その際に朔に関する情報も改竄、存在そのものを隠蔽してしまったとのことだ。つまるところ朔は戸籍もなにもない、社会的には産まれていない存在となるそうだ。これまで発覚しなかったのは聖慈が巧妙に情報を操作し、なおかつ朔を一切部屋から出さず軟禁し続けたおかげでもある。しかし最近、過去のデータを調べている最中で聖斗が違和感に気づき、調べ上げた結果ある年の出生記録に改竄された痕跡を見つけたという。その時出入りしていた職員を洗って浮かび上がってきた一人が聖慈だった。
 だがそれだけでは決定的な証拠に欠けるうえ、聖慈は肉親である聖斗にすら所在地を隠していた。そのうえ尾行しようにも上手いこと撒かれてしまい、本人から自宅の情報を引き出すことは不可能だったという。そこでショウが調査を行い、やがて目をつけたのが、家政婦の出入りしている一軒の高級マンションだった。その家政婦にショウが接近し話を聞き出した結果、年頃の子供が軟禁されている、どうか助けてやってほしい、と泣きつかれた。そこで部屋を訪れてみれば、話の通り子供が一人、しかも年の瀬もぴったりあう朔がいたことで、疑惑は確信に変わった。更にショウが盗んだパソコンのデータ内には、朔に関するすべての情報があった。もちろんそれは、朔が研究所から連れ出された子供であることを明確にするものだ。
「研究所で生まれた子供は、成人するまで施設で生活することになってる。けど、成人する前に死んじゃうことが圧倒的に多い。なぜかって、まだ完璧じゃない技術で生まれた子供たちだから、体が弱いんだ。朔、きみははじめて外に出てから、ずっと体調が悪くなかった?」
 そういわれても、はじめての酒を飲まされたり、散々な目にあっているせいで、よく分からない。ただ、体が弱いのだと言われて、思い当たる節はあった。これまで原因不明の体調不良で寝込むことも多々あったし、家政婦から風邪を移された時には、死を覚悟するくらいつらい思いをした。それもこれも自分が施設で生まれた子供だったからなのだと言われたら、理不尽だと思えど、納得するしかない。
 顔をしかめる朔に構わず、聖斗が冷たく口を挟む。
「つまり生まれた時点で、お前に自由なんざ存在しなかったわけだ。お前もあの馬鹿も妙な気を起こしたみたいだが、ここまでだな」
「…………」
 どう答えたらいいのか分からず、沈黙が流れた。
 二人から聞いた話は確かにショックなことではある。だがあまりにも急なことで上手く飲み込めず、なかなか感情にまで作用してこない。そもそも外を知らず生まれ育ってきた時点で普通の子供と違っていたのだし、自分の出生について何を言われたところで、全て今更なものだとも感じた。
「……あの、ところでこの車、どこへ向かってるの?」
 はたと思い出して尋ねてみる。答えはなかった。分かっていたことなので、さして落胆せずに黙って景色を見つめる。流れていく建物も看板も、何もかも覚えのないものだった。あの窓から見える光景しか知らなかった自分が、この短い時間で気が遠くなるほど沢山のことを経験してしまった。聖慈が知ったらなんと言うだろう。……もうこんな自分は不要だと、切り捨てられてしまうかもしれない。
 しばらく車を走らせていると、ふと聖斗が短く舌打ちする。彼の舌打ちはこれで何度目になるだろう。今度は何かと思って隣を見ると、口を挟んだのは背後のショウだった。
「おっと、朔ちゃん、ちゃんと掴まってね」
「え?」
 直後、車が急速にスピードを上げ、朔の身体はシートに沈み込んだ。訳も分からないままシートを掴んでしがみつき、目を白黒させる。赤信号に変わったばかりの交差点に勢いよく侵入し、けたたましいクラクションがあちこちから鳴らされた。
 一台、また一台と車を追い越すたび、聖斗の無茶な運転は加速していく。窓の景色が異様なスピードで進み、車体が右へ左へ急激に揺れた。文字通り飛び込んでくるように現れる障害物を華麗に避け、決して止まることなく突き進む。信号も無視して急に右折すると、暴走に巻き込まれた他の車が背後で衝突する音がした。
「な、なん……っ!?」
 吐きそうだ。いいや、死ぬかもしれない。こんなところで死んでしまうのは嫌だ。こんな車、さっさと降りてしまえばよかった!
「あ、聖慈の犬だ。最近聖慈の助手になってのぼせてた子。どうする?」
「クビだ」
 乱暴を通り過ぎた運転とは裏腹に、交わされる言葉は冷静なものだった。背後を振り返ってみると、ショウが半笑いで後続車を指さす。そこには暴走車両に狼狽えることなく、追い縋る一台の乗用車が見えた。運転席にはどこかで見覚えのある女の姿がある。
「……あ、あの、時の」
 思い出した。彼女は、あのときエレベーターでぶつかったスーツ姿の女性だ。そう言えばショウは、先程なんと言っていたか。聖慈の、助手? なぜ自分達を追っている?
「聖慈に、僕の居場所が知られたっていうの?」
「はあ……まさか、本気で気付いてなかった?」
 呆れるようなため息のあと、ショウに胸元をまさぐられ、ペンダントを引かれた。ショウの指先が羽をつまみ上げる。
「後生大事に持ってるもんだからさ、僕も指摘できないっての」
「へ……?」
「盗聴器だよ。おおかた、僕が君に接触したから、もしものために持たせたんだろうね」
 へらへらと笑いながら告げられる。その言葉をうまく飲み込めない。
 盗聴器? つまり、今までの会話も、なにもかも聖慈に聞かれていた? あの忌々しい行為の声も、全部?
「あ……あっ……うそだ……」
「あとこっちは発信機。隙だらけだねえ」
 服の襟を捕まれ、ショウがなにかをつまみ上げる。黒いボタンのようなそれをショウが指先で弄んでいた。はっと思い出したのはエレベーターの女のことだ。あの晩、聖慈が朔に盗聴器つきのペンダントを渡し、聖慈の助手がぶつかった朔に発信機をつけた、そういうことなら、ひょっとして、あのとき既に朔の脱走は想定されていたのではないだろうか。盗聴器は、どこに居ても常に朔を監視できるように。発信機は、万が一本当に脱走したとき、居場所を特定するために。
 さあっと、頭から血の気が引いていった。
「こんな……こんなもので……!」
 咄嗟にショウからペンダントを奪い返す。美しく月明かりを反射させる羽を見ると、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。
 聖慈は、自分のことなどなにも信頼していなかった。実際に自分はあの箱庭を飛び出してしまったが、聖慈も朔を疑っていたのだ。でなければ、こんなもので監視しようとは思わない。
「……っ」
 喉が乾いて息が苦しくなる。むしり取るようにしてペンダントを首から外し、窓の開け方をショウに訪ねた。そこのボタンを押せばいいと、言われた通り操作して窓を限界まで開ける。手にした羽はあまりにも重苦しく感じた。激しく流れる風の向こうへ、大きく手を振り上げる。簡単なことだ。ただ、このまま放り投げて、手を離してしまえばいい、それだけだ。それだけなのに……まるで指が蝋で固まったみたく、動かない。
「……っなんで……」
 ここまで来て、まだ断ち切れない。
 己の不甲斐なさに目の奥が熱くなった。投げ捨てようとしたペンダントを胸に抱き、背中を丸めて蹲る。どれだけの不信感を、反発心を抱いたところで、己にとって聖慈という存在は簡単に切り捨てられるものではなかった。どこまで逃げたとしても、見えない鎖に繋がれている。
 いつの間にか車通りの少ない道に出ていて、乱暴だった運転も少し和らいだ。追手を振り切ったのだろう、ようやくスピードが落とされて、ほっと息を吐くことができる。車はこれまでの凶悪な運転が嘘のように、穏やかなペースで静かな道路を走った。周りには建物すら少なく、夜闇を照らすのは、申し訳程度に並べられた少ない街灯と車のライトくらいだ。このままどこへ向かうのだろう。尋ねてもやはり教えてはくれないだろうから、何も言わず流れる景色を見つめる。開け放したままの窓からは冷たい風が舞い込んで、朔の髪を乱した。
「……ほう」
 そのとき、隣からどこか嘲るような、面白がるようなため息が聞こえた。視線を前に向けてフロントガラスに広がる道路を見る。
「……え」
 そして、朔は、目を疑った。心臓が跳ね上がるような衝撃を覚えた。
「あ……うそ……」
 はるか前方、車の進行方向を遮るように、道路に立ちはだかる人影がある。それは見間違えるはずもない。
「せい、じ……」
「ハハッ」
 混乱する朔の隣で、聖斗が嘲笑する。彼はスピードを緩めるどころか、かえって速度をあげ、進行方向にハンドルを固定した。聖慈は迫りくる車を前にしてもその場から動かず、立ちはだかり続ける。聖斗が、そして聖慈が何をしようとしているのか、嫌でも理解できた。
「と、とまれっ、止まって!」
 必死で聖斗に声をかけるが、彼が耳を貸す気配はなかった。前方を見つめる聖斗の顔には不気味な笑みが張り付いており、その瞳孔は開ききっている。今まさに、弟を轢き殺そうとしている……そんな男の浮かべる凶悪な表情に、朔は強い恐怖を覚えた。
「やめ……やめろおおぉっ!!」
 無我夢中だった。シートベルトをむしり取り、運転席の男に飛びかかる。触れたこともないハンドルを奪って勢いよく回した。車は急激に進行方向を変え、車線を飛び越え歩道に乗り上げる。幸い歩行者はなかったが、車はそのまま制御を失い、なにかの壁に激突した。車体が激しく振動し、車体がひしゃげ、ガラスがひび割れる音がする。ようやく衝撃が収まったところで身体を起こすと、腕の下には気を失っている聖斗の姿があった。
「あっ……」
 その額からは僅かながら出血がある。まさか殺してしまったのだろうか。ぎょっとして息を確認すると、小さく呼吸を感じることができた。幸い、殺してはいない。だが、怪我を負わせた。また人を傷つけてしまった。
「ん……おーい、聖斗、大丈夫?」
 後部座席からショウが顔を出すよりも前に、朔は咄嗟に車を飛び出した。幸い周囲に人通りもなければ車もなかったから、騒ぎにはなっていない様子だ。道路に出ると、駆け寄ってくる足音が聞こえた。顔を上げれば、ジャケットを翻し走り寄る聖慈の姿があった。その右耳には黒いイヤホンが装着されている。心臓が苦しくなった。
「来ないでっ!」
「……! 朔?」
 咄嗟に拒絶の言葉を吐き、聖慈から距離を取るように退く。背後にした車の中では、今頃聖斗の怪我にショウが気付いている頃だろう。自分はもう、どちらにも戻れない。どこにも行けない。そう気付いて、今度こそ足元が覚束なくなった。
 いいや、これでよかったのかもしれない。こんな自分に、居場所などなくてもよかったのだ。
「朔、あいつらの言うことは決して……」
「聞いてたんでしょう? 僕も、全部聞いた。僕のことも、聖慈がやったことも」
 足を止めた聖慈が、悲しみを湛えた瞳を伏せ、そっとイヤホンを外す。それは無言の同意だった。朔は手のひらのペンダントを強く握りしめると、真っ朔ぐ聖慈を見据えた。もうこれで最後になるかもしれない。それならば、明らかにしておかねばならないことが、まだ残っている。聖慈から逃げたところで、自分はどこまでも彼に縛られる続けるのは確実だ。どうあがいたところで、自分は彼の呪縛から逃れられない。見えない鎖が足に絡みついている。ならば、知っておかねばならない。彼のことを。彼の、気持ちを。
「聖慈、これだけは教えてほしい」
 軋むほど強くペンダントを握りしめ、乾いた喉から声を絞り出す。心臓が痛いくらいに跳ね上がって、呼吸が乱れた。膝が震えて崩れ落ちてしまいそうだ。それでも今、膝を折っている場合ではない。
「どうして、僕を連れ出したの?」
 聖慈と、話をしなければならない。彼と向き合わなければ、何も変わらない。
「他にも同じ境遇の子供はいたんでしょう。それなのに、どうして僕だったの?」
 決して目を逸らすことなく、真っ朔ぐ聖慈を見据えて、口にする。聖慈はしばし逡巡するように視線を彷徨わせたあと、覚悟を決め、朔と向き合った。手を伸ばせば届く程度の距離に聖慈はいたが、まるで何メートルも遠いところに居るようだ。一体いつ、こんなにも彼との心の距離が空いてしまったのだろう。
 聖慈は身体の横で強く拳を握ると、一度だけ視線を朔からその背後の車に向け、また、朔を見据えた。
「お前は、俺の遺伝子情報を持って生まれた子供だ」
「……え?」
「いわゆる試験管ベビーだ。俺と聖斗のチームが研究している技術によって生まれた。今までにもそういった形で生まれた子供は沢山見てきた。俺の遺伝子を持った子供も、お前が初めてというわけではない」
 一瞬、聖慈の言葉に戸惑った。確かに施設の出身だということは聞いた。だが、聖慈の遺伝子を、持っている? しかもそれは、自分が初めてではないと、聖慈は言っている。どこからどこまでが嘘で真実なのかが分からない。いいや、全て事実なのだろう。聖慈は不要な嘘を吐かない。
「これまでは皆同一に、俺の遺伝子を持っているだけの、ただの子供だという認識だった。……だが、お前を見た瞬間、俺ははじめて理性を失った。連れて帰らなければ……この子は、俺の子だと、はじめて強く思ったんだ」
 聖慈が自分の掌を見つめ、眉根を寄せる。こんなにも多くを語ろうとする聖慈は初めて見た。これまではなにかを尋ねても、気にしなくていい、心配しなくていいと、そればかりだった。聖慈が初めて朔のために言葉を尽くそうとしてくれている。しっかり正面から受け止め、耳を傾けねばならない。
「……今まで抑制していた感情が急激に溢れてしまったのかもしれないな……これまではただの数としてしか見ていなかった子供という存在に、はじめて強く心を突き動かされた」
「それじゃあ……つまり、僕じゃなくても構わなかったって、ことじゃないの……」
 悲しげに微笑む聖慈を前にして、朔の心は荒れていった。彼が言うことが本当ならば、自分はいくつも存在した彼の「子供」の一人でしかなく、その中でたまたま目について連れ去っただけのことで、自分である理由はどこにもなかった。誰でもよかったということだ。
「そうなのかもしれない。たまたま、朔だった」
 聖慈の一言で、目の前が真っ暗になる。
 手にしていたペンダントが、からりと音を立てて地面に転がった。
「だが、今は違う。朔でなくてはならない。俺の生活に、お前はなくてはならない存在だ」
 続く聖慈の言葉を、朔は呆然と聞く。虚ろな視界が捉えるのは、珍しく汚れた聖慈の足元だ。まるで長いこと歩き、走ったように、いつもは新品のごとく磨かれていた靴に傷がついている。
「俺は、お前へ向ける気持ちを親心だと長いこと思っていたが、違ったようだ。たとえばお前を風呂に入れるとき、俺はお前の無垢な肌に触れて、男としての本能を隠すことができなかった。お前が無知なのをいいことに……俺は、いつかお前がこの意味を知ってしまうことが怖かった」
「そんなこと……」
 今はもう無知だった頃とは違う。だが、だからと言って、聖慈を恐れたり嫌う理由にはならなかった。それよりも朔が恐れたのは、自分でなくともよかったという結論と、己をあの場に閉じ込め続けた聖慈の考えが、まったく理解できないことだ。同じ世界を見たいと願った自分を退けて、愛玩動物のような扱いを貫こうとした聖慈に、朔は深く傷ついている。そこにどれだけの愛情があったとしても、人としての自分の感情をないがしろにされていると、そう感じてしまったからだ。
「だが、お前は俺の手を離れ、外を知ってしまった。俺の汚いところも知ってしまった。お前が俺を嫌ったというのならば、それも無理ないだろう」
「……っきらいに、なんて……」
 全ては言えなかったが、口にしておいて自分でショックを受けた。ここまで来てもまだ自分は聖慈を嫌うことができない。拒絶することもきっと出来やしないだろう。どうあがいても、聖慈は自分の全てなのだ。朔にとっての世界であり、光で、神で、太陽だ。命の意味、そのものだった。
「俺には、お前がいなければ駄目なんだ」
 その言葉に縋り付いてしまいたくなる。それでも、朔はかろうじて残った理性で踏みとどまった。頭を振り、胸の前で両の手を握る。
「……あんたに、僕なんて必要ない……」
「必要だ」
 力強い聖慈の言葉が朔の心を揺さぶり、理性を奪おうとした。動揺を誘い、判断力を鈍らせていく。
「もしお前が俺の元を去るというなら、俺はこの人生を終わらせようと思っている」
「え」
 はっとして顔を上げる。聖慈の瞳が、優しく朔を見下ろしていた。日本人らしい美しい漆黒の奥には、隠しきれない悲しみが滲んでいる。それがまた朔の心を追い詰めた。
「俺は研究所からお前を盗み、データを改竄し、私利私欲のために罪を犯した。そして連れ去ったお前のことをあの狭い部屋に閉じ込め続け、学校にさえ行かせず、自由を、人権を奪い、お前の言う通りまるで愛玩動物のような扱いをしてしまった。許されざることだが、どうしても俺はお前を外に出したくなかった。どこにも行かないでほしかった。俺の手で守っていたかったんだ」
 それはまるで脅しのように、朔の心に重く伸し掛かる。それと同時に、続いた聖慈の言葉が、朔の重くひび割れそうな心に優しく触れた。いや、鷲掴みにした、というほうが正しいのかもしれない。朔は身動きが取れないまま、聖慈の言葉に耳を傾ける。
「お前と出会うまでの俺は、ただ機械的に役割をこなすだけの存在だった。何にも愛情も抱けず、自分の子であっても関心を持たず、自分の研究に対してもさほど情熱があるわけでもなかった。つまらない人生だったよ。生きているのに死んでいるようだった。まさしくただの機械だ」
 聖慈が、ふっと息をつく。短い間があったあと、聖慈の声が少し大きくなった。
「だが、お前が俺を人間にした。お前が俺の心を初めて動かしたんだ。お前という存在があってはじめて、俺は魂を持った」
「そんな、ことって……」
 ずるい。自然と口をついて出た。聖慈の黒々とした瞳が朔を捕らえて離さない。
「……仕事のことならば、兄が片付けてくれるはずだ。俺はお前を失った以上、ただの抜け殻になり、存在意義を見失う。また機械に戻るくらいなら、この魂を抱えて眠りにつこうと思う」
「あ……」
「どうだろうか、朔。俺はこれまでのことを反省し、言葉を尽くした。俺の言葉は、お前に届いただろうか」
 舌が、喉が震えた。それどころか身体まで震えて、膝が笑った。そのまま崩れ落ちてしまいそうなのを、最後の気力でどうにか踏ん張る。
「なに、それ……」
 吐き出した声は、笑ってしまいそうなほど掠れていた。
「それじゃあ……脅しじゃないか……」
「それでも俺は朔をそばに置いていたい」
 聖慈の足が一歩踏み出される。朔は逃げることもままならず、その場に立ち尽くしていた。
「僕に……拒否権なんて、ないじゃないか……」
「俺はひどい男だ。お前の人生を奪ってしまって、すまなかった」
「謝ったって……もうなにもかも、遅いんだ……」
 朔の時間はもう戻ってこない。聖慈の箱庭に閉じ込められ、外を知らぬまま、本来ならば思春期を迎えて親への反抗や外への関心を強める年頃になった。朔は自分の年齢すら正確に知らない。聖慈が教えてくれなかったからだ。いくら本やテレビで情報を得たとしても、実際に外に出なければ、何も知らないのと同じだ。聖慈がいくら言葉を尽くしても、結果的に愛玩動物のような扱いを受けてきたことに変わりはない。
「なら、ちゃんと聞かせてほしい。……あんたにとって、僕は、本当に必要な存在だった? ……ペットとしてじゃなくて……一人の、人間として」
 しばしの沈黙のあと、聖慈が目を伏せ、再び朔を見る。その薄く整った唇がゆっくりと持ち上がり、優しく落ち着いた、暖かい声をこぼした。
「ああ」
 染み渡る。声が、脳を溶かす。けれどもそれは、優しいばかりではなくて、朔の精神を追い詰めるものでもあった。
「ところで、朔」
 聖慈がまた一歩、足を踏み出す。朔はやはりその場に立ち尽くしていた。視線は足元に落とし、らしくもなく汚れた靴を見つめる。
「その靴は、お前には似合わない」
「……、…………あ……」
 聖慈の一言が脳髄に染み渡った途端、朔の膝は崩れ落ち、その場にへたり込んだ。自力ではもう立ち上がることもできない。呼吸が乱れて、酸欠になりそうだ。無意識に唇を噛みしめる。血の味が広がった。それでも心は落ち着かなかった。意識が混濁する。息が苦しい。いや、苦しいのは、心臓だろうか。
「戻っておいで、朔」
 その言葉に、伏せた視線を持ち上げる。慈しむような顔をした聖慈が、朔を静かに見下ろしていた。彼は、いつだってそうだ。朔のすべてを優しく受け止めて、赦した。今だってきっと、彼は朔を責めない。責めないからこそ、苦しい。人を殺したかもしれないというのに。人を傷つけたというのに。この体を、汚したというのに。当たり前のように、朔に手を差し伸べるのだ。帰っておいでと、あの箱庭に戻ろう、と。
 聖慈はきっとなにも変わらない。朔が箱庭を飛び出し外の世界を知ったとしても、変わらず愛を注いでくれるだろう。だがその愛情は、朔が求めるものとはどこか違う。聖慈の心へ手を伸ばしても、きっと虚しくすりぬけてしまう。愛情……いや、ちがう。ただの愛玩だ。どこまでも朔を愛そうとする聖慈が、怖い。
「沢山怖い思いをしたようだが、もう大丈夫だ」
 なにが?
 擦り切れた心に疑問が浮かぶ。しかしそれを口にする気力はない。気がつくと背後に迫る人影があった。ショウだ。彼は黙って朔の背後に立ち、その様子を見守っていた。聖慈は一度だけ静かな視線をショウに寄越したが、何を言うでもなく、再び朔に瞳を向ける。
「ねえ朔ちゃん」
 もはや聞き慣れてしまった声が、まるで嘲るような色をもって響く。
「自由はもういらない?」
 自由。
 自由とは、なんだったのだろう。
 この逃避行が自由だったというならば、……自由という存在の、なんて、
「君の大好きな飼い主様の本音が聞けて良かったねえ」
 なんて残酷で、滑稽で、軽薄なことだろう。
 カラリと音がして、足元になにかが転がる。虚ろな視線で追うと、そこに落ちていたのは一本のナイフだった。台所に並ぶ包丁よりも大きく、朔が今まで一度も手にしたことのないようなものだ。
「最後は君自身が選ぼうね」
 その声はやはりどこか面白がるように弾んでいたが、それだけでは済まされないような、重い何かを孕んでいた。やがて背後の人影が去り、車に戻っていくのが分かる。しばしの間、時が流れるのも忘れて転がるナイフを見つめていた。風の音が耳に痛い。選べ、と言われたところで、自分にどんな選択肢が残されているというのか。嘲笑する気力すらもうなかった。ただ呆然とへたり込んだまま、街灯に照らされ鈍く光る刃を見つめる。
 再び戻ってきた足音に意識を引き戻され、朔は振り返った。そこには青白い顔の聖斗を抱えたショウの姿がある。その顔には見たこともないような慈しみが浮かんでいて、朔は息を呑んだ。どこか遠くからサイレンの音が近づいてくる。
「ああ、そうだ。一つ、教えてあげるよ」
 軽薄な声色だったが、どこか吐き捨てるようにも感じられた。聖斗を抱えたまま、ショウは朔を見下ろし、赤い瞳に笑みを浮かべる。
「人に飼われていた鳥は、野生の世界ではすぐ死んでしまうんだって」
「………………あ」
 そうか。
 朔は、ようやく理解した。こんなにも、簡単なことだったんだ。迷うこともなかったのだ。
 はじめから自分に自由などなかったというなら、全て諦めてしまえばよかった。与えられなかったものならば、願って足掻くだけ無駄なことだった。自分がどれだけ聖慈と同じ景色を見たいと願ったとしても、聖慈の想いがそこにないのだとしたら、儚い夢想は、星屑として捨ててしまうしかない。
 ただ、対等な人間になりたかった。
 愛玩されるだけの存在はもういやだ。
 聖慈を愛している。愛しているからこそ、もう、なにもかも駄目になってしまった。
「せ、いじ……僕は……」
 朔の視界が捉えたのは、転がる一本のナイフだった。考えるよりも前に手が動いていた。ナイフを拾い上げ、素早く己の首筋に当てる。……しかしそこに力を込めるよりも前に、妨害する存在があった。
「朔!」
 手首を、肩を捕まれ、顔を近づけられ、……朔の心は一瞬にして崩落した。
「っやめろ! 触るなああぁっ!」
 喉が張り裂けるほど声を上げ、ナイフを握ったままの手を振り上げる。制御を失った拳は目の前の大切な人に切っ先を向けた。朔、そう自分を呼ぶ声がする。直後、だった。
 視界に、真っ赤な血しぶきが上がる。
 それは朔の振り上げたナイフの先、……聖慈の顔面から、上がっていた。
「あ…………」
「……っぐ、ぅ……」
 顔を抑えた聖慈が大きくよろけ、その場に崩れ落ちる。顔面を抑えたその両手からは、おびただしい鮮血が溢れ出していた。足が、すくむ。息が、できない。世界が回る。心臓が握り潰される。崩れ落ちたまま、身動きが取れない。ナイフが地面に転がる。蹲った聖慈の顔面から、考えたくない量の鮮血が、ぼたぼたと流れて水溜りを作った。
「あ……あぁああ……あああああぁあああっ!!」
 朔の絶叫が、闇夜を裂くように響き渡った。
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