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泥の底に沈んでいた意識がゆっくりと浮上する。体を起こそうとすると酷い目眩と全身の鈍痛に襲われた。あえなくシーツに倒れ込み、心身を落ち着かせるように深呼吸をする。湿ったシーツが気持ち悪かった。
部屋には自分一人しかいないようだった。ショウの姿もない。どのくらい気を失っていたのかは知らないが、外はまだ暗いままだ。開け放たれた窓からは夜の冷えた空気が入り込んでいた。少し落ち着いてきたところで、よろりと起き上がりベッドを降りる。立ち上がろうとした途端に視界が大きく回り、朔はその場に崩れ落ちた。胃が激しく痙攣して熱いものがせり上がってくる。押し止めることもできないまま、血痕のこびりついた絨毯に胃の中身を吐き出した。
「お゛ぇっ……! げほっ、げほ」
昨晩の記憶が鮮明に蘇ってくる。体を這い回る不快な手も、揺さぶられる恐怖も、ありありと思い出した。ショウにはじめて犯されたときとは違う恐怖だった。
吐瀉物に固形物はなく、胃液で喉が焼けて痛みが走った。吐けば吐くほどまた胃が暴れて、そのたびに喉は傷つけられる。吐くものなんてないのに、いっそもう自分の体にある全てのものを吐き出して入れ替えてしまいたいような気持ちになった。
ふと視界に入ったのは、胸元に光るペンダントだ。衣服を全て剥がれてもこれだけは残されていたみたいだ。無意識に手を伸ばして握り込む。やはりどこか暖かくて、少しだけ安心した。
「……聖慈」
ぽつりと小さく呼びかけても、当然、誰も答えない。
痛む体に鞭を打ちながら立ち上がり、散らばっていた服を掻き集める。所々に体液が付着していて不快極まりなかったが、他に着替えなどないので致し方ない。簡単に身なりを整えて、靴を履き、玄関を出る。ショウに買い与えられた靴だ。スニーカーというらしい。ひもが解けていたが、結び方が分からなかったのでそのままにすることにした。
外へ出れば冷たく乾燥した空気に出迎えられた。右を見ても左を見ても覚えのない建物ばかりで困惑しながら、行くあてもなく歩きだす。
「……はあ」
ひどく身体が重い。なんとか足を引きずるようにして歩いたが、動くたび目眩がして、ひっくり返ってしまいそうだった。地面が柔らかく感じて気持ち悪いし、空気が薄まったように呼吸が苦しい。胃の中は空だというのに、またしても吐き気に襲われた。
あのままホテルでショウの帰りを待つべきだったのかもしれないが、朔はもうショウと行動を共にするつもりはなかった。間違った選択をしていたと、ようやくはっきり認識できたのだ。あの家を飛び出してはいけなかった。外の世界を知りたかったのは本当だ。だが自分は、こんなことをしたかったわけではない。
帰りたいと、そう思った。
しばらく歩くと不自然な人だかりが見えてきた。近くにはパトカーも停まっており、異様な空気が漂っている。自然と朔は警戒し、息を潜めた。道は一本になっていて、どうしてもあの人混みの側を通り抜けねばならない。
思い出したのは先程のホテルでの出来事だ。女の顔が脳裏に浮かぶ。慌てて振り払い、パーカーのフードを被った。なるべく顔を見られたくない。他人はもちろん、まして、警察なんて。
「物騒だねえ」
「どうせ薬物中毒者だろ」
野次馬の噂話が嫌でも耳に入ってくる。駄目だと思っても、目線はその人だかりの中央に向かった。違う、だめだ、関係ない、そう思っても、足は自然と重くなる。
「まだ若いのにねえ。女の子だってさ」
血の気が引く。まさか、と思っても振り払えない。無視してしまえ。自分は関係ない。関係ないのだ。関わったってろくなことはない。無意味だ、こんなこと。走り去ってしまえ。今すぐに!
それでも朔の足は意思とは真逆に向かった。人集りにそっと近づいて、その中心を覗きこむ。今まさにシートをかけられた女の顔が見えた。がつんと後頭部を殴られたような衝撃が走る。一瞬だけ視界が暗転して、また戻ってきたときには、もう女の顔はブルーシートに覆われた後だった。それでも目にした光景は焼き付いて離れない。忘れるはずもなかった。間違いなかった。
さきほどの女だ。目を見開いて、頭から血を流して死んでいた。
「あ……あっ……」
違う。自分じゃない。あの時、女は自分の足で立って帰っていった。ショウも言っていたじゃないか。自分は関係ない。殺したわけじゃない。それなのに、なんだ、この、気持ちは。心臓が痛い。息が苦しい。目が熱くて、視界が滲む。喉がちりちりと痛みを訴えて、呼吸をするのもつらかった。足が異様に震えて、今すぐにでもへたり込んでしまいそうだ。
「君、どこから来たんだい?」
「ひっ……!」
唐突に声をかけられ、朔は飛び上がった。ぎょっとして振り返った先にあったのは、制服を身に纏った警察官の姿だ。直視できず、自然と視線がぶれる。見るからに動揺している朔を訝しんでか、警察官は静かに腕を組み、朔の姿を上から下まで観察した。
「君さ、まだ未成年だよね。こんな時間に出歩いてはだめだろう」
「あ……、……そ、の……」
何も答えられない。今までしていたことはもちろん、家出したということも、まして、そこで死んでいる女に覚えがある、とも。黙り込んでいると、さらに警官が近づいてくる。俯く朔を覗き込み、また更に不審そうな表情を浮かべた。
「……君、少し酒臭くないか?」
「……っ!」
もう逃げられない。そう思った矢先のことだ。
突然、近くに白い車が止まり、クラクションを短く鳴らした。運転席側の窓が開き、一人の男が顔を出す。その姿を見て朔は息を呑んだ。
「こんなところにいたのか。早く乗れ」
「え、あ……」
男は聖慈とよく似た顔をしていた。すぐに別人だと分かったのは、聖慈と違って眼鏡を掛けていることと、自分を見つめる瞳がひどく冷たかったことだ。男はハンドルを握ったまま、やはり冷たい声で朔に乗車を促す。聖慈と似た顔をしているとはいえ、彼は知らない人間だ。自然と緊張し、警戒心も芽生える、が。
「おや、お迎えかな」
今の朔にとっては、それは救いの手だった。
警官に尋ねられ、咄嗟に「はい」と応える。兄です。咄嗟についた嘘を、警官はどう受け取ったのか、しばし考える素振りをした後、朔の肩をそっと叩いた。
「今回は見逃してあげるけど、二度目があったらきっちり事情を聴かせてもらうからね」
その一言だけ残して警官は人混みの中に消えていく。その姿を見送っていると、「早くしろ」と声をかけられ、慌てて助手席に乗り込んだ。男は一瞬だけ朔に目線を寄越したあと、すぐに正面を向き、シートベルトをしろと低く告げる。そうは言われてもシートベルトが何なのかが分からない。小さな舌打ちのあと、男が身を乗り出して朔に覆い被さる。肩からベルト状のものを引き出して装着させると、すぐにまた正面を向いてハンドルを握った。
「静かにしてろよ」
それだけ言って車が進む。そういえば車に乗るのも初めてだと、朔は流れる景色を眺めながら思っていた。
部屋には自分一人しかいないようだった。ショウの姿もない。どのくらい気を失っていたのかは知らないが、外はまだ暗いままだ。開け放たれた窓からは夜の冷えた空気が入り込んでいた。少し落ち着いてきたところで、よろりと起き上がりベッドを降りる。立ち上がろうとした途端に視界が大きく回り、朔はその場に崩れ落ちた。胃が激しく痙攣して熱いものがせり上がってくる。押し止めることもできないまま、血痕のこびりついた絨毯に胃の中身を吐き出した。
「お゛ぇっ……! げほっ、げほ」
昨晩の記憶が鮮明に蘇ってくる。体を這い回る不快な手も、揺さぶられる恐怖も、ありありと思い出した。ショウにはじめて犯されたときとは違う恐怖だった。
吐瀉物に固形物はなく、胃液で喉が焼けて痛みが走った。吐けば吐くほどまた胃が暴れて、そのたびに喉は傷つけられる。吐くものなんてないのに、いっそもう自分の体にある全てのものを吐き出して入れ替えてしまいたいような気持ちになった。
ふと視界に入ったのは、胸元に光るペンダントだ。衣服を全て剥がれてもこれだけは残されていたみたいだ。無意識に手を伸ばして握り込む。やはりどこか暖かくて、少しだけ安心した。
「……聖慈」
ぽつりと小さく呼びかけても、当然、誰も答えない。
痛む体に鞭を打ちながら立ち上がり、散らばっていた服を掻き集める。所々に体液が付着していて不快極まりなかったが、他に着替えなどないので致し方ない。簡単に身なりを整えて、靴を履き、玄関を出る。ショウに買い与えられた靴だ。スニーカーというらしい。ひもが解けていたが、結び方が分からなかったのでそのままにすることにした。
外へ出れば冷たく乾燥した空気に出迎えられた。右を見ても左を見ても覚えのない建物ばかりで困惑しながら、行くあてもなく歩きだす。
「……はあ」
ひどく身体が重い。なんとか足を引きずるようにして歩いたが、動くたび目眩がして、ひっくり返ってしまいそうだった。地面が柔らかく感じて気持ち悪いし、空気が薄まったように呼吸が苦しい。胃の中は空だというのに、またしても吐き気に襲われた。
あのままホテルでショウの帰りを待つべきだったのかもしれないが、朔はもうショウと行動を共にするつもりはなかった。間違った選択をしていたと、ようやくはっきり認識できたのだ。あの家を飛び出してはいけなかった。外の世界を知りたかったのは本当だ。だが自分は、こんなことをしたかったわけではない。
帰りたいと、そう思った。
しばらく歩くと不自然な人だかりが見えてきた。近くにはパトカーも停まっており、異様な空気が漂っている。自然と朔は警戒し、息を潜めた。道は一本になっていて、どうしてもあの人混みの側を通り抜けねばならない。
思い出したのは先程のホテルでの出来事だ。女の顔が脳裏に浮かぶ。慌てて振り払い、パーカーのフードを被った。なるべく顔を見られたくない。他人はもちろん、まして、警察なんて。
「物騒だねえ」
「どうせ薬物中毒者だろ」
野次馬の噂話が嫌でも耳に入ってくる。駄目だと思っても、目線はその人だかりの中央に向かった。違う、だめだ、関係ない、そう思っても、足は自然と重くなる。
「まだ若いのにねえ。女の子だってさ」
血の気が引く。まさか、と思っても振り払えない。無視してしまえ。自分は関係ない。関係ないのだ。関わったってろくなことはない。無意味だ、こんなこと。走り去ってしまえ。今すぐに!
それでも朔の足は意思とは真逆に向かった。人集りにそっと近づいて、その中心を覗きこむ。今まさにシートをかけられた女の顔が見えた。がつんと後頭部を殴られたような衝撃が走る。一瞬だけ視界が暗転して、また戻ってきたときには、もう女の顔はブルーシートに覆われた後だった。それでも目にした光景は焼き付いて離れない。忘れるはずもなかった。間違いなかった。
さきほどの女だ。目を見開いて、頭から血を流して死んでいた。
「あ……あっ……」
違う。自分じゃない。あの時、女は自分の足で立って帰っていった。ショウも言っていたじゃないか。自分は関係ない。殺したわけじゃない。それなのに、なんだ、この、気持ちは。心臓が痛い。息が苦しい。目が熱くて、視界が滲む。喉がちりちりと痛みを訴えて、呼吸をするのもつらかった。足が異様に震えて、今すぐにでもへたり込んでしまいそうだ。
「君、どこから来たんだい?」
「ひっ……!」
唐突に声をかけられ、朔は飛び上がった。ぎょっとして振り返った先にあったのは、制服を身に纏った警察官の姿だ。直視できず、自然と視線がぶれる。見るからに動揺している朔を訝しんでか、警察官は静かに腕を組み、朔の姿を上から下まで観察した。
「君さ、まだ未成年だよね。こんな時間に出歩いてはだめだろう」
「あ……、……そ、の……」
何も答えられない。今までしていたことはもちろん、家出したということも、まして、そこで死んでいる女に覚えがある、とも。黙り込んでいると、さらに警官が近づいてくる。俯く朔を覗き込み、また更に不審そうな表情を浮かべた。
「……君、少し酒臭くないか?」
「……っ!」
もう逃げられない。そう思った矢先のことだ。
突然、近くに白い車が止まり、クラクションを短く鳴らした。運転席側の窓が開き、一人の男が顔を出す。その姿を見て朔は息を呑んだ。
「こんなところにいたのか。早く乗れ」
「え、あ……」
男は聖慈とよく似た顔をしていた。すぐに別人だと分かったのは、聖慈と違って眼鏡を掛けていることと、自分を見つめる瞳がひどく冷たかったことだ。男はハンドルを握ったまま、やはり冷たい声で朔に乗車を促す。聖慈と似た顔をしているとはいえ、彼は知らない人間だ。自然と緊張し、警戒心も芽生える、が。
「おや、お迎えかな」
今の朔にとっては、それは救いの手だった。
警官に尋ねられ、咄嗟に「はい」と応える。兄です。咄嗟についた嘘を、警官はどう受け取ったのか、しばし考える素振りをした後、朔の肩をそっと叩いた。
「今回は見逃してあげるけど、二度目があったらきっちり事情を聴かせてもらうからね」
その一言だけ残して警官は人混みの中に消えていく。その姿を見送っていると、「早くしろ」と声をかけられ、慌てて助手席に乗り込んだ。男は一瞬だけ朔に目線を寄越したあと、すぐに正面を向き、シートベルトをしろと低く告げる。そうは言われてもシートベルトが何なのかが分からない。小さな舌打ちのあと、男が身を乗り出して朔に覆い被さる。肩からベルト状のものを引き出して装着させると、すぐにまた正面を向いてハンドルを握った。
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