幸福の食卓

ますじ

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 冷たいタイルに腰を下ろすと、すぐに足を開くよう言われた。おずおずと指示に従えば、まだ塞がっていない穴から男の残滓が流れ出る。聖慈の視線に晒されていると思うと、息が止まりそうな思いだ。俯いて唇を噛み締めていると、下半身に温かいシャワーがかけられた。
「せ、せいじ……、……その……、……ごめんなさい」
「……朔は謝らなくていい」
 身体が震えるのは寒さのせいではなく、羞恥と緊張と恐怖からだ。それを聖慈は勘違いしたのか、下半身だけでなく肩まで優しくシャワーをかけてくれる。浴室暖房もかかっているからむしろ暑いくらいなのだが、身体の震えも止まらなければ、その理由を説明できるほどの勇気もなかった。
「すまないが、少し触る。痛かったら言ってくれ」
「うん……」
 聖慈はジャケットを脱いだだけの姿で、シャワーを片手に朔の下半身に手を伸ばす。腕まくりはしているものの、跳ねた湯と湿気で聖慈の高価な服は濡れていった。それも気にせず、聖慈の綺麗な指が朔の後孔に触れる。ぐ、と入り口を開かれると、また白濁が溢れ出した。
「ご、めん……こんな……き、汚い……」
 聖慈は何も言わず、軽く眉根を寄せる。見たことのない表情をしていた。気が済むまで謝罪したかったが、聖慈の顔を見ていると声を掛けることさえ憚られた。
 聖慈の綺麗に切り揃えられた爪先が、男の残滓で汚れた中にそっと潜り込む。いつもは優しく朔の頬を愛撫するその手が、不浄の場所に触れている事実が耐え難い。唇を噛み締めて震えていると、息をしろと優しく叱られた。ようやく張り詰めていた息を吐き出し、新鮮な酸素を取り込むと、暑さのせいかそれとも疲労のせいか、くらくらと激しい目眩に襲われた。
「あ、ぅう……」
「いい子だ。もう少し、辛抱してくれ」
 汚れていないほうの手で優しく頭を撫でられる。僅かな安堵感を得たおかげか、少し後ろが緩んだのが分かった。その隙に聖慈の指が奥まで入り込む。ただ中の体液を掻き出しているだけなのに、聖慈の指に内壁を引っ掻かれるたび、身体が跳ねてはしたいない声が上がった。
「あっ、あぅ、っん、ぐ、ふぅ……っ」
 どうにか唇を噛んで耐えようとすると、やはり聖慈に優しく叱られてしまう。我慢するな、その感覚は決して悪いものではないのだから。と、そう諭す聖慈の声に従って、朔もぎこちなく嬌声を上げる。あの男にされていたときとは違う、身体の奥からぽかぽかと暖かくなるような、不思議で優しい快感だった。聖慈の繊細な指が、中にある弱いところをそっと掠めて、行き過ぎた刺激が与えられることはなく、ただ微睡みに沈むような甘い痺れだけを教えてくれた。
「はぁ……ぁ、ん、せい、じ……あっ、な、なんか……で、でそう……」
「ああ……いいよ。出すんだ」
 聖慈の指が、あの弱いところを少しだけ強く押し込む。その一瞬で眼の前が真っ白になって、すぐ全身が脱力感に襲われた。はあはあと肩で息をしていると、下半身にまた温かいシャワーがかけられる。ぼんやりと目で追ってみると、白濁まじりの湯が排水口に向かって流れていくのが見えた。
「いい子だな、朔。これで終わりだ」
「せぇじ……」
 頭を抱き寄せられ、安堵感に瞼が落ちそうになる。聖慈の胸に頭を預けていると、ふと身体を抱き上げられ、いつの間にか湯を張られていた浴槽に降ろされた。適温に調節された湯が、身体の芯を優しく温めていく。
「あの……聖慈、も」
 そのまま浴槽を去ろうとした聖慈を引き止めると、揺れた黒い瞳が朔を静かに見下ろす。その瞳の中には今まであまり見たことのない色が滲んでいて、朔は僅かな恐怖も覚えた。だがそれよりも、聖慈が去ってしまうことのほうが嫌だと思う。一緒に入ろう、とねだる朔に、聖慈は小さく息をついたあと、濡れた衣服を脱ぎ捨てていく。
「……我儘いって、ごめんなさい……」
「構わん。俺こそ、この状態のお前を置いていこうだなんて、すまないことをした」
 下着一枚になったあと、聖慈は少し迷ってから、最後の一枚も引きずり下ろした。朔の視線は自然と聖慈の中心に向かう。そこには幾度も見てきた聖慈の男性器があり、その一物は、大きくそそり立って天を向いていた。しかし聖慈は何事もないかのように浴槽に入ると、朔を背後から抱きしめ、ゆっくりと湯に浸かる。尻に当たる性器の硬さが、今まではそれほど気にならなかったというのに、今日ばかりはどうしても意識してしまった。
「あ……せい、じ」
「なんだ、朔」
 朔の肩口に顔を埋めながら、聖慈は小さく息を吐き出す。熱い呼吸が皮膚に触れるその感触すら、今の朔にとっては酷な刺激だった。自然と身体の中心に熱が集まって、あらぬところが疼いてしまう。全てあの男のせいだ……が、たった一度の行為で覚えてしまうということは、本来の自分が、淫らな性質だったのではないか……そう考えてしまって、朔は自己嫌悪に陥った。
「その……怒られる、かも、しれないけど」
 それでも、尻に当たる熱のことを朔は見逃せなかった。今までずっと、何度尋ねてもはぐらかされてきたことだ。今だけは、どうしても明確にしたいと思った。まだ身体にあの男の感覚が残るせいかもしれない。性を覚えてしまった以上、最も身近にあるこれを、誤魔化されたままというのは耐え難かった。
「あの男が言ってたんだ……ここが、こうなっているときは……えっと、相手の『穴』に入れたい時だ、って……」
 そっと手を後ろに回し、勃起したそれを優しく握る。低く息を詰める気配がして、朔の心臓は大きく飛び上がった。
「……っ聖慈、も……僕の中に、入れたい?」
 そう、振り返ろうとした矢先、息が詰まりそうなほど強く抱きしめられた。当然下半身も密着したが、聖慈は自身の昂ぶりなどなかったかのように、ただただ朔を抱きしめるばかりで、それ以上のことはしない。
「あの男の言葉は忘れるんだ」
 沈黙のあと、ようやく聞こえたのは、凍えるように冷たい一言だった。
「で、でも、僕……」
「大丈夫だ。なにも心配するな」
 それは至極優しい言葉だったが、その声色には隠しきれない怒りと、抑制され凍りついた感情が滲み出ている。まるで朔には何も見せまいと、知らせまいとするような聖慈の態度に、朔はただ傷ついた。優しい腕に抱きすくめられ、大好きな掌に頭を撫でられても、朔の心中は穏やかではない。心臓が痛いほど跳ねて、まるでずっと無数の針で刺されているような、ちりちりとした痛みがある。
「……わか、った」
 そう答えるのがやっとだった。あとはただ、呆然と聖慈の胸に体を預けて、虚ろに滴を零す天井を見上げるだけだった。
 

 聖慈が仕事部屋から出てくるのを待ちながら、朔は定位置に腰掛け窓の外を見下ろしていた。新しい家政婦はまだ決まっていないらしく、今日の食事は出前になったらしい。封も切られていない寿司がテーブルの上で沈黙している。
 どうにも食欲がわかず、朔はただずっと窓から外を眺めていた。もうとっくに夕飯時を過ぎている。遠い空は沈んでいて、もうどれだけの時間こうしていたのかも分からないくらいだ。それでも何もする気が起きなかった。
 いくつものビルが立ち並ぶ中には、埋まるようにして線路が走っている。長い列車が走り抜けていくのを呆然と見送った。ここから見ると本当に小さな玩具にしか見えないが、あのたった一本で大勢の人間を運んでいるのだ。当たり前のように。いや、当たり前のことだ。常識からあぶれているのは、朔だ。
 ――君は一人では電車にも乗れない。
 あの男の声が脳裏に反響する。
 当然だ。だって朔は、外へ連れ出されたことがないのだ。電車なんか乗ったこともない。本やテレビで見ただけだ。電車が走り去るときはけたたましい音がするという事実は知っている。だが、その音を直接耳にしたことはない。電車の中は激しく揺れて、つり革に掴まらなければ立っているのも困難だという。朔が知る揺れは、時折起きる小さな地震だけだ。
 ――赤信号と青信号は知っているかな?
 知っている。馬鹿にするのも大概にしてほしい。ただ、実物を見たことがないだけだ。ここから見下ろす道路にも信号はあるが、あんな小さな玩具のようなものを見ても、意味はない。
 ――外には楽しいことがごまんとあるのに、君はそれを一つも知らない。
 それが、なんだ。自分には、この家がある。聖慈がいる。それ以上に、何が必要なものか。聖慈が買い与えてくれた本もある。外のことなんて知らずとも、関わらずとも構わない。構わないはず、なのに。
「……うぅ」
 余計なことばかり考えてしまう。いくら振り払おうとしても、目線はずっと窓の外に注がれ続けた。ショウの言葉が幾度も脳裏を回る。あんな男の言うことなど聞くべきではない。忘れてしまうのが一番だ。そう思えども、朔の心は執拗に揺さぶられた。
 暗闇に染まる街中には、蛍のような明かりがぽつぽつと灯っている。朔はふと、聖慈の寝室にあった本を思い出した。この世界は「神」によって創造され、世界を照らす光もまた神が作り給うたものである。神の名は忘れた。この部屋に光はまだない。スイッチは壁にある。リモコンはソファにある。どちらも向かうのが億劫だった。
 光を作った神は、光と闇をわけ、それらを昼と夜と名付けた。朔の部屋には夜の気配が忍び寄っているが、人工的な昼を灯す気になれなかった。神は万物を創造した。人間もまた神の作品である。神はどういったつもりで自分を創造したのだろう。朔にとっての神は、聖慈だった。神話などどうでもよかった。朔の知る世界の頂点は、聖慈である。
「……あ」
 弱々しい明かりを漏らしていた陽が、ついにビルの向こう側に沈んでしまう。朔の世界には、わずかな街明かりと、眠りに就いた陽の微かな名残だけがあった。朔はよろりと立ち上がると、薄暗い室内を抜け、玄関に立つ。扉に手をかけ、足を踏み出そうとしたところで、気がついた。
 自分には、
「……っ!」
 途端に頭から血の気が引いていった。そうだ、自分は、この家から一歩も出られないのだ。一人で電車に乗れないどころか、外を歩くための靴さえない。目に見えない重い鎖が朔の足に絡みつく。これは聖慈の意思だ。聖慈が、自分をこの場所に閉じ込めている。やわらかな檻に厳重な鍵をかけて、外へ逃げ出さないよう管理している。
 世界を隔てているのはこの扉一枚でしかない。チェーンを外すことも、鍵を開けることも簡単だというのに、ただ、外へ出るための靴がない。それだけの事実が朔を追い詰め、打ちのめした。今までなんとも思わず受け入れていたことが、突然、とてつもなく恐ろしいことに思えた。
「聖慈……あんたは、僕を……」
 どうしたいの。何を考えて、何を望んでいるの。震えた問いかけは、誰に届くこともなかった。
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