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9. これは恋じゃない(後編)

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 いつものことだが、翔琉のバッグの中はごちゃごちゃだ。使用前・使用後の衣類やタオル、シューズを全く分けずに、まとめて放り込んでいる。プレイは緻密だが、それ以外はとことん無頓着だということは、クリニック外でトレーナーを始めてから知ったことだ。
 翔琉のシャツを樹生が羽織ると、服の中で身体が泳いでしまう。長すぎる袖をまくり上げる。首回りもかなり太いようで、襟元がすうすうして心許ない。自分の身体に腕を巻き付け、抱き締めるようにシャツを押さえる。
(岡田さんの肩とか背中って、こんなに広いのか……)
 バスケットボールは、全速力のダッシュを何度も繰り返す競技だから持久力を要する。しかも、瞬間的に攻撃と守備が切り替わるから瞬発力も必要だ。他の競技の選手に比べて細身にすら見えるが、見た目から想像できないくらい筋肉が付いていて体重が重い。一方、あまり重すぎると俊敏に走れないから、体脂肪は少ない。翔琉も、まさにバスケ選手の典型とも言える体形だ。樹生と比べて、身長が高いだけでなく筋肉量が圧倒的に多い。
 憧れの『彼シャツ』シチュエーションに密かにときめいていると、翔琉がボソッと呟いた。
「樹生さん、……細いっスね」
 自分の脳内を覗かれたようで、樹生の顔は火を噴いた。
「なっ……、どうせ僕は痩せっぽちだよ!」
「ああ、そういうつもりで言ったんじゃ……」
 樹生は口をへの字に曲げ、ツンと顔を逸らした。悔し紛れに驚かせてやろう。
「話変わるけどさ。岡田さん、彼女いるよね? その子と同棲してるでしょ」
 翔琉は驚いたように一瞬目を見張ったが、悪びれもせず素直に認めた。
「はい。なんで分かったんスか?」
「服から柔軟剤の匂いがするし、アイロンまで当てられてる。こんな服着てる男にそういう女性がいなかったら、むしろ驚くよ」
 樹生は唇の端を持ち上げ、形ばかりの笑みを何とか顔に貼り付けた。自分の予想が当たって落胆しているなんて、大いなる矛盾だ。

 その夜、樹生は自宅で洗濯物を干していた。翔琉から借りたシャツをハンガーに掛け、両手で引っ張って皺を伸ばす。改めてその大きさを眺め、昼に抱きすくめられた時の彼の逞しい肩や胸の厚みと同時に、彼と一緒に暮らしている女性の存在を思い出した。胸が腫れたように鈍く痛む。
(ノンケでイケメンのアスリートなんて、好きになるだけ無駄だ。そんなの最初から分かってるじゃないか……)
 普通に恋をするのが、こんなに難しいなんて。樹生は溜め息をついた。
 好きな人に好きと言われたい。日々起きた何気ない出来事を共有し、お互いに優しい言葉を掛けて、いたわり合いたい。一緒に美味しいご飯を食べて、たまにはデートもしたい。外で手を繋いだりできなくても、眼差しで気持ちを伝え合えれば十分だ。
 友人や同僚の話を聞く限り、決して高望みとは思えない。それでも、普通の夢ですら自分には叶わない。引っ込み思案とは言え、樹生もゲイのマッチングサイトを覗いてみたことがある。だが、彼らのプロフィールを見て、身長・体重・年齢・体形、どんなセックスが好きか明け透けにしているのに恐れをなし、すごすごと撤収した。自分が求めているのは、単に性欲を発散するだけの相手ではなく、心を通い合わせる恋人なのだ。
 ベランダで物思いにふけっていると、リビングでスマホの振動音がする。メールやメッセンジャーならすぐに止むはずだが、鳴り続けている。この時間の電話とは、急ぎの用ではないか。慌てて樹生は室内に取って返し、スマホを手に取った。表示されている名前は――翔琉だ。
「もしもし」
「遅くにすいません。今、少し良いすか?」
「良いけど、週末のこんな時間に大丈夫?」
「あぁ、今日は彼女、実家帰ってるんすよ。それに、昼のお礼も早く言いたかったんで」
「そうなんだ。今日は服貸してくれてありがとう。次に会った時に返すよ。ところで、お礼って何の?」
 樹生はベランダの窓を閉め、床に座った。
「……弟のこと、俺の気持ちを分かってくれて。励ますっていうか、弟の代わりに赦《ゆる》してくれたみたいで、すごい嬉しかったです」
「あぁ。僕が溺れて発作起こした時、岡田さんの対応、的確だったからさ。弟さんも喘息だったって聞いて納得したし、他人ひとごとに思えなかったんだ。踏み込み過ぎたかな? って思ってたから、そう言ってもらえて良かった」
「家族以外に話したの、初めてだったんです」
「長い間ずっと抱えてて、辛かったでしょ?」
 樹生の優しい言葉に、翔琉は考え込んだ。
「……あんまり、考えないようにしてたんで。あの後、実家に電話しました。『友達に、こんな風に言ってもらった』って伝えたら、母親泣いてました。『ごめんね翔琉』って。弟が死んだ直後は親もショックで、俺たちに気ぃ遣う余裕がなかった。大人になっても俺が引き摺ってるのは、うすうす気付いてたけど、見て見ぬ振りして申し訳ないって。『母さんのせいじゃないよ、謝らないで』って言ったら号泣してました。……へへっ。やべ、思い出したら、また俺も泣けてきた」
 翔琉の声が少し震え、鼻をすする音がした。樹生は薄っすら微笑んで、自分の膝を抱いた。
「偉かったね。お母さんも、赦された気持ちになったと思うよ。きっと」
「樹生さんのお蔭っす」
「ううん。僕は、素直に岡田さんがしてきたことを伝えただけだから」
 二人は、しんみりした口調になった。暫し流れた沈黙すらも心地よかった。
「……もう一個、樹生さんに甘えて良いすか」
 再び遠慮がちに、思い詰めたような声で翔琉が切り出した。
「何だよ、改まって。友達として聞けば良いの? それとも担当PTとして?」
「うーん、両方?」
「贅沢な奴だな」
「贅沢言ってるのは、分かってます。だからこそ樹生さんしか、いないんスよ」
 頼りにされて嬉しい反面、ただの友達、ただの担当PTでしかない自分に寂しさを覚えたが、無言で、話を続けるよう翔琉を促す。
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