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8. これは恋じゃない(前編)

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「……そんなことないんです。俺は全然良い兄貴じゃなかった。俺と年子の弟が遊んでると、一番下の弟が着いてくるのが邪魔だと思ってた。チビの体調が悪くなると、家族で出掛けるのも中止になる。『こんな弟いらない』って何度も思った。だから、プール行った後に風邪ひいた時も『またかよ』って。素っ気なくしてたら、あんなことになって……。バチが当たったんだ」
 翔琉が好きなプールで、相手が喘息の発作を起こした。彼の辛い記憶と状況が似ているから、罪悪感や精神的苦痛を思い出したのだろう。大きな背中を丸めて縮こまり、項垂うなだれて震えている姿は、ひど折檻せっかんされて怯える大型犬のように見えた。樹生は隣に腰掛け、優しく彼の背中に触れ、静かに語りかけた。
「僕も喘息持ちだから、弟さんの気持ち、すごく分かるよ。子どもの頃、体育の時間が嫌だったんだ。そもそも見学ばっかりだったし、参加できても運動苦手だったしね。こないだ分かったと思うけど、僕、カナヅチで、全く泳げないくらいだから。弟さんも、思うように動けなくて、お兄さんに迷惑かけて悔しかったと思う。運動苦手だったから、スポーツの得意な同級生が眩しくてね。きっと、弟さんにとってのヒーローは岡田さんだったと思う。恨んでなんかいないさ。今もこんなにお兄さんが苦しんでるって知ったら、むしろ弟さんは申し訳なく思うんじゃないかな」
 震える手で翔琉は自分の顔を覆った。声にならない嗚咽が漏れている。思わず樹生は、広い背中に手を回し、彼を抱き寄せた。彼も、樹生の細い肩に顔を埋め、強くしがみついてくる。
「弟さん亡くした時は、岡田さんも子どもだったんでしょ? 自分を責める必要はないと思う。それに、僕を救ってくれたのは岡田さんだよ。……ありがとう」
 樹生は彼の背中を優しくトントンと叩き、もう一方の手で髪を撫でた。子ども扱いしすぎだろうかとも一瞬思ったが、翔琉は、されるがままだった。しばらく経つと、彼は涙混じりに樹生の耳元で囁いた。
「樹生さんは無事で良かった」
 真っ直ぐな翔琉の黒髪は、硬そうな見た目とは裏腹に、素直で柔らかい手触りだった。ふてぶてしいほど落ち着き払っていて、明確な意志を持って目標に突き進む。翔琉は、タフな心と身体を持つ強い男だと思っていた。しかし、想像通り、いや、それ以上に繊細さを併せ持ち、弟の死に対して責任を感じて深く傷付いていたことが分かった。

 しばらく翔琉は、樹生にしがみついていた。彼が泣いているのは、彼の顔が伏せられた樹生の肩が湿っていることで分かった。彼の身体はこわばり、震え、樹生のシャツを掴む手は、生地が皺になるほど強い。黙って髪と背中を撫で続けると、次第に彼の呼吸は穏やかになり、震えも収まった。翔琉の肌は温まり、グリーンティのような香りを立てている。
(良い匂い。シャンプーとかかな……?)
 彼の男らしい外見とは裏腹の、あどけないと言って良いほど素朴な香りが意外だったが、デリケートな内面には合っているとも思った。シャツを握りしめていた手がほどけたと思ったら、そのまま彼の腕は樹生の背中に回され、そっと包み込むように沿わされる。さっきまでは、傷付いた彼を樹生が包んであげていたつもりだったのに、抱擁されるような空気に樹生は一瞬戸惑った。だが、すぐさまそれを自ら否定した。これは怯えた犬を抱っこしてあげたらなつかれたのと同じだ。そう自分に言い聞かせ、樹生は流れに身を委ねた。
 翔琉の肌の温もりとしなやかな筋肉の感触に、元カレを思い出して不意に胸が苦しくなる。切なさを逃がそうと、こっそり溜め息をつく。すると翔琉は、きゅっと樹生を抱き締めるではないか。乱暴さも強引さもないが、甘やかな熱っぽさを感じ、樹生はうろたえた。思わず身体を硬くする。
「……すんませんでした。取り乱しちゃって」
 樹生を抱き締めていた腕をほどき、翔琉はバツ悪そうにボソボソと謝った。
「ううん。元はと言えば僕がカナヅチだから」
「樹生さんも、そうやって自分を責めるの、やめませんか? 持病は樹生さんの責任じゃないっス。泳げないことも気にする必要ないですよ。誰だって苦手なこと、ありますから」
「わかった。……じゃあ、岡田さんもね? 急には難しいかもしれないけど、弟さんのことで自分を責めないようにしようよ」
 まだふちの赤い濡れた目で、少し照れ臭そうな笑顔を浮かべ、翔琉は素直に頷いた。トレーニングウェアに着替えて柔軟を始めた頃には、いつもの寡黙で生真面目な表情に戻っていた。

 この日以降、樹生に対する翔琉の態度は少し変わった。これまでは、あくまで『頼りになる仕事仲間』だったが、親しみをストレートに表現してくるようになった。『兄のように慕っている年上の友人』とでも言えば良いだろうか。トレーニング中にも『遊んでくれ』『構ってくれ』とじゃれついてくる。樹生がスルーすると、遊んでもらえると思ったのに肩透かしされた犬みたいにションボリするから困ってしまう。知らない人には警戒心が強く、だけど一度信頼関係を結ぶと無邪気に尻尾を振る。まるで気位が高く忠誠心の強い日本犬のようだ。
 みっちり身体を動かしてその日のトレーニングを終え、上の空で着替えていると、翔琉は、樹生の服をじっと見ている。
「……なんか付いてる?」
 居心地が悪くなって聞くと、おずおずと彼は切り出した。
「すんません。俺がさっき強く握ったからだと思うんですけど、めっちゃ皺んなってます」
「ええー? でも着れない訳じゃないし」
 取り合わず、そのまま帰ろうと思ったが、翔琉が何か言いたそうにモジモジしているので、鏡を見てみた。
「…………」
 まるで着衣のまま睦み合った後のような乱れ方だ。気まずい沈黙が二人の間に横たわる。樹生は、ぶっきらぼうに言い放った。
「今日も予備の着替え持ってるの? 貸して」
 コクコクと頷き、いそいそと自分のスポーツバッグから着替えを取り出す翔琉が少し嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
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