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7. 知られざる苦悩 (後編)

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 その時、更衣室の扉が開いた。顔を上げると、プールから走ってきた翔琉が立っている。青ざめた顔と喘鳴から、樹生の状況を瞬時に把握したらしい。
「なんか嫌な予感したんで来てみたんス。滝沢さん、気管支きかんし喘息ですね? 薬は?」
「……プールに、落としたみたいで」
 どうにか声を絞り出すと、翔琉は樹生の濡れた上着を剥ぎ取り、自分のバスタオルをしっかり巻きつけ、弾かれたように更衣室を飛び出していった。震える指先で厚手のバスタオルを掴む。エアコンの冷風から守られているだけでなく、彼はきっと間もなく樹生のところへ戻ってきてくれる。その安心感で、少し呼吸が楽になった気がした。

 数分で戻ってきた翔琉は、身体からしたたる水を拭こうともせず、真っ先に掌を差し出した。樹生の吸入薬を拾ってきてくれたのだ。樹生は飛びつくように薬を吸い込んだ。翔琉は背後から身体を密着させて樹生を抱きかかえる。薬が少しずつ気管支を広げ始めた。同時にバスタオル越しに伝わってくる翔琉の体温に温められ、次第に樹生の呼吸は落ち着いてきた。翔琉の胸や腕は、しっかりと筋肉に包まれているが硬くはなく、しなやかな弾力がある。樹生を守る柵のように、決して締めつけはしないが、包み込むように寄り添っている。弱った身体のみならず心まで抱擁されるような優しさと逞しさに、こんな時だというのに不謹慎にも樹生はときめく。振り向きながら翔琉を見上げると、眉をひそめ、心配そうな顔がそこにあった。

「滝沢さん、歩けます? シャワー浴びたほうが良いです。身体、冷えててヤバイです」
 お礼を言うタイミングを逸して戸惑いながらも頷いた。立ち上がると、樹生の肩を守るように抱き、翔琉もついてくる。
「なんでついてくるの」
「だって、まだフラフラしてるから。それに、俺もプール入ってるんスよ? 良いじゃないすか、男同士だし」
(こっちは、男同士だから嫌なんだよ……!)
 本音は胸に収め、樹生は無言で俯いた。

「しっかりあったまってくださいね。俺が良いって言うまで、こっから出ちゃダメっす」
「はあ……。あったかい……」
 半ば命令のように『出るな』と言い付けた翔琉本人は、隣のブースからさっさと出て行った。樹生は言われた通りシャワーに打たれ続けた。年下の翔琉のペースなのはしゃくだが、彼がしてくれたことは全て正しかったし、もう反論する気力もない。それに身体を温め湯気に当たることは、確かに気管支喘息の発作に良いのだ。うっとりしていると、シャワーカーテン越しで姿は見えないが翔琉の声がした。
「とりあえず必要そうなもの、売店で買ってきたんで置いときます」
「……ありがとう」
 樹生が振り返って小声でお礼を述べると、翔琉はシャワー室を出ていった。彼の置いてくれたパッケージに入ったままのタオルと下着をありがたく使い、更衣室に戻ると、翔琉が自分の服を差し出す。
「滝沢さん、下はカーゴパンツ履いて来てましたよね。上、着替えあります? 俺の予備の着替えで良かったら」
 全くサイズが異なる翔琉のパーカーを羽織ると袖口から僅かに指先が覗くだけだ。
(これって、いわゆる『萌え袖』では……)
 気恥ずかしかったが、翔琉は神妙な表情だ。
「家まで送らせてください。かなり体力落ちてると思うんで。身体が一度冷えちゃうと、また発作起きるかもしれないし」

「あの……。今日は色々ありがとう」
 アパートの前まで送ってもらい、おずおずとお礼を言うと、翔琉はかぶりを振った。
「心配性ですいません。指、触って良いすか?」
 彼は、そっと樹生の指先を握った。
「……うん、あったかい。これなら末端まで酸素が巡ってる。大丈夫ですね」
(なんで、そんなこと知ってるの……?)
 樹生の表情を読み取ったのだろう。翔琉は悲しみとも怒りとも言えない曖昧な表情を浮かべ、言葉少なに打ち明けた。
「俺、小児喘息の弟がいたんです」
「『いた』ってことは、弟さん、治ったの?」
「いえ。……死んだんです。発作で」
 翔琉は、それ以上何も語らず帰っていった。

 樹生は、翔琉の新たな一面を見た。自分の大切なものに細やかに気を配り、躊躇なく身を粉にして守る。強くて優しく、愛情深い。
 その一方、彼は、大切なものを失う悲しみ・苦しみを知っている。帰りがけの彼の寂しげな横顔は、気持ちの整理が完全には付いていないようにも見えた。愛情や責任感の強さは、諸刃もろはつるぎなのかもしれない。必要以上に自分を責め、傷付くこともあるのではないか。
 樹生は、自分の子供時代を思い出した。北海道で従兄弟たちと雪遊びをしたことがある。関東ではまず見られない大量の雪に大はしゃぎして、服がびしょ濡れになるほど遊び回った。あいにくその日、大人たちは出掛けていた。帰宅後も興奮冷めやらぬまま汗の始末をしなかったため、樹生は喘息の発作を起こした。初めて喘息の発作を目の当たりにした従兄弟たちはオロオロするばかり。妹は「いつものことだから」と最初はケロリとしていたのだが、発作は収まるどころか、樹生は呼吸困難に陥った。従兄弟が半泣きで近所のかかりつけ医に駆け込み往診を頼み込んで、その医師の処置のお蔭で事なきを得た。帰ってきた大人たちは叱るのをためらうほど、従兄弟と妹は責任を感じて大泣きしていたそうだ。自分の場合、実家で時折笑い話として語られるエピソードで済んでいるが、翔琉は、お盆や法要のたびに苦く思い出すに違いない。

 次のトレーニングの日、樹生は、洗濯した服とお礼のプロテインを翔琉に渡した。
「こないだは色々ありがとう」
「大したこと、してません。元はと言えば、俺のせいで迷惑かけたようなもんですし」
 ベンチに掛け、シューズの紐を結んでいた翔琉は、かぶりを振った。
「すごく慣れてる感じがしたよ。弟さんのお世話、結構してたんじゃない? 弟さん、きっとお兄ちゃんに面倒見てもらって嬉しかったと思うよ」
 弟を亡くしたと打ち明けた時の表情から、そのことは今も、しこりとして残っているのではないかと感じた樹生は、ねぎらいの言葉をかけた。はたして樹生の想像は当たった。一度口を開きかけたが翔琉は何も言えなくなり、顔面の筋肉のコントロールを失った。その男らしい太い眉は歪み、意志が強そうに引き結ばれた唇は、わなわなと震えている。
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