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6. 知られざる苦悩 (前編)

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 クリニックの仕事が休みの週二日のうち、どちらか一日、樹生は翔琉のトレーニングに数時間付き合うことになった。場所は、翔琉がよく使っている自治体の体育館だ。
「トレーニング用のマシンもコートも、プールもシャワーもあって便利なんスよ。安いし」
「水中は、膝の負荷を抑えながら全身を鍛えるのに、すごく良いんです。じゃ、水中でのメニューも取り入れましょう」
 あくまで真面目な動機で水中トレーニングを提案したのだが、当日、更衣室で服を脱ぎ出した翔琉の姿に、樹生はギョッとした。
(そ、そっか。プールだから半裸……、いやいや! 水着なのは当たり前だよな)
 自分に背を向けて、翔琉はTシャツを脱ぐ。大きな背中としなやかそうなこう背筋はいきんに、樹生は息を呑む。スウェットパンツを落とすと、引き締まった腰や逞しい太腿が現れ、思わず目を逸らした。彼は、競泳選手のように身体にフィットするスパッツのような膝丈の水着を履いていた。手許のファイルでトレーニングメニューを確認する振りで、染まった頬に気付かれないよう、顔を伏せる。
「なんか、競泳選手みたいですね」
「あぁ。俺、小っちゃい時、水泳やってたんスよ。泳ぐの好きだから、つい真剣になっちゃうんですよね」
 子どもの頃の思い出を口にした彼は、歯が見えるほどの笑顔を浮かべている。自分の慣れた場所、好きなスポーツが気兼ねなくできる喜びで、リラックスした少年のような表情だ。クリニックでは見せない、プライベートの顔なのだろう。
(無愛想と、この人懐っこい笑顔のギャップで、数多あまたの女子をキュンキュンさせてきたんだな……。無自覚だとしたら、相当性質たち悪いぞ、コイツ)
 一方の樹生は上下ジャージ姿で、プールサイドから翔琉に指示を出す。
 整形外科にはプールはないから、翔琉のために検討した特別メニューだ。樹生も初めて指導する内容に、緊張で何度もページを行ったり来たりする。クリップ留めしてある紙が、ズレてガタガタになったのが気になり、一度、紙をボードから外した。揃えて留め直そうとした瞬間、入口の扉が開き、強い風で紙が数枚飛ばされてしまった。
(プールに紙が落ちたら、大迷惑だ!)
 焦った樹生はプールサイドを走り、濡れた床で滑ってプールに転落した。
(……足が、底に付かない!)
 樹生は全く泳げない。実は運動は大の苦手だ。せめて水面に顔を出したいと腕をバタつかせてもがいたが、身体は硬直し、少しも浮上しない。
(く、る、しい)
 永遠にも思える一瞬のうちに、樹生の脳裏を『死』という言葉がよぎった。その瞬間、力強い手に腰を掴まれ、下から押し上げられた。助けてくれたのは翔琉だ。
「ゲホ、ゲホ」
「滝沢さん、大丈夫っスか」
 プールサイドに四つん這いのまま、苦しげに色んな穴から水を吐き出す樹生の背中を、翔琉がさする。青ざめた顔を心配げに覗き込み、申し訳なさそうに呟いた。
「すいません。滝沢さん、泳ぎ苦手だったんスね。俺に付き合わせて申し訳ありませんでした。着替えて休んでて下さい。今日は、プールの練習は終わりにしましょう。俺、少し泳いでから戻りますから」
 小さく頷き、よろけながら立ち上がる樹生を、彼は肩や腰に手を回して支えてくれた。
「……ごめん。お言葉に甘えて、そうするよ」
 生死の境を彷徨いかけて疲労と恐怖で一杯一杯な樹生は、運動神経の悪さを知られてしまったことを恥ずかしがったり取り繕ったりする余裕などなかった。ずぶ濡れのまま更衣室に辿り着いたが、身体が泥のように重い。思わずベンチに腰掛けた。
(……やば。冷房がきつすぎる)
 運動で汗を流した後の人には丁度良い室温なのだろうが、突然プールに転落して濡れ鼠《ねずみ》になり弱った身体に、エアコンの冷風は過酷だった。樹生自身も恐れた、持病である気管支喘息の発作が始まった。ヒュー、ヒュー、と嫌な喘鳴ぜんめいがする。喉の奥が引き絞られたように苦しい。必死にポケットを探り、エアゾールの吸入薬を探す。
(えっ? 薬がない!)
 喘息患者の生命線ともいえる吸入薬をどこかで落としてしまったようだ。樹生は絶望的な気持ちになった。おそらくプールだろう。転落した時か、引き上げられた時か……。
 幾ら吸っても酸素が肺に入ってこない。ゴミを溜め込み過ぎた掃除機のようだ。背中を丸め、肩を震わせ、必死に樹生は息を吸い込んだ。しかし、樹生の努力をあざ笑うように、身体からは急激に酸素が奪われて冷えていく。意識が遠のき、目の前が白くなってきた。
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