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病室で、クロティルドはカプドヴィエル軍の話を聞いた。
百年前の話ではない。かつて悪魔とまで謳われた魔物サリムが、今シャミナードで魔物達を束ね、再びカプドヴィエル軍を結成したのだという。
シャミナードは魔物達の手に陥落したと言っていい。隣接するリシュタンベルグとの境は、突如として発生した植物に覆われ、往来の不可能な状況になっているようだ。リシュタンベルグの内でもサリムの屋敷の周囲には同様に木々が密生し、立ち入りができないらしい。
シャミナードの北西、ドゥラノワでは既にカプドヴィエル軍との戦いが始まっている。
クロティルドは、包帯に覆われた右手を見下ろした。鈍い痛みを訴えるそこは、未だ力を入れて握ることもできない。これでは、剣を握ることも夢のまた夢だ。立って歩くのだって精一杯で、戦地に赴いたとしても役に立つとは思えない。
悔しさに、少女は唇を噛み締めた。
自分に与えられた使命を全うできず、事態は最悪の方向へ進んでいる。
積もる自責の念と無力感は、いっそ自ら命を絶ってしまいたいと思うほどの苦痛だった。
過去、サリムが魔物として復活するより以前、教会で生活していた頃を思い出す。
殺す機会なら幾らでもあった。記憶によみがえる全ての場面で、サリムは無防備で、無頓着だった。
殺してしまえばよかった。もっと早く。こんなことになる前に。
この戦いで、どれだけの人間が犠牲になるのだろう。
旧聖堂で、サリムが復活した直後の光景が瞼の裏を過ぎる。圧倒的な強さ。ほとんど瞬きの間に、全てが終わっていた。
あんな魔物に、誰が勝てるというのか。無意識に体が震えて、クロティルドはそんな自分を恥じ、拳を握り締めようとするが、やはり力が入らない。
目が覚めた時、自分が生きているのがまず信じられなかった。
実際、あの場にいた神官のほとんどが死亡した。サリムと剣を交えた相手は全員が、と言って良い。クロティルドを除いて、全員が殉死した。
なぜ自分だけ生き残ってしまったのか。いっそ死んでいれば、こんな地獄のような気持ちは味わうことなく済んだのに。
自ら死を望むなど、神官にあるまじき罪だ。それでも頭を離れない、そんな己がより一層情けなく不甲斐なく、涙が滲んでくる。
手加減。
溢れそうになった涙は、はっと浮かんだその言葉で押し留められた。
自分が生き残っているというのは、サリムが手加減をしたからではないのか。彼が殺そうとして仕損じることなど、あるように思えない。
しかしあの悪魔が、何のためにそんな無駄なことをするというのだ。
共に過ごした時間から情が湧いて手加減をした……そんなこと、あの悪魔に限ってあるはずがない。
ばかばかしい考えだと否定して、クロティルドは最後の希望に縋りつく。
人間のような情を持たないあの悪魔を打ち倒せるのは、聖人様しかいない。
リシュタンベルジェルの復活は、この絶望的な状況に於いて、唯一の希望だった。そう思っているのは恐らくクロティルドだけではない。アルカデルト王国の全ての希望が、聖人に寄せられていると言って過言ではなかった。
「我らが王と、勇敢なる小鳥のために!」
領主の広大な庭を埋め尽くす魔物達の雄叫び、空気をびりびりと震わせたそれが、まだセルジュの耳に残っていた。
カプドヴィエル軍。最早存在しない筈のカプドヴィエルの名を冠し、国に牙を剥こうとする行いは、正に百年前の続きだった。違うのは、かつてのカプドヴィエル軍は、謂れ無き罪に屈せず、自分たちの正当な権利、即ち生を守ることを目的にしていた。
今度は全く違う。完全に魔物のみで結成された軍であり、その目的は血を流すことだ。
敬愛する王を奪われた屈辱と恨みを今こそ晴らす時、人間たちに思い知らせてやろう。
血気盛んな魔物達の姿を見て、ことりは喜ぶだろうか。ことりにとっては同族である人間と血なまぐさい争いを繰り広げる姿を見たら、満足するのだろうか。あの優しい少女が。
考えても仕方の無いことだと頭を振って、セルジュは思考を切り替える。
今はもうことりは居ないし、ここはシャミナード領主の屋敷ですらない。
セルジュはサリムと共に、王都とシャミナードの境にある教会に来ていた。シャミナード領のこの教会も当然陥落後であり、神官の姿は見えない。
シャミナードと王都の境には峻嶮な山がそびえている。王都に至る唯一の街道を少し脇に逸れると、両側を濃い緑に挟まれた白い石畳のなだらかな坂道があり、その上にこの教会は立っていた。石畳と言っても石の大きさにはひどいばらつきがあり、足場は悪い。
教会もまた白い石で組まれていたが、薄汚れた壁面のせいでどこか煤けた印象だった。
内部は外よりはましという程度で、やはりくすんでいた。しかしそれなりの広さがあり、曲線を描く高い天井や、回廊に立ち並ぶ太い円柱、高い窓から差し込む陽光のおかげか、みすぼらしくは見えない。
敵であるアルカデルト国軍、もっと正確に言えば聖人の到着を待ちながら、セルジュたちは教会に入ってすぐの広間で、思い思いの時間を過ごしていた。サリムに執着する聖人が、自ら国軍を率いて進軍しているという報告は受けている。前回は他者の手によってサリムの命を奪われたことを、聖人は恨みに思っている。今度こそは必ずや自分の手で、と決意する様は想像に難くない。
こちらから乗り込んで殺戮の限りを尽くそうと言う血気盛んな魔物も多かったが、サリムが頷くことはなかった。国を蹂躙するのは、唯一の不安要素である聖人を取り除いてからということか、と魔物達は勝手に納得していた。
人間たちがサリムに敵わないのと同じように、認めたくはない事実だが、魔物達は聖人に敵わないのだ。聖人の心がどれだけ歪んでいようと、聖なるものである性は失われていないかのように、彼を目の前にすると存在に圧倒されてしまう。震える手で斬りかかることができたとしても、その状態でそれだけ戦えるというのか。
魔物の王と崇められるサリムと、人間の希望である聖人リシュタンベルジェル。この二人の戦いがそのまま、人間と魔物の趨勢を左右するに違いなかった。
セルジュは入り口から左手にある階段に腰掛けて、あまり多くない人員を見渡す。
側に居る者と無駄話に興じたり、床に座り込んで武器の手入れをしていたり、中には飲み食いしている者まで居た。誰もが揃いの軍服を着ている。古参の魔物ばかりの少数精鋭と言えばそれもそうだが、形だけのサリムの護衛と言った方が正しかった。戦いに向いた砦ではなく教会を拠点に選んだのも、カプドヴィエル軍対国軍ではなく、サリム対聖人という戦いを想定しているからだ。当然サリムが戦いやすいように手助けはするが、サリム本人がやる気を出している今、彼が負ける姿など誰にも想像できなかった。
緊張感はあまりない。緊張と言うよりは、高揚を誤魔化しているような空気だった。
もうすぐ戦いが始まる。
サリムの戦う姿を見ることができる。
剣舞のように優美でありながら、背筋が冷たくなる光景。それが目前で繰り広げられるのだと想像するだけで、身震いしてしまう。
「セルジュ」
呼ばれて、はっと我に返ると、セルジュの傍らにはサリムが立っていた。
「ご用ですか」
サリムは首を傾げるような、微妙な角度に曲げて、ほんの短い沈黙の後、吐息のような声で言った。
「来て」
返事を待つことなく、彼は背を向けて階段を上って行く。仲間たちの視線を感じながら、セルジュは慌てて後を追った。
彼が言いよどむところを見るのは、本当に珍しいことだった。違和感に似たものを覚えながら、黒い軍服の背で踊る、艶やかな濡れ羽色の髪を追いかける。
踊り場を通り過ぎた時、既に外が夕暮れを迎えていることに気が付いた。橙色の光が斜めに差し込んで、サリムの輪郭を縁取る。まぶしい。
階段を上りきり、廊下を進んでいく。窓から差し込む光が、一定の間隔で床に橙の模様を描いていた。特に目的地があったわけではないのか、サリムは適当なところで足を止め、窓枠にもたれかかる。
わざわざ人気の無い場所で話を? 自分だけに?
考えただけで、顔に血が上りそうになる。サリムはそんなことをする人だっただろうか。いつもは人の目など気にしないというのに。妙な緊張をしてしまう。
「俺は」
サリムが考える仕草で軽く顔を傾ける。肩をさらさらと髪が流れ落ちていく。
本当に、彼のこんな姿は見たことがない。戸惑いのまま、セルジュは言葉を待つ。
やがて考えが纏まったのか、サリムはちらりと上目でセルジュを見た。
「俺は、人を滅ぼしたりはしないと思うけど……ことりは、嫌がるかな」
「死者は喜びも悲しみもしません」
ほとんど反射のように答えてから、セルジュは言葉を付け足す。
「もう、ことりの復讐は終わっています。彼女は、あなたの復活によって、教会に……人間に、騒乱をもたらしたかった」
ことりのことを考えると、苦々しいものが胸に浮かぶ。
本人の希望でもあったとはいえ、セルジュは最も大事な人のために、少女を犠牲にした。人間に復讐をするのだという彼女を引き止めることができたのは、恐らくセルジュだけだった。分かっていながら、考え直せとは一度たりとも言わなかった。
セルジュにとって、ことりとサリムでは秤にかけることも不可能なほど、比重は決まりきっていた。天秤にサリムを乗せるとしたら、もう片方の皿に乗るのは世界のすべてだ。そして天秤は常に、サリムの方へ傾いている。
それでもことりを哀れむ気持ちはあった。
例えばセルジュが声をかけなかったなら、ことりは人間に憎悪を抱いたまま生きていっただろう。ただ憎むだけで何をする力も持たないまま生きて、もしかしたら時間が彼女を癒したかもしれない。あるいは、相容れない人間の世界から魔物の世界に移り住んで、今度こそ失われることのない温かい家庭を作り上げたかもしれない。そこに存在したかもしれない彼女の笑顔を思えば、胸が痛んだ。
「セルジュ」
泣きそうに顔を歪めているセルジュの頬に、サリムの手が添えられる。まるで涙を拭うような仕草で親指が頬をなぞり、その感触にセルジュは眉を下げたまま力なく笑った。
「あなたが人間を滅ぼさないという道を選んだところで、ことりは怒ったりはしませんよ。優しい子でしたから」
両親たちを殺めた人間への憎悪が忘れられず、復讐に命を捧げてしまうくらい、優しい子だった。
「お前には怒っているの?」
思案に漂っていた目が現実に引き戻される。サリムを見れば、彼はいつもの無垢と言えるような顔でセルジュを見上げていた。
「いえ」
ぎゅっと心臓が痛くなって、無性に悲しい気持ちになりながら、セルジュは唇を震わせる。
「彼女は優しい子だったので……、俺のことだって、恨んではいないんです」
ありがとう。ことりは確かにそう言った。恨まれたところでおかしくないほど酷いことをしたというのに、彼女は感謝すらしていたのだ。
馴れ合うのではなかった。サリムの復活直前にでもさらって、有無を言わさずその胸に刃を突き立ててしまえばよかった。
けれど。もしそうしていたなら、復活したサリムの胸から取り出された、ことりの最後のかけら、金色の小鳥は野晒しで風化に任せていただろう。そうならなくてよかった。馴れ合っていてよかった。彼女の最後の骸を土に葬り、弔うことができてよかった。
相反する思いに歪むセルジュの目元をサリムの指が辿る。
「ならなぜ悲しいの」
「わかりません。俺には、あなたより大切なものなんて無いのに」
やわらかく指がなぞっていく感触に、ふっとセルジュは気付いた。
もしかして、慰められているのだろうか。どうして。
弾かれるように、サリムが顔を背けた。一階へと続く階段の方を見ている。次いでセルジュにも、何か尋常でない感覚が肌を走った。
二人は無言のまま、一階へと取って返した。
ほとんど一足で飛び降りるようにして階段を下る。セルジュは目を瞠った。
一階には、仲間たちがぐったりと座って壁に寄りかかり、あるいは昏倒している者まで居た。床には、足首が浸るほどの水が張っている。
「イジドール! 何が……」
階段近くに倒れていた魔物を助け起こすと、彼は苦しげに瞼を持ち上げ、呻く。
「降りてくるな! エトナの奴が……」
階段から、ひたひたと静かに水が流れてくる。足に触れると、ぴりぴりと痛んだ。
仲間の口から紡がれた名前に、セルジュは眉根を寄せる。同時に、扉付近から水音が聞こえた。セルジュが顔を上げる。
魔物の少女が立っていた。仲間たちが昏倒する中、顔色ひとつ変えることなく。巻いた茶色の髪が、水色の丈の短いワンピースに垂れている。緑色の目はどろりと濁っていた。
「アシルエトナ、貴様……」
ここに居るはずではなかった少女の姿に、セルジュの金色の目が鋭くなる。水を操る彼女が裏切ったことは、この惨状を見れば明白だった。
怒気を隠そうともしないセルジュに、少女は怯むことなく怒鳴り返した。
「セルジュきらい! いつも主様と一緒で! エトナだってもっと主様に近付きたいのに」
「それがこれと何の関係がある!」
「セルジュにはわかんないよ! 主様の近くに居るセルジュには。主様絶対エトナのことなんか見てくれないもん! だから」
アシルエトナは、階段に立ったままのサリムに視線を移した。その金と翡翠の双眸が冷ややかな光を湛えているのを見て、さっと顔を逸らし硬く目を瞑る。
「近付けないなら、側に行けないなら、主様なんて居なくなっちゃえばいい!」
悲鳴のような声だった。同時に扉が開き、赤く夕陽が差し込んだ。床に広がる水面に眩しく反射する。
「貴様……っ!」
セルジュが低く唸る。扉の向こうには、聖人リシュタンベルジェルとアズナヴールを筆頭に、神官が押し寄せていた。黒い神官服の中で、聖人だけが白い服だ。
アシルエトナは涙目でもう一度だけサリムに視線をやった後、神官たちの横を駆けて出て行った。神官の誰も彼女を咎めない様子に、セルジュは険しい顔で笑った。利用されたのかは知らないが、アシルエトナと神官の間で何らかのやりとりがあったのだろう。
「魔物が神官に飼い慣らされるなど、お笑い種だな」
開かれた扉から水が流れ出ていくが、アシルエトナが居なくなったにも関わらず、階段から流れてくる水は止まらず、床を覆う水かさは変わらない。
聖人が、薄く流れ続ける水に一歩踏み入れる。
「久しぶり。会いたかったよ。待たせてしまったかな」
にこやかに、両手を広げて。聖人の目はサリムだけを見つめていた。
この状況はまずい。外には大勢の神官が居て、仲間たちは倒れている。この中で戦ったら、仲間たちがどうなることか……場所を移そうにも、出口は神官たちに塞がれてしまっている。
どうすべきか逡巡するセルジュの目に、蠢く物が映った。
神官たちの後ろでゆっくりと揺らめいていたかと思うと、それは瞬時に勢いを増して扉から中へとなだれ込んでくる。
植物の蔦と、枝だった。それはまるで蛇のようにのたうち、床に倒れる仲間たちを扉の外へさらっていく。突然の異常事態に動揺の声を上げる外の神官まで、植物はついでのように巻き込んで、扉の外にはあっという間に緑の壁が出来上がった。
サリムの屋敷でも門番の役をしてくれていたテオフィルの仕業だと、姿の見えない仲間にセルジュは感謝した。
一瞬の出来事に、さすがに聖人も面食らっていた。
教会の中に残ったのは、サリムとセルジュ、対峙する聖人とアズナヴールだけだった。青年の神官は、己に纏わりつこうとした蔦を切り捨てた様子で、剣を片手にしている。
リシュタンベルジェルは背後に出来上がった植物の壁を見て、すぐに向き直った。
「ちょうどよかった。サリム、君を殺す邪魔なんてされたくないもの」
相変わらず神経を逆撫でする発言に、セルジュは青筋を立てて足を踏み出し、剣を抜く。聖人は不愉快そうに眉をひそめた。
「僕の言ったこと聞いてなかったの。どうして邪魔するの。やっと、やっとサリムが僕の、僕だけのものになるところなのに。僕はお前が大嫌いだよ。あの頃から、ずっと、サリムの一番側に居て、それが当然って顔をして。お前なんかがどうして、どうして……っ」
聖人の滅茶苦茶な言い分など聞かず、セルジュは剣を手に踏み込んだ。振るった刃は、予想通りにアズナヴールの剣に弾かれる。
「お前の相手は俺だよ。前見たときと姿が違うみたいだが……今度こそ殺してやるよ」
楽しそうな声に、セルジュは歯噛みした。
「貴様らが崇める聖人の正体があんなものだと知っていて、それでもお前はあんなものが良いと言うのか」
「良いね。最高じゃないか。どうしようもなく美しいのに、どうしようもなく愚かで。本当に愛しいよ」
目の前の相手はただの聖人信奉者ではないようだ。交わった刃越し、セルジュは怪訝そうな顔になる。
「本気で言っているのか」
「当然だ。美しく破滅的、どうして惹かれずに居られる」
押し合う力は拮抗する。二人は刃を弾いて同時に距離を取った。そしてまた、足元を浸す水を蹴立てて、同時に斬りかかっていく。
二人が斬り結ぶのを横目に、聖人は悠々とサリムへと歩み寄る。セルジュはちらと視線を寄越したが、アズナヴールの相手をするので精一杯のようだった。
サリムは、ひどく機嫌のよさそうな聖人を、階段から見下ろした。
「サリム」
数段上に居るサリムを見上げてくる聖人は、夢見るようにうっとりとしていた。
階段を水が流れていく静かな音、近くで交わされる剣戟、熱に浮かされた聖人には、恐らくなにも聞こえてはいない。
「嬉しいよ、やっとこの時が来たんだね。どれだけ待ったと思う? 君はいつもあの犬や、魔女なんかと仲良くして……僕がどんな気持ちだったか分かる?」
「分からない」
素っ気無く答える。途端に、リシュタンベルジェルの顔が悲しげな微笑に取って代わった。
「うん、そうだ。君はいつもそうだ。誰にだって……誰にだってならよかった。誰も例外にならなければ、君が誰にも関心を持たないで、誰のものにもならないで、ずっとあの、興味のなさそうな微笑だけ浮かべて座っていてくれたなら、それでよかった!」
激情に震える声。恐らく百年前のことを思い出しているのだろう。サリムを見上げる瞳が、苛烈に燃える青い炎のように揺れている。
「だけど」
どこまでも凪いだ声で、言ったのはサリムだった。
二人はゆっくりと、腰に提げた剣の柄に手をかける。
「今は、大切にしてあげたいものがある」
普段と変わらない淡々とした声で言って、剣を抜き、切っ先をリシュタンベルジェルに向ける。聖人は泣きそうだった。泣きそうな顔をしているのに、口元だけは絶えず微笑み続けている。
「だから、僕は君を殺さなきゃいけない。そうしないと僕はずっと苦しいままだもの。君を渇望して、飢えて死んでしまいそう」
剣を抜く。その清廉な刀身をサリムの前に翳して、聖人は、やさしくやさしく言った。
「見て。綺麗でしょう。これは君の魂でさえも切り裂くよ。次の生は無い。永遠の死をあげる。……サリム、君をちょうだい」
サリムは数段の高さを一気に飛び降り、聖人へと剣を振り下ろした。受け止める刃は思った以上にしっかりとしている。弾かれた刃を斜め上から振るえば紙一重で避けられ、横薙ぎの一閃は飛び退いて避けられる。息つく間もなく一足で肉薄し、下から斬り上げる。これも避けられ、切れた金髪だけがぱっと散った。
体勢を低くして、リシュタンベルジェルが懐に飛び込んでくる。迫る刃から体を逸らし、叩き割る勢いで振り下ろした剣は剣に阻まれ、高い金属音を上げる。
華奢な少年の割には、思っていたより動けるらしいが、サリムに傷を付けるには至らない。
再び斬り込もうとしたサリムだが、視線が眼前の敵から逸れる。
剣が高く跳ね上がっていた。セルジュの剣だ。アズナヴールの切っ先が、膝をつくセルジュの喉元めがけて振り下ろされる。
死ぬ。セルジュが。深く考える前に、サリムは己の手にしていた得物を投げていた。
武器が手から離れた時、セルジュは死を覚悟した。相手にも傷は与えたが、致命傷ではない。体勢を崩して避けることもできない、袖口のナイフを取り出すのも間に合わない。
己に迫る凶器のきらめきに、ただ目を見開いていた。
「ぐっ」
声はアズナヴールのものだった。次いで舌打ち。何が起こったのか理解する前に、複数の金属が落下する音が聞こえた。浅い水を跳ね飛ばして、床に落ちる。セルジュの剣と、もう一本は。
アズナヴールの腕が深く抉れ、傷口から溢れる血が足元の水を鮮やかな赤に染めていた。辛うじて剣から手は離していないが、あれでは振るうことはできまい。
茫然とするセルジュを我に返したのは、誰よりも敬愛するひとの声だった。
「駄目だ」
背筋が粟立った。聞いたことの無い声音、そこに明確に宿る、怒り。
サリムが、美しい瞳に怒りを宿して、アズナヴールを見ている。セルジュと戦っている時でさえ笑みを絶やさなかったアズナヴールが、顔から色を失くしていた。
見たことが無い。サリムが怒るところなど、セルジュは見たことが無かった。
声を荒げたのでも、怒りの形相に歪んでいるわけでもない、それでも無意識に震えてしまうほどの、怒気を感じる。空気さえも緊張している。
どうして。何に、彼は怒っているのか。
サリムはそんな風に心を揺らすひとではなかったはずだ。今も残っているセルジュの傷跡、これを付けた時だってそうだった。連日人間と戦って、そのうち魔女公主が殺されて――サリムは悲しんでいた。本人にその自覚は無かっただろうが、セルジュは確かにそう感じていた。
悲しみと言う感情をうまく表現できなかったサリムが、無表情で泣きながら、セルジュを斬ったのだ。サリムが泣いているのを見たのは、後にも先にもそれきりだった。
深い傷はサリムの受けた悲しみの痛み。そう思えば傷跡は大切なものに思えた。
そこまで感情表現に疎かったサリムが、今は一体何に怒っているというのか。
セルジュが、殺されてしまいそうだったことに?
その答えに辿り着いた瞬間、あまりの恐ろしさに、セルジュの瞳から涙がこぼれた。
茫然としたのは、セルジュやアズナヴールだけではない。それまで目の前で戦っていた自分を放って、セルジュを助けたのを目の当たりにした聖人。彼もまた、怒りに震えていた。
「サリム!」
吠え掛かるような声。武器を失くしたサリムは、リシュタンベルジェルに押し倒された。僅かな飛沫が上がり、黒い髪が水面に広がる。すかさず聖人が馬乗りになってきて、胸倉を掴まれた。
「どうして! 僕と、僕と戦っていたのだろう! その最中にどうして、他のものになど目を奪われるんだ! 自分の武器を捨ててまで、あんな犬を助けるんだ!」
まるで最初から眼中に無いような。そんな扱いをされてはたまらない。片手に剣を握ったまま、片手で胸倉を掴み、顔を近づけて美しい声が割れるほど怒鳴った。金髪がサリムに落ちかかる。
「僕のどこがあれに劣るんだ、どうすれば君は僕のことを見てくれるんだ、サリム……」
サリムは涙を浮かべる青い瞳から顔を逸らした。セルジュが泣いている。
どうして泣いているの、と聞かなければいけない。
眼前で叫ばれてなお、サリムの目にリシュタンベルジェルは映らなかった。
「どいて」
素っ気無い声。聖人の目が炎に揺れる。
「サリム!」
逆手に持ち替えた剣を両手で握り締め、リシュタンベルジェルの剣がサリムに振り下ろされた。それは肩に深々と突き刺さり、床を覆う水にじわりと赤が滲む。
喉でも心臓でも一突きにすれば済むのに、なぜ。疑念を込めて見上げれば、今にも崩れ落ちてしまいそうな頼りない顔があった。目は潤み、歯の根が噛み合っていない。小さく震えている、彼の手。剣を伝って、刺されている肩に小さく振動が届く。
自分を殺そうとする手はいつも震えている。サリムは思い出す。
百年前、初めて殺された時。そして今。もしかしたら、世話係であり、旧聖堂でサリムに刃を振り下ろしたクロティルドも、こうだったのだろうか。
「どうして」
疑問が口を衝いて出る。
無垢な子供のような目で、震えるリシュタンベルジェルを見上げる。
「何が怖いの。お前たちはいつも、何が怖いの」
聖人が瞬きする。こぼれ落ちた雫がサリムの頬を濡らした。
「君が誰のことを言っているのか知らないけれど、サリム、僕は怖いんじゃない。悲しいんだ、君を殺さないといけないことが、殺さなきゃ僕が救われないことが」
「救われるの」
殺すのが悲しいのに、救われるのか。心底不思議で、サリムは淡々と繰り返した。聖人は唇を震わせるだけで、答えない。
しばらく返事を待っていても、彼が何かを言う気配は無い。サリムは途端に興味が失せてしまった。
「どいて」
セルジュの方を見てもう一度言うと、涙に揺れていた聖人の瞳が、瞬時に狂気に燃え上がる。
「ジード! 殺せ!」
悲鳴のような声。アズナヴールが即座に、怪我をしていない手に剣を持ち替えた。座り込んだままのセルジュ目掛けて刃が振り下ろされる。
サリムは己の肩に刺さっている剣の刃を握って無理矢理引き抜いた。手の平が切れて血塗れになる。そのまま聖人の手から剣を奪う。
金属音。アズナヴールの剣が中ほどから折れ、腹部から鮮血が吹き出た。
「っとに化け物だな……」
苦く呟くアズナヴールの口からも、血が零れる。サリムの動きも見えていなかったのだろう。そのまま膝が崩れ、床に手をついた。
サリムはセルジュを背に庇い、アズナヴールの血に濡れた剣を払った。長い黒髪が踊る背中に、声がかかる。
「サリム様……」
弱々しい青年の声。サリムは敵に背を向け、身をかがめた。
セルジュはまだ泣いている。目を見開いて、茫然としたような表情で、金色の目から次々に雫がこぼれる。
彼はよく泣いている。どんな怪我をしたって、平気だとしか言わないのに。自分のためには泣かないくせに、いつもサリムのことを思って泣いていた。
「どうして泣いているの」
「怖いんです」
何が。首を傾げると、黒髪が肩から流れる。セルジュは涙を拭うことなく、まっすぐにサリムを見ていた。
「あなたは、美しいひとです。なにものにも無関心で、全てはあなたの表面を撫でていくだけで、その目には何も映らない。あなたは完璧でした。美しさ、強さ、残酷に見えるところまですべてが、完璧でした。……俺なんかが、穢していいものじゃなかった……!」
かすれて震える声。サリムは優しく問いかける。
「俺は、穢れた?」
セルジュは一瞬の後、すぐに首を振った。
「あなたが怒っているところを、初めて見ました。……あなたは知っていた。善悪という判断が、全て誰かの思考に拠って生まれるものであって、そこには何も意味がないのだと。あなたは善悪の外側に居たんです。その在りようを、俺なんかが変えてしまうだなんて、そんな恐ろしいこと――」
「完璧じゃない俺は……、お前を大切にしてやりたいと思う俺は、嫌い?」
淡々とした声に、かすかに混じる笑み。大きく身を震わせたセルジュが、悲壮な顔で首を振った。
「そんなこと……! 俺は、どんなあなただってお慕いしています。サリム様」
「ならいいでしょう」
細く整った指を伸ばす。頬を伝う涙をすくう。
優しくしてあげたい。
何もかも全てに興味が無かったサリムを大切にして、優しくしてくれたように。セルジュにも、優しくしてあげたい。
初めて抱いた感情を持て余しながら、子供のように泣く彼を慰める。
不意に聞こえたささやかな声は、聖人のものだった。
「……殺して」
サリムに突き飛ばされたまま座り込んだ彼は、金髪が乱れて顔にかかるのも気にならないようで、茫然としていた。青い目に燃え盛っていた炎は消え失せ、もはや何の温度も持っていない。
「どうあっても、君の目に映れないのなら、せめて」
力無い声だけが縋り付いてくる。
サリムとセルジュの傍らで荒い息を吐くアズナヴールも、深い傷口を血塗れの手で押さえながら、何を言うでもなく自らが仕える聖人を見ていた。
金と翡翠の目が細められる。
サリムは薄く微笑んでいた。
「俺の居ない場所で、俺のことを思いながら生きればいい。……好きでしょう、そういうの」
最後の願いさえ拒絶され、リシュタンベルジェルの目がいっぱいに見開かれる。
かつてのサリムなら、殺せと頼まれたなら何を考えるでもなく命を奪っていた。
人形のように美しい聖人の顔が、涙と微笑で歪む。確実にサリムは変わってしまった。それでも、形は変わってしまっても、その残酷さは聖人の愛したサリムだった。
サリムは手に握ったままだった剣に気付いた。聖人から奪ったものだ。
永遠の死をあげる――そう言った聖人の握っていた剣、死を知らないサリムの魂ですら切り裂くという武器。
「あげる」
セルジュにそれを差し出すと、それがどういうものか理解している彼は蒼白になって首を振った。
「貰えません」
「欲しくない? 俺の」
命は。
青い顔で首を振るセルジュは、哀れなほどうろたえていた。銀髪が乱れて、涙で揺らめく金の瞳が混乱している。
柄を差し出したまま受け取ってくれるのを待つ。
優しくしてあげたいのに、泣かせてばかりだ。
「いつ使ったっていい。好きにすれば」
セルジュはじっと剣を見つめていたが、やがて震える手がそれを受け取った。両手で柄を握り締めて、サリムを見詰めてくる。
「……ありがとう、ございます……」
かすれた声が、答えた。
百年前の話ではない。かつて悪魔とまで謳われた魔物サリムが、今シャミナードで魔物達を束ね、再びカプドヴィエル軍を結成したのだという。
シャミナードは魔物達の手に陥落したと言っていい。隣接するリシュタンベルグとの境は、突如として発生した植物に覆われ、往来の不可能な状況になっているようだ。リシュタンベルグの内でもサリムの屋敷の周囲には同様に木々が密生し、立ち入りができないらしい。
シャミナードの北西、ドゥラノワでは既にカプドヴィエル軍との戦いが始まっている。
クロティルドは、包帯に覆われた右手を見下ろした。鈍い痛みを訴えるそこは、未だ力を入れて握ることもできない。これでは、剣を握ることも夢のまた夢だ。立って歩くのだって精一杯で、戦地に赴いたとしても役に立つとは思えない。
悔しさに、少女は唇を噛み締めた。
自分に与えられた使命を全うできず、事態は最悪の方向へ進んでいる。
積もる自責の念と無力感は、いっそ自ら命を絶ってしまいたいと思うほどの苦痛だった。
過去、サリムが魔物として復活するより以前、教会で生活していた頃を思い出す。
殺す機会なら幾らでもあった。記憶によみがえる全ての場面で、サリムは無防備で、無頓着だった。
殺してしまえばよかった。もっと早く。こんなことになる前に。
この戦いで、どれだけの人間が犠牲になるのだろう。
旧聖堂で、サリムが復活した直後の光景が瞼の裏を過ぎる。圧倒的な強さ。ほとんど瞬きの間に、全てが終わっていた。
あんな魔物に、誰が勝てるというのか。無意識に体が震えて、クロティルドはそんな自分を恥じ、拳を握り締めようとするが、やはり力が入らない。
目が覚めた時、自分が生きているのがまず信じられなかった。
実際、あの場にいた神官のほとんどが死亡した。サリムと剣を交えた相手は全員が、と言って良い。クロティルドを除いて、全員が殉死した。
なぜ自分だけ生き残ってしまったのか。いっそ死んでいれば、こんな地獄のような気持ちは味わうことなく済んだのに。
自ら死を望むなど、神官にあるまじき罪だ。それでも頭を離れない、そんな己がより一層情けなく不甲斐なく、涙が滲んでくる。
手加減。
溢れそうになった涙は、はっと浮かんだその言葉で押し留められた。
自分が生き残っているというのは、サリムが手加減をしたからではないのか。彼が殺そうとして仕損じることなど、あるように思えない。
しかしあの悪魔が、何のためにそんな無駄なことをするというのだ。
共に過ごした時間から情が湧いて手加減をした……そんなこと、あの悪魔に限ってあるはずがない。
ばかばかしい考えだと否定して、クロティルドは最後の希望に縋りつく。
人間のような情を持たないあの悪魔を打ち倒せるのは、聖人様しかいない。
リシュタンベルジェルの復活は、この絶望的な状況に於いて、唯一の希望だった。そう思っているのは恐らくクロティルドだけではない。アルカデルト王国の全ての希望が、聖人に寄せられていると言って過言ではなかった。
「我らが王と、勇敢なる小鳥のために!」
領主の広大な庭を埋め尽くす魔物達の雄叫び、空気をびりびりと震わせたそれが、まだセルジュの耳に残っていた。
カプドヴィエル軍。最早存在しない筈のカプドヴィエルの名を冠し、国に牙を剥こうとする行いは、正に百年前の続きだった。違うのは、かつてのカプドヴィエル軍は、謂れ無き罪に屈せず、自分たちの正当な権利、即ち生を守ることを目的にしていた。
今度は全く違う。完全に魔物のみで結成された軍であり、その目的は血を流すことだ。
敬愛する王を奪われた屈辱と恨みを今こそ晴らす時、人間たちに思い知らせてやろう。
血気盛んな魔物達の姿を見て、ことりは喜ぶだろうか。ことりにとっては同族である人間と血なまぐさい争いを繰り広げる姿を見たら、満足するのだろうか。あの優しい少女が。
考えても仕方の無いことだと頭を振って、セルジュは思考を切り替える。
今はもうことりは居ないし、ここはシャミナード領主の屋敷ですらない。
セルジュはサリムと共に、王都とシャミナードの境にある教会に来ていた。シャミナード領のこの教会も当然陥落後であり、神官の姿は見えない。
シャミナードと王都の境には峻嶮な山がそびえている。王都に至る唯一の街道を少し脇に逸れると、両側を濃い緑に挟まれた白い石畳のなだらかな坂道があり、その上にこの教会は立っていた。石畳と言っても石の大きさにはひどいばらつきがあり、足場は悪い。
教会もまた白い石で組まれていたが、薄汚れた壁面のせいでどこか煤けた印象だった。
内部は外よりはましという程度で、やはりくすんでいた。しかしそれなりの広さがあり、曲線を描く高い天井や、回廊に立ち並ぶ太い円柱、高い窓から差し込む陽光のおかげか、みすぼらしくは見えない。
敵であるアルカデルト国軍、もっと正確に言えば聖人の到着を待ちながら、セルジュたちは教会に入ってすぐの広間で、思い思いの時間を過ごしていた。サリムに執着する聖人が、自ら国軍を率いて進軍しているという報告は受けている。前回は他者の手によってサリムの命を奪われたことを、聖人は恨みに思っている。今度こそは必ずや自分の手で、と決意する様は想像に難くない。
こちらから乗り込んで殺戮の限りを尽くそうと言う血気盛んな魔物も多かったが、サリムが頷くことはなかった。国を蹂躙するのは、唯一の不安要素である聖人を取り除いてからということか、と魔物達は勝手に納得していた。
人間たちがサリムに敵わないのと同じように、認めたくはない事実だが、魔物達は聖人に敵わないのだ。聖人の心がどれだけ歪んでいようと、聖なるものである性は失われていないかのように、彼を目の前にすると存在に圧倒されてしまう。震える手で斬りかかることができたとしても、その状態でそれだけ戦えるというのか。
魔物の王と崇められるサリムと、人間の希望である聖人リシュタンベルジェル。この二人の戦いがそのまま、人間と魔物の趨勢を左右するに違いなかった。
セルジュは入り口から左手にある階段に腰掛けて、あまり多くない人員を見渡す。
側に居る者と無駄話に興じたり、床に座り込んで武器の手入れをしていたり、中には飲み食いしている者まで居た。誰もが揃いの軍服を着ている。古参の魔物ばかりの少数精鋭と言えばそれもそうだが、形だけのサリムの護衛と言った方が正しかった。戦いに向いた砦ではなく教会を拠点に選んだのも、カプドヴィエル軍対国軍ではなく、サリム対聖人という戦いを想定しているからだ。当然サリムが戦いやすいように手助けはするが、サリム本人がやる気を出している今、彼が負ける姿など誰にも想像できなかった。
緊張感はあまりない。緊張と言うよりは、高揚を誤魔化しているような空気だった。
もうすぐ戦いが始まる。
サリムの戦う姿を見ることができる。
剣舞のように優美でありながら、背筋が冷たくなる光景。それが目前で繰り広げられるのだと想像するだけで、身震いしてしまう。
「セルジュ」
呼ばれて、はっと我に返ると、セルジュの傍らにはサリムが立っていた。
「ご用ですか」
サリムは首を傾げるような、微妙な角度に曲げて、ほんの短い沈黙の後、吐息のような声で言った。
「来て」
返事を待つことなく、彼は背を向けて階段を上って行く。仲間たちの視線を感じながら、セルジュは慌てて後を追った。
彼が言いよどむところを見るのは、本当に珍しいことだった。違和感に似たものを覚えながら、黒い軍服の背で踊る、艶やかな濡れ羽色の髪を追いかける。
踊り場を通り過ぎた時、既に外が夕暮れを迎えていることに気が付いた。橙色の光が斜めに差し込んで、サリムの輪郭を縁取る。まぶしい。
階段を上りきり、廊下を進んでいく。窓から差し込む光が、一定の間隔で床に橙の模様を描いていた。特に目的地があったわけではないのか、サリムは適当なところで足を止め、窓枠にもたれかかる。
わざわざ人気の無い場所で話を? 自分だけに?
考えただけで、顔に血が上りそうになる。サリムはそんなことをする人だっただろうか。いつもは人の目など気にしないというのに。妙な緊張をしてしまう。
「俺は」
サリムが考える仕草で軽く顔を傾ける。肩をさらさらと髪が流れ落ちていく。
本当に、彼のこんな姿は見たことがない。戸惑いのまま、セルジュは言葉を待つ。
やがて考えが纏まったのか、サリムはちらりと上目でセルジュを見た。
「俺は、人を滅ぼしたりはしないと思うけど……ことりは、嫌がるかな」
「死者は喜びも悲しみもしません」
ほとんど反射のように答えてから、セルジュは言葉を付け足す。
「もう、ことりの復讐は終わっています。彼女は、あなたの復活によって、教会に……人間に、騒乱をもたらしたかった」
ことりのことを考えると、苦々しいものが胸に浮かぶ。
本人の希望でもあったとはいえ、セルジュは最も大事な人のために、少女を犠牲にした。人間に復讐をするのだという彼女を引き止めることができたのは、恐らくセルジュだけだった。分かっていながら、考え直せとは一度たりとも言わなかった。
セルジュにとって、ことりとサリムでは秤にかけることも不可能なほど、比重は決まりきっていた。天秤にサリムを乗せるとしたら、もう片方の皿に乗るのは世界のすべてだ。そして天秤は常に、サリムの方へ傾いている。
それでもことりを哀れむ気持ちはあった。
例えばセルジュが声をかけなかったなら、ことりは人間に憎悪を抱いたまま生きていっただろう。ただ憎むだけで何をする力も持たないまま生きて、もしかしたら時間が彼女を癒したかもしれない。あるいは、相容れない人間の世界から魔物の世界に移り住んで、今度こそ失われることのない温かい家庭を作り上げたかもしれない。そこに存在したかもしれない彼女の笑顔を思えば、胸が痛んだ。
「セルジュ」
泣きそうに顔を歪めているセルジュの頬に、サリムの手が添えられる。まるで涙を拭うような仕草で親指が頬をなぞり、その感触にセルジュは眉を下げたまま力なく笑った。
「あなたが人間を滅ぼさないという道を選んだところで、ことりは怒ったりはしませんよ。優しい子でしたから」
両親たちを殺めた人間への憎悪が忘れられず、復讐に命を捧げてしまうくらい、優しい子だった。
「お前には怒っているの?」
思案に漂っていた目が現実に引き戻される。サリムを見れば、彼はいつもの無垢と言えるような顔でセルジュを見上げていた。
「いえ」
ぎゅっと心臓が痛くなって、無性に悲しい気持ちになりながら、セルジュは唇を震わせる。
「彼女は優しい子だったので……、俺のことだって、恨んではいないんです」
ありがとう。ことりは確かにそう言った。恨まれたところでおかしくないほど酷いことをしたというのに、彼女は感謝すらしていたのだ。
馴れ合うのではなかった。サリムの復活直前にでもさらって、有無を言わさずその胸に刃を突き立ててしまえばよかった。
けれど。もしそうしていたなら、復活したサリムの胸から取り出された、ことりの最後のかけら、金色の小鳥は野晒しで風化に任せていただろう。そうならなくてよかった。馴れ合っていてよかった。彼女の最後の骸を土に葬り、弔うことができてよかった。
相反する思いに歪むセルジュの目元をサリムの指が辿る。
「ならなぜ悲しいの」
「わかりません。俺には、あなたより大切なものなんて無いのに」
やわらかく指がなぞっていく感触に、ふっとセルジュは気付いた。
もしかして、慰められているのだろうか。どうして。
弾かれるように、サリムが顔を背けた。一階へと続く階段の方を見ている。次いでセルジュにも、何か尋常でない感覚が肌を走った。
二人は無言のまま、一階へと取って返した。
ほとんど一足で飛び降りるようにして階段を下る。セルジュは目を瞠った。
一階には、仲間たちがぐったりと座って壁に寄りかかり、あるいは昏倒している者まで居た。床には、足首が浸るほどの水が張っている。
「イジドール! 何が……」
階段近くに倒れていた魔物を助け起こすと、彼は苦しげに瞼を持ち上げ、呻く。
「降りてくるな! エトナの奴が……」
階段から、ひたひたと静かに水が流れてくる。足に触れると、ぴりぴりと痛んだ。
仲間の口から紡がれた名前に、セルジュは眉根を寄せる。同時に、扉付近から水音が聞こえた。セルジュが顔を上げる。
魔物の少女が立っていた。仲間たちが昏倒する中、顔色ひとつ変えることなく。巻いた茶色の髪が、水色の丈の短いワンピースに垂れている。緑色の目はどろりと濁っていた。
「アシルエトナ、貴様……」
ここに居るはずではなかった少女の姿に、セルジュの金色の目が鋭くなる。水を操る彼女が裏切ったことは、この惨状を見れば明白だった。
怒気を隠そうともしないセルジュに、少女は怯むことなく怒鳴り返した。
「セルジュきらい! いつも主様と一緒で! エトナだってもっと主様に近付きたいのに」
「それがこれと何の関係がある!」
「セルジュにはわかんないよ! 主様の近くに居るセルジュには。主様絶対エトナのことなんか見てくれないもん! だから」
アシルエトナは、階段に立ったままのサリムに視線を移した。その金と翡翠の双眸が冷ややかな光を湛えているのを見て、さっと顔を逸らし硬く目を瞑る。
「近付けないなら、側に行けないなら、主様なんて居なくなっちゃえばいい!」
悲鳴のような声だった。同時に扉が開き、赤く夕陽が差し込んだ。床に広がる水面に眩しく反射する。
「貴様……っ!」
セルジュが低く唸る。扉の向こうには、聖人リシュタンベルジェルとアズナヴールを筆頭に、神官が押し寄せていた。黒い神官服の中で、聖人だけが白い服だ。
アシルエトナは涙目でもう一度だけサリムに視線をやった後、神官たちの横を駆けて出て行った。神官の誰も彼女を咎めない様子に、セルジュは険しい顔で笑った。利用されたのかは知らないが、アシルエトナと神官の間で何らかのやりとりがあったのだろう。
「魔物が神官に飼い慣らされるなど、お笑い種だな」
開かれた扉から水が流れ出ていくが、アシルエトナが居なくなったにも関わらず、階段から流れてくる水は止まらず、床を覆う水かさは変わらない。
聖人が、薄く流れ続ける水に一歩踏み入れる。
「久しぶり。会いたかったよ。待たせてしまったかな」
にこやかに、両手を広げて。聖人の目はサリムだけを見つめていた。
この状況はまずい。外には大勢の神官が居て、仲間たちは倒れている。この中で戦ったら、仲間たちがどうなることか……場所を移そうにも、出口は神官たちに塞がれてしまっている。
どうすべきか逡巡するセルジュの目に、蠢く物が映った。
神官たちの後ろでゆっくりと揺らめいていたかと思うと、それは瞬時に勢いを増して扉から中へとなだれ込んでくる。
植物の蔦と、枝だった。それはまるで蛇のようにのたうち、床に倒れる仲間たちを扉の外へさらっていく。突然の異常事態に動揺の声を上げる外の神官まで、植物はついでのように巻き込んで、扉の外にはあっという間に緑の壁が出来上がった。
サリムの屋敷でも門番の役をしてくれていたテオフィルの仕業だと、姿の見えない仲間にセルジュは感謝した。
一瞬の出来事に、さすがに聖人も面食らっていた。
教会の中に残ったのは、サリムとセルジュ、対峙する聖人とアズナヴールだけだった。青年の神官は、己に纏わりつこうとした蔦を切り捨てた様子で、剣を片手にしている。
リシュタンベルジェルは背後に出来上がった植物の壁を見て、すぐに向き直った。
「ちょうどよかった。サリム、君を殺す邪魔なんてされたくないもの」
相変わらず神経を逆撫でする発言に、セルジュは青筋を立てて足を踏み出し、剣を抜く。聖人は不愉快そうに眉をひそめた。
「僕の言ったこと聞いてなかったの。どうして邪魔するの。やっと、やっとサリムが僕の、僕だけのものになるところなのに。僕はお前が大嫌いだよ。あの頃から、ずっと、サリムの一番側に居て、それが当然って顔をして。お前なんかがどうして、どうして……っ」
聖人の滅茶苦茶な言い分など聞かず、セルジュは剣を手に踏み込んだ。振るった刃は、予想通りにアズナヴールの剣に弾かれる。
「お前の相手は俺だよ。前見たときと姿が違うみたいだが……今度こそ殺してやるよ」
楽しそうな声に、セルジュは歯噛みした。
「貴様らが崇める聖人の正体があんなものだと知っていて、それでもお前はあんなものが良いと言うのか」
「良いね。最高じゃないか。どうしようもなく美しいのに、どうしようもなく愚かで。本当に愛しいよ」
目の前の相手はただの聖人信奉者ではないようだ。交わった刃越し、セルジュは怪訝そうな顔になる。
「本気で言っているのか」
「当然だ。美しく破滅的、どうして惹かれずに居られる」
押し合う力は拮抗する。二人は刃を弾いて同時に距離を取った。そしてまた、足元を浸す水を蹴立てて、同時に斬りかかっていく。
二人が斬り結ぶのを横目に、聖人は悠々とサリムへと歩み寄る。セルジュはちらと視線を寄越したが、アズナヴールの相手をするので精一杯のようだった。
サリムは、ひどく機嫌のよさそうな聖人を、階段から見下ろした。
「サリム」
数段上に居るサリムを見上げてくる聖人は、夢見るようにうっとりとしていた。
階段を水が流れていく静かな音、近くで交わされる剣戟、熱に浮かされた聖人には、恐らくなにも聞こえてはいない。
「嬉しいよ、やっとこの時が来たんだね。どれだけ待ったと思う? 君はいつもあの犬や、魔女なんかと仲良くして……僕がどんな気持ちだったか分かる?」
「分からない」
素っ気無く答える。途端に、リシュタンベルジェルの顔が悲しげな微笑に取って代わった。
「うん、そうだ。君はいつもそうだ。誰にだって……誰にだってならよかった。誰も例外にならなければ、君が誰にも関心を持たないで、誰のものにもならないで、ずっとあの、興味のなさそうな微笑だけ浮かべて座っていてくれたなら、それでよかった!」
激情に震える声。恐らく百年前のことを思い出しているのだろう。サリムを見上げる瞳が、苛烈に燃える青い炎のように揺れている。
「だけど」
どこまでも凪いだ声で、言ったのはサリムだった。
二人はゆっくりと、腰に提げた剣の柄に手をかける。
「今は、大切にしてあげたいものがある」
普段と変わらない淡々とした声で言って、剣を抜き、切っ先をリシュタンベルジェルに向ける。聖人は泣きそうだった。泣きそうな顔をしているのに、口元だけは絶えず微笑み続けている。
「だから、僕は君を殺さなきゃいけない。そうしないと僕はずっと苦しいままだもの。君を渇望して、飢えて死んでしまいそう」
剣を抜く。その清廉な刀身をサリムの前に翳して、聖人は、やさしくやさしく言った。
「見て。綺麗でしょう。これは君の魂でさえも切り裂くよ。次の生は無い。永遠の死をあげる。……サリム、君をちょうだい」
サリムは数段の高さを一気に飛び降り、聖人へと剣を振り下ろした。受け止める刃は思った以上にしっかりとしている。弾かれた刃を斜め上から振るえば紙一重で避けられ、横薙ぎの一閃は飛び退いて避けられる。息つく間もなく一足で肉薄し、下から斬り上げる。これも避けられ、切れた金髪だけがぱっと散った。
体勢を低くして、リシュタンベルジェルが懐に飛び込んでくる。迫る刃から体を逸らし、叩き割る勢いで振り下ろした剣は剣に阻まれ、高い金属音を上げる。
華奢な少年の割には、思っていたより動けるらしいが、サリムに傷を付けるには至らない。
再び斬り込もうとしたサリムだが、視線が眼前の敵から逸れる。
剣が高く跳ね上がっていた。セルジュの剣だ。アズナヴールの切っ先が、膝をつくセルジュの喉元めがけて振り下ろされる。
死ぬ。セルジュが。深く考える前に、サリムは己の手にしていた得物を投げていた。
武器が手から離れた時、セルジュは死を覚悟した。相手にも傷は与えたが、致命傷ではない。体勢を崩して避けることもできない、袖口のナイフを取り出すのも間に合わない。
己に迫る凶器のきらめきに、ただ目を見開いていた。
「ぐっ」
声はアズナヴールのものだった。次いで舌打ち。何が起こったのか理解する前に、複数の金属が落下する音が聞こえた。浅い水を跳ね飛ばして、床に落ちる。セルジュの剣と、もう一本は。
アズナヴールの腕が深く抉れ、傷口から溢れる血が足元の水を鮮やかな赤に染めていた。辛うじて剣から手は離していないが、あれでは振るうことはできまい。
茫然とするセルジュを我に返したのは、誰よりも敬愛するひとの声だった。
「駄目だ」
背筋が粟立った。聞いたことの無い声音、そこに明確に宿る、怒り。
サリムが、美しい瞳に怒りを宿して、アズナヴールを見ている。セルジュと戦っている時でさえ笑みを絶やさなかったアズナヴールが、顔から色を失くしていた。
見たことが無い。サリムが怒るところなど、セルジュは見たことが無かった。
声を荒げたのでも、怒りの形相に歪んでいるわけでもない、それでも無意識に震えてしまうほどの、怒気を感じる。空気さえも緊張している。
どうして。何に、彼は怒っているのか。
サリムはそんな風に心を揺らすひとではなかったはずだ。今も残っているセルジュの傷跡、これを付けた時だってそうだった。連日人間と戦って、そのうち魔女公主が殺されて――サリムは悲しんでいた。本人にその自覚は無かっただろうが、セルジュは確かにそう感じていた。
悲しみと言う感情をうまく表現できなかったサリムが、無表情で泣きながら、セルジュを斬ったのだ。サリムが泣いているのを見たのは、後にも先にもそれきりだった。
深い傷はサリムの受けた悲しみの痛み。そう思えば傷跡は大切なものに思えた。
そこまで感情表現に疎かったサリムが、今は一体何に怒っているというのか。
セルジュが、殺されてしまいそうだったことに?
その答えに辿り着いた瞬間、あまりの恐ろしさに、セルジュの瞳から涙がこぼれた。
茫然としたのは、セルジュやアズナヴールだけではない。それまで目の前で戦っていた自分を放って、セルジュを助けたのを目の当たりにした聖人。彼もまた、怒りに震えていた。
「サリム!」
吠え掛かるような声。武器を失くしたサリムは、リシュタンベルジェルに押し倒された。僅かな飛沫が上がり、黒い髪が水面に広がる。すかさず聖人が馬乗りになってきて、胸倉を掴まれた。
「どうして! 僕と、僕と戦っていたのだろう! その最中にどうして、他のものになど目を奪われるんだ! 自分の武器を捨ててまで、あんな犬を助けるんだ!」
まるで最初から眼中に無いような。そんな扱いをされてはたまらない。片手に剣を握ったまま、片手で胸倉を掴み、顔を近づけて美しい声が割れるほど怒鳴った。金髪がサリムに落ちかかる。
「僕のどこがあれに劣るんだ、どうすれば君は僕のことを見てくれるんだ、サリム……」
サリムは涙を浮かべる青い瞳から顔を逸らした。セルジュが泣いている。
どうして泣いているの、と聞かなければいけない。
眼前で叫ばれてなお、サリムの目にリシュタンベルジェルは映らなかった。
「どいて」
素っ気無い声。聖人の目が炎に揺れる。
「サリム!」
逆手に持ち替えた剣を両手で握り締め、リシュタンベルジェルの剣がサリムに振り下ろされた。それは肩に深々と突き刺さり、床を覆う水にじわりと赤が滲む。
喉でも心臓でも一突きにすれば済むのに、なぜ。疑念を込めて見上げれば、今にも崩れ落ちてしまいそうな頼りない顔があった。目は潤み、歯の根が噛み合っていない。小さく震えている、彼の手。剣を伝って、刺されている肩に小さく振動が届く。
自分を殺そうとする手はいつも震えている。サリムは思い出す。
百年前、初めて殺された時。そして今。もしかしたら、世話係であり、旧聖堂でサリムに刃を振り下ろしたクロティルドも、こうだったのだろうか。
「どうして」
疑問が口を衝いて出る。
無垢な子供のような目で、震えるリシュタンベルジェルを見上げる。
「何が怖いの。お前たちはいつも、何が怖いの」
聖人が瞬きする。こぼれ落ちた雫がサリムの頬を濡らした。
「君が誰のことを言っているのか知らないけれど、サリム、僕は怖いんじゃない。悲しいんだ、君を殺さないといけないことが、殺さなきゃ僕が救われないことが」
「救われるの」
殺すのが悲しいのに、救われるのか。心底不思議で、サリムは淡々と繰り返した。聖人は唇を震わせるだけで、答えない。
しばらく返事を待っていても、彼が何かを言う気配は無い。サリムは途端に興味が失せてしまった。
「どいて」
セルジュの方を見てもう一度言うと、涙に揺れていた聖人の瞳が、瞬時に狂気に燃え上がる。
「ジード! 殺せ!」
悲鳴のような声。アズナヴールが即座に、怪我をしていない手に剣を持ち替えた。座り込んだままのセルジュ目掛けて刃が振り下ろされる。
サリムは己の肩に刺さっている剣の刃を握って無理矢理引き抜いた。手の平が切れて血塗れになる。そのまま聖人の手から剣を奪う。
金属音。アズナヴールの剣が中ほどから折れ、腹部から鮮血が吹き出た。
「っとに化け物だな……」
苦く呟くアズナヴールの口からも、血が零れる。サリムの動きも見えていなかったのだろう。そのまま膝が崩れ、床に手をついた。
サリムはセルジュを背に庇い、アズナヴールの血に濡れた剣を払った。長い黒髪が踊る背中に、声がかかる。
「サリム様……」
弱々しい青年の声。サリムは敵に背を向け、身をかがめた。
セルジュはまだ泣いている。目を見開いて、茫然としたような表情で、金色の目から次々に雫がこぼれる。
彼はよく泣いている。どんな怪我をしたって、平気だとしか言わないのに。自分のためには泣かないくせに、いつもサリムのことを思って泣いていた。
「どうして泣いているの」
「怖いんです」
何が。首を傾げると、黒髪が肩から流れる。セルジュは涙を拭うことなく、まっすぐにサリムを見ていた。
「あなたは、美しいひとです。なにものにも無関心で、全てはあなたの表面を撫でていくだけで、その目には何も映らない。あなたは完璧でした。美しさ、強さ、残酷に見えるところまですべてが、完璧でした。……俺なんかが、穢していいものじゃなかった……!」
かすれて震える声。サリムは優しく問いかける。
「俺は、穢れた?」
セルジュは一瞬の後、すぐに首を振った。
「あなたが怒っているところを、初めて見ました。……あなたは知っていた。善悪という判断が、全て誰かの思考に拠って生まれるものであって、そこには何も意味がないのだと。あなたは善悪の外側に居たんです。その在りようを、俺なんかが変えてしまうだなんて、そんな恐ろしいこと――」
「完璧じゃない俺は……、お前を大切にしてやりたいと思う俺は、嫌い?」
淡々とした声に、かすかに混じる笑み。大きく身を震わせたセルジュが、悲壮な顔で首を振った。
「そんなこと……! 俺は、どんなあなただってお慕いしています。サリム様」
「ならいいでしょう」
細く整った指を伸ばす。頬を伝う涙をすくう。
優しくしてあげたい。
何もかも全てに興味が無かったサリムを大切にして、優しくしてくれたように。セルジュにも、優しくしてあげたい。
初めて抱いた感情を持て余しながら、子供のように泣く彼を慰める。
不意に聞こえたささやかな声は、聖人のものだった。
「……殺して」
サリムに突き飛ばされたまま座り込んだ彼は、金髪が乱れて顔にかかるのも気にならないようで、茫然としていた。青い目に燃え盛っていた炎は消え失せ、もはや何の温度も持っていない。
「どうあっても、君の目に映れないのなら、せめて」
力無い声だけが縋り付いてくる。
サリムとセルジュの傍らで荒い息を吐くアズナヴールも、深い傷口を血塗れの手で押さえながら、何を言うでもなく自らが仕える聖人を見ていた。
金と翡翠の目が細められる。
サリムは薄く微笑んでいた。
「俺の居ない場所で、俺のことを思いながら生きればいい。……好きでしょう、そういうの」
最後の願いさえ拒絶され、リシュタンベルジェルの目がいっぱいに見開かれる。
かつてのサリムなら、殺せと頼まれたなら何を考えるでもなく命を奪っていた。
人形のように美しい聖人の顔が、涙と微笑で歪む。確実にサリムは変わってしまった。それでも、形は変わってしまっても、その残酷さは聖人の愛したサリムだった。
サリムは手に握ったままだった剣に気付いた。聖人から奪ったものだ。
永遠の死をあげる――そう言った聖人の握っていた剣、死を知らないサリムの魂ですら切り裂くという武器。
「あげる」
セルジュにそれを差し出すと、それがどういうものか理解している彼は蒼白になって首を振った。
「貰えません」
「欲しくない? 俺の」
命は。
青い顔で首を振るセルジュは、哀れなほどうろたえていた。銀髪が乱れて、涙で揺らめく金の瞳が混乱している。
柄を差し出したまま受け取ってくれるのを待つ。
優しくしてあげたいのに、泣かせてばかりだ。
「いつ使ったっていい。好きにすれば」
セルジュはじっと剣を見つめていたが、やがて震える手がそれを受け取った。両手で柄を握り締めて、サリムを見詰めてくる。
「……ありがとう、ございます……」
かすれた声が、答えた。
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