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4 白い後悔の中で
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周囲は真っ白で何も見えない。眩しい光の只中に居る。
自分は目の前のうつくしいひとの足元で跪いている。
彼が身動ぎすると長い金髪が月の光のような輝きを振りまいて、肩からすべり落ちる。
湖面のような碧い目を見て、自分はこのひとのために死ぬのだと思った。
人々を救うために戦って命を使うのではない。ただこのひとが望むから、このひとのために、己の命はあったのだ。
ただこのひとの前に跪く瞬間のために、この命は果てるのだ。
己を犠牲にしてまで叶えたい願いなど、守りたいものなど、考えたこともなかったのに。
光そのもののようなそのひとの望みのためならば、自分は魂まで差し出してしまえることを、今、知った。
はっと夢から覚めると、朝の日差しが差し込む部屋のベッドの上で、気配を感じて見ればレイが部屋から出て行こうとしているところだった。何か眩しい夢を見ていたような気がするが、カーテンがきちんと閉められていなかったせいだろうか。
「レイ? 珍しいな、どこ行くんだ」
彼が一人でどこかに行こうとするなんて珍しい。あくびしながら声を掛けると、びくりと肩が跳ね上がる。返事をしないその後ろ姿に、ああこの人なんかやましいことを考えてるなと察した。
「レイ」
「どこでもいいだろう」
ぎしりと音を立ててベッドから降り、足早にレイの元まで向かった。振り向こうともしないでドアを開けようとするレイの後ろから手を突いて、ドアを閉める。レイがジェイスの影にすっぽりと包まれた。
「俺の目を見て言え。どこに、何しに行こうとしてる」
「別に……」
レイはしばらく沈黙していたが、返事があるまでジェイスが退くことはないとわかって、歯切れ悪く答えた。
「……魔導士を仲間に入れようと思う」
「いるか? レイがいるのに……」
それだけでこんなに後ろめたそうな態度をとるものだろうか。訝しみながら言っている間に、気付いて顔をしかめた。
「あっ! あんたもしかして女連れてこようとしてるのか!?」
「大丈夫だ、銀髪で髪が長くて背が高い美人な女が好みなのだろう? ちゃんと気立てのいい、お前にふさわしい女を連れてくるから」
「いらないって言ってるだろ! 人の話を聞け!」
「お前が言ったんだろう、銀髪で、背が高くて……」
「そうだな、今俺の目の前に居るな、銀髪で背が高くてすごい美人が」
「私は女じゃない」
「俺の好みは女だって言ったか?」
そこでようやくレイが振り向き、ジェイスを見上げた。少し驚いたような顔をしていた。
「男が好みだったのか? だから女はいらないのか」
「まじで聞いてくれる? レイが好みだって言ってんだけど」
レイが俯く。頬がほんのり赤くなっているあたり、わかって言っていたのかもしれない。どうしてそこまで頑なに、自分以外の人間を宛がおうとするのか不思議だった。
ジェイスは溜息を吐いてレイから体を離した。
「朝メシ買ってくるから、レイはどこにも行かずにここで待ってて」
「……わかった」
渋々頷くレイを尻目に、ジェイスは手早く着替えて部屋を出た。隣の部屋のアメアを誘って、朝食を買いに外へ向かう。
もう本格的な夏も目前で、朝なのに燦々と降り注ぐ太陽が暑い。アメアは日差し避けにローブのフードを被っていた。
「あのさ、一緒に旅する上で迷惑かけるかもだから先に言っておきたいんだけど」
「はい」
「俺、レイのことが好きなんだよね」
言わずともいずればれることかもしれないが、一応伝えておいた方がいいだろう。同性同士の恋愛など今時珍しくもないが、昔気質の人間だと忌避感を抱く者も居ると聞く。加えてパーティ内恋愛なんて嫌がられるかもしれないと、ある程度の覚悟をもっての言葉だったが、アメアは胡乱な眼差しでジェイスを見上げた。
「はあ」
「あ、大丈夫そう?」
「いや、何でそんな今更……付き合ってるんじゃないんですか?」
「つ!? きあってないよ!? なんで!?」
驚きのあまり大声が出た。アメアは呆れたような顔をしている。
「ええ……だってあの人ジェイスにしか興味ないじゃないですか。ジェイスだってずっとレイのこと見てるし。海でオレと話してた時もずっとレイのこと目で追ってて」
そうだっただろうか。そんな気もする。海の前に立つレイは異物のようで、けれど風を受けてなびく髪が美しいと思ったことが、容易に思い出せた。
レイを好きだと自覚したのがつい昨日のことだ。それ以前から無意識にレイを見詰めていたことを指摘されて恥ずかしくなり、顔を片手で覆った。
「なんかごめん」
「いいんですけど、何で付き合ってないんですか?」
「俺もわからない」
「はあ」
興味の無さそうな返事で、かえって安心した。
すっきりした気分で朝市を見て回る。焼き立てのパンの香りに誘われて、レイに柑橘の皮の入ったさっぱりとした甘みのパンを買った。紙袋に入ったパンの温かさを感じながら、焼き立てのパンなんか特別に美味しいに決まっているのだから、早く帰ってやりたいと思った。
ブレニアの次に向かったのは、信仰の街パガネムだ。光の神の教会を中心として栄える大都市で、神の描かれた荘厳なステンドグラスのあるバルタレティア大聖堂を目指して、各地から巡礼者も観光客もひっきりなしに訪れる。人の往来が多い場所のため自然と商業も栄え、これまで訪れたどの街よりも文化的な雰囲気だった。
光の神のお膝元とでも言うべきこの地で、魔物の被害が出るような事態はあってはならないせいか、パガネムのダンジョンは教会に管理されており、許可がなければ立ち入ることはできないという。
許可を得るため、ジェイスたち一行はバルタレティア大聖堂を訪れていた。大聖堂の見事さに感心するジェイスの傍らで、レイは建物を見もせずに終始退屈そうだった。建造物にはあまり興味がないのだろうか。
人々に紛れて石畳の道を歩いていると、遠くにシスターと思わしき女性が連れ立って歩いているのが見えた。
「すみません」
「こんにちは、どうされました?」
許可を貰う手順を聞こうと声を掛け小走りで寄っていくと、年嵩のシスターは朗らかに挨拶を返してくれた。その後ろで、もう一人の若いシスターが蒼白な顔でジェイスの後ろを見て、ヒッと息を呑んで尻もちをついた。
「大丈夫ですか?」
「あ、あ……」
手を貸そうと屈むジェイスには目もくれず、女性は怯え切った顔で声を漏らす。
振り向くとそこには相変わらずつまらなそうな顔をしたレイが立っていて、女性を睥睨していた。美青年の冷たい顔は迫力があるが、さすがにここまで怯えるほどではない。
そういえば酒場でアメアと出会った時も、こんな顔で怯えていた。何気なくアメアを見ると、気まずげに目を逸らされた。
「あなた、どうしたの」
年嵩のシスターが心配げに声を掛けると、若いシスターははっと我に返って、這うように立ち上がった。
「化け物!」
叫んで、一目散に逃げていく。一応周囲を確認するが、魔物の気配もない。
「なんだ……?」
呆気にとられてジェイスが呟く。
「ごめんなさいね、あの子急にどうしたのかしら……。ええと、それで、何かご用が?」
残されたシスターが頬に手を当て、おっとりと首を傾げる。シスターが逃げて行った方を気にしていたジェイスは、気を取り直して当初の目的を告げた。
「ダンジョンの攻略に来ました。パガネムのダンジョンは教会の許可がないと入れないって聞いたんですけど」
「あらあ、そうなの。わざわざいらして頂いたのにお気の毒ですけれど、危険なダンジョンですから封鎖しているんです」
「そんなに強い魔物が出るんですか」
「なんでも特殊な攻撃をするのですって。わたくしは詳しくはないのですけれど……。あなたもお若いんですから、危険なことはよして」
善意の説教が始まりそうな気配を感じたちょうどその時、こちらへ慌ただしく向かってくる複数の足音が聞こえた。
「こちらです!」
見れば、先ほど逃げて行ったシスターが、数人の教会騎士を引き連れて戻って来たところだった。
「あそこです、あの、あの化け物が」
震える手が指差しているのはレイだった。レイは全く動じることなく、鼻白んだ様子で腕を組んでいる。
「化け物? どこにもいないじゃあないか」
「たしかに化け物のように美しい人なら居るようだ」
騎士たちはそう言って笑い声を上げる。シスターの女性だけが青い顔で、そんな、と絶望の声で呟いていた。周囲の人間たちは、一体何事かと遠巻きにこちらを窺っていた。
レイが化け物呼ばわりされるのも、好色な目で見られるのもひどく気に障る。
レイが何者なのか、ジェイスは未だに知らない。アメアに、このシスターの女性に。ごく一部の人間には、もしかしたら何かが見えているのかもしれない。だが、レイが何者なのか知りたいという気持ちよりも、彼を侮辱しないでほしいという気持ちの方が勝った。
ジェイスが声を上げるより先に、レイが一歩踏み出した。
「ここは教会だろう。信心を知らないのか?」
ぞっとするほど冷たい声だった。怒気は感じないのに、ひどい威圧感を覚える。笑っていた騎士たちも空気が変わったのを感じ取り、ぴたりと口を閉ざした。
レイは赤い目を細めて、酷薄に笑う。
「膝を突け」
いつもより低い声が命じる。
シスターの女性が崩れ落ちるように膝を突いたのを皮切りに、神殿騎士たちまで顔色を失って跪き、まるでさざ波が広がるように、傍観者たちまで次々と膝を折った。
見れば、ジェイスの後ろでアメアまでもがよろよろと膝を突いている。
皆一様に、己の身に何が起こったのか分からないような蒼白な顔で、頭を垂れていた。震えが抑えられない者も居る。
立っているのは最早レイとジェイスだけだ。異様な光景に息を呑むと、レイが振り向いた。立ったままのジェイスを見て、意外そうに軽く目を見開く。
「お前は光の神を信じていないのか? 憎んでいるのか?」
唐突な問いかけの意味が分からず苦笑する。
「何の話だ? ていうかこれなに?」
確かにジェイスは信心が薄い方だ。こんなことを言うと異端者のような目で見られるから、普段口にすることはない。
信じていないが憎んでいるわけではない。
どちらかと言えば、次は隣に並んで立てたなら――次ってなんだ? これは何の、いつの記憶だ?
軽い頭痛に顔をしかめた時、跪いた人々の間を縫って人が近付いて来るのに気付いた。
「これはなんの騒ぎですか?」
ずんぐりとした体に聖職者の服を纏った、柔和な顔立ちの老齢の男だ。黒い服に金糸の刺繍が入っていて、高位の聖職者であろうことが窺える。レイの冷ややかな眼差しが男を見据えた。
「司教か? この場でお前が最も聖職者に相応しくないな。信仰心もないのによくもまあ」
「何を仰います。この神聖な教会にそんな不届き物はおりません。わたくしは偉大なる光のしもべですよ」
司教は穏やかに諭すような口調で言うが、レイは鼻で笑っただけだった。
何の会話をしているのかついていけないジェイスは、とりあえず傍らで膝を突いているアメアに屈んで声をかけた。
「大丈夫? 立てるか?」
アメアは血の気のない顔で震えて、首を振る。
「あのひと何とかしてください……」
かすれ声で訴えられて、レイを振り仰いだ。
「レイ、レイちょっと落ち着いて、落ち着ける?」
「そもそも私はこんな場所来たくなかった、空の天など崇める愚かどもが」
「わかった一旦帰ろう、無理することないよ」
別に何もわからないが、レイが教会を嫌いらしいことは分かった。ジェイスはパガネムのダンジョンに拘っているわけでもないし、とにかくレイを落ち着かせるべきだ。
レイの腕を引いて帰ろうとした時、司教が声を上げる。
「お待ちください。別室でお話でもいたしませんか」
大事になってしまった以上、ただで帰してはもらえないのか。レイがこれ以上なにかしでかす前に、これ以上彼が不快な思いをする前に帰りたかったジェイスは、恨めし気な顔で司教を見た。
通された部屋は壁も柱も装飾的で、さらに大きな絵画が飾られており、客人に教会の威光を見せつけようという意思がひしひしと感じられた。革張りのソファーに落ち着かない気持ちで腰掛ける。疲れ切った顔のアメアが右隣に座り、レイは左隣でソファに尻を凭せ掛けるようにして立っていた。
「わたくしはメトカーフと申します。皆さまはどういったご用件でこのバルタレティア大聖堂へいらしたのでしょう」
ジェイスの向かいに腰掛けるメトカーフ司教は温和な笑みを浮かべている。先ほどの異様な光景など目に入らなかったかのようだ。胡散臭く感じる。しかしジェイスは疑心などおくびにも出さず、笑顔を作った。
「ジェイスです。ダンジョンの探索に来ました。パガネムのダンジョンは教会の許可が必要だと聞いて」
「ああ……、この地のダンジョンは非常に危険なもので、教会騎士を送り込んでも攻略できず、今は立ち入りを禁じているのです」
このまま追い返されるかもしれない。だがレイを連れて一刻も早くこの場を離れたいジェイスは、最早その方がいいとさえ思っていた。
しかし予想に反して、メトカーフ司教は両手を握り、身を乗り出す。
「ですが、もしも皆さんが攻略して下さるというのなら、ダンジョンの扉を開けましょう。パガネムのダンジョンは、この大聖堂の地下にあるのです」
「いいんですか」
「ええ、我々としても、この神聖な大聖堂の地下を早く浄化したいのです。どうかよろしくお願いします」
いかにも誠実な声音で語りかけてくるが、もしかして得体の知れない厄介な来訪者を危険なダンジョンに放り込んで始末してしまおうという魂胆ではと疑った。かと言って、もとよりダンジョンが目当てで来たのだから、断る道理もない。
情けない話だが、ジェイス一人では困難だったとしても、レイが居るのだから滅多なことにはならないだろうと思えた。
軋む音を立てて、重い扉が背後で閉まる。大聖堂の地下、長く暗い階段を降りた先には、思いのほか明るい空間が広がっていた。
眩しさにしばらく立ち止まり、目が慣れてようやく周囲が見えるようになる。
高い天井からは、白い光が降り注いで昼間のように照らされていた。地面には見渡す限り一面に白い花が咲いていて、合間に透明に輝く鉱石のようなものが突き出している。ここがダンジョンだと知らなければ、なんとも美しくものどかな光景だ。
「こんなに綺麗な場所なのに、危険な魔物が出るのか?」
草を踏みながら奥へと向かって進んで行く。花々は荒らされたような形跡もなく、甘い芳香を漂わせていた。何かが暴れたような痕跡もない。
「奥の方でしょうか? それにしても何の気配も感じませんが」
アメアの言う通り、何の生き物の気配もない。これだけ花が咲いているというのに、その花粉を運ぶ昆虫の姿さえ見当たらず、風も吹かないから三人の出す音以外は静寂そのもので、ただただ甘い花の香りだけが鼻につく。
「何の花だ? 見たことがない」
レイが訝るような声で言う。ジェイスは花のことなどわからないが、つられて足元に目をやった。
花弁が六枚の白い花だ。花芯に向かってうっすらと桃色に色付いている。
くらりと眩暈がした。同時に、アメアが悲鳴のような声を上げる。
「出ましょう! これは植物じゃ……」
言葉の途中で視界が揺れて、声が途切れる。気付くとジェイスは真っ暗闇の中を一人で立ち尽くしていた。
「……なるほどな……」
特殊な攻撃をする魔物が出ると言っていた。恐らく精神攻撃だ。ダンジョンに入ったその時から、もう始まっていたのだ。
何も教えずにダンジョンに放り出して、あの司教本当に俺たちを始末するつもりだったのか? ジェイスは苦々しい顔になる。
とにかく早く抜け出さなければならない。レイは心配いらなさそうだが、アメアは気が弱いところがある。
不意に、遠くが揺らいで、蜃気楼のように人影が浮かび上がった。
「ああ……」
面倒そうな声が出る。最早顔も忘れつつある、母親の姿だ。
「ジェイス。どうして心配をかけるの。母さんたちはあなたのためを思って言っているのに」
「俺そういうの効かないんだけど。とりあえず斬ればいいのか?」
剣を抜き、放っておいたらまだ小言を続けそうな幻影へと歩を進める。
しこりがある家族の姿なんて心を乱される典型かもしれないが、ジェイスは家を出たあの時にすでに心の整理はついているのだ。
家族とはいえ分かり合えないことはある。いくら血が繋がっていたとしても、結局別の人間、別の個体なのだ。分かり合う必要もないと思った。人の意見を受け入れる気もなく、相手を曲げさせることが「話し合い」だと思っている人間が相手ならなおさら。
幻影は何かを悟ったのか喋るのをやめて、一拍の間の後ぐにゃりと姿を歪ませ、また別の姿へと変わる。
「うっ」
思わず声が出た。
引き締まった長身の体に、白いゆったりとした絹の衣を纏っている。白い肌に金色の長い髪。澄んだ碧い瞳がジェイスを見詰める。
「ジェイス」
耳に心地よい声が名を呼んだ。
さすがにそれは効くかもしれない。
目の前に現れたのは、髪と目の色こそ違うが、レイの姿に違いなかった。
しまった。もっと早くに気付くべきだった。
暗闇の中でアメアは反省していた。
「アメア」
懐かしい声に呼ばれて心臓が跳ねた。振り返ると、自分よりも暗い赤褐色の髪をもつ青年が立っている。
「アメア、どうして俺を置いて行ってしまったんだ。ずっと恋しかった。もうどこにも行かないでくれ」
「兄さん……」
青年に抱きすくめられて、身動きがとれなくなった。こんなのは魔物に見せられた幻覚だと分かっているのに。アメアの記憶から引きずり出されて作り上げられた幻覚は、兄と寸分違わぬ姿、違わぬ声で、アメアを誘惑する。
鼓動がうるさい。
だめだ。だめだと分かっているのに、兄に縋られるとアメアはいつもこんな風に抵抗することができなくなってしまう。
だってずっと好きだった。
血の繋がった兄だけれど、好きだったのだ。
誰からも好かれる、明るくて頼もしい自慢の兄だ。アメアも兄が大好きだった。アメアに厳しく魔法を叩き込む母からいつも庇ってくれて、魔法などなくても人の役に立つことはできる、自分が証明して見せると、人のために戦っていた。
大好きな兄。
だったのに。
自分が歪めてしまった。
「アメア、お前が俺をこんな体にしたのに。こんな体になってしまった俺を、誰が受け入れてくれると言うんだ。もうお前しかいない。アメア、ずっとここに居てくれ……」
違う、兄はアメアを責めるようなことなんて一度だって言わなかった。だけど口にしなかっただけで、本当はそう思っていたのかもしれない。
兄の体を抱き返す。こうやって互いに依存してしまうから、離れようと思ったのに。
ずっと抱き締めていてほしい。もう離れたくない。どこにも逃げられないように縛り付けておいてほしい。
暗い方へ傾いていく意識を引き留めたのは、小さな唸り声だった。黒い大型犬のような影が、唸りながらアメアの服の裾を噛んで引っ張っている。
「ファング」
必死で服を引く黒い犬――狼の名を呼んで頭を撫でてやると、その油断を見逃さずに強く引かれ、アメアは引き倒された。
入れ替わりにファングが、兄の幻影へと飛び掛かっていく。
ファングは元々兄の相棒だった。アメアと違って幻に惑わされることもないのだから立派なものだ。
獣にも劣る自分に嘲笑を浮かべた。
「ジェイス。あなたは私のことを愛していないのですか」
寂し気な声音で問いかけてくる。まずいと思った。
ジェイスの知っているレイはこんな風に誘惑してくる男ではない。自分は愛していると繰り返すくせして、ジェイスからの見返りは求めないのだから。
「ずっとあなたに触れてほしいと思っていました」
だからこそまずい。絶対こんなこと言わないと知っているからこそ、まるで願望が具現化したかのように揺れる瞳で見つめられて、理性がぐらぐらする。
本物ではないのなら、逆にちょっとくらい手を出してもいいんじゃないか? 碌でもない思考が顔を覗かせる。
間違ってもレイに無理やり手を出すつもりはない。彼を悲しませるようなことはしたくない。でもこれは幻影だ。
「お願いジェイス。どうして何も言ってくれないの」
こんな風にしおらしく縋ってくるのは幻覚だ。普段と口調がまるで違うし、外見だって違う。普通こういうのはジェイスの記憶を読んで、そっくりそのままの人間が出てくるものじゃないのか? これは一体何の記憶だ。違うと思うのに、強烈な懐かしさを覚えるのは何故だ。
目の前のレイに吸い寄せられるように、ジェイスはその白い頬に手を滑らせた。レイは安心したように表情を和らげて、ジェイスの手に己の手を添え、頬を摺り寄せてくる。愛らしい仕草に頭が熱くなる。
その彼の手に、いつもの黒手袋が無いことに気付いた。風呂上がりだろうと、睡眠中だろうと、どうしてかいつもはめていた手袋だ。分かり切っていたことだが、これは本当に幻覚でしかないのだ。
もう少し触ってもいいだろうか。本人でないとわかっているのに触りたくなるなんて、逆に不埒だろうか。
金色の繊細な睫毛に縁どられた碧い瞳が、甘えるようにジェイスを見上げてくる。
「私はずっと、あなたのものになりたかったんです。ジェイス、あなたに愛されたい」
この幻覚の世界から抜け出して現実に戻るには、足を引き留めようとする幻影を倒すのがお決まりだ。
けれど、ジェイスはこの幻影に刃を向けることができるだろうか。
「お願いジェイス」
甘い声が脳を揺さぶる。
ジェイスはぐっと目を瞑って、その胸を突き放した。
「ジェイス、どうして、離さないで」
「その声でそんなこと言うなよ」
寂しそうな声を出さないでほしい。ジェイスはとにかくレイの悲しげな顔に弱いのだ。
剣を抜く。黒く輝く刀身を見ると、レイの元に帰らなければならないと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「ごめん。あんたを斬って俺は帰らないといけない」
「どうして? いや、私を愛していないの? 行かないで。殺さないで……」
「そう言ってもらえると助かる」
自身がひどい怪我を負おうとも、ジェイスのかすり傷に取り乱すような男が、こんなことを言うはずがないのだ。本物のレイとのはっきりとした差異に、躊躇いを振り切る踏ん切りがついた。
息を吐いて柄を握る。違和感を覚えて見下ろすと、手が震えていた。苦笑する。
幻影だと分かっていても、愛する人に刃を向けるのはこんなにも恐ろしい。
聞こえた悲鳴が、幻覚なのか現実なのか、咄嗟にはわからなかった。
幻影のレイを斬った感触がまだ手に残っているような気がしてひどく気分が悪い。
しかし、目の前に蹲る姿を見て、そんな感傷は一瞬にして吹き飛んでしまった。
「レイ! 大丈夫か?」
白い花畑の中に銀髪の青年が蹲っている。
きっとレイならこんな幻覚に呑まれることはないだろうと、高を括っていたことを後悔した。
「いやだ、やめて、やめてくれ!」
レイは耳を押さえて、悲鳴を上げる。長い銀髪が無造作に地面に流れ落ち、苦悩するその姿に、ジェイスは心臓が締め付けられるような心地がした。
「レイ、レイ。何があったんだ」
「やめて、お願い、ごめんなさい、ごめんなさい……」
悲哀にかすれ、怯えたように許しを請う声。傍らにしゃがんで背中をさすってやるが、ジェイスの言葉すら耳に入らないようだった。赤い目からは大粒の涙がとめどなく溢れては零れる。涙で呼吸がひきつっていた。
「一旦退きましょう」
横からアメアが声を掛けてくる。
ジェイスはレイを抱き上げて、降りて来たばかりの階段へと足早に向かった。
「レイ、俺の首に腕回せる?」
できるだけ優しい声音で言うと、レイは素直にジェイスの首筋に縋り付き、そして変わらずごめんなさい、お願い、やめてと泣きながら繰り返していた。
「なんだ!? どんな幻覚見たらこんなことになるんだ!?」
「こういうのは本人の一番弱いところを突いてくるものですけど……」
早足で進むジェイスの後ろを、アメアが小走りでついてくる。
一番弱いところ。余程悲しい記憶でもあるのだろうか。かつて誰かが彼を、こんな風に怯え、泣きじゃくるほどひどい目に遭わせたのだろうか。
考えるだけで苛立ちを覚えた。肩口が涙で濡れている感触がする。
長く暗い階段を上り、軋む扉を開くと大聖堂の小部屋に出る。行きにも通ったそこは小さな書棚と椅子があるのみで、メトカーフ司教が腰かけ、のんびりと読書していた。
「おや。駄目でしたか」
おっとりとした声で言うのが、ジェイスの怒りを誘った。
「あんた、こうなるってわかってて行かせたんじゃないのか」
「まさか。みなさんならダンジョンを攻略できると信じて送り出したのですよ」
「今までこのダンジョンに入った奴はどうなった。精神をやられたやつが居たんじゃないか」
メトカーフ司教がレイに視線をやってから、両手を広げてにっこりと笑った。
「神を信じる心があれば、きっとお救い下さるでしょう!」
朗々と響く声がわざとらしい。この男は、レイに信仰心を疑われた意趣返しをしているに違いなかった。
元々信仰心とは縁遠いジェイスだが、まさか聖職者がプライドのために他者を危険に晒すような真似をするなど、思いもよらなかった。
こんな非道な相手に構っている暇などない。歩き出すジェイスの背中に、司教の声が投げられる。
「あなた方にも神の光が降り注ぎますように!」
大聖堂の近くの宿でレイをベッドに寝かせてやった。ジェイスが離れようとすると泣いて錯乱するため、ジェイスも一緒に添い寝している。
大聖堂から出る前に、具合が悪いのなら休んで行くといいとシスターが声をかけてくれたが、一刻も早くあの場所から離れたかった。さすがに司教が直接危害を加えてくることは無いにしても、とにかく腹立たしかった。
ダンジョンから出てもレイの調子が良くなる様子はない。うとうとと微睡んでは何かに怯えて飛び起きて、ジェイスは夜通し彼を宥めた。
今はやっと泣きながら眠りに落ちたところで、腫れた目元が痛々しく、ジェイスは涙を指でそっと拭った。
少しでも早く幻覚から抜け出すべきだった。ジェイスは自分の振る舞いを後悔するほかない。自分が居たところで何ができたかは分からないが、レイが苦しんでいた時に自分はのんきに偽物の幻影と遊んでいただなんて自分を殴りたくなる。
憔悴しきって眠るレイはひどく頼りなく儚げに見えて、ジェイスの焦燥は募った。
「あの白い花が魔物なのかもしれません」
ドアが開く。パガネムのダンジョンについて探るために出掛けていたアメアが、帰ってくるなりそう言った。
「花が?」
「仲間が被害に遭ったという教会騎士の方から話を聞きました」
ジェイスはちらりとレイを見て、彼を起こさないように何とかゆっくり腕から抜け出し、ベッドから降りた。話し声で起こしてしまわないように、アメアと廊下に出る。
「幻影を乗り越えられる精神力があれば大事には至りませんが、そうでなければ廃人になることもあるそうで」
ジェイスは眉をひそめて腕を組んだ。
「花を全部燃やすか」
「花自体が幻覚物質を放っているとしたら、煙吸い込んだら大変なことになりますよ。大聖堂の方にも被害が出ます」
「じゃあ爆破……も同じことか」
そんなことをしたら、きっと大聖堂まで崩れ落ちるだろう。なにより、そのような大掛かりなことができるのはレイだけで、その彼が臥せっているのだから実現しようもない。
「くそ、どうすりゃいいんだ、俺って役に立たねえな……」
片手でぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。
その時部屋の中から悲鳴が聞こえて、ジェイスは弾けるように部屋に駆け戻った。
「ジェイス!」
「いる、居るよここに、レイ」
「ジェイス、やめて、やめてくれ、お願いだから」
目が覚めるなり涙をこぼして錯乱するレイを抱き締める。正気であれば恥ずかしがって離れようとするレイが、今は震えてジェイスに縋ってくる。
「ごめんなさい、私が、私のせいで、ごめんなさい、やめてくれ……」
「レイ、レイの嫌がることなんてしないよ。大丈夫だから落ち着いて」
なんとか宥めようと背中を撫でると、彼は涙に濡れた顔を上げた。ずっと焦点が合わず虚ろだったレイの目が、意思を持ってジェイスの目を見る。もしかして正気に戻ったのかと期待が過ぎったが、レイは歪な笑みを浮かべた。
「うそつき」
その言葉にわけもわからず胸が締め付けられる。レイはすぐに俯いて、ぐいぐいとジェイスを押して体を離し、ベッドに倒れ込んで気絶するように眠りに落ちた。
うそつき? 何が? もしかして彼がずっと怯え続けている幻影は、ジェイスの姿をしているのか?
自分でも驚くほどショックを受けたジェイスは、また廊下に出てしゃがみ込み、頭を抱えた。
たとえ幻覚だとしても、自分がレイを苦しめ続けているだなんて耐え難い。
「ジェイス。大丈夫ですか。あなたまで病んだら、オレ一人じゃ手に負えないのでやめてください」
廊下に出たままだったアメアが言う。ドライな物言いだったが、今は冷静で居てくれるアメアが有り難かった。
「外に出たついでにパン買ってきました。食べれそうならどうぞ」
「……ありがと」
受け取った紙袋の中には、野菜とハムを黒パンでサンドしたものが入っていた。立ち上がってドアに寄りかかり、もそもそと食べながら、早くレイに元気になってもらって、また美味しいものを食べさせてやりたいと思った。おいしいと言って笑うレイの顔が恋しい。
「ダメだ」
三口ほど食べたところで、ちっとも喉に通らないパンを袋に戻し、アメアに押し付ける。
「ちょっと行ってくる。レイを頼む」
「え、どこにですか」
「大聖堂」
「何か思いついたんですか? ジェイス! もう、変なこと考えないでくださいよ!」
困惑気味のアメアの声を背に浴びながら、ジェイスは振り向きもせず宿から出て行った。
再びダンジョンに潜るべく大聖堂に向かったが、誰に声を掛けても司教様は忙しいからと言って取り次いですらもらえなかった。みな一様に気の毒そうな目を向けてくる。
道順は覚えている。扉の鍵など黒い剣があれば容易に壊せるだろうし、もう無理矢理押し入るか?
人々の中を歩きながら不穏なことを考えて殺気立っていると、後ろから潜めた声をかけられる。
「もし。昨日ダンジョンに入られた方ですか」
勢いよく振り向くと、そこに立っていた青年が少し驚いたように肩を跳ね上げた。
礼拝客や観光客と見分けがつかない格好をしているが、しっかりと筋肉のついた体躯から、彼が戦うことを生業にしていることが見て取れた。
「そうだけど」
青年は視線だけで辺りを窺ってから、ジェイスを大聖堂の影になる隅の方へと連れて行った。
「今日もまたダンジョンに入られるおつもりですか? 仲間の方はどうされたんですか」
「仲間が魔物にやられて精神が参ってる。だから魔物をぶっ殺しに来た」
普段こんなに乱暴な言い方をすることはないが、とにかく頭に血が昇っていた。
花が魔物で、燃やすことも爆破することもできない。ならもう全部斬ってしまえばいい。あのダンジョンがどれだけの広さで、あの白い花がどれだけの面積に咲いているのかも知らないが、やるしかないと思った。
「多分、俺が入らないようにって司教からお達しが出てるんだろ。あんたは何だ? 俺が帰るよう言いに来た?」
「いいえ。あなたがもしあの地下のダンジョンを攻略できると言うのなら、私がダンジョンの扉を開けます」
意外な言葉に毒気を抜かれる。
「……なんで?」
「私はここの教会騎士です。友人が、あのダンジョンで心を病んでしまいました。あのダンジョンを破壊できるのなら、協力させてください」
あの白い光の中に居る。
先ほどまでレイの前に跪いていた男が、背を向けて歩き出す。
魔王との戦いで傷付いたあの男は誰だ?
レイの癒しの手を拒絶して、離れて行こうとする彼は誰だ?
「待ってくれ」
縋る声は情けなく掠れて震えて、みっともない。男は振り返らない。
「待ってくれ。お願いだから」
こんなのは過去の記憶だ。どれだけ後悔したところでもう過ぎ去ってしまった日の光景だ。けれど手が痺れて、頭に靄が掛かって、どこが幻覚でどこが現実なのか曖昧に混じり合ってしまう。
あの時は呼び止めることすらできず、去って行く背中を茫然と見送ることしかできなかった。それが永遠の別れになると知っていても。あんな苦痛、もう二度と耐えられない。
あの背中はテオバルド? ジェイス?
行ってしまう。去ってしまう。彼が行ってしまったら、もう二度と帰って来ない。
地上に降りることができないレイは、彼が死ぬのを見守ることしかできない。
恐ろしさに震える。胸が潰れそうだった。
「待ってくれ、私が、私が悪かったんだ。私のせいだ。ごめんなさい、お願いだから、やめてくれ、やめて、やめて……」
死に向かわないでほしい。
レイの嫌がることなんてしない、そう言ったのはテオバルドか? ジェイスか?
あんなのうそだ。だって死んでしまったくせに。死んでしまったくせに!
涙で喉が引きつって、呼吸が詰まりそうになって、レイはベッドの上で目を覚ました。
荒い息を吐きながら部屋を見回す。ジェイスがいない。傍らに赤い髪の少年が座っている。レイは錯乱状態に陥って叫んだ。
「ジェイス! ジェイス!」
「レイ、落ち着いて! ジェイスは少し出掛けていますが、すぐ帰ってきます」
「ジェイス!」
うそだ。帰ってくるなんて嘘だ。彼は帰って来ない。死んでしまう。
レイは押さえようとする腕を振り払って、寝乱れた髪もそのままに部屋を飛び出した。
メトカーフ司教は、ダンジョンを騎士への懲罰に利用している。ジェイスを案内してくれた騎士はそう訴えた。
とんでもない悪徳司教だ。気に入らない相手の精神を崩壊させるために、ダンジョンを利用するなど。
騎士はジェイスへの協力を申し出てくれたが、ジェイスは一人で大丈夫だと扉で別れた。ジェイスは彼がどの程度戦えるのか全く知らない。一人の方が動きやすいと思った。
他人に構っている余裕はない。一刻も早く、レイの元へ戻らなければいけないのだ。
暗く長い階段を降りると、記憶にある通り、開けた明るいダンジョンへと出た。白い花が見渡す限り咲き誇っている。甘い香りに頭がくらりとした。
ジェイスは鞘から剣を抜き放った。レイが強化してくれた黒い刃が鋭く光る。
何でも斬れる。
体の前に構えて、広がる白い花々を見据え、意識を集中する。風もないのに花がそよいだように見えた。
剣を振りかぶって横薙ぎに振るう。ぱっと一斉に花弁が舞い散って、剣の軌跡が見えるようだった。
こんなものでは足りない。陽が暮れたって終わらない。
ジェイスは飛び上がり、勢いをつけて地面へと刃を振り下ろした。
轟音と共に地面が割れる。深い亀裂からは、花々の白く細い根が無数に張っているのが見えた。
根の流れは一定で、同じ方向へと向かっている。
もしかしてこの流れの先に、魔物の核があるのではないか。
ジェイスは根の方向を辿っては地面を割り、根の走る方向を確認してはそちらへ向かってまた地面へと剣を振り下ろした。
漂う甘い香りにたまに視界がぐにゃりと歪んでは、なんとか足を踏みしめて立ち直る。平衡感覚を失いそうだった。大地と一緒に花を斬って撒き散らしているせいで、進むごとに甘い香りが濃くなって息苦しい。
「何をしている! やめなさい!」
入り口の方から、老いた声が叫ぶ。凄まじい地割れの音と揺れに気付いたのか、メトカーフ司教が駆けつけてきていた。
「止めないでくれ。これで魔物を倒せるはずだ」
ジェイスの金色の目はぎらついている。司教は地割れを避けながら、半狂乱でジェイスへと近寄って来た。
「やめなさい! そんなことをしたら、亡きわが妻に会えなくなるだろう!」
「……ああ」
司教はダンジョンを懲罰のみでなく、自身が幻覚という夢に浸ることにも利用していたようだ。ジェイスは呆れ、皮肉気な笑みを浮かべた。
「幻覚に縋って楽しいなら、ずっとベッドで夢でも見てたらどうだ?」
酷薄に言い放つ。夢でもいいから、失った大切な相手に会いたいこともあるだろう。だが、魔物の力を借りて心地いい夢に浸りたいだなんて、薬物中毒に等しい。全く正しい行いとは言い難かった。
力なくへたり込んだメトカーフ司教は、言葉にならない言葉で抗議し続けている。目の焦点が合っておらず、幻覚に呑まれてしまったのかもしれない。これも最後の夢だろう。司教のことは捨て置いて、ジェイスは剣を握り直し、再び根の中心を探し始めた。
どれほどそうしていたのか、こめかみから汗が流れ落ちる。ようやく見つけたその場所では、黒い地面の裂け目で、白い根が赤い石を抱いているのが見えた。あれがこの広大な敷地に咲き誇る白い花の核だろう。
ジェイスは狙いを定め、躊躇わずに核へと剣を振り下ろした。
澄んだ音がして、核が四散する。むせ返るような甘い香りがふっと和らぎ、息苦しさが収まって長く息を吐いた。
「ジェイス!」
早く帰らないと。そう思った時、求めていた声が聞こえて、反射的に振り返った。
「レイ!?」
地面には黒く罅割れた亀裂が走り、白い花びらが舞い散る中、長い銀髪に黒いマント姿の美しい人が覚束ない足取りでこちらへと向かってくるのが見える。
「レイ、大丈夫か」
正気に戻ってくれたかと期待して駆け寄るが、依然としてレイの意識は混濁しており、赤い目は何を見ているのか判然としない。悲し気な表情で縋ってくるレイを受け止める。
「ジェイス、ジェイス、ああ、どうして」
「まだ駄目なのか」
思わず吐き捨てた。魔物を倒しても駄目なのか。ひどい落胆で目の前が暗くなる。
自分では彼を救ってやれないのか。悔しくて、不甲斐なくて、レイを抱き締めた。
幻影に惑わされ続けている赤い目。
「レイ。俺のこと見てくれよ」
苦しくて、絞り出すように言って、口付けた。ひんやりとした薄く柔らかい唇が、びくりと震える。そのまま食んで、舐めて、また優しく食んだ。
瞬間、レイの胸のあたりで何かが白く光った。視界の端に白い炎のようなものが見えた気がするが、強く肩を押されて唇が離れた時にはもう何も見えなかった。
「な、何を……っ、ジェイス、何をするんだ!」
真っ赤になったレイが口元を押さえ、潤んだ目でジェイスを見上げている。
「どうして、こんな……」
羞恥に狼狽える姿は、すっかりいつものレイだった。一気に安堵が押し寄せ、もう一度強く抱き締める。
腕の中の体は驚きに硬直していたが、まるで縋るように抱き締めるジェイスの様子に、緊張が解けていくのがわかった。
「ジェイス、どうしたんだ。何かあったのか。恐れることはない、私が守ってやるから……」
目が覚めたら夢は忘れてしまうように、レイにはあの錯乱していた時の記憶はないのかもしれない。あんなに苦しんでいた記憶は、無い方がいい。
「ん、もう大丈夫だよ」
状況が分からずともジェイスの心配ばかりして、慰めようとしてくる彼が愛おしくて、もう二度と泣き顔なんて見たくないと思った。
自分は目の前のうつくしいひとの足元で跪いている。
彼が身動ぎすると長い金髪が月の光のような輝きを振りまいて、肩からすべり落ちる。
湖面のような碧い目を見て、自分はこのひとのために死ぬのだと思った。
人々を救うために戦って命を使うのではない。ただこのひとが望むから、このひとのために、己の命はあったのだ。
ただこのひとの前に跪く瞬間のために、この命は果てるのだ。
己を犠牲にしてまで叶えたい願いなど、守りたいものなど、考えたこともなかったのに。
光そのもののようなそのひとの望みのためならば、自分は魂まで差し出してしまえることを、今、知った。
はっと夢から覚めると、朝の日差しが差し込む部屋のベッドの上で、気配を感じて見ればレイが部屋から出て行こうとしているところだった。何か眩しい夢を見ていたような気がするが、カーテンがきちんと閉められていなかったせいだろうか。
「レイ? 珍しいな、どこ行くんだ」
彼が一人でどこかに行こうとするなんて珍しい。あくびしながら声を掛けると、びくりと肩が跳ね上がる。返事をしないその後ろ姿に、ああこの人なんかやましいことを考えてるなと察した。
「レイ」
「どこでもいいだろう」
ぎしりと音を立ててベッドから降り、足早にレイの元まで向かった。振り向こうともしないでドアを開けようとするレイの後ろから手を突いて、ドアを閉める。レイがジェイスの影にすっぽりと包まれた。
「俺の目を見て言え。どこに、何しに行こうとしてる」
「別に……」
レイはしばらく沈黙していたが、返事があるまでジェイスが退くことはないとわかって、歯切れ悪く答えた。
「……魔導士を仲間に入れようと思う」
「いるか? レイがいるのに……」
それだけでこんなに後ろめたそうな態度をとるものだろうか。訝しみながら言っている間に、気付いて顔をしかめた。
「あっ! あんたもしかして女連れてこようとしてるのか!?」
「大丈夫だ、銀髪で髪が長くて背が高い美人な女が好みなのだろう? ちゃんと気立てのいい、お前にふさわしい女を連れてくるから」
「いらないって言ってるだろ! 人の話を聞け!」
「お前が言ったんだろう、銀髪で、背が高くて……」
「そうだな、今俺の目の前に居るな、銀髪で背が高くてすごい美人が」
「私は女じゃない」
「俺の好みは女だって言ったか?」
そこでようやくレイが振り向き、ジェイスを見上げた。少し驚いたような顔をしていた。
「男が好みだったのか? だから女はいらないのか」
「まじで聞いてくれる? レイが好みだって言ってんだけど」
レイが俯く。頬がほんのり赤くなっているあたり、わかって言っていたのかもしれない。どうしてそこまで頑なに、自分以外の人間を宛がおうとするのか不思議だった。
ジェイスは溜息を吐いてレイから体を離した。
「朝メシ買ってくるから、レイはどこにも行かずにここで待ってて」
「……わかった」
渋々頷くレイを尻目に、ジェイスは手早く着替えて部屋を出た。隣の部屋のアメアを誘って、朝食を買いに外へ向かう。
もう本格的な夏も目前で、朝なのに燦々と降り注ぐ太陽が暑い。アメアは日差し避けにローブのフードを被っていた。
「あのさ、一緒に旅する上で迷惑かけるかもだから先に言っておきたいんだけど」
「はい」
「俺、レイのことが好きなんだよね」
言わずともいずればれることかもしれないが、一応伝えておいた方がいいだろう。同性同士の恋愛など今時珍しくもないが、昔気質の人間だと忌避感を抱く者も居ると聞く。加えてパーティ内恋愛なんて嫌がられるかもしれないと、ある程度の覚悟をもっての言葉だったが、アメアは胡乱な眼差しでジェイスを見上げた。
「はあ」
「あ、大丈夫そう?」
「いや、何でそんな今更……付き合ってるんじゃないんですか?」
「つ!? きあってないよ!? なんで!?」
驚きのあまり大声が出た。アメアは呆れたような顔をしている。
「ええ……だってあの人ジェイスにしか興味ないじゃないですか。ジェイスだってずっとレイのこと見てるし。海でオレと話してた時もずっとレイのこと目で追ってて」
そうだっただろうか。そんな気もする。海の前に立つレイは異物のようで、けれど風を受けてなびく髪が美しいと思ったことが、容易に思い出せた。
レイを好きだと自覚したのがつい昨日のことだ。それ以前から無意識にレイを見詰めていたことを指摘されて恥ずかしくなり、顔を片手で覆った。
「なんかごめん」
「いいんですけど、何で付き合ってないんですか?」
「俺もわからない」
「はあ」
興味の無さそうな返事で、かえって安心した。
すっきりした気分で朝市を見て回る。焼き立てのパンの香りに誘われて、レイに柑橘の皮の入ったさっぱりとした甘みのパンを買った。紙袋に入ったパンの温かさを感じながら、焼き立てのパンなんか特別に美味しいに決まっているのだから、早く帰ってやりたいと思った。
ブレニアの次に向かったのは、信仰の街パガネムだ。光の神の教会を中心として栄える大都市で、神の描かれた荘厳なステンドグラスのあるバルタレティア大聖堂を目指して、各地から巡礼者も観光客もひっきりなしに訪れる。人の往来が多い場所のため自然と商業も栄え、これまで訪れたどの街よりも文化的な雰囲気だった。
光の神のお膝元とでも言うべきこの地で、魔物の被害が出るような事態はあってはならないせいか、パガネムのダンジョンは教会に管理されており、許可がなければ立ち入ることはできないという。
許可を得るため、ジェイスたち一行はバルタレティア大聖堂を訪れていた。大聖堂の見事さに感心するジェイスの傍らで、レイは建物を見もせずに終始退屈そうだった。建造物にはあまり興味がないのだろうか。
人々に紛れて石畳の道を歩いていると、遠くにシスターと思わしき女性が連れ立って歩いているのが見えた。
「すみません」
「こんにちは、どうされました?」
許可を貰う手順を聞こうと声を掛け小走りで寄っていくと、年嵩のシスターは朗らかに挨拶を返してくれた。その後ろで、もう一人の若いシスターが蒼白な顔でジェイスの後ろを見て、ヒッと息を呑んで尻もちをついた。
「大丈夫ですか?」
「あ、あ……」
手を貸そうと屈むジェイスには目もくれず、女性は怯え切った顔で声を漏らす。
振り向くとそこには相変わらずつまらなそうな顔をしたレイが立っていて、女性を睥睨していた。美青年の冷たい顔は迫力があるが、さすがにここまで怯えるほどではない。
そういえば酒場でアメアと出会った時も、こんな顔で怯えていた。何気なくアメアを見ると、気まずげに目を逸らされた。
「あなた、どうしたの」
年嵩のシスターが心配げに声を掛けると、若いシスターははっと我に返って、這うように立ち上がった。
「化け物!」
叫んで、一目散に逃げていく。一応周囲を確認するが、魔物の気配もない。
「なんだ……?」
呆気にとられてジェイスが呟く。
「ごめんなさいね、あの子急にどうしたのかしら……。ええと、それで、何かご用が?」
残されたシスターが頬に手を当て、おっとりと首を傾げる。シスターが逃げて行った方を気にしていたジェイスは、気を取り直して当初の目的を告げた。
「ダンジョンの攻略に来ました。パガネムのダンジョンは教会の許可がないと入れないって聞いたんですけど」
「あらあ、そうなの。わざわざいらして頂いたのにお気の毒ですけれど、危険なダンジョンですから封鎖しているんです」
「そんなに強い魔物が出るんですか」
「なんでも特殊な攻撃をするのですって。わたくしは詳しくはないのですけれど……。あなたもお若いんですから、危険なことはよして」
善意の説教が始まりそうな気配を感じたちょうどその時、こちらへ慌ただしく向かってくる複数の足音が聞こえた。
「こちらです!」
見れば、先ほど逃げて行ったシスターが、数人の教会騎士を引き連れて戻って来たところだった。
「あそこです、あの、あの化け物が」
震える手が指差しているのはレイだった。レイは全く動じることなく、鼻白んだ様子で腕を組んでいる。
「化け物? どこにもいないじゃあないか」
「たしかに化け物のように美しい人なら居るようだ」
騎士たちはそう言って笑い声を上げる。シスターの女性だけが青い顔で、そんな、と絶望の声で呟いていた。周囲の人間たちは、一体何事かと遠巻きにこちらを窺っていた。
レイが化け物呼ばわりされるのも、好色な目で見られるのもひどく気に障る。
レイが何者なのか、ジェイスは未だに知らない。アメアに、このシスターの女性に。ごく一部の人間には、もしかしたら何かが見えているのかもしれない。だが、レイが何者なのか知りたいという気持ちよりも、彼を侮辱しないでほしいという気持ちの方が勝った。
ジェイスが声を上げるより先に、レイが一歩踏み出した。
「ここは教会だろう。信心を知らないのか?」
ぞっとするほど冷たい声だった。怒気は感じないのに、ひどい威圧感を覚える。笑っていた騎士たちも空気が変わったのを感じ取り、ぴたりと口を閉ざした。
レイは赤い目を細めて、酷薄に笑う。
「膝を突け」
いつもより低い声が命じる。
シスターの女性が崩れ落ちるように膝を突いたのを皮切りに、神殿騎士たちまで顔色を失って跪き、まるでさざ波が広がるように、傍観者たちまで次々と膝を折った。
見れば、ジェイスの後ろでアメアまでもがよろよろと膝を突いている。
皆一様に、己の身に何が起こったのか分からないような蒼白な顔で、頭を垂れていた。震えが抑えられない者も居る。
立っているのは最早レイとジェイスだけだ。異様な光景に息を呑むと、レイが振り向いた。立ったままのジェイスを見て、意外そうに軽く目を見開く。
「お前は光の神を信じていないのか? 憎んでいるのか?」
唐突な問いかけの意味が分からず苦笑する。
「何の話だ? ていうかこれなに?」
確かにジェイスは信心が薄い方だ。こんなことを言うと異端者のような目で見られるから、普段口にすることはない。
信じていないが憎んでいるわけではない。
どちらかと言えば、次は隣に並んで立てたなら――次ってなんだ? これは何の、いつの記憶だ?
軽い頭痛に顔をしかめた時、跪いた人々の間を縫って人が近付いて来るのに気付いた。
「これはなんの騒ぎですか?」
ずんぐりとした体に聖職者の服を纏った、柔和な顔立ちの老齢の男だ。黒い服に金糸の刺繍が入っていて、高位の聖職者であろうことが窺える。レイの冷ややかな眼差しが男を見据えた。
「司教か? この場でお前が最も聖職者に相応しくないな。信仰心もないのによくもまあ」
「何を仰います。この神聖な教会にそんな不届き物はおりません。わたくしは偉大なる光のしもべですよ」
司教は穏やかに諭すような口調で言うが、レイは鼻で笑っただけだった。
何の会話をしているのかついていけないジェイスは、とりあえず傍らで膝を突いているアメアに屈んで声をかけた。
「大丈夫? 立てるか?」
アメアは血の気のない顔で震えて、首を振る。
「あのひと何とかしてください……」
かすれ声で訴えられて、レイを振り仰いだ。
「レイ、レイちょっと落ち着いて、落ち着ける?」
「そもそも私はこんな場所来たくなかった、空の天など崇める愚かどもが」
「わかった一旦帰ろう、無理することないよ」
別に何もわからないが、レイが教会を嫌いらしいことは分かった。ジェイスはパガネムのダンジョンに拘っているわけでもないし、とにかくレイを落ち着かせるべきだ。
レイの腕を引いて帰ろうとした時、司教が声を上げる。
「お待ちください。別室でお話でもいたしませんか」
大事になってしまった以上、ただで帰してはもらえないのか。レイがこれ以上なにかしでかす前に、これ以上彼が不快な思いをする前に帰りたかったジェイスは、恨めし気な顔で司教を見た。
通された部屋は壁も柱も装飾的で、さらに大きな絵画が飾られており、客人に教会の威光を見せつけようという意思がひしひしと感じられた。革張りのソファーに落ち着かない気持ちで腰掛ける。疲れ切った顔のアメアが右隣に座り、レイは左隣でソファに尻を凭せ掛けるようにして立っていた。
「わたくしはメトカーフと申します。皆さまはどういったご用件でこのバルタレティア大聖堂へいらしたのでしょう」
ジェイスの向かいに腰掛けるメトカーフ司教は温和な笑みを浮かべている。先ほどの異様な光景など目に入らなかったかのようだ。胡散臭く感じる。しかしジェイスは疑心などおくびにも出さず、笑顔を作った。
「ジェイスです。ダンジョンの探索に来ました。パガネムのダンジョンは教会の許可が必要だと聞いて」
「ああ……、この地のダンジョンは非常に危険なもので、教会騎士を送り込んでも攻略できず、今は立ち入りを禁じているのです」
このまま追い返されるかもしれない。だがレイを連れて一刻も早くこの場を離れたいジェイスは、最早その方がいいとさえ思っていた。
しかし予想に反して、メトカーフ司教は両手を握り、身を乗り出す。
「ですが、もしも皆さんが攻略して下さるというのなら、ダンジョンの扉を開けましょう。パガネムのダンジョンは、この大聖堂の地下にあるのです」
「いいんですか」
「ええ、我々としても、この神聖な大聖堂の地下を早く浄化したいのです。どうかよろしくお願いします」
いかにも誠実な声音で語りかけてくるが、もしかして得体の知れない厄介な来訪者を危険なダンジョンに放り込んで始末してしまおうという魂胆ではと疑った。かと言って、もとよりダンジョンが目当てで来たのだから、断る道理もない。
情けない話だが、ジェイス一人では困難だったとしても、レイが居るのだから滅多なことにはならないだろうと思えた。
軋む音を立てて、重い扉が背後で閉まる。大聖堂の地下、長く暗い階段を降りた先には、思いのほか明るい空間が広がっていた。
眩しさにしばらく立ち止まり、目が慣れてようやく周囲が見えるようになる。
高い天井からは、白い光が降り注いで昼間のように照らされていた。地面には見渡す限り一面に白い花が咲いていて、合間に透明に輝く鉱石のようなものが突き出している。ここがダンジョンだと知らなければ、なんとも美しくものどかな光景だ。
「こんなに綺麗な場所なのに、危険な魔物が出るのか?」
草を踏みながら奥へと向かって進んで行く。花々は荒らされたような形跡もなく、甘い芳香を漂わせていた。何かが暴れたような痕跡もない。
「奥の方でしょうか? それにしても何の気配も感じませんが」
アメアの言う通り、何の生き物の気配もない。これだけ花が咲いているというのに、その花粉を運ぶ昆虫の姿さえ見当たらず、風も吹かないから三人の出す音以外は静寂そのもので、ただただ甘い花の香りだけが鼻につく。
「何の花だ? 見たことがない」
レイが訝るような声で言う。ジェイスは花のことなどわからないが、つられて足元に目をやった。
花弁が六枚の白い花だ。花芯に向かってうっすらと桃色に色付いている。
くらりと眩暈がした。同時に、アメアが悲鳴のような声を上げる。
「出ましょう! これは植物じゃ……」
言葉の途中で視界が揺れて、声が途切れる。気付くとジェイスは真っ暗闇の中を一人で立ち尽くしていた。
「……なるほどな……」
特殊な攻撃をする魔物が出ると言っていた。恐らく精神攻撃だ。ダンジョンに入ったその時から、もう始まっていたのだ。
何も教えずにダンジョンに放り出して、あの司教本当に俺たちを始末するつもりだったのか? ジェイスは苦々しい顔になる。
とにかく早く抜け出さなければならない。レイは心配いらなさそうだが、アメアは気が弱いところがある。
不意に、遠くが揺らいで、蜃気楼のように人影が浮かび上がった。
「ああ……」
面倒そうな声が出る。最早顔も忘れつつある、母親の姿だ。
「ジェイス。どうして心配をかけるの。母さんたちはあなたのためを思って言っているのに」
「俺そういうの効かないんだけど。とりあえず斬ればいいのか?」
剣を抜き、放っておいたらまだ小言を続けそうな幻影へと歩を進める。
しこりがある家族の姿なんて心を乱される典型かもしれないが、ジェイスは家を出たあの時にすでに心の整理はついているのだ。
家族とはいえ分かり合えないことはある。いくら血が繋がっていたとしても、結局別の人間、別の個体なのだ。分かり合う必要もないと思った。人の意見を受け入れる気もなく、相手を曲げさせることが「話し合い」だと思っている人間が相手ならなおさら。
幻影は何かを悟ったのか喋るのをやめて、一拍の間の後ぐにゃりと姿を歪ませ、また別の姿へと変わる。
「うっ」
思わず声が出た。
引き締まった長身の体に、白いゆったりとした絹の衣を纏っている。白い肌に金色の長い髪。澄んだ碧い瞳がジェイスを見詰める。
「ジェイス」
耳に心地よい声が名を呼んだ。
さすがにそれは効くかもしれない。
目の前に現れたのは、髪と目の色こそ違うが、レイの姿に違いなかった。
しまった。もっと早くに気付くべきだった。
暗闇の中でアメアは反省していた。
「アメア」
懐かしい声に呼ばれて心臓が跳ねた。振り返ると、自分よりも暗い赤褐色の髪をもつ青年が立っている。
「アメア、どうして俺を置いて行ってしまったんだ。ずっと恋しかった。もうどこにも行かないでくれ」
「兄さん……」
青年に抱きすくめられて、身動きがとれなくなった。こんなのは魔物に見せられた幻覚だと分かっているのに。アメアの記憶から引きずり出されて作り上げられた幻覚は、兄と寸分違わぬ姿、違わぬ声で、アメアを誘惑する。
鼓動がうるさい。
だめだ。だめだと分かっているのに、兄に縋られるとアメアはいつもこんな風に抵抗することができなくなってしまう。
だってずっと好きだった。
血の繋がった兄だけれど、好きだったのだ。
誰からも好かれる、明るくて頼もしい自慢の兄だ。アメアも兄が大好きだった。アメアに厳しく魔法を叩き込む母からいつも庇ってくれて、魔法などなくても人の役に立つことはできる、自分が証明して見せると、人のために戦っていた。
大好きな兄。
だったのに。
自分が歪めてしまった。
「アメア、お前が俺をこんな体にしたのに。こんな体になってしまった俺を、誰が受け入れてくれると言うんだ。もうお前しかいない。アメア、ずっとここに居てくれ……」
違う、兄はアメアを責めるようなことなんて一度だって言わなかった。だけど口にしなかっただけで、本当はそう思っていたのかもしれない。
兄の体を抱き返す。こうやって互いに依存してしまうから、離れようと思ったのに。
ずっと抱き締めていてほしい。もう離れたくない。どこにも逃げられないように縛り付けておいてほしい。
暗い方へ傾いていく意識を引き留めたのは、小さな唸り声だった。黒い大型犬のような影が、唸りながらアメアの服の裾を噛んで引っ張っている。
「ファング」
必死で服を引く黒い犬――狼の名を呼んで頭を撫でてやると、その油断を見逃さずに強く引かれ、アメアは引き倒された。
入れ替わりにファングが、兄の幻影へと飛び掛かっていく。
ファングは元々兄の相棒だった。アメアと違って幻に惑わされることもないのだから立派なものだ。
獣にも劣る自分に嘲笑を浮かべた。
「ジェイス。あなたは私のことを愛していないのですか」
寂し気な声音で問いかけてくる。まずいと思った。
ジェイスの知っているレイはこんな風に誘惑してくる男ではない。自分は愛していると繰り返すくせして、ジェイスからの見返りは求めないのだから。
「ずっとあなたに触れてほしいと思っていました」
だからこそまずい。絶対こんなこと言わないと知っているからこそ、まるで願望が具現化したかのように揺れる瞳で見つめられて、理性がぐらぐらする。
本物ではないのなら、逆にちょっとくらい手を出してもいいんじゃないか? 碌でもない思考が顔を覗かせる。
間違ってもレイに無理やり手を出すつもりはない。彼を悲しませるようなことはしたくない。でもこれは幻影だ。
「お願いジェイス。どうして何も言ってくれないの」
こんな風にしおらしく縋ってくるのは幻覚だ。普段と口調がまるで違うし、外見だって違う。普通こういうのはジェイスの記憶を読んで、そっくりそのままの人間が出てくるものじゃないのか? これは一体何の記憶だ。違うと思うのに、強烈な懐かしさを覚えるのは何故だ。
目の前のレイに吸い寄せられるように、ジェイスはその白い頬に手を滑らせた。レイは安心したように表情を和らげて、ジェイスの手に己の手を添え、頬を摺り寄せてくる。愛らしい仕草に頭が熱くなる。
その彼の手に、いつもの黒手袋が無いことに気付いた。風呂上がりだろうと、睡眠中だろうと、どうしてかいつもはめていた手袋だ。分かり切っていたことだが、これは本当に幻覚でしかないのだ。
もう少し触ってもいいだろうか。本人でないとわかっているのに触りたくなるなんて、逆に不埒だろうか。
金色の繊細な睫毛に縁どられた碧い瞳が、甘えるようにジェイスを見上げてくる。
「私はずっと、あなたのものになりたかったんです。ジェイス、あなたに愛されたい」
この幻覚の世界から抜け出して現実に戻るには、足を引き留めようとする幻影を倒すのがお決まりだ。
けれど、ジェイスはこの幻影に刃を向けることができるだろうか。
「お願いジェイス」
甘い声が脳を揺さぶる。
ジェイスはぐっと目を瞑って、その胸を突き放した。
「ジェイス、どうして、離さないで」
「その声でそんなこと言うなよ」
寂しそうな声を出さないでほしい。ジェイスはとにかくレイの悲しげな顔に弱いのだ。
剣を抜く。黒く輝く刀身を見ると、レイの元に帰らなければならないと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「ごめん。あんたを斬って俺は帰らないといけない」
「どうして? いや、私を愛していないの? 行かないで。殺さないで……」
「そう言ってもらえると助かる」
自身がひどい怪我を負おうとも、ジェイスのかすり傷に取り乱すような男が、こんなことを言うはずがないのだ。本物のレイとのはっきりとした差異に、躊躇いを振り切る踏ん切りがついた。
息を吐いて柄を握る。違和感を覚えて見下ろすと、手が震えていた。苦笑する。
幻影だと分かっていても、愛する人に刃を向けるのはこんなにも恐ろしい。
聞こえた悲鳴が、幻覚なのか現実なのか、咄嗟にはわからなかった。
幻影のレイを斬った感触がまだ手に残っているような気がしてひどく気分が悪い。
しかし、目の前に蹲る姿を見て、そんな感傷は一瞬にして吹き飛んでしまった。
「レイ! 大丈夫か?」
白い花畑の中に銀髪の青年が蹲っている。
きっとレイならこんな幻覚に呑まれることはないだろうと、高を括っていたことを後悔した。
「いやだ、やめて、やめてくれ!」
レイは耳を押さえて、悲鳴を上げる。長い銀髪が無造作に地面に流れ落ち、苦悩するその姿に、ジェイスは心臓が締め付けられるような心地がした。
「レイ、レイ。何があったんだ」
「やめて、お願い、ごめんなさい、ごめんなさい……」
悲哀にかすれ、怯えたように許しを請う声。傍らにしゃがんで背中をさすってやるが、ジェイスの言葉すら耳に入らないようだった。赤い目からは大粒の涙がとめどなく溢れては零れる。涙で呼吸がひきつっていた。
「一旦退きましょう」
横からアメアが声を掛けてくる。
ジェイスはレイを抱き上げて、降りて来たばかりの階段へと足早に向かった。
「レイ、俺の首に腕回せる?」
できるだけ優しい声音で言うと、レイは素直にジェイスの首筋に縋り付き、そして変わらずごめんなさい、お願い、やめてと泣きながら繰り返していた。
「なんだ!? どんな幻覚見たらこんなことになるんだ!?」
「こういうのは本人の一番弱いところを突いてくるものですけど……」
早足で進むジェイスの後ろを、アメアが小走りでついてくる。
一番弱いところ。余程悲しい記憶でもあるのだろうか。かつて誰かが彼を、こんな風に怯え、泣きじゃくるほどひどい目に遭わせたのだろうか。
考えるだけで苛立ちを覚えた。肩口が涙で濡れている感触がする。
長く暗い階段を上り、軋む扉を開くと大聖堂の小部屋に出る。行きにも通ったそこは小さな書棚と椅子があるのみで、メトカーフ司教が腰かけ、のんびりと読書していた。
「おや。駄目でしたか」
おっとりとした声で言うのが、ジェイスの怒りを誘った。
「あんた、こうなるってわかってて行かせたんじゃないのか」
「まさか。みなさんならダンジョンを攻略できると信じて送り出したのですよ」
「今までこのダンジョンに入った奴はどうなった。精神をやられたやつが居たんじゃないか」
メトカーフ司教がレイに視線をやってから、両手を広げてにっこりと笑った。
「神を信じる心があれば、きっとお救い下さるでしょう!」
朗々と響く声がわざとらしい。この男は、レイに信仰心を疑われた意趣返しをしているに違いなかった。
元々信仰心とは縁遠いジェイスだが、まさか聖職者がプライドのために他者を危険に晒すような真似をするなど、思いもよらなかった。
こんな非道な相手に構っている暇などない。歩き出すジェイスの背中に、司教の声が投げられる。
「あなた方にも神の光が降り注ぎますように!」
大聖堂の近くの宿でレイをベッドに寝かせてやった。ジェイスが離れようとすると泣いて錯乱するため、ジェイスも一緒に添い寝している。
大聖堂から出る前に、具合が悪いのなら休んで行くといいとシスターが声をかけてくれたが、一刻も早くあの場所から離れたかった。さすがに司教が直接危害を加えてくることは無いにしても、とにかく腹立たしかった。
ダンジョンから出てもレイの調子が良くなる様子はない。うとうとと微睡んでは何かに怯えて飛び起きて、ジェイスは夜通し彼を宥めた。
今はやっと泣きながら眠りに落ちたところで、腫れた目元が痛々しく、ジェイスは涙を指でそっと拭った。
少しでも早く幻覚から抜け出すべきだった。ジェイスは自分の振る舞いを後悔するほかない。自分が居たところで何ができたかは分からないが、レイが苦しんでいた時に自分はのんきに偽物の幻影と遊んでいただなんて自分を殴りたくなる。
憔悴しきって眠るレイはひどく頼りなく儚げに見えて、ジェイスの焦燥は募った。
「あの白い花が魔物なのかもしれません」
ドアが開く。パガネムのダンジョンについて探るために出掛けていたアメアが、帰ってくるなりそう言った。
「花が?」
「仲間が被害に遭ったという教会騎士の方から話を聞きました」
ジェイスはちらりとレイを見て、彼を起こさないように何とかゆっくり腕から抜け出し、ベッドから降りた。話し声で起こしてしまわないように、アメアと廊下に出る。
「幻影を乗り越えられる精神力があれば大事には至りませんが、そうでなければ廃人になることもあるそうで」
ジェイスは眉をひそめて腕を組んだ。
「花を全部燃やすか」
「花自体が幻覚物質を放っているとしたら、煙吸い込んだら大変なことになりますよ。大聖堂の方にも被害が出ます」
「じゃあ爆破……も同じことか」
そんなことをしたら、きっと大聖堂まで崩れ落ちるだろう。なにより、そのような大掛かりなことができるのはレイだけで、その彼が臥せっているのだから実現しようもない。
「くそ、どうすりゃいいんだ、俺って役に立たねえな……」
片手でぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。
その時部屋の中から悲鳴が聞こえて、ジェイスは弾けるように部屋に駆け戻った。
「ジェイス!」
「いる、居るよここに、レイ」
「ジェイス、やめて、やめてくれ、お願いだから」
目が覚めるなり涙をこぼして錯乱するレイを抱き締める。正気であれば恥ずかしがって離れようとするレイが、今は震えてジェイスに縋ってくる。
「ごめんなさい、私が、私のせいで、ごめんなさい、やめてくれ……」
「レイ、レイの嫌がることなんてしないよ。大丈夫だから落ち着いて」
なんとか宥めようと背中を撫でると、彼は涙に濡れた顔を上げた。ずっと焦点が合わず虚ろだったレイの目が、意思を持ってジェイスの目を見る。もしかして正気に戻ったのかと期待が過ぎったが、レイは歪な笑みを浮かべた。
「うそつき」
その言葉にわけもわからず胸が締め付けられる。レイはすぐに俯いて、ぐいぐいとジェイスを押して体を離し、ベッドに倒れ込んで気絶するように眠りに落ちた。
うそつき? 何が? もしかして彼がずっと怯え続けている幻影は、ジェイスの姿をしているのか?
自分でも驚くほどショックを受けたジェイスは、また廊下に出てしゃがみ込み、頭を抱えた。
たとえ幻覚だとしても、自分がレイを苦しめ続けているだなんて耐え難い。
「ジェイス。大丈夫ですか。あなたまで病んだら、オレ一人じゃ手に負えないのでやめてください」
廊下に出たままだったアメアが言う。ドライな物言いだったが、今は冷静で居てくれるアメアが有り難かった。
「外に出たついでにパン買ってきました。食べれそうならどうぞ」
「……ありがと」
受け取った紙袋の中には、野菜とハムを黒パンでサンドしたものが入っていた。立ち上がってドアに寄りかかり、もそもそと食べながら、早くレイに元気になってもらって、また美味しいものを食べさせてやりたいと思った。おいしいと言って笑うレイの顔が恋しい。
「ダメだ」
三口ほど食べたところで、ちっとも喉に通らないパンを袋に戻し、アメアに押し付ける。
「ちょっと行ってくる。レイを頼む」
「え、どこにですか」
「大聖堂」
「何か思いついたんですか? ジェイス! もう、変なこと考えないでくださいよ!」
困惑気味のアメアの声を背に浴びながら、ジェイスは振り向きもせず宿から出て行った。
再びダンジョンに潜るべく大聖堂に向かったが、誰に声を掛けても司教様は忙しいからと言って取り次いですらもらえなかった。みな一様に気の毒そうな目を向けてくる。
道順は覚えている。扉の鍵など黒い剣があれば容易に壊せるだろうし、もう無理矢理押し入るか?
人々の中を歩きながら不穏なことを考えて殺気立っていると、後ろから潜めた声をかけられる。
「もし。昨日ダンジョンに入られた方ですか」
勢いよく振り向くと、そこに立っていた青年が少し驚いたように肩を跳ね上げた。
礼拝客や観光客と見分けがつかない格好をしているが、しっかりと筋肉のついた体躯から、彼が戦うことを生業にしていることが見て取れた。
「そうだけど」
青年は視線だけで辺りを窺ってから、ジェイスを大聖堂の影になる隅の方へと連れて行った。
「今日もまたダンジョンに入られるおつもりですか? 仲間の方はどうされたんですか」
「仲間が魔物にやられて精神が参ってる。だから魔物をぶっ殺しに来た」
普段こんなに乱暴な言い方をすることはないが、とにかく頭に血が昇っていた。
花が魔物で、燃やすことも爆破することもできない。ならもう全部斬ってしまえばいい。あのダンジョンがどれだけの広さで、あの白い花がどれだけの面積に咲いているのかも知らないが、やるしかないと思った。
「多分、俺が入らないようにって司教からお達しが出てるんだろ。あんたは何だ? 俺が帰るよう言いに来た?」
「いいえ。あなたがもしあの地下のダンジョンを攻略できると言うのなら、私がダンジョンの扉を開けます」
意外な言葉に毒気を抜かれる。
「……なんで?」
「私はここの教会騎士です。友人が、あのダンジョンで心を病んでしまいました。あのダンジョンを破壊できるのなら、協力させてください」
あの白い光の中に居る。
先ほどまでレイの前に跪いていた男が、背を向けて歩き出す。
魔王との戦いで傷付いたあの男は誰だ?
レイの癒しの手を拒絶して、離れて行こうとする彼は誰だ?
「待ってくれ」
縋る声は情けなく掠れて震えて、みっともない。男は振り返らない。
「待ってくれ。お願いだから」
こんなのは過去の記憶だ。どれだけ後悔したところでもう過ぎ去ってしまった日の光景だ。けれど手が痺れて、頭に靄が掛かって、どこが幻覚でどこが現実なのか曖昧に混じり合ってしまう。
あの時は呼び止めることすらできず、去って行く背中を茫然と見送ることしかできなかった。それが永遠の別れになると知っていても。あんな苦痛、もう二度と耐えられない。
あの背中はテオバルド? ジェイス?
行ってしまう。去ってしまう。彼が行ってしまったら、もう二度と帰って来ない。
地上に降りることができないレイは、彼が死ぬのを見守ることしかできない。
恐ろしさに震える。胸が潰れそうだった。
「待ってくれ、私が、私が悪かったんだ。私のせいだ。ごめんなさい、お願いだから、やめてくれ、やめて、やめて……」
死に向かわないでほしい。
レイの嫌がることなんてしない、そう言ったのはテオバルドか? ジェイスか?
あんなのうそだ。だって死んでしまったくせに。死んでしまったくせに!
涙で喉が引きつって、呼吸が詰まりそうになって、レイはベッドの上で目を覚ました。
荒い息を吐きながら部屋を見回す。ジェイスがいない。傍らに赤い髪の少年が座っている。レイは錯乱状態に陥って叫んだ。
「ジェイス! ジェイス!」
「レイ、落ち着いて! ジェイスは少し出掛けていますが、すぐ帰ってきます」
「ジェイス!」
うそだ。帰ってくるなんて嘘だ。彼は帰って来ない。死んでしまう。
レイは押さえようとする腕を振り払って、寝乱れた髪もそのままに部屋を飛び出した。
メトカーフ司教は、ダンジョンを騎士への懲罰に利用している。ジェイスを案内してくれた騎士はそう訴えた。
とんでもない悪徳司教だ。気に入らない相手の精神を崩壊させるために、ダンジョンを利用するなど。
騎士はジェイスへの協力を申し出てくれたが、ジェイスは一人で大丈夫だと扉で別れた。ジェイスは彼がどの程度戦えるのか全く知らない。一人の方が動きやすいと思った。
他人に構っている余裕はない。一刻も早く、レイの元へ戻らなければいけないのだ。
暗く長い階段を降りると、記憶にある通り、開けた明るいダンジョンへと出た。白い花が見渡す限り咲き誇っている。甘い香りに頭がくらりとした。
ジェイスは鞘から剣を抜き放った。レイが強化してくれた黒い刃が鋭く光る。
何でも斬れる。
体の前に構えて、広がる白い花々を見据え、意識を集中する。風もないのに花がそよいだように見えた。
剣を振りかぶって横薙ぎに振るう。ぱっと一斉に花弁が舞い散って、剣の軌跡が見えるようだった。
こんなものでは足りない。陽が暮れたって終わらない。
ジェイスは飛び上がり、勢いをつけて地面へと刃を振り下ろした。
轟音と共に地面が割れる。深い亀裂からは、花々の白く細い根が無数に張っているのが見えた。
根の流れは一定で、同じ方向へと向かっている。
もしかしてこの流れの先に、魔物の核があるのではないか。
ジェイスは根の方向を辿っては地面を割り、根の走る方向を確認してはそちらへ向かってまた地面へと剣を振り下ろした。
漂う甘い香りにたまに視界がぐにゃりと歪んでは、なんとか足を踏みしめて立ち直る。平衡感覚を失いそうだった。大地と一緒に花を斬って撒き散らしているせいで、進むごとに甘い香りが濃くなって息苦しい。
「何をしている! やめなさい!」
入り口の方から、老いた声が叫ぶ。凄まじい地割れの音と揺れに気付いたのか、メトカーフ司教が駆けつけてきていた。
「止めないでくれ。これで魔物を倒せるはずだ」
ジェイスの金色の目はぎらついている。司教は地割れを避けながら、半狂乱でジェイスへと近寄って来た。
「やめなさい! そんなことをしたら、亡きわが妻に会えなくなるだろう!」
「……ああ」
司教はダンジョンを懲罰のみでなく、自身が幻覚という夢に浸ることにも利用していたようだ。ジェイスは呆れ、皮肉気な笑みを浮かべた。
「幻覚に縋って楽しいなら、ずっとベッドで夢でも見てたらどうだ?」
酷薄に言い放つ。夢でもいいから、失った大切な相手に会いたいこともあるだろう。だが、魔物の力を借りて心地いい夢に浸りたいだなんて、薬物中毒に等しい。全く正しい行いとは言い難かった。
力なくへたり込んだメトカーフ司教は、言葉にならない言葉で抗議し続けている。目の焦点が合っておらず、幻覚に呑まれてしまったのかもしれない。これも最後の夢だろう。司教のことは捨て置いて、ジェイスは剣を握り直し、再び根の中心を探し始めた。
どれほどそうしていたのか、こめかみから汗が流れ落ちる。ようやく見つけたその場所では、黒い地面の裂け目で、白い根が赤い石を抱いているのが見えた。あれがこの広大な敷地に咲き誇る白い花の核だろう。
ジェイスは狙いを定め、躊躇わずに核へと剣を振り下ろした。
澄んだ音がして、核が四散する。むせ返るような甘い香りがふっと和らぎ、息苦しさが収まって長く息を吐いた。
「ジェイス!」
早く帰らないと。そう思った時、求めていた声が聞こえて、反射的に振り返った。
「レイ!?」
地面には黒く罅割れた亀裂が走り、白い花びらが舞い散る中、長い銀髪に黒いマント姿の美しい人が覚束ない足取りでこちらへと向かってくるのが見える。
「レイ、大丈夫か」
正気に戻ってくれたかと期待して駆け寄るが、依然としてレイの意識は混濁しており、赤い目は何を見ているのか判然としない。悲し気な表情で縋ってくるレイを受け止める。
「ジェイス、ジェイス、ああ、どうして」
「まだ駄目なのか」
思わず吐き捨てた。魔物を倒しても駄目なのか。ひどい落胆で目の前が暗くなる。
自分では彼を救ってやれないのか。悔しくて、不甲斐なくて、レイを抱き締めた。
幻影に惑わされ続けている赤い目。
「レイ。俺のこと見てくれよ」
苦しくて、絞り出すように言って、口付けた。ひんやりとした薄く柔らかい唇が、びくりと震える。そのまま食んで、舐めて、また優しく食んだ。
瞬間、レイの胸のあたりで何かが白く光った。視界の端に白い炎のようなものが見えた気がするが、強く肩を押されて唇が離れた時にはもう何も見えなかった。
「な、何を……っ、ジェイス、何をするんだ!」
真っ赤になったレイが口元を押さえ、潤んだ目でジェイスを見上げている。
「どうして、こんな……」
羞恥に狼狽える姿は、すっかりいつものレイだった。一気に安堵が押し寄せ、もう一度強く抱き締める。
腕の中の体は驚きに硬直していたが、まるで縋るように抱き締めるジェイスの様子に、緊張が解けていくのがわかった。
「ジェイス、どうしたんだ。何かあったのか。恐れることはない、私が守ってやるから……」
目が覚めたら夢は忘れてしまうように、レイにはあの錯乱していた時の記憶はないのかもしれない。あんなに苦しんでいた記憶は、無い方がいい。
「ん、もう大丈夫だよ」
状況が分からずともジェイスの心配ばかりして、慰めようとしてくる彼が愛おしくて、もう二度と泣き顔なんて見たくないと思った。
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