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モブ、静かに潜る
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それからしばらくそこに居る全員が夢うつつで空を見上げていたが、その静寂を切り裂いたのは、エマのスマホの着信音だった。
「あれ、いつもマナーモードにしてるのになんでだごめん……え、パパ、えっちょっとごめん」
エマからお父さんの名前が出るのは珍しい。
パタパタとエマが私達より少し離れた場所へと移動する。その足音が遠くなるのと反比例して、私達の現実は手元に帰ってくるようだった。
「取り敢えず、解散しようか。エマのお父さんがわざわざこんなタイミングで電話ってことは、何かエマに用事があるんだろうし。多分ペンがどうこうは今日話せる感じでもないと思う」
と五央が言ったので、ひかりと呼ばれていた女の子も、
「そうなんですね。じゃあまた、よろしくね。私によろしくなんかされたくないと思うけど……」
と首を傾げ、そして俯いて言う。ひかりちゃんは何も悪いことをしていなくて、むしろ正しいことしかしていないのに、なんだか叱られた後の子供のような声色だ。むしろ正しすぎるくらいの人だから、私に悪魔だなんて突きつけてしまって罪悪感に駆られてしまっているのだろうか。
「私は、よろしくされたいよ。ペンって本当はどうやって使うのか、純粋に気になるし」
悪魔だった女でも良ければ、と言いそうになって、それは本心だけども流石に嫌味ったらしい、と口を噤む。それが良かったのか、単にひかりちゃんが優しい質の人だからかはわからないけど、彼女は「うん」とさっきより明るい声で返してくれる。それから、
「じゃあエマちゃんにもよろしくね」
とひかりちゃんは自分たちの周りにあの輝くインクをぐるりと撒いて、そして消えていった。
「いや~魔法使いだわ」
と私が努めて明るい口調で言うと、五央も、
「そうだな、『本物』って感じ」
と茶化して返してくる。でも五央は私達の中で一番正直でわかりやすいやつだ。その声も顔も今にも泣きそうで、いつかの梅雨の日の自分を思い出すようで。
『自分が泣くのは間違っている』、それでも泣いてしまいそうになる自分の弱さがあの時は申し訳なくて情けなくて嫌で嫌で仕方なかったけど、でもこうして逆の立場になってみると、決してその気持ちは嫌なものなんかではなく、むしろ同じように思ってくれる人が居るってことがとても心強く思えた。
そうこうしていると、またパタパタと体重の軽い足音が近付いてきて、あ、エマだ、と私も五央も気付く。
「おかえり」
と私が声をかけると、エマは一瞬驚いたような顔をした。私が案外ケロッとしているからだろう。五央が私の分も代わりに泣いてくれているので、なんとか立てているんだよ、と目線で五央の方を示すと、エマはなるほど、とでも言ったふうにふふっと笑う。
「ただいま」
◆
「と言う訳で今日はもう帰らなきゃいけなくなって、しかもひかるのこと連れてけないの、ごめんね。私今日絶対ひかると一緒に寝るつもりだったのに」
「一緒に寝るってすげえ言い方」
「五央代わりに頼むよ。まあ私の代わりに五央じゃ役不足だとは思うけど、居ないよりマシだとも思うから」
エマの話をまとめると、どうやら急にエマのお父さんが日本に帰国して来たらしい。しかもエマが家に居て、尚且つエマのお母さんが家に居ないつもりで冴羽家に滞在する計画を立てて来たが、まさかのエマが留守でエマのお母さんが家に居たので家の空気がとんでもないことになっているらしい。当たり前だ。大体高校生の娘がこの時間に家に居ると思って居るのがハッピーすぎる。遊びでなくとも生徒会や塾で家に居ないことのほうが多いくらいの時間だろう。エマの大胆さ、というか、ある意味楽観的なところは、きっとお父さん譲りなのかもしれない。
「大丈夫だよ。五央も一応エマと同じ血引いてるし、居ないよりマシだから」
と私が満面の笑みで言うと、
「俺の都合は!」
と五央が叫んだ。五央の都合なんて知ったこっちゃないが、今の五央に大した都合やら予定なんてあるわけがない。だって私と五央は、親友、或いは『恋人なんかになるのは勿体無い』くらいの二人なのだから。
私とエマは二人で五央の叫びをスルーして、手を繋いでバス停まで歩いた。
「お父さん、帰ってきかたはなかなかあれだけど、取り敢えず久しぶりに会えそうで良かったね」
私がエマの話を思い出し、苦笑いしなからそう言うと、
「うん。でも本当、ああいうとこが原因で離婚してるからね、家の中の空気どうなってることやら……」
「えーと、あの女の人、ひなさん? だっけ? まだ若そうだから心臓きゅうってなってそう」
と私は以前エマの家に行った時、出迎えたり色々としてくださったお手伝いさんのことを思い出し、名前を出す。
「ああ、ひなさんは多分パパとお母様が共演してるの初めて見るかも。可哀想~」
「そんなに帰ってきてないの?」
「うーん、まあタイミング? お母様があんまりあの家に居なかったから、ってのもある。ひなさんとパパは何回か会ってるよ。パパは結構人懐っこいというか……人好きする? から、結構うちのお手伝いさんたち手懐けてるしね」
そんな冴羽家の大人の事情を聞きながら歩いていると、やっぱりバス停はあっという間で、今回は私たちとエマは反対方面なので、一旦じゃあね、と手を振りエマは横断歩道を渡る。
「ヘイ五央、こっち後バス何分?」
「俺はSiriかよ、後八分」
「しっかり返しちゃうあたりSiriじゃん。ねえエマー、こっちは後八分だってー!」
「急に向こう岸に向かって叫ぶな! 大体車もなんも通ってないんだから、聞こえるだろ」
五央のツッコミがキレキレで嬉しいと思っていたら、反対車線に居るエマも、
「私はさんぷーん!」
とあの華奢な身体からは想像のつかない声量で返してくる。
「お前もうるせーーーー! 聞こえてただろーが!」
と五央が一番馬鹿でかい声で叫ぶので、私とエマは顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
エマの乗るバスは、バスにしては珍しく殆どきっかり三分でやってきたので、私とエマは手を振り今度こそ別れる。また五央と二人だ。
私は時刻表を見るふりをして、ちらりと横にいる五央を盗み見る。そしてそのまま、時刻表に話しかけるように、独り言のように声を発する。
「今日帰りたくないけど、一人になりたくない」
そうすると五央も、車道を見つめながら独り言のように
「知ってる」
とだけ返してきた。
「ひーわと夢呼んでも良いし、でも、ひかるが良いなら二人でも良いよ」
非常に悩ましい問題だ。別に心情としては五央と二人が嫌なことはない。でも初めてではないとは言え、なんとなく、男女二人っきりというのはなんだか悪いことをしているような気持ちになる。でもかといって、今日のあれこれを夢とひーわに説明できる訳でもないし。多分二人は何かしらがあったんだろうと察してただ楽しく一緒に過ごしてくれるとは思うけど、そうやって気を使わせてしまうのに何も言えないことにどうしても罪悪感を感じてしまう。いや言えばいいんだけど、とも思うが、まだ自分の中で今日のことを何にも消化出来ていないのに言える気がしない。
「五央はどうなの?」
とずるいなと思いながらも、私は五央に委ねてしまう。こうして責任を擦りつけているのだ。厚かましいだけでなく、ずるいやつだ。ああ、こうやって自分を責めてしまうのは、多分心が弱って居るんだろう。そりゃそうか。
「じゃあ二人でいいんじゃない。ひーわたち今から出てこれるとも限らんし」
「確かに。それもそうだね。エマも帰らんきゃいけないってくらいの時間だしな」
こうやって体のいい言い訳に甘えて、私は久しぶりに五央の家にお邪魔することになった。
なんにもないけど。言い訳はあるけれど、それでもエマと夢とひーわ以外には、絶対この話は出来ないな、と思った。
◆
「へーいお邪魔しま~す」
と突然泊めてもらう者として0点の反応で五央の家の敷居を跨いだ私は、前回はなかったとある物を見つける。
「これって……もしかして……」
「そう、人をダメにするソファ」
「うわあああ駄目になってもいい?」
「手ェ洗ってきたらどーぞ」
やった! と私は部屋の隅に鞄を置かせてもらい、早足で洗面所へと向かう。「マンションなんだから足音!」と言う五央の注意に「は~い」と間抜けな声で返し、そこからはそろりそろりと忍び足で移動した。
しっかりと手洗いを終えた私は、両手をパッと開いて五央に見せる。
「お前は幼稚園児なの」
と呆れたポーズで、でも今にも吹き出しそうな五央の顔を見て、私はなんだか嬉しくなる。やっぱり五央には笑っててほしいわ~と思わず言いそうになったが、でもコンマ一秒でその気持ちを抑え込み、「十代なんて四捨五入したらおおよそ幼稚園児と変わんないっしょ」なんて茶化して笑った。
「ご飯、どうする? どうせコンビニとかも行くだろ、外で食べてもいいし、なんか適当にウーバーでもいいし、まあなんか作ってもいいし」
そう言われてうーんと考えてみて、私って今全然食欲がないんだ、とはじめて気付く。いつもなら夕飯の前に夢やエマとどこかでポテトやケーキとか、軽食を摘んでいることが多いが、今日はだいぶ前にポップコーンを中途半端に摘んだだけでもう夕飯時だって言うのに。一体どうしたって言うんだ私。
どうしたんだって言うけど、そんなの自分が一番わかってるでしょ? と頭の中に声が響く。
自分がエマと偶然運命みたいな出会いをして、ペンが使えるってわかって、ピィちゃんを助けた気になって、その後五央と知り合って、偶然同じ学校、同じクラスになって、そうやって私の世界がどんどん楽しい方に、キラキラした方に変わっていって。私は世界の主人公で、無敵だって、そんな勘違いをしていた。でもそれが全部馬鹿な思い上がりだったってわかって、なんだかあのペンや魔法と関係のない、エマとカフェで喋った昨日のテレビの話とか、五央と夢とひーわで休み時間お腹を抱えて笑ったお昼休みのどうでもいい話とか、そういうものも全部色褪せてしまったみたいで、そうしたら急に、またこの世界が何にも面白くない、藁半紙に印刷されたつっまんない小テストみたいになってしまいそうな気がして、怖いんだか、悲しいんだか。とにかく本当は、今の私の頭の中は黒やグレーの絵の具をぐちゃぐちゃにかき回したような色だった。
「ひかる?」
とずっと黙りこくっている私に、五央が恐る恐る、といった風に声をかける。「大丈夫」と言いたいけれどその言葉を嘘でも絞り出せなくて、私は顔の前に人差し指で小さいバツ印を作る。
「今なんか言ったら泣いちゃいそうだから」
と震え声で言ったものの、こんなのもう泣いているのと一緒だろう。無理矢理口角を上げてみると、その勢いで私の瞳から頬にツーっと生温かいものが伝う。視界がぼやけて、ああ、本当にもう、こんな自分にはうんざりだ。私は着ていたカーディガンを脱ぎタオル代わりにバッと広げ、件のソファに投げ置く。そしてそこに自分の顔を押し付けるようにダイブした。
「そんな泣き方ある?」
とほんのしばしの無言の後、私の背中に話しかけてきた五央は、完全に笑いを堪えていてちょっとイラッとしたけれど、でも俯瞰でみれば、突然ビーズクッションのソファに正面からダイブしスンスンとすすり泣いている人間が居るのは、かなりシュールかもしれない。そう考えるとまたおかしくなってきて、でも涙は止まらなくて、クツクツと笑う声の間にすすり泣きが入るような状態で、もう自分でも何がなんだかさっぱりわからなくなっていた。これが泣き笑いっていうやつか? いや、ちょっと違う? なんて思いながら背中にうっすらと感じる人の気配が心地よくて、このまま好きにしても許してくれるだろうって思いきり甘えて、私はそのまま数分、ビーズの海に窒息寸前まで溺れていた。
人間は泣くのにも笑うのにもいつもよりたくさん酸素を使う。その上顔を包み込むを越してまとわりつくようなビーズの海にいたわけで。少し気持ちが落ち着くと、頭がぽーっとしていることに気付き、私は慌ててパッと浮上する。
「お、帰ってきた」
「帰ってきた、じゃないわ、酸欠で死にそうになったんだけど。どっかで『俺の胸で泣け』みたいな感じで現世に連れ戻してくれればよかったのに」
そんな軽口を叩きながら、あーでも夢やエマとそれやったら温かい友情って感じだけど、五央とやるとベタな少女漫画みたいになる? なんて考える。五央もそうだったのか、
「ひかる、最近また夢に借りた漫画でも一気読みしたんか?」
と茶化される。
「最近読んだ少女漫画って、ひーわから借りた漫画だな。最後不覚にも泣いちゃったしめっちゃ良かったよ。少女漫画だから巻数もそんな多くないし、五央も借りたら?」
夢は名前の通り夢みる乙女だが、ひーわもなかなかその才能があって、少女漫画や恋愛映画にも明るい。ひーわの方が所謂オタク要素が少ない分、良い意味で私みたいな素人夢みる乙女にも読みやすいものを紹介してくれるので、実は最近はもっぱらひーわに教えてもらったものをチェックしている。
五央は「ひーわが言うんなら面白そうだけど、でも俺の胸で泣けはキツいわ……」なんて一人でうんうん唸っている。っていうかいくら結構ベタな少女漫画だったとはいえ、流石にそのまま俺の胸で泣けとは言っていない、それを言ってたのはだいぶ前に授業中に夢に監視されながら読まされた少女漫画だと訂正したい気持ちはあったが、声をかけるタイミングが見当たらず、仕方なく私は真剣な顔をして頭を抱えている五央を、笑わないようこっそり下唇を噛みながら眺めていた。別に勘違いを面白がっていたわけではない。本当に仕方なく、なのである。
◆
そうしているうちにそろそろ補導の心配なく制服で出歩くには、もうぼちぼちを家を出なくちゃ、という時間帯になる。五央は着替えて出かけたいと一旦寝室に引っ込み、私はその間にメイクを直そうとポーチを掴み再び洗面台を借りる。目元が赤くなっているのでクッションファンデをポンポンを叩き、それでもうっすらピンクなのはもうそういうメイクってことにしよう、とラメのアイシャドウを指でそっと乗せる。幸いにも目は思ったより充血していなくて、目薬を差せばすぐに治るだろう、といった感じ。よし、とリビングへ戻ろうと後ろを振り返ると、すぐ目の前に五央が居た。
「びっくりしたあ」
「そんな淡々と言うやつ居る?」
「まあ実はちょっと足音聞こえてたし……」
「つまんなー」
いつも通りのテンションで話している二人だけれど、なんだろう、距離が近過ぎるのだろうか。そこから一歩も動けないし、視線も動かせない。五央も同じようで、私たちはずっと見つめ合う形になっている。
五央って睫毛長いのは知ってたけど、瞳の色ちょっとグレーがかってるんだ。ちょっとブルーが入っているエマと似てるようで、ちょっと違う色。っていうか身長ちょっと伸びた? 前から目を見るのにこんなに上を見上げなきゃいけなかったっけ? いつも五央はスニーカーで、私はたまにローファーで盛ってるから? でも校内では上履きだもんな。そもそも前からっていうけど五央と出会ってから何ヶ月だっけ? 一年は全然経っていない。色々ありすぎて何年も一緒に居たような気もするし、あっという間すぎて出会ったのがついこの前みたいな気もする。悪魔だったって言われてもさ、全部楽しかった。怖くてつらい目にもそれなりにあったけれど、でも悪魔になって魂売ったおかげで、私はそういう怖くてつらい目から大切な人たちを守れたのである。最善じゃなかったかもしれないけど、でも人間常に最善を選べるかって話だ。そう、やっぱり私はただの人間なんだから。
「ひかる、俺の胸で泣く?」
と五央が笑顔で、でも決してふざけているわけではなく、真剣に私のことを考えてくれているのがわかる声で、私にそう言う。色々考えていたら、また目頭がツーンと熱くなっているのを自分でも感じているし、多分五央も雰囲気でわかったんだろう。
せっかくメイク直したのに。せっかく五央だって着替えたのに。せっかく大親友で居る二人なのに。頭の中で、どこか冷静なもう一人の私が呆れた声でそう文句を言っている。
でも私はただの人間で、常に最善を選べるわけではないのだ。
「うん」
と言った時にはもう私の顔はその胸にダイブしていて、声はくぐもっていた。一見あのソファよりよっぽど浅そうだったので安心していたけれど、気付けば背中から温かい腕でぎゅっと縛られ、あちゃー、この海の方がよっぽど深いかも。と私は瞬時に察し、後悔したのだった。
「あれ、いつもマナーモードにしてるのになんでだごめん……え、パパ、えっちょっとごめん」
エマからお父さんの名前が出るのは珍しい。
パタパタとエマが私達より少し離れた場所へと移動する。その足音が遠くなるのと反比例して、私達の現実は手元に帰ってくるようだった。
「取り敢えず、解散しようか。エマのお父さんがわざわざこんなタイミングで電話ってことは、何かエマに用事があるんだろうし。多分ペンがどうこうは今日話せる感じでもないと思う」
と五央が言ったので、ひかりと呼ばれていた女の子も、
「そうなんですね。じゃあまた、よろしくね。私によろしくなんかされたくないと思うけど……」
と首を傾げ、そして俯いて言う。ひかりちゃんは何も悪いことをしていなくて、むしろ正しいことしかしていないのに、なんだか叱られた後の子供のような声色だ。むしろ正しすぎるくらいの人だから、私に悪魔だなんて突きつけてしまって罪悪感に駆られてしまっているのだろうか。
「私は、よろしくされたいよ。ペンって本当はどうやって使うのか、純粋に気になるし」
悪魔だった女でも良ければ、と言いそうになって、それは本心だけども流石に嫌味ったらしい、と口を噤む。それが良かったのか、単にひかりちゃんが優しい質の人だからかはわからないけど、彼女は「うん」とさっきより明るい声で返してくれる。それから、
「じゃあエマちゃんにもよろしくね」
とひかりちゃんは自分たちの周りにあの輝くインクをぐるりと撒いて、そして消えていった。
「いや~魔法使いだわ」
と私が努めて明るい口調で言うと、五央も、
「そうだな、『本物』って感じ」
と茶化して返してくる。でも五央は私達の中で一番正直でわかりやすいやつだ。その声も顔も今にも泣きそうで、いつかの梅雨の日の自分を思い出すようで。
『自分が泣くのは間違っている』、それでも泣いてしまいそうになる自分の弱さがあの時は申し訳なくて情けなくて嫌で嫌で仕方なかったけど、でもこうして逆の立場になってみると、決してその気持ちは嫌なものなんかではなく、むしろ同じように思ってくれる人が居るってことがとても心強く思えた。
そうこうしていると、またパタパタと体重の軽い足音が近付いてきて、あ、エマだ、と私も五央も気付く。
「おかえり」
と私が声をかけると、エマは一瞬驚いたような顔をした。私が案外ケロッとしているからだろう。五央が私の分も代わりに泣いてくれているので、なんとか立てているんだよ、と目線で五央の方を示すと、エマはなるほど、とでも言ったふうにふふっと笑う。
「ただいま」
◆
「と言う訳で今日はもう帰らなきゃいけなくなって、しかもひかるのこと連れてけないの、ごめんね。私今日絶対ひかると一緒に寝るつもりだったのに」
「一緒に寝るってすげえ言い方」
「五央代わりに頼むよ。まあ私の代わりに五央じゃ役不足だとは思うけど、居ないよりマシだとも思うから」
エマの話をまとめると、どうやら急にエマのお父さんが日本に帰国して来たらしい。しかもエマが家に居て、尚且つエマのお母さんが家に居ないつもりで冴羽家に滞在する計画を立てて来たが、まさかのエマが留守でエマのお母さんが家に居たので家の空気がとんでもないことになっているらしい。当たり前だ。大体高校生の娘がこの時間に家に居ると思って居るのがハッピーすぎる。遊びでなくとも生徒会や塾で家に居ないことのほうが多いくらいの時間だろう。エマの大胆さ、というか、ある意味楽観的なところは、きっとお父さん譲りなのかもしれない。
「大丈夫だよ。五央も一応エマと同じ血引いてるし、居ないよりマシだから」
と私が満面の笑みで言うと、
「俺の都合は!」
と五央が叫んだ。五央の都合なんて知ったこっちゃないが、今の五央に大した都合やら予定なんてあるわけがない。だって私と五央は、親友、或いは『恋人なんかになるのは勿体無い』くらいの二人なのだから。
私とエマは二人で五央の叫びをスルーして、手を繋いでバス停まで歩いた。
「お父さん、帰ってきかたはなかなかあれだけど、取り敢えず久しぶりに会えそうで良かったね」
私がエマの話を思い出し、苦笑いしなからそう言うと、
「うん。でも本当、ああいうとこが原因で離婚してるからね、家の中の空気どうなってることやら……」
「えーと、あの女の人、ひなさん? だっけ? まだ若そうだから心臓きゅうってなってそう」
と私は以前エマの家に行った時、出迎えたり色々としてくださったお手伝いさんのことを思い出し、名前を出す。
「ああ、ひなさんは多分パパとお母様が共演してるの初めて見るかも。可哀想~」
「そんなに帰ってきてないの?」
「うーん、まあタイミング? お母様があんまりあの家に居なかったから、ってのもある。ひなさんとパパは何回か会ってるよ。パパは結構人懐っこいというか……人好きする? から、結構うちのお手伝いさんたち手懐けてるしね」
そんな冴羽家の大人の事情を聞きながら歩いていると、やっぱりバス停はあっという間で、今回は私たちとエマは反対方面なので、一旦じゃあね、と手を振りエマは横断歩道を渡る。
「ヘイ五央、こっち後バス何分?」
「俺はSiriかよ、後八分」
「しっかり返しちゃうあたりSiriじゃん。ねえエマー、こっちは後八分だってー!」
「急に向こう岸に向かって叫ぶな! 大体車もなんも通ってないんだから、聞こえるだろ」
五央のツッコミがキレキレで嬉しいと思っていたら、反対車線に居るエマも、
「私はさんぷーん!」
とあの華奢な身体からは想像のつかない声量で返してくる。
「お前もうるせーーーー! 聞こえてただろーが!」
と五央が一番馬鹿でかい声で叫ぶので、私とエマは顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
エマの乗るバスは、バスにしては珍しく殆どきっかり三分でやってきたので、私とエマは手を振り今度こそ別れる。また五央と二人だ。
私は時刻表を見るふりをして、ちらりと横にいる五央を盗み見る。そしてそのまま、時刻表に話しかけるように、独り言のように声を発する。
「今日帰りたくないけど、一人になりたくない」
そうすると五央も、車道を見つめながら独り言のように
「知ってる」
とだけ返してきた。
「ひーわと夢呼んでも良いし、でも、ひかるが良いなら二人でも良いよ」
非常に悩ましい問題だ。別に心情としては五央と二人が嫌なことはない。でも初めてではないとは言え、なんとなく、男女二人っきりというのはなんだか悪いことをしているような気持ちになる。でもかといって、今日のあれこれを夢とひーわに説明できる訳でもないし。多分二人は何かしらがあったんだろうと察してただ楽しく一緒に過ごしてくれるとは思うけど、そうやって気を使わせてしまうのに何も言えないことにどうしても罪悪感を感じてしまう。いや言えばいいんだけど、とも思うが、まだ自分の中で今日のことを何にも消化出来ていないのに言える気がしない。
「五央はどうなの?」
とずるいなと思いながらも、私は五央に委ねてしまう。こうして責任を擦りつけているのだ。厚かましいだけでなく、ずるいやつだ。ああ、こうやって自分を責めてしまうのは、多分心が弱って居るんだろう。そりゃそうか。
「じゃあ二人でいいんじゃない。ひーわたち今から出てこれるとも限らんし」
「確かに。それもそうだね。エマも帰らんきゃいけないってくらいの時間だしな」
こうやって体のいい言い訳に甘えて、私は久しぶりに五央の家にお邪魔することになった。
なんにもないけど。言い訳はあるけれど、それでもエマと夢とひーわ以外には、絶対この話は出来ないな、と思った。
◆
「へーいお邪魔しま~す」
と突然泊めてもらう者として0点の反応で五央の家の敷居を跨いだ私は、前回はなかったとある物を見つける。
「これって……もしかして……」
「そう、人をダメにするソファ」
「うわあああ駄目になってもいい?」
「手ェ洗ってきたらどーぞ」
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「お前は幼稚園児なの」
と呆れたポーズで、でも今にも吹き出しそうな五央の顔を見て、私はなんだか嬉しくなる。やっぱり五央には笑っててほしいわ~と思わず言いそうになったが、でもコンマ一秒でその気持ちを抑え込み、「十代なんて四捨五入したらおおよそ幼稚園児と変わんないっしょ」なんて茶化して笑った。
「ご飯、どうする? どうせコンビニとかも行くだろ、外で食べてもいいし、なんか適当にウーバーでもいいし、まあなんか作ってもいいし」
そう言われてうーんと考えてみて、私って今全然食欲がないんだ、とはじめて気付く。いつもなら夕飯の前に夢やエマとどこかでポテトやケーキとか、軽食を摘んでいることが多いが、今日はだいぶ前にポップコーンを中途半端に摘んだだけでもう夕飯時だって言うのに。一体どうしたって言うんだ私。
どうしたんだって言うけど、そんなの自分が一番わかってるでしょ? と頭の中に声が響く。
自分がエマと偶然運命みたいな出会いをして、ペンが使えるってわかって、ピィちゃんを助けた気になって、その後五央と知り合って、偶然同じ学校、同じクラスになって、そうやって私の世界がどんどん楽しい方に、キラキラした方に変わっていって。私は世界の主人公で、無敵だって、そんな勘違いをしていた。でもそれが全部馬鹿な思い上がりだったってわかって、なんだかあのペンや魔法と関係のない、エマとカフェで喋った昨日のテレビの話とか、五央と夢とひーわで休み時間お腹を抱えて笑ったお昼休みのどうでもいい話とか、そういうものも全部色褪せてしまったみたいで、そうしたら急に、またこの世界が何にも面白くない、藁半紙に印刷されたつっまんない小テストみたいになってしまいそうな気がして、怖いんだか、悲しいんだか。とにかく本当は、今の私の頭の中は黒やグレーの絵の具をぐちゃぐちゃにかき回したような色だった。
「ひかる?」
とずっと黙りこくっている私に、五央が恐る恐る、といった風に声をかける。「大丈夫」と言いたいけれどその言葉を嘘でも絞り出せなくて、私は顔の前に人差し指で小さいバツ印を作る。
「今なんか言ったら泣いちゃいそうだから」
と震え声で言ったものの、こんなのもう泣いているのと一緒だろう。無理矢理口角を上げてみると、その勢いで私の瞳から頬にツーっと生温かいものが伝う。視界がぼやけて、ああ、本当にもう、こんな自分にはうんざりだ。私は着ていたカーディガンを脱ぎタオル代わりにバッと広げ、件のソファに投げ置く。そしてそこに自分の顔を押し付けるようにダイブした。
「そんな泣き方ある?」
とほんのしばしの無言の後、私の背中に話しかけてきた五央は、完全に笑いを堪えていてちょっとイラッとしたけれど、でも俯瞰でみれば、突然ビーズクッションのソファに正面からダイブしスンスンとすすり泣いている人間が居るのは、かなりシュールかもしれない。そう考えるとまたおかしくなってきて、でも涙は止まらなくて、クツクツと笑う声の間にすすり泣きが入るような状態で、もう自分でも何がなんだかさっぱりわからなくなっていた。これが泣き笑いっていうやつか? いや、ちょっと違う? なんて思いながら背中にうっすらと感じる人の気配が心地よくて、このまま好きにしても許してくれるだろうって思いきり甘えて、私はそのまま数分、ビーズの海に窒息寸前まで溺れていた。
人間は泣くのにも笑うのにもいつもよりたくさん酸素を使う。その上顔を包み込むを越してまとわりつくようなビーズの海にいたわけで。少し気持ちが落ち着くと、頭がぽーっとしていることに気付き、私は慌ててパッと浮上する。
「お、帰ってきた」
「帰ってきた、じゃないわ、酸欠で死にそうになったんだけど。どっかで『俺の胸で泣け』みたいな感じで現世に連れ戻してくれればよかったのに」
そんな軽口を叩きながら、あーでも夢やエマとそれやったら温かい友情って感じだけど、五央とやるとベタな少女漫画みたいになる? なんて考える。五央もそうだったのか、
「ひかる、最近また夢に借りた漫画でも一気読みしたんか?」
と茶化される。
「最近読んだ少女漫画って、ひーわから借りた漫画だな。最後不覚にも泣いちゃったしめっちゃ良かったよ。少女漫画だから巻数もそんな多くないし、五央も借りたら?」
夢は名前の通り夢みる乙女だが、ひーわもなかなかその才能があって、少女漫画や恋愛映画にも明るい。ひーわの方が所謂オタク要素が少ない分、良い意味で私みたいな素人夢みる乙女にも読みやすいものを紹介してくれるので、実は最近はもっぱらひーわに教えてもらったものをチェックしている。
五央は「ひーわが言うんなら面白そうだけど、でも俺の胸で泣けはキツいわ……」なんて一人でうんうん唸っている。っていうかいくら結構ベタな少女漫画だったとはいえ、流石にそのまま俺の胸で泣けとは言っていない、それを言ってたのはだいぶ前に授業中に夢に監視されながら読まされた少女漫画だと訂正したい気持ちはあったが、声をかけるタイミングが見当たらず、仕方なく私は真剣な顔をして頭を抱えている五央を、笑わないようこっそり下唇を噛みながら眺めていた。別に勘違いを面白がっていたわけではない。本当に仕方なく、なのである。
◆
そうしているうちにそろそろ補導の心配なく制服で出歩くには、もうぼちぼちを家を出なくちゃ、という時間帯になる。五央は着替えて出かけたいと一旦寝室に引っ込み、私はその間にメイクを直そうとポーチを掴み再び洗面台を借りる。目元が赤くなっているのでクッションファンデをポンポンを叩き、それでもうっすらピンクなのはもうそういうメイクってことにしよう、とラメのアイシャドウを指でそっと乗せる。幸いにも目は思ったより充血していなくて、目薬を差せばすぐに治るだろう、といった感じ。よし、とリビングへ戻ろうと後ろを振り返ると、すぐ目の前に五央が居た。
「びっくりしたあ」
「そんな淡々と言うやつ居る?」
「まあ実はちょっと足音聞こえてたし……」
「つまんなー」
いつも通りのテンションで話している二人だけれど、なんだろう、距離が近過ぎるのだろうか。そこから一歩も動けないし、視線も動かせない。五央も同じようで、私たちはずっと見つめ合う形になっている。
五央って睫毛長いのは知ってたけど、瞳の色ちょっとグレーがかってるんだ。ちょっとブルーが入っているエマと似てるようで、ちょっと違う色。っていうか身長ちょっと伸びた? 前から目を見るのにこんなに上を見上げなきゃいけなかったっけ? いつも五央はスニーカーで、私はたまにローファーで盛ってるから? でも校内では上履きだもんな。そもそも前からっていうけど五央と出会ってから何ヶ月だっけ? 一年は全然経っていない。色々ありすぎて何年も一緒に居たような気もするし、あっという間すぎて出会ったのがついこの前みたいな気もする。悪魔だったって言われてもさ、全部楽しかった。怖くてつらい目にもそれなりにあったけれど、でも悪魔になって魂売ったおかげで、私はそういう怖くてつらい目から大切な人たちを守れたのである。最善じゃなかったかもしれないけど、でも人間常に最善を選べるかって話だ。そう、やっぱり私はただの人間なんだから。
「ひかる、俺の胸で泣く?」
と五央が笑顔で、でも決してふざけているわけではなく、真剣に私のことを考えてくれているのがわかる声で、私にそう言う。色々考えていたら、また目頭がツーンと熱くなっているのを自分でも感じているし、多分五央も雰囲気でわかったんだろう。
せっかくメイク直したのに。せっかく五央だって着替えたのに。せっかく大親友で居る二人なのに。頭の中で、どこか冷静なもう一人の私が呆れた声でそう文句を言っている。
でも私はただの人間で、常に最善を選べるわけではないのだ。
「うん」
と言った時にはもう私の顔はその胸にダイブしていて、声はくぐもっていた。一見あのソファよりよっぽど浅そうだったので安心していたけれど、気付けば背中から温かい腕でぎゅっと縛られ、あちゃー、この海の方がよっぽど深いかも。と私は瞬時に察し、後悔したのだった。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
High-/-Quality
hime
青春
「…俺は、もう棒高跳びはやりません。」
父の死という悲劇を乗り越え、失われた夢を取り戻すために―。
中学時代に中学生日本記録を樹立した天才少年は、直後の悲劇によってその未来へと蓋をしてしまう。
しかし、高校で新たな仲間たちと出会い、再び棒高跳びの世界へ飛び込む。
ライバルとの熾烈な戦いや、心の葛藤を乗り越え、彼は最高峰の舞台へと駆け上がる。感動と興奮が交錯する、青春の軌跡を描く物語。
スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件
フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。
寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。
プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い?
そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない!
スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。
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