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はじめてのモデル
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「と、いうわけでお願いします! お台所を貸してください!」
「なぜ我家の厨房なのだ」
「だって、家にお邪魔できるような知り合いが花咲きさんくらいしかいないし……ほら、私のお世話になってる食堂は厨房が一つしかないし」
「ならばそこで作ればいいではないか。閉店後だとかなら使えるだろう?」
「できればマスターに見つからないようにこっそり作りたいんですよ。完璧に作れるようになってから渡したいというか。花咲きさんだって美味しくないお菓子を貰っても嬉しくないでしょう?」
私は今、集合住宅の一室にある花咲きさんの部屋で、土下座せんばかりに頭を下げていた。
イライザさんとどら焼きを作る約束をしたものの、日本でホットケーキミックスなんかに頼りまくりだった私には、どら焼きの皮の作り方すら曖昧だ。幸いにもホットケーキミックスを使わないパンケーキの作り方はイライザさんが知っていたので、それを参考にさせてもらうが。
けれど問題は作る場所だった。銀のうさぎ亭の厨房なんか使って、万が一マスターに見つかったりすれば、何をしてるかと追求されてしまう。
だからそれ以外の場所で練習したかったのだ。そういうわけで花咲きさんの家でモデルを務めるついでに台所も使わせてもらおうと、こうして頼み込んでいる。
それを説明すると、花咲きさんははじめ渋い顔をしていたが、
「お願いします! ついでに花咲きさんの分のお食事なんかも作ったりしますから!」
と頼み込むと、花咲きさんは暫く何かを考えるそぶりを見せた後
「わかった。そういう事なら我が家の厨房を貸してやろうではないか。使えるものならな」
と、了承してくれた。
やったー! これでどら焼き作りの練習ができる!
喜びつつ台所に案内された私は言葉を失った。
――めちゃくちゃ汚い。
水回りは何かどろっとしたものがあちらこちらに付着しており、使用済みの食器なんかが洗われずに放置されている。
かまど周辺なんかも油やソースみたいなものが飛び散ったであろう痕が残っている。床もなんだかベタベタしているし、何かの破片だとかが散らばっている……
「使えるものなら」ってこういう意味だったのか……
「あの、花咲きさん。最後にお台所使ったのいつですか……?」
「覚えていない。最近は出来合いのものを買ってきて済ませているからな。料理をするくらいなら、その時間を絵を描くことに充てるほうが建設的だと気付いたのだ」
うわあ。それじゃあ何ヶ月も放置されてる可能性が……?
いや、でも天空に浮かぶお城が出てくる有名なアニメでも、ヒロインがめちゃくちゃ汚い厨房を綺麗に掃除していたではないか。あれだ。あれをイメージするんだ。ヒロインになりきるんだ私よ。
などと考えながらまずは食器でも洗おうかと手を出そうとしたその時
「おい、何をするつもりだ」
「え? だからお掃除を……」
「確かになんでもするとは約束したが、メインはお前がモデルを務める事だっただろう? それを放り出して掃除なんかしてどうする。厨房を使いたかったらその後でやれ」
「ええー、そ、そんな……」
思わず不満の声を上げたものの、よく考えたら花咲きさんの言う通りモデルの仕事がメインであったし、台所を使わせてもらえるだけでもありがたい。
そう思いなおして大人しくアトリエに戻ることにした。
しかしよく見ればアトリエもあんまり綺麗じゃないな……床には乾いた絵の具なんかがそこかしこにこびりついているし、なんとなく埃っぽい。部屋の隅の机には資料か何かの本や紙束が積み上げられてぐちゃぐちゃだ。
こんなところにうら若き乙女を躊躇いなく案内するとは……画家というのは身の回りに頓着しない生き物なんだろうか。
あ、でもあの店名入りのナプキンは使ってくれてるみたいだ。机の上に置いてあるのが見える。
ともあれ、さっさとモデルを済ませて台所を使わせてもらうのだ。
そう考えて上着を脱いでキャミソール姿になると
「おい、お前は何をしてるんだ!」
「何って……モデルの準備ですけど」
「最初は着衣からだと言ったではないか! どこまで脱ぐつもりなんだ!」
「え……でも、人体デッサンって身体の線がなるべくわかるほうがいいものでしょう?」
この日のためにスカートの下には薄手のショートパンツもはいて来たのだ。
「だからといって男の前でそんなに簡単に服を脱ぐか? お前には羞恥心というものがないのか?」
「ヌードに比べたら格段にましですよ」
言いながら気づいた。もしかしてこの世界でははしたない行為だったのかな? でも、モデルってそういうものじゃないの……?
まあ、既に脱いでしまったことだし、お仕事として割り切ってあんまり気にしないことにしよう。今更気にしたら花咲きさんも気まずくなるだろうし……。
平気な風を装って、用意された椅子に腰掛けると、花咲きさんもなんとか納得したのか早速デッサンを始める。
20分ポーズを取った後に10分休憩。それを6セット、合計3時間の予定だったのだが、私はその半分で根を上げてしまった。
同じポーズを取り続けることが予想以上に苦痛だったのだ。おまけに薄着だからか寒い。というか、この部屋自体寒い。モデルってもっとこう、大量のストーブとかに囲まれてちやほやされるものじゃないの?
などと思ったが、そんな図々しい事も言えずに、ついに限界が来てしまったのだ。
「も、もう駄目です……今日はこのくらいで許してください……そもそもモデル初心者の私には最初から3時間なんて難易度高いんですよ……」
へろへろになりながら懇願すると、花咲きさんはため息をついた。
「仕方がないな。まあ、初日だし、これくらいで許してやろう」
「やった。ありがとうございます! 花咲きさん素敵! 優しい! 男前!」
「妙におだてても条件は緩めないぞ。次回からは時間一杯耐えられるように自宅でも鍛錬しておくように。それよりそろそろ昼食時だし何か買ってきてくれ」
「えっ? 私がですか!?」
疲れてるのに?
「なんでもすると言っただろう? そうだな、表の屋台のホットサンドがいい。マスタード多めで。あと温かいスープも。その辺に水筒があるから持って行くといい。2人前くらいなら十分だろう」
た、確かにモデル以外の事もするとは言ったけれど……これでは召使いのようだ。なかなか人使い荒いなあ……。
でも、これはお店のためでもあり、イライザさんのためでもある。初日でバテているようではこの先もやっていけない。がんばれ私。
そうして私も花咲きさんと同じホットサンドとスープで昼食を済ませた後、早速台所の掃除に取り掛かる。
私も掃除苦手なんだけどなあ……
奮闘する私をよそに、花咲きさんはアトリエで別の絵を描いているらしく、手伝ってもくれなかった。というか、関心がないみたいだった。
本当に絵の事以外興味ないらしい。いっそ清々しい。
その間に私も無になって掃除に集中し、数時間後には半分ほど片付いてきた。
と、何かがカサカサと素早く目の端を横切った。
ヤツだ。
黒光りするボディ、6本足に頭部から生えた蠢く触覚。生理的に嫌悪を抱くあの見た目。間違いない。頭文字Gの私の大嫌いなあの虫!
視界に入ってくると同時に、今にも飛び立ってこちらに向かってきそうな恐怖を覚え、咄嗟に手近の鍋を上から被せて閉じ込めると、私は花咲きさんのアトリエへと飛び込む。
「花咲きさん! お台所に虫……虫が!」
「それは虫くらい出るだろう」
訴えるも、なんでもないことのようにスルーされそうになる。
「お、お願いします! お鍋の中に閉じ込めてあるので退治してください! 私、あの虫大嫌いなんですよ! このままじゃお料理できません!」
「不思議だな。猫であるお前のほうがはそういうのは得意なのではないのか? よく虫だとかネズミだとかを狩ってくるだろう?」
「無理ですよ! 私は生粋の猫じゃないんですから! 本体はか弱い乙女なんですから!」
必死に頼み込むと、花咲きさんはやっと重い腰を上げた。
「仕方ないな」
そう言うと、ゴミ箱らしき箱から厚手の紙を何枚か拾い出し、筒状に丸めるとお台所へと消えていった。
まさかあの紙を武器代わりに……? 花咲きさんって意外と武闘派なんだな。
しばらくすると「あっ、待て!」という声と走り回る音、床を何かが叩く騒々しい音がしばらく続く。
やがて一際大きな音がしたかと思うと、突然静かになった。
台所の入り口で様子を伺っていたわたしの元へ花咲きさんが戻ってきた。何かをやり遂げたような清々しい表情で。
「無事に退治したぞ。証拠に残骸を見るか?」
「見ません!」
恐る恐る台所に戻るとヤツの姿はなく、からっぽの鍋が床に辛がっていた。本当に退治してくれたみたいだ。胸をなでおろして掃除を再開する。
やがて長くも思える時を経て、やっとなんとか使用できるほどに台所が片付いた。
我ながらよくやった。素晴らしいぞ私。
さっそくどら焼き作りでも、と綺麗になったお台所を見回しながら、ある事に気付く。
材料がない。
古そうな食材や調味料は全部処分しようと、片っ端からゴミ用の袋に入れていったら何もなくなってしまったのだ。
最低限の調理器具や食器はあるが、さすがにこれでは花咲きさんも困るのでは? お茶に入れる砂糖すらないなんて。さすがに少しは補充しておいたほうがいいよね……。
「花咲きさん、ゴミを捨ててくるついでに買い物に行ってきますね」
机に向かって何かを制作しているらしき花咲きさんに一声かけるも、気もそぞろに「ああ」という返事が返ってくるだけだった。
外にでると、既に空がオレンジ色に染まりかけていた。
これは今日中にどら焼きの試作品を作るのは難しいかも……買い物だけで終わってしまいそうだ。イライザさん、ごめんなさい。と、心の中で謝る。
とりあえず最低限の食材や調味料を買い込んで戻ってくると、花咲きさんが何枚かの紙を見せてきた。簡単な丸や四角がいくつも配置されたそれには、小さく説明文も書かれている。
「メニュー表のデザイン案だ。どれがいいか選べ」
どうやらレイアウトを考えてくれていたようだ。さっそく約束を守ってくれるとは。
「す、すみません。私なんてモデルの仕事もちゃんとできていないっていうのに……メニュー表の案はこちらで一旦持ち帰らせて頂けますか? マスターとも相談したいので」
「ああ、構わない。それよりお前は例のどら焼きとやらを作らなくていいのか?」
「ええと、今日はもう遅いので、次の機会にしようかなと……それよりお腹減ってませんか? 簡単なものでよければ作りますけど、どうします?」
「なんだ。それなら適当に出来合いのものを買ってきてくれれば構わないというのに」
「あ、もちろん出来合いのものも買ってきましたよ。ただ、それだけじゃ味気ないかなと思いまして。食べるならお台所借りますけど……」
「ああ、そういう事なら頼む」
この世界では薪で火を起こすタイプのかまどが主流らしい。銀のうさぎ亭で一通りの仕事は教えて貰ったので、なんとか使い方はわかる。早速料理しようと火を起こす。
フライパンを熱して、時間短縮のために買ってきた出来合いのチキンライスを投入する。
チキンライスが温まったところでお皿に移し、形を整えると、再度綺麗にして熱したフライパンにバターを入れる。
そこに泡立て器で混ぜた卵を流し込む。手早くオムレツを形成したところで先程のチキンライスの上に乗せて、ナイフで左から右にさっと切れ目を入れると、半熟の卵がチキンライスを覆う。
できた。オムライス。母が時々作ってくれたっけ。ちょっと懐かしい。
「お待たせしました。お食事できましたよ」
とお皿を持って行ったものの、ダイニングテーブルらしきものはない。いつもどこで食べてるんだろう?
「こちらに持ってきてくれ」
と、花咲きさんは仕事用の机に私を呼ぶ。
まさかここで食べるのかな。仕事用の机でご飯を食べるなんて、仕事熱心な会社員みたいだ。
「なんだ。一人分しかないぞ。お前は食べないのか?」
「私は職場で賄いが出るので大丈夫です。お気になさらず食べちゃってください」
言いながら、椅子を持ってきて花咲きさんの近くに腰掛ける。
「……そんなに近くで見られると食べづらいんだが」
「えー、だって、自分の作った料理を誰かが食べる時の反応って気になるじゃないですか。それに、前にサンドイッチを食べてた時は、花咲きさんはそんな事気にしてなかったのに」
「あの時は周りを意識するほどの余裕がなかったからだ。しかしこのオムライス、上に何か書いてあるな」
「あ、猫です。ケチャップで描きました」
「猫? これが?」
「ほら、ここが耳で、これが目で……」
説明すると、花咲きさんは「なるほど」と頷く。
「林檎のうさぎやらケチャップの猫やら、お前は面白い事を考えるな」
言いながらオムライスを口に運ぶ。
「……このオムレツ、不思議な味がする」
「あ、それは卵にコーンポタージュスープを混ぜたんですけど……おいしくなかったですか?」
「いや、うまい。こういう味付けもあるんだな。初めて知ったぞ。黒猫娘。お前なかなか料理が上手いではないか」
やった。褒められた! もっとも、メインのチキンライスは出来合いなのだが。それでも嬉しい。
なんだか嬉しそうにオムライスを食べる花咲きさんを見ていると、自分の空腹感はどうでもよくなってゆくような気がした。
◇◇◇◇◇
「それじゃあ、マスターと相談して、どのレイアウトがいいか次までにお知らせしますね」
「ああ、いい知らせを待っている。新たに考え直すのも手間だからな」
「決まったら、今度はお店にお料理を食べに来てくださいね。お代は頂きませんから」
「それは……つまり無料だという事か? なぜだ?」
不思議そうな花咲きさんにわたしは説明する。
「だってほら、実物のお料理を見ないとイラストも描けないじゃないですか。でも、こちらの希望で描いてもらうわけだし、ご馳走させていただくくらいじゃないと申し訳ないですよ。マスターには話を通しておくので」
「それはいいな。暫くまともな食事にありつける」
そうか。今回の件、花咲きさんはほとんどただ働きなのだ。報酬の代わりにわたしがモデルを務めるとはいえ、彼にお金が入ってくるわけではない。
なんだか急に申し訳なくなってきた。
お店に来た時はサービスで大盛にしよう。
「なぜ我家の厨房なのだ」
「だって、家にお邪魔できるような知り合いが花咲きさんくらいしかいないし……ほら、私のお世話になってる食堂は厨房が一つしかないし」
「ならばそこで作ればいいではないか。閉店後だとかなら使えるだろう?」
「できればマスターに見つからないようにこっそり作りたいんですよ。完璧に作れるようになってから渡したいというか。花咲きさんだって美味しくないお菓子を貰っても嬉しくないでしょう?」
私は今、集合住宅の一室にある花咲きさんの部屋で、土下座せんばかりに頭を下げていた。
イライザさんとどら焼きを作る約束をしたものの、日本でホットケーキミックスなんかに頼りまくりだった私には、どら焼きの皮の作り方すら曖昧だ。幸いにもホットケーキミックスを使わないパンケーキの作り方はイライザさんが知っていたので、それを参考にさせてもらうが。
けれど問題は作る場所だった。銀のうさぎ亭の厨房なんか使って、万が一マスターに見つかったりすれば、何をしてるかと追求されてしまう。
だからそれ以外の場所で練習したかったのだ。そういうわけで花咲きさんの家でモデルを務めるついでに台所も使わせてもらおうと、こうして頼み込んでいる。
それを説明すると、花咲きさんははじめ渋い顔をしていたが、
「お願いします! ついでに花咲きさんの分のお食事なんかも作ったりしますから!」
と頼み込むと、花咲きさんは暫く何かを考えるそぶりを見せた後
「わかった。そういう事なら我が家の厨房を貸してやろうではないか。使えるものならな」
と、了承してくれた。
やったー! これでどら焼き作りの練習ができる!
喜びつつ台所に案内された私は言葉を失った。
――めちゃくちゃ汚い。
水回りは何かどろっとしたものがあちらこちらに付着しており、使用済みの食器なんかが洗われずに放置されている。
かまど周辺なんかも油やソースみたいなものが飛び散ったであろう痕が残っている。床もなんだかベタベタしているし、何かの破片だとかが散らばっている……
「使えるものなら」ってこういう意味だったのか……
「あの、花咲きさん。最後にお台所使ったのいつですか……?」
「覚えていない。最近は出来合いのものを買ってきて済ませているからな。料理をするくらいなら、その時間を絵を描くことに充てるほうが建設的だと気付いたのだ」
うわあ。それじゃあ何ヶ月も放置されてる可能性が……?
いや、でも天空に浮かぶお城が出てくる有名なアニメでも、ヒロインがめちゃくちゃ汚い厨房を綺麗に掃除していたではないか。あれだ。あれをイメージするんだ。ヒロインになりきるんだ私よ。
などと考えながらまずは食器でも洗おうかと手を出そうとしたその時
「おい、何をするつもりだ」
「え? だからお掃除を……」
「確かになんでもするとは約束したが、メインはお前がモデルを務める事だっただろう? それを放り出して掃除なんかしてどうする。厨房を使いたかったらその後でやれ」
「ええー、そ、そんな……」
思わず不満の声を上げたものの、よく考えたら花咲きさんの言う通りモデルの仕事がメインであったし、台所を使わせてもらえるだけでもありがたい。
そう思いなおして大人しくアトリエに戻ることにした。
しかしよく見ればアトリエもあんまり綺麗じゃないな……床には乾いた絵の具なんかがそこかしこにこびりついているし、なんとなく埃っぽい。部屋の隅の机には資料か何かの本や紙束が積み上げられてぐちゃぐちゃだ。
こんなところにうら若き乙女を躊躇いなく案内するとは……画家というのは身の回りに頓着しない生き物なんだろうか。
あ、でもあの店名入りのナプキンは使ってくれてるみたいだ。机の上に置いてあるのが見える。
ともあれ、さっさとモデルを済ませて台所を使わせてもらうのだ。
そう考えて上着を脱いでキャミソール姿になると
「おい、お前は何をしてるんだ!」
「何って……モデルの準備ですけど」
「最初は着衣からだと言ったではないか! どこまで脱ぐつもりなんだ!」
「え……でも、人体デッサンって身体の線がなるべくわかるほうがいいものでしょう?」
この日のためにスカートの下には薄手のショートパンツもはいて来たのだ。
「だからといって男の前でそんなに簡単に服を脱ぐか? お前には羞恥心というものがないのか?」
「ヌードに比べたら格段にましですよ」
言いながら気づいた。もしかしてこの世界でははしたない行為だったのかな? でも、モデルってそういうものじゃないの……?
まあ、既に脱いでしまったことだし、お仕事として割り切ってあんまり気にしないことにしよう。今更気にしたら花咲きさんも気まずくなるだろうし……。
平気な風を装って、用意された椅子に腰掛けると、花咲きさんもなんとか納得したのか早速デッサンを始める。
20分ポーズを取った後に10分休憩。それを6セット、合計3時間の予定だったのだが、私はその半分で根を上げてしまった。
同じポーズを取り続けることが予想以上に苦痛だったのだ。おまけに薄着だからか寒い。というか、この部屋自体寒い。モデルってもっとこう、大量のストーブとかに囲まれてちやほやされるものじゃないの?
などと思ったが、そんな図々しい事も言えずに、ついに限界が来てしまったのだ。
「も、もう駄目です……今日はこのくらいで許してください……そもそもモデル初心者の私には最初から3時間なんて難易度高いんですよ……」
へろへろになりながら懇願すると、花咲きさんはため息をついた。
「仕方がないな。まあ、初日だし、これくらいで許してやろう」
「やった。ありがとうございます! 花咲きさん素敵! 優しい! 男前!」
「妙におだてても条件は緩めないぞ。次回からは時間一杯耐えられるように自宅でも鍛錬しておくように。それよりそろそろ昼食時だし何か買ってきてくれ」
「えっ? 私がですか!?」
疲れてるのに?
「なんでもすると言っただろう? そうだな、表の屋台のホットサンドがいい。マスタード多めで。あと温かいスープも。その辺に水筒があるから持って行くといい。2人前くらいなら十分だろう」
た、確かにモデル以外の事もするとは言ったけれど……これでは召使いのようだ。なかなか人使い荒いなあ……。
でも、これはお店のためでもあり、イライザさんのためでもある。初日でバテているようではこの先もやっていけない。がんばれ私。
そうして私も花咲きさんと同じホットサンドとスープで昼食を済ませた後、早速台所の掃除に取り掛かる。
私も掃除苦手なんだけどなあ……
奮闘する私をよそに、花咲きさんはアトリエで別の絵を描いているらしく、手伝ってもくれなかった。というか、関心がないみたいだった。
本当に絵の事以外興味ないらしい。いっそ清々しい。
その間に私も無になって掃除に集中し、数時間後には半分ほど片付いてきた。
と、何かがカサカサと素早く目の端を横切った。
ヤツだ。
黒光りするボディ、6本足に頭部から生えた蠢く触覚。生理的に嫌悪を抱くあの見た目。間違いない。頭文字Gの私の大嫌いなあの虫!
視界に入ってくると同時に、今にも飛び立ってこちらに向かってきそうな恐怖を覚え、咄嗟に手近の鍋を上から被せて閉じ込めると、私は花咲きさんのアトリエへと飛び込む。
「花咲きさん! お台所に虫……虫が!」
「それは虫くらい出るだろう」
訴えるも、なんでもないことのようにスルーされそうになる。
「お、お願いします! お鍋の中に閉じ込めてあるので退治してください! 私、あの虫大嫌いなんですよ! このままじゃお料理できません!」
「不思議だな。猫であるお前のほうがはそういうのは得意なのではないのか? よく虫だとかネズミだとかを狩ってくるだろう?」
「無理ですよ! 私は生粋の猫じゃないんですから! 本体はか弱い乙女なんですから!」
必死に頼み込むと、花咲きさんはやっと重い腰を上げた。
「仕方ないな」
そう言うと、ゴミ箱らしき箱から厚手の紙を何枚か拾い出し、筒状に丸めるとお台所へと消えていった。
まさかあの紙を武器代わりに……? 花咲きさんって意外と武闘派なんだな。
しばらくすると「あっ、待て!」という声と走り回る音、床を何かが叩く騒々しい音がしばらく続く。
やがて一際大きな音がしたかと思うと、突然静かになった。
台所の入り口で様子を伺っていたわたしの元へ花咲きさんが戻ってきた。何かをやり遂げたような清々しい表情で。
「無事に退治したぞ。証拠に残骸を見るか?」
「見ません!」
恐る恐る台所に戻るとヤツの姿はなく、からっぽの鍋が床に辛がっていた。本当に退治してくれたみたいだ。胸をなでおろして掃除を再開する。
やがて長くも思える時を経て、やっとなんとか使用できるほどに台所が片付いた。
我ながらよくやった。素晴らしいぞ私。
さっそくどら焼き作りでも、と綺麗になったお台所を見回しながら、ある事に気付く。
材料がない。
古そうな食材や調味料は全部処分しようと、片っ端からゴミ用の袋に入れていったら何もなくなってしまったのだ。
最低限の調理器具や食器はあるが、さすがにこれでは花咲きさんも困るのでは? お茶に入れる砂糖すらないなんて。さすがに少しは補充しておいたほうがいいよね……。
「花咲きさん、ゴミを捨ててくるついでに買い物に行ってきますね」
机に向かって何かを制作しているらしき花咲きさんに一声かけるも、気もそぞろに「ああ」という返事が返ってくるだけだった。
外にでると、既に空がオレンジ色に染まりかけていた。
これは今日中にどら焼きの試作品を作るのは難しいかも……買い物だけで終わってしまいそうだ。イライザさん、ごめんなさい。と、心の中で謝る。
とりあえず最低限の食材や調味料を買い込んで戻ってくると、花咲きさんが何枚かの紙を見せてきた。簡単な丸や四角がいくつも配置されたそれには、小さく説明文も書かれている。
「メニュー表のデザイン案だ。どれがいいか選べ」
どうやらレイアウトを考えてくれていたようだ。さっそく約束を守ってくれるとは。
「す、すみません。私なんてモデルの仕事もちゃんとできていないっていうのに……メニュー表の案はこちらで一旦持ち帰らせて頂けますか? マスターとも相談したいので」
「ああ、構わない。それよりお前は例のどら焼きとやらを作らなくていいのか?」
「ええと、今日はもう遅いので、次の機会にしようかなと……それよりお腹減ってませんか? 簡単なものでよければ作りますけど、どうします?」
「なんだ。それなら適当に出来合いのものを買ってきてくれれば構わないというのに」
「あ、もちろん出来合いのものも買ってきましたよ。ただ、それだけじゃ味気ないかなと思いまして。食べるならお台所借りますけど……」
「ああ、そういう事なら頼む」
この世界では薪で火を起こすタイプのかまどが主流らしい。銀のうさぎ亭で一通りの仕事は教えて貰ったので、なんとか使い方はわかる。早速料理しようと火を起こす。
フライパンを熱して、時間短縮のために買ってきた出来合いのチキンライスを投入する。
チキンライスが温まったところでお皿に移し、形を整えると、再度綺麗にして熱したフライパンにバターを入れる。
そこに泡立て器で混ぜた卵を流し込む。手早くオムレツを形成したところで先程のチキンライスの上に乗せて、ナイフで左から右にさっと切れ目を入れると、半熟の卵がチキンライスを覆う。
できた。オムライス。母が時々作ってくれたっけ。ちょっと懐かしい。
「お待たせしました。お食事できましたよ」
とお皿を持って行ったものの、ダイニングテーブルらしきものはない。いつもどこで食べてるんだろう?
「こちらに持ってきてくれ」
と、花咲きさんは仕事用の机に私を呼ぶ。
まさかここで食べるのかな。仕事用の机でご飯を食べるなんて、仕事熱心な会社員みたいだ。
「なんだ。一人分しかないぞ。お前は食べないのか?」
「私は職場で賄いが出るので大丈夫です。お気になさらず食べちゃってください」
言いながら、椅子を持ってきて花咲きさんの近くに腰掛ける。
「……そんなに近くで見られると食べづらいんだが」
「えー、だって、自分の作った料理を誰かが食べる時の反応って気になるじゃないですか。それに、前にサンドイッチを食べてた時は、花咲きさんはそんな事気にしてなかったのに」
「あの時は周りを意識するほどの余裕がなかったからだ。しかしこのオムライス、上に何か書いてあるな」
「あ、猫です。ケチャップで描きました」
「猫? これが?」
「ほら、ここが耳で、これが目で……」
説明すると、花咲きさんは「なるほど」と頷く。
「林檎のうさぎやらケチャップの猫やら、お前は面白い事を考えるな」
言いながらオムライスを口に運ぶ。
「……このオムレツ、不思議な味がする」
「あ、それは卵にコーンポタージュスープを混ぜたんですけど……おいしくなかったですか?」
「いや、うまい。こういう味付けもあるんだな。初めて知ったぞ。黒猫娘。お前なかなか料理が上手いではないか」
やった。褒められた! もっとも、メインのチキンライスは出来合いなのだが。それでも嬉しい。
なんだか嬉しそうにオムライスを食べる花咲きさんを見ていると、自分の空腹感はどうでもよくなってゆくような気がした。
◇◇◇◇◇
「それじゃあ、マスターと相談して、どのレイアウトがいいか次までにお知らせしますね」
「ああ、いい知らせを待っている。新たに考え直すのも手間だからな」
「決まったら、今度はお店にお料理を食べに来てくださいね。お代は頂きませんから」
「それは……つまり無料だという事か? なぜだ?」
不思議そうな花咲きさんにわたしは説明する。
「だってほら、実物のお料理を見ないとイラストも描けないじゃないですか。でも、こちらの希望で描いてもらうわけだし、ご馳走させていただくくらいじゃないと申し訳ないですよ。マスターには話を通しておくので」
「それはいいな。暫くまともな食事にありつける」
そうか。今回の件、花咲きさんはほとんどただ働きなのだ。報酬の代わりにわたしがモデルを務めるとはいえ、彼にお金が入ってくるわけではない。
なんだか急に申し訳なくなってきた。
お店に来た時はサービスで大盛にしよう。
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