上 下
144 / 145
その後のあれこれ

画家と家族 ※

しおりを挟む
 何度か瞬きを繰り返し、目の前のカンバスに描かれたものをぼんやりと認識した時、集中力が途切れがちになっているのを自覚した。
 こうなっては仕方ない。気分転換にコーヒーでも飲もうと部屋の外に出る。

 その時、ドアの半開きになった隣の部屋から話し声が聞こえた。
 暗い子ども部屋では、どうやら彼女が娘のルイーゼを寝かしつけているようだ。囁くような優しげな声が聞こえる。
 残念なことに娘の顔は認識できないが、どうやら外見の特徴は俺によく似ているらしい。無愛想なところまで似なければ良いのだが……


「ねえ、お母さん。どうしてお母さんは、毎日お父さんとあたしの似顔絵を描くの?」


 娘の声だ。いつも思うが、年齢の割に落ち着いた喋り方をしている。


「それはね、お父さんに見せるためなの。毎日のお父さんの顔とルイーゼの顔を知ってもらうの」

「顔なら普通に見ればいいのに」


 そう考えるのは自然なことだろう。
 娘の問いを受けて、彼女は暫し思案している様子だ。


「お父さんはね、なんていうか……ちょっと目が悪くて、ルイーゼの顔も、お父さん自身の顔もよく見えないの。だからわたしが二人の顔を描いて、それをお父さんに見せるの。こんな顔してるんだよって」


 本当のことを打ち明けても良いのだが、娘が事実を理解できる年齢になるまで伏せていようという彼女の提案で、そういうことになっている。


「そうなの……目が……」


 娘は束の間何かを考え込むように黙ったが


「わかったわ。それなら明日からあたしも描く。お父さんの絵」

「ほんと? きっとお父さんも喜んでくれるよ」

「それと、お母さんの似顔絵も」

「わたしも?」

「だって、お父さん、目が悪いのよね。それならお母さんの顔だってわからないはずだわ。そんなのかわいそう。お母さん、とってもきれいなのに。お父さんはそれも知らないのかしら。損してるわ」


 知っている。毎日顔に触れているうちに、彼女の顔だちが整っている事には気づいていた。きっとかなりの美人なのだろうと。それは別にしても、彼女の顔に興味がないといえば嘘だった。触れる事で得られる情報だけではもどかしいという気持ちもある。
 だから娘の提案には心が躍った。たとえ子供らしさが存分に表れた個性的な絵でも嬉しい。しかも彼女だけでなく俺の絵までも描いてくれるというのだから。
 先ほどまでの疲労感が嘘のように消えて、俺は思わず笑みをこぼした。

 部屋の中ではお喋りが終わったのか、何かの歌が聞こえてきた。子守唄かと思ったが、歌詞はない。しかしそのメロディには聞き覚えがあった。彼女が時々口ずさむウインナ・ワルツの曲だ。
 それを聞いて、初めて彼女と踊った時の事を思い出した。
 俺は少し緊張していて、手が冷たかった。それを気取られまいとして周囲にまで気が回らず、棚にぶつかりそうになったっけ。
 後になって「性別を確かめるために踊ったのか」と彼女に問われたが、うまく答えることができなかった。

 本当は、あのとき彼女の手を取ったのは、彼女と踊りたいと思ったからだ。
 けれど、それを正直に打ち明ける勇気がなかった。あの時は俺が一方的に彼女に好意を寄せているだけだと思っていたから。それを伝えて拒絶されるのが怖かった。彼女のような存在は他になく、再びそれを失いたくなかった。
 だから、咄嗟に言葉を濁してしまったのだ。

 それにあの直後に、俺と彼女の関係を大きく変える出来事があって、尚更伝える機会を逃してしまった。
 けれど、それを今更伝えたところで彼女も困惑するだろう。あの問いの答えはずっと俺の胸のうちにしまっておく事になりそうだ。

 先ほどまで聞こえていたメロディが途切れた。きっと娘が眠ったんだろう。
 俺はそっとドアを押し開ける。部屋の外からの灯りが大きく差し込んだのに彼女が気づいて、こちらを振り向く。


「フェルディオ。仕事は終わったの?」

「一息入れようと思って」


 ベッドに屈みこみ、寝入ったルイーゼの髪をそっと撫でると、柔らかな髪の感触が手に伝わる。俺と同じ色の髪の毛。
 天使のようだと思った。
 顔は分からずともこの世界で何よりも愛しい天使。
 それを与えてくれたのは、隣でベッドを覗き込んでいる彼女だ。
 それだけじゃない。何もかもを諦めかけていた俺に希望を与えてくれて、傍で支えてくれた。

 ルイーゼから手を離すと、今度は彼女のほうに手を伸ばす。
 指の背で頬を撫でると、彼女はくすぐったそうに首をすくめた。


「ルイーゼが起きちゃいます。そろそろ行きましょう。コーヒー淹れますね」


 小声で囁く彼女が俺の手をとり立ち上がらせる。
 俺達は物音を立てないようにルイーゼの部屋を後にした。

 コーヒーを飲みながら、ふと、以前彼女が俺に言ったことを思い出した。俺に肖像画を描いてもらわないか。彼女はそう言ったはずだ。
 俺だけじゃなく、家族みんなの肖像画を描いてもらうのはどうだろう。それなら彼女やルイーゼの正確な顔もわかる。幸い、俺の絵も最近は売れる事が増えたし、それくらいの余裕はあるはずた。
 そこまで考えて、ふと思い直す。
 いや、俺には毎日素晴らしい似顔絵を描いてくれる相手がいるじゃないか。それも二人も。
 それで充分、いや、過ぎるくらいに幸せだ。

 明日からの新たな楽しみに、密かに笑みを漏らしながら、コーヒーのカップに口を付けた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

密室島の輪舞曲

葉羽
ミステリー
夏休み、天才高校生の神藤葉羽は幼なじみの望月彩由美とともに、離島にある古い洋館「月影館」を訪れる。その洋館で連続して起きる不可解な密室殺人事件。被害者たちは、内側から完全に施錠された部屋で首吊り死体として発見される。しかし、葉羽は死体の状況に違和感を覚えていた。 洋館には、著名な実業家や学者たち12名が宿泊しており、彼らは謎めいた「月影会」というグループに所属していた。彼らの間で次々と起こる密室殺人。不可解な現象と怪奇的な出来事が重なり、洋館は恐怖の渦に包まれていく。

かれん

青木ぬかり
ミステリー
 「これ……いったい何が目的なの?」  18歳の女の子が大学の危機に立ち向かう物語です。 ※とても長いため、本編とは別に前半のあらすじ「忙しい人のためのかれん」を公開してますので、ぜひ。

無能力探偵の事件簿〜超能力がない?推理力があるじゃないか〜

雨宮 徹
ミステリー
2025年――それは人類にとって革新が起きた年だった。一人の青年がサイコキネシスに目覚めた。その後、各地で超能力者が誕生する。 それから9年後の2034年。超能力について様々なことが分かり始めた。18歳の誕生日に能力に目覚めること、能力には何かしらの制限があること、そして全人類が能力に目覚めるわけではないこと。 そんな世界で梶田優は難事件に挑む。超能力ではなく知能を武器として――。 ※「PSYCHO-PASS」にインスパイアされ、本や名言の引用があります。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

アナグラム

七海美桜
ミステリー
26歳で警視になった一条櫻子は、大阪の曽根崎警察署に新たに設立された「特別心理犯罪課」の課長として警視庁から転属してくる。彼女の目的は、関西に秘かに収監されている犯罪者「桐生蒼馬」に会う為だった。櫻子と蒼馬に隠された秘密、彼の助言により難解な事件を解決する。櫻子を助ける蒼馬の狙いとは? ※この作品はフィクションであり、登場する地名や団体や組織、全て事実とは異なる事をご理解よろしくお願いします。また、犯罪の内容がショッキングな場合があります。セルフレイティングに気を付けて下さい。 イラスト:カリカリ様 背景:由羅様(pixiv)

ミノタウロスの森とアリアドネの嘘

鬼霧宗作
ミステリー
過去の記録、過去の記憶、過去の事実。  新聞社で働く彼女の元に、ある時8ミリのビデオテープが届いた。再生してみると、それは地元で有名なミノタウロスの森と呼ばれる場所で撮影されたものらしく――それは次第に、スプラッター映画顔負けの惨殺映像へと変貌を遂げる。  現在と過去をつなぐのは8ミリのビデオテープのみ。  過去の謎を、現代でなぞりながらたどり着く答えとは――。  ――アリアドネは嘘をつく。 (過去に別サイトにて掲載していた【拝啓、15年前より】という作品を、時代背景や登場人物などを一新してフルリメイクしました)

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

処理中です...