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余命

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 完全にキレてしまった俺は、別室へと連れ込まれた。目の前からあいつがいなくなったら、今度は悲しくて堪らなくなった。
 彼氏ができたんだよ、と嬉しそうに笑っていた美海。自分を悲劇のヒーローにするために、あいつが美海を利用しようとしていたのだと知ったら、彼女はどんなに悲しむだろう。
 大粒の涙とともに、息が苦しくなる。かたん、とドアが開く音が聞こえたけれど、自分のことに必死で顔を上げることはできなかった。
 床にへたり込んでいる俺の隣に、あたたかい温もりを感じる。頭を優しく撫でてくれる小さなその手は、見なくても分かる。美海のものだった。

「なーぎちゃんっ。発作起こしてない? 大丈夫?」

 第一声がそれかよ。バカじゃないの、本当に。
 お前の彼氏、俺に殴られてるんだぞ。しかも訳もわからないまま突然に。
 それなのに、怒るより先に俺の体調の心配するのはおかしいだろ。美海はやっぱりちょっと、世間ズレしてると思う。
 美海の前では泣き声をあげたくなくて、必死に堪える。けれど、ときおり溢れてしまう嗚咽に、美海も気づいているのだろう。
 発作じゃないならよかった。そう言ってまだ頭を撫でてくる彼女は、きっと俺のことを子ども扱いしている。
 悔しい。あんな男より、絶対に俺の方が美海のことを好きなのに。誰よりも大切にするのに。俺ならいつだって、美海のことを笑顔にさせてみせるのに。

「なぎちゃーん」
「…………」
「結城凪斗くーん」

 美海がフルネームで、俺を呼ぶ。いつもはやめろって言ってもちゃん付けで呼ぶくせに、こういうときだけ凪斗くんと呼ぶのはずるいと思う。
 分かっていても顔をあげてしまうのは、そんな美海が好きだからだ。

「ありゃりゃ。おめめが真っ赤だ」
「…………赤くねぇし」
「手は? 殴ったって聞いたけど、怪我してない?」

 美海は俺の右手を確かめて、傷がないことを確認すると、ホッと息を吐いた。
 怒らないの、と訊くと、美海は首を傾げる。

「ん? なんで私が怒るの?」
「…………いや、だって……俺、美海の…………」

 言葉に詰まった。
 でもなんとか絞り出すように、「彼氏を殴ったわけだし」と言うと、美海はけらけらと笑ってみせた。

「ねー! びっくりしちゃった!」
「いや、笑うとこじゃねぇだろ……俺が言うのもアレだけど」

 美海は大きな目をやわらかく細めて、俺に笑いかける。

「だってなぎちゃんは自分のために怒らないもん。きっと私のこと悪く言われて怒った、とかそんな感じでしょ?」

 何でもお見通しのようだった。認めるのは悔しいけれど、それ以上に、美海が俺のことを信じてくれたことが嬉しい。
 村上を庇うつもりは毛頭ないけれど、あの言葉は美海には伝えたくない。絶対傷つけてしまうから。だから仕方なく、説明や言い訳を全て省いて、美海の言葉に同意する形で頷いた。

 不思議なことに、美海は嬉しそうだった。彼氏が自分のことを悪く言っていた、と分かっても、悲しそうなそぶりは見せない。
 理由を訊くと、なぎちゃんが私のために怒ってくれたことが嬉しいんだよ、と気の抜けた笑顔を向けてきた。

「…………美海」
「んー? どうしたの」
「あんなやつやめて、俺にしなよ」

 美海の目が戸惑いに揺れた。
 俺は勇気を振り絞って、美海の手に触れる。小さくて冷たい手。細くて折れてしまいそうな指。丸くてピンク色の爪。
 美海は入院患者なので、同世代の女の子のように、ネイルをしておしゃれをすることは出来ない。
 それならせめて、爪の形だけでもかわいくするんだ、と爪やすりで形を整えていることを俺は知っている。
 整えられた爪そのものよりも、そこに至るまでの美海の健気さが、愛おしいと思う。

 しばらく黙っていた美海が、珍しく困ったような顔で小さく呟いた。

「なぎちゃんは、だめだよ」

 振られた。十年あたためてきた想いをようやく伝えることができたのに、それはもうあっさりと、振られてしまった。
 今すぐ逃げ出してしまいたい。でも、震える声で理由を訊ねた。諦めたくなかったのだ。たとえ即答で断られるほど可能性がなかったとしても、美海を好きな気持ちを、捨ててしまいたくなかった。

「……なんで、俺じゃだめなの」

 美海の指先がぴくりと動いた。少し震えているのだと気がついた。
 勇気を出してなんで、ともう一度繰り返すと、美海は泣き出しそうな顔で笑った。

「だって私…………もうすぐ死んじゃうから」

 その言葉は、俺の耳から脳に届けられたはずなのに、意味が理解できなかった。顔を歪めて無理矢理笑みを作る美海を見て、少しずつ、その意味が染み込んでくる。

「なぎちゃんは優しいから……。私の人生があとちょっとって聞いてもきっと彼女にしてくれるし、大事にしてくれる」

 美海が何を言っているのか分からない。
 あとちょっとって何が。もうすぐ死ぬって、誰が。
 だって目の前の美海は、いつもと変わらず綺麗だ。少し高めの声も、俺に触れる優しい指先も、やわらかい笑顔も。全部いつも通りなのに。

「でも私が死んだら、なぎちゃん、きっと立ち直れないくらい泣いちゃうから」
「………………み、美海」
「だから、私もなぎちゃんのこと大好きだけど、…………ううん。大好きだから、付き合えないの」

 ね、と優しく笑う美海。
 どうしてそんな大事な話をしながらも、考えているのは俺のことばかりなのだろう。
 それでもかすかにその細い肩が震えていることに気がついて、腕の中に閉じ込める。ぎゅっと抱きしめると、美海は抵抗することなく、俺の背に手を回してくれた。

「………………余命宣告されたのなんて、知らなかった……」
「うん、私も。さっきだよ、ついさっき! あと三ヶ月ですって言われて、目の前真っ暗になって」

 それなのにね、なぎちゃんがケンカしたって聞いて、飛び出してきちゃった。
 美海がころころと笑う。美海が笑うたびに涙が溢れてきて、止まらない。たまらずにぐす、と鼻を鳴らすと、大丈夫だよぉ、と美海が背中を優しくたたいてくれる。
 これじゃあどっちが病人か分からない。

「ほら、私、大人になれないってずっと前から言われてたし、いつかこういう日がくるのは覚悟してたから……」

 少しだけ腕の中で身をよじって、美海が俺の顔を覗き込む。ね、と言い聞かせるように笑った瞬間、彼女の目から大粒の涙が溢れる。
 あれ、おかしいなぁ、と慌てたように顔を隠そうとするから、そのままもう一度腕の中に閉じ込める。

「いいよ、美海……泣いても」
「…………っ、でも……」
「俺しかいないから。抱きしめてるから、泣き顔も見えないよ」

 美海は泣いた。
 六歳の頃に出会って、そのときにはもう重い病に侵されていた美海。でも、彼女はいつも笑っていた。
 美海が泣くのを初めて見た。震えながら声を殺して泣き続ける美海が、どうか、一分一秒でも長く、幸せに生きられますように。そう願い続けた。
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