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亡霊からの奇襲
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「警察の取調べ、思ったよりは厳しくなかったよ」
八千代の家を出て、俺たちはなんとなく学校に戻ってきていた。紫紺色の校舎に囲まれて、裏庭ではしつこくセミの鳴き声が響いている。昼間の暑さがやわらぎ、涼しい風がプールを越えて髪をなでていった。
「もともと、警察は壮太を疑ってなかったんだと思う」
「そうか?」
ストーカーの八千代が、学校の屋上から飛び降りて死んだ。そして、死ぬ直前、ストーキングの被害者と一緒にいた。この二つだけで、俺なら被害者がなにかしたのではないか、と疑うだろう。ストーキングの加害者が女性で、被害者が男性だ。体格差もあるし、逆上して突き落としたという可能性も、ない話ではない。
「屋上には、ほかに誰かがいた形跡、なかったんだもんな」
「あぁ」
「壮太の指紋とか、なかったんだもんな」
含みのある言い方を続ける八千代。
屋上の手すりは、なかなかの高さだ。身長百八十センチ近い俺の肩に届く。よじ登らなければ、その向こうへは行けない。手袋でもしていない限り、指紋は必ず残るだろう。
「俺の指紋なんてあるはずないだろ」
「そーだねー」
八千代はどこか嬉しそうに、にこにこと笑っている。
「なんだよ」
いま俺たちは古臭いベンチに座っている。右隣で空を仰いでいる八千代の横顔は、いままで見たことがないほど安らかだった。生前、俺たちが一緒に過ごした時間は、一日にも満たない。むしろ、こいつが死んでからのほうが付き合いが長い。それでも、生前の八千代がこんな顔で空を見上げるなんて、一度もなかったんじゃないかと思えた。
「あたしは、背中から落ちてったんだよ」
「え……?」
「ゆっくり倒れるみたいにして落ちた。ゆっくりと、なんの抵抗もしないで、屋上を見つめながら落ちたんだ。他殺なら、そうはいかない。壮太が疑われるはずないんだ」
突然のことに、俺は息を呑んだ。空を見上げていた八千代の目が、すうっと流れる。流れて、俺の向こう側を見た。空に少し残った紫紺の輝きが、八千代の瞳に乗り移る。
「でも、あれほど怖かったのに、不思議なもんだ。変だよなあ? どうしてだろうなー?」
俺たちが座るベンチから数メートル。俺の背後。八千代が頭をかち割ったコンクリート。暗がりよりもなお黒く、歩道にこびり付いたシミ。どれほど掃除しても落ちないらしく、この学校の七つめの怪異譚になっている。それは、あまりにも生々しい話だった。先日まで一緒に授業を受けていた女生徒の怪談。
「お前……、思い出したのか?」
俺の目の前には、まさにその怪談の主役たる女生徒がいる。さすがに、最初は逃げた。だが、いまとなっては怖いことなどなかった。
いま、俺は後頭部を誰かに見つめられているような気配に襲われている。それは、気のせいであるはずだ。そうでなければおかしい。シミの原因は俺の目の前にいる。俺を見ているし、俺も見ている。だから、後ろから見られている感覚など、ただの気のせいだ。
思い出したよ、壮太。
ぞぶぞぶと、脳みそに沈み込んでくるような八千代の声。彼女の口元はきつく結ばれたままだ。直接、耳の中に語りかけられ、俺はいまにも逃げ出しそうになった。
学校の七不思議が誕生したこの場所に、なんの恐れもなく近づけたのは、八千代がそばにいたからだ。原因がそばで笑っていてくれることほど、心強いものはなかった。
「全部、なのか?」
そのとき、疎らに設置されている裏庭の電灯がともった。省エネのためか、すべてが点いたわけではないようだ。相変わらず裏庭は薄暗い。
「う、うぁあ……。壮太、あたし思い出してる。どんどん思い出してるぞ……!」
どこか苦しそうな表情に変わった八千代が、こちらへにじり寄ってくる。幽霊だとは思えないほど、その顔は上気していて、息が荒い。真一文字に引き結ばれた口は、いまにも愛か呪いの言葉を紡ぎそうだった。
八千代の瞳は、記憶の奔流に弄ばれているかのごとく小刻みに震えている。
「おい、八千――」
「あーーーーッ!」
どっ、と八千代が鳩尾に頭を突っ込んできた。果てしない違和感が体を突き抜け、嘔吐感が食道を駆け上がってくる。
「ああー! 恥ずかしい! はぁずがじぃぃぃ! ぢぬー!」
「なんべん死ぬんだよ。……あぁ、あー、やめろ吐く」
八千代の拳が繰り返し俺の鳩尾や顔面にめり込む。
「なあ、ズボズボすんのやめてくれます? 吐きそうなんだけど……」
聞こえているのかいないのか、八千代はベンチから頭を抱えて転げ落ちた。
「軽薄で、自堕落なものに憧れたんだ……、じゃねえよ! 漂ってる……、じゃねえよ! バカかーーーッ!」
どうやら、自分が死にたがっていた理由を思い出したらしい。過去からの羞恥心に転がり続ける八千代。過去というのは、幽霊の足にすら絡みつく。俺はそれをただ黙って見つめていた。とても、優しくて穏やかな気持ちであふれている。吐き気など、どこかへ行ってしまった。
「壮太をストーキングする気持ちは、まあ分かるけど……」
「そこは変わらねえのかよ」
「まあ、あれはやりすぎだけどな」
幽霊の八千代は、生前の八千代とはかけ離れている。記憶を取り戻したとしても、それはたぶん変わらないだろう。すべてから開放され、なんのしがらみも無く、奔放に振舞うことのできる“もしも”の八千代。ずっと焦がれていた、軽薄で自堕落な八千代だ。
「なあ、八千代。自分の知らない自分を見つめなおすときの気分はどんなだ?」
「このザマだよ!! ケンカ売ってんのか!」
可笑しくて、本当に可笑しくて、俺は笑い転げた。まだ深い時間ではない。居残っている生徒も教師もいるだろう。それでも、笑いはとめられなかった。紫紺に沈んだ裏庭で、俺は心の底から笑った。声も出なくなるほど、笑い転げた。
「笑ってんじゃねえよ!」
やめろ、と八千代が覆いかぶさってきても、俺の笑いはとまらなかった。腹がよじれて痛い。笑いすぎで死ぬかも知れない。
生前の腐り果てた八千代。そいつを自分で死ぬほど恥ずかしいと思えるのなら、死んだ甲斐があったと心から思えるだろう。
「よかった。ホントによかったよ」
「な、なんだよ……。壮太のそういう笑顔、知らなかったな」
ばち、と八千代に両手で顔を挟まれる。
「や、やめろテメー。向こうで吐け……!」
んふ、と笑った八千代の唇は、綺麗な三日月の形をしていた。
「んー、肝心なことが思い出せないんだわ」
俺にヘッドバッドをくらわした八千代は、難しい顔をしてベンチに戻った。
「……まだなにかあるのか?」
口に残る違和感を気にしながら、俺もベンチに座りなおす。八千代の言う肝心なこととは、思い出さなくてもいいことだと俺は思っている。たぶん、そこは肝心ではない。
「やっぱ、まだなにか隠してんなー。この期に及んでまだ隠すとは、さてはヘタレか」
「うるせえな」
分かってはいる。この八千代に限ってそれはないと、ちゃんと分かっている。だが、たしかに俺は怯えている。ヘタレている。返す言葉が見つからない。
「あたしは、屋上の誰を見つめながら落ちたんだ?」
「月でも眺めながら落ちたんだろ」
「はい嘘。さっき嘘の味がしたもん」
ぺろぺろと自分の唇をなめる八千代。
「最低ですね」
「壮太くん、ガチで引かないで」
俺のなかの幽霊像をことごとく破壊していく八千代。しかし、幽霊として現れたのには、やはりそれなりの理由があったのではないか。いわゆる、心残りというやつだ。
あの日からずっと抱えてきた罪の意識が、右肩の重みが、一抹の不安となって心残りと重なるのだ。幽霊は最初から、俺を殺すための理由を探していたのではないか。過去の記憶を探り、“恨めしや”を取り戻したとき、俺は死ぬのかも知れない。そんな不安が心の片隅で燻り続けていた。
「言え、壮太」
八千代はもう勘付いているはずだ。それでも、俺をどうにもしないのだから、やはり大丈夫だ。俺の考えすぎだったのだ。慣れない出来事の連続で、俺は神経質になっていただけだ。ならば、もう隠すこともないだろう。
「……お前は、俺を見つめながら落っこちていった。俺がお前を落としたんだ」
「人殺し」
「そ……」
八千代の言葉に、心臓が飛び跳ねる。二つに割れて、両耳の内側に張り付いた。
人殺し。
「そ、それは。だって、お前……」
銅鑼を鳴らされたみたいに、大きく頭に響いたその言葉。そして、乱反射する残響のように、幾度も、幾重にも、頭のなかへ叩きつけられる。
人殺し。人殺し。人殺し人殺し人殺し人殺し。人殺し。
隣を見ることができない。首が固まって動こうとしなかった。気が付けば、俺の右肩になにかが重くのしかかっている。そして、冷たい感触が背中を突き破り、俺の左胸に侵入した。
「うあ……! あっ」
白い腕が、俺の左胸から突き出ている。心臓をもぎ取られたような心地だった。もはや完全に暮れた裏庭。電灯にぼんやりと照らされた白い腕。やはり、八千代は幽霊だった。どんな理由があれど、此岸の理屈が彼岸にも通ずるなど、思ってはいけなかったのだ。此岸の俺には理解することもできない道理で、八千代は彼岸から舞い戻ったのだ。俺を殺すために。
右の耳元でほくそ笑む息遣いが感じられた。生前の、死んでいるような八千代の笑顔を思い出す。この世に恨みを抱き、その本懐を遂げた瞬間の笑顔。骨身に染みる、致命的な笑顔。
「やっぱり壮太だった。壮太があたしを突き落としたんだなあ。なあ、どんな気分だった?」
全身が寒気に覆われ、いくら夜だといっても、夏とは思えないほど俺は震えていた。冷たい汗がだらだらと流れ始め、呼吸も覚束ない。この高校に出来たばかりの七不思議。俺が、最初で最後の犠牲者になるのだろうか。
「うお、やべっ……」
ずぼっと腕が消える。
「ごめん、壮太。やりすぎたわ……、ダイジョブ?」
突然の開放感に、忘れていた呼吸が急激に戻ってくる。喉が奇怪な音を発して、貪るように酸素を取り込んだ。まるで水攻めの拷問から救われた捕虜だ。俺は芝生の上に這いつくばって、しばらく咳き込みながら呼吸を整える。息が楽になるにつれ、じわじわと怒りがわいてきた。
「冗談になってねえんだよクソ女!」
苦しさと安堵と怒りで、目の端から涙がこぼれてくる。
「ごめんってー。あー……、よしよし。泣くことねえだろ」
「泣くだろ……、こんなもん」
「あたしが壮太を恨むわけない」
「知ってるわ! 分かってたよ。でも、お前幽霊だろ。もしかしたらって、ずっと心の端っこで考えてたんだよ……」
ふへへへ、と八千代は笑う。俺の頭を抱きかかえながら、「壮太のお姉ちゃんもアリだな」などと気持ちの悪いことを言う。
「ねえよ。お前、もう死んでるから。俺が殺したから」
「うん。あたしは、屋上の壮太を見つめながら落ちていったんだ。うん。これで、全部分かったよ」
あの日、手すりを越えさせるため、八千代に俺の右肩を踏み台にしてもらった。食い込んだ足の感触。篝八千代という人間の重みが、右肩に張り付いて消えてくれなかった。
ずっと俺は怯えていた。人を殺してしまったという倫理的な罪悪感。八千代を殺したこと自体は、いまでも間違っているとは思っていない。法的な問題、他所からの倫理的な呵責などクソくらえだった。だから、俺自身の倫理的な罪悪感も大したことはないと思っていた。しかし、俺が思っていた以上に、それは俺を苛んだ。
篝八千代が怖くて断りきれなかった。だから、彼女の家に行ったし、一緒にハンバーガーショップにも行った。俺は、警察にそうやって嘘までついて、人殺しの事実から逃げてきた。自首したくなったらいつでも罪を告白できるようにと、証拠になりそうな屋上の鍵まで隠し持って、俺は逃げ続けた。八千代が死んでから、俺は一度も屋上には行っていない。
「壮太、ごめんね。もう平気?」
「あぁ……、大丈夫だ。まったく、お前はそんなイタズラ好きだったのか」
「んー。覚えはないなあ。幽霊の性みたいなもんかも知れないな。なんか、驚かせずにはいられないんだ」
「嘘だろ……。まじか。だから、あいつら普通に登場できねえのか」
「いや、知らんけど。なんすかそれ。……待って、だれか来た!」
しっ、と八千代は口元に人差し指をあてた。別に隠れるようなことはなにもしていないが、反射的に俺は黙って息を潜めてしまう。
裏庭に面した校舎は特別教室ばかりで、明かりは点いていない。その暗い廊下を、小さな懐中電灯らしき光がさまよっていた。
そして、ちょうど俺たちが座っているベンチの後ろ、一階の廊下の窓がゆっくりと引き開けられた。
八千代の家を出て、俺たちはなんとなく学校に戻ってきていた。紫紺色の校舎に囲まれて、裏庭ではしつこくセミの鳴き声が響いている。昼間の暑さがやわらぎ、涼しい風がプールを越えて髪をなでていった。
「もともと、警察は壮太を疑ってなかったんだと思う」
「そうか?」
ストーカーの八千代が、学校の屋上から飛び降りて死んだ。そして、死ぬ直前、ストーキングの被害者と一緒にいた。この二つだけで、俺なら被害者がなにかしたのではないか、と疑うだろう。ストーキングの加害者が女性で、被害者が男性だ。体格差もあるし、逆上して突き落としたという可能性も、ない話ではない。
「屋上には、ほかに誰かがいた形跡、なかったんだもんな」
「あぁ」
「壮太の指紋とか、なかったんだもんな」
含みのある言い方を続ける八千代。
屋上の手すりは、なかなかの高さだ。身長百八十センチ近い俺の肩に届く。よじ登らなければ、その向こうへは行けない。手袋でもしていない限り、指紋は必ず残るだろう。
「俺の指紋なんてあるはずないだろ」
「そーだねー」
八千代はどこか嬉しそうに、にこにこと笑っている。
「なんだよ」
いま俺たちは古臭いベンチに座っている。右隣で空を仰いでいる八千代の横顔は、いままで見たことがないほど安らかだった。生前、俺たちが一緒に過ごした時間は、一日にも満たない。むしろ、こいつが死んでからのほうが付き合いが長い。それでも、生前の八千代がこんな顔で空を見上げるなんて、一度もなかったんじゃないかと思えた。
「あたしは、背中から落ちてったんだよ」
「え……?」
「ゆっくり倒れるみたいにして落ちた。ゆっくりと、なんの抵抗もしないで、屋上を見つめながら落ちたんだ。他殺なら、そうはいかない。壮太が疑われるはずないんだ」
突然のことに、俺は息を呑んだ。空を見上げていた八千代の目が、すうっと流れる。流れて、俺の向こう側を見た。空に少し残った紫紺の輝きが、八千代の瞳に乗り移る。
「でも、あれほど怖かったのに、不思議なもんだ。変だよなあ? どうしてだろうなー?」
俺たちが座るベンチから数メートル。俺の背後。八千代が頭をかち割ったコンクリート。暗がりよりもなお黒く、歩道にこびり付いたシミ。どれほど掃除しても落ちないらしく、この学校の七つめの怪異譚になっている。それは、あまりにも生々しい話だった。先日まで一緒に授業を受けていた女生徒の怪談。
「お前……、思い出したのか?」
俺の目の前には、まさにその怪談の主役たる女生徒がいる。さすがに、最初は逃げた。だが、いまとなっては怖いことなどなかった。
いま、俺は後頭部を誰かに見つめられているような気配に襲われている。それは、気のせいであるはずだ。そうでなければおかしい。シミの原因は俺の目の前にいる。俺を見ているし、俺も見ている。だから、後ろから見られている感覚など、ただの気のせいだ。
思い出したよ、壮太。
ぞぶぞぶと、脳みそに沈み込んでくるような八千代の声。彼女の口元はきつく結ばれたままだ。直接、耳の中に語りかけられ、俺はいまにも逃げ出しそうになった。
学校の七不思議が誕生したこの場所に、なんの恐れもなく近づけたのは、八千代がそばにいたからだ。原因がそばで笑っていてくれることほど、心強いものはなかった。
「全部、なのか?」
そのとき、疎らに設置されている裏庭の電灯がともった。省エネのためか、すべてが点いたわけではないようだ。相変わらず裏庭は薄暗い。
「う、うぁあ……。壮太、あたし思い出してる。どんどん思い出してるぞ……!」
どこか苦しそうな表情に変わった八千代が、こちらへにじり寄ってくる。幽霊だとは思えないほど、その顔は上気していて、息が荒い。真一文字に引き結ばれた口は、いまにも愛か呪いの言葉を紡ぎそうだった。
八千代の瞳は、記憶の奔流に弄ばれているかのごとく小刻みに震えている。
「おい、八千――」
「あーーーーッ!」
どっ、と八千代が鳩尾に頭を突っ込んできた。果てしない違和感が体を突き抜け、嘔吐感が食道を駆け上がってくる。
「ああー! 恥ずかしい! はぁずがじぃぃぃ! ぢぬー!」
「なんべん死ぬんだよ。……あぁ、あー、やめろ吐く」
八千代の拳が繰り返し俺の鳩尾や顔面にめり込む。
「なあ、ズボズボすんのやめてくれます? 吐きそうなんだけど……」
聞こえているのかいないのか、八千代はベンチから頭を抱えて転げ落ちた。
「軽薄で、自堕落なものに憧れたんだ……、じゃねえよ! 漂ってる……、じゃねえよ! バカかーーーッ!」
どうやら、自分が死にたがっていた理由を思い出したらしい。過去からの羞恥心に転がり続ける八千代。過去というのは、幽霊の足にすら絡みつく。俺はそれをただ黙って見つめていた。とても、優しくて穏やかな気持ちであふれている。吐き気など、どこかへ行ってしまった。
「壮太をストーキングする気持ちは、まあ分かるけど……」
「そこは変わらねえのかよ」
「まあ、あれはやりすぎだけどな」
幽霊の八千代は、生前の八千代とはかけ離れている。記憶を取り戻したとしても、それはたぶん変わらないだろう。すべてから開放され、なんのしがらみも無く、奔放に振舞うことのできる“もしも”の八千代。ずっと焦がれていた、軽薄で自堕落な八千代だ。
「なあ、八千代。自分の知らない自分を見つめなおすときの気分はどんなだ?」
「このザマだよ!! ケンカ売ってんのか!」
可笑しくて、本当に可笑しくて、俺は笑い転げた。まだ深い時間ではない。居残っている生徒も教師もいるだろう。それでも、笑いはとめられなかった。紫紺に沈んだ裏庭で、俺は心の底から笑った。声も出なくなるほど、笑い転げた。
「笑ってんじゃねえよ!」
やめろ、と八千代が覆いかぶさってきても、俺の笑いはとまらなかった。腹がよじれて痛い。笑いすぎで死ぬかも知れない。
生前の腐り果てた八千代。そいつを自分で死ぬほど恥ずかしいと思えるのなら、死んだ甲斐があったと心から思えるだろう。
「よかった。ホントによかったよ」
「な、なんだよ……。壮太のそういう笑顔、知らなかったな」
ばち、と八千代に両手で顔を挟まれる。
「や、やめろテメー。向こうで吐け……!」
んふ、と笑った八千代の唇は、綺麗な三日月の形をしていた。
「んー、肝心なことが思い出せないんだわ」
俺にヘッドバッドをくらわした八千代は、難しい顔をしてベンチに戻った。
「……まだなにかあるのか?」
口に残る違和感を気にしながら、俺もベンチに座りなおす。八千代の言う肝心なこととは、思い出さなくてもいいことだと俺は思っている。たぶん、そこは肝心ではない。
「やっぱ、まだなにか隠してんなー。この期に及んでまだ隠すとは、さてはヘタレか」
「うるせえな」
分かってはいる。この八千代に限ってそれはないと、ちゃんと分かっている。だが、たしかに俺は怯えている。ヘタレている。返す言葉が見つからない。
「あたしは、屋上の誰を見つめながら落ちたんだ?」
「月でも眺めながら落ちたんだろ」
「はい嘘。さっき嘘の味がしたもん」
ぺろぺろと自分の唇をなめる八千代。
「最低ですね」
「壮太くん、ガチで引かないで」
俺のなかの幽霊像をことごとく破壊していく八千代。しかし、幽霊として現れたのには、やはりそれなりの理由があったのではないか。いわゆる、心残りというやつだ。
あの日からずっと抱えてきた罪の意識が、右肩の重みが、一抹の不安となって心残りと重なるのだ。幽霊は最初から、俺を殺すための理由を探していたのではないか。過去の記憶を探り、“恨めしや”を取り戻したとき、俺は死ぬのかも知れない。そんな不安が心の片隅で燻り続けていた。
「言え、壮太」
八千代はもう勘付いているはずだ。それでも、俺をどうにもしないのだから、やはり大丈夫だ。俺の考えすぎだったのだ。慣れない出来事の連続で、俺は神経質になっていただけだ。ならば、もう隠すこともないだろう。
「……お前は、俺を見つめながら落っこちていった。俺がお前を落としたんだ」
「人殺し」
「そ……」
八千代の言葉に、心臓が飛び跳ねる。二つに割れて、両耳の内側に張り付いた。
人殺し。
「そ、それは。だって、お前……」
銅鑼を鳴らされたみたいに、大きく頭に響いたその言葉。そして、乱反射する残響のように、幾度も、幾重にも、頭のなかへ叩きつけられる。
人殺し。人殺し。人殺し人殺し人殺し人殺し。人殺し。
隣を見ることができない。首が固まって動こうとしなかった。気が付けば、俺の右肩になにかが重くのしかかっている。そして、冷たい感触が背中を突き破り、俺の左胸に侵入した。
「うあ……! あっ」
白い腕が、俺の左胸から突き出ている。心臓をもぎ取られたような心地だった。もはや完全に暮れた裏庭。電灯にぼんやりと照らされた白い腕。やはり、八千代は幽霊だった。どんな理由があれど、此岸の理屈が彼岸にも通ずるなど、思ってはいけなかったのだ。此岸の俺には理解することもできない道理で、八千代は彼岸から舞い戻ったのだ。俺を殺すために。
右の耳元でほくそ笑む息遣いが感じられた。生前の、死んでいるような八千代の笑顔を思い出す。この世に恨みを抱き、その本懐を遂げた瞬間の笑顔。骨身に染みる、致命的な笑顔。
「やっぱり壮太だった。壮太があたしを突き落としたんだなあ。なあ、どんな気分だった?」
全身が寒気に覆われ、いくら夜だといっても、夏とは思えないほど俺は震えていた。冷たい汗がだらだらと流れ始め、呼吸も覚束ない。この高校に出来たばかりの七不思議。俺が、最初で最後の犠牲者になるのだろうか。
「うお、やべっ……」
ずぼっと腕が消える。
「ごめん、壮太。やりすぎたわ……、ダイジョブ?」
突然の開放感に、忘れていた呼吸が急激に戻ってくる。喉が奇怪な音を発して、貪るように酸素を取り込んだ。まるで水攻めの拷問から救われた捕虜だ。俺は芝生の上に這いつくばって、しばらく咳き込みながら呼吸を整える。息が楽になるにつれ、じわじわと怒りがわいてきた。
「冗談になってねえんだよクソ女!」
苦しさと安堵と怒りで、目の端から涙がこぼれてくる。
「ごめんってー。あー……、よしよし。泣くことねえだろ」
「泣くだろ……、こんなもん」
「あたしが壮太を恨むわけない」
「知ってるわ! 分かってたよ。でも、お前幽霊だろ。もしかしたらって、ずっと心の端っこで考えてたんだよ……」
ふへへへ、と八千代は笑う。俺の頭を抱きかかえながら、「壮太のお姉ちゃんもアリだな」などと気持ちの悪いことを言う。
「ねえよ。お前、もう死んでるから。俺が殺したから」
「うん。あたしは、屋上の壮太を見つめながら落ちていったんだ。うん。これで、全部分かったよ」
あの日、手すりを越えさせるため、八千代に俺の右肩を踏み台にしてもらった。食い込んだ足の感触。篝八千代という人間の重みが、右肩に張り付いて消えてくれなかった。
ずっと俺は怯えていた。人を殺してしまったという倫理的な罪悪感。八千代を殺したこと自体は、いまでも間違っているとは思っていない。法的な問題、他所からの倫理的な呵責などクソくらえだった。だから、俺自身の倫理的な罪悪感も大したことはないと思っていた。しかし、俺が思っていた以上に、それは俺を苛んだ。
篝八千代が怖くて断りきれなかった。だから、彼女の家に行ったし、一緒にハンバーガーショップにも行った。俺は、警察にそうやって嘘までついて、人殺しの事実から逃げてきた。自首したくなったらいつでも罪を告白できるようにと、証拠になりそうな屋上の鍵まで隠し持って、俺は逃げ続けた。八千代が死んでから、俺は一度も屋上には行っていない。
「壮太、ごめんね。もう平気?」
「あぁ……、大丈夫だ。まったく、お前はそんなイタズラ好きだったのか」
「んー。覚えはないなあ。幽霊の性みたいなもんかも知れないな。なんか、驚かせずにはいられないんだ」
「嘘だろ……。まじか。だから、あいつら普通に登場できねえのか」
「いや、知らんけど。なんすかそれ。……待って、だれか来た!」
しっ、と八千代は口元に人差し指をあてた。別に隠れるようなことはなにもしていないが、反射的に俺は黙って息を潜めてしまう。
裏庭に面した校舎は特別教室ばかりで、明かりは点いていない。その暗い廊下を、小さな懐中電灯らしき光がさまよっていた。
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もっと書きたいと思ったのでできる限り書きます。
こういう展開が良いなどあれば、教えて頂けると助かります。
頑張りますのでよろしくお願いします。
まだまだ、投稿初心者なので投稿予定の話を少しずつ手直しを頑張っています。
カクヨムで公開停止になる前の情報
ブックマーク:1,064
PV数 :244,365PV
☆星 :532
レビュー :212
♡ハート :5,394
コメント数 :134
皆さま、ありがとうございました。
再度アップしましたが、カクヨムを撤退しました。
ブックマーク:332
PV数 :109,109PV
☆星 :183
レビュー :68
♡ハート :2,879
コメント数 :25
カクヨムではありがとうございました。
おしっこ我慢が趣味の彼女と、女子の尿意が見えるようになった僕。
赤髪命
青春
~ある日目が覚めると、なぜか周りの女子に黄色い尻尾のようなものが見えるようになっていた~
高校一年生の小林雄太は、ある日突然女子の尿意が見えるようになった。
(特にその尿意に干渉できるわけでもないし、そんなに意味を感じないな……)
そう考えていた雄太だったが、クラスのアイドル的存在の鈴木彩音が実はおしっこを我慢することが趣味だと知り……?
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