勇者は浮気する

仁科

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勇者は浮気する 5

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 勇者は椅子に座り込んでいた。寝られる気がしないのである。もう朝も近づいてくる。それでも眠気は現れない。彼には不安要素が大きすぎた。なんと言ったって、浮気したのだ。れっきとした、道徳的にこれ以上ないほどの悪行を働いてしまったのだ。

 俺は勇者だ。心で自覚してみる。いや、これではいけない。考えれば考えるほど、自分がとんでもないことをしてしまったのだと現実に感じてしまう。いっそのことカミングアウトして謝ろうか。そんなことも考えてみたが、これはだめだ。今はもう、浮気がバレてしまえば一貫の終わりなのだ。

「よし」

 彼は決心を固めた。この浮気、何が何でも包み隠してみせる。

「助けてくれ! このとおりだ!!」

 勇者の額が、酒臭い床にこすりつく。土下座された側にとっては、なんとも見ていられない光景だ。

「なに、どうしたんだよ、こんな時間に顔出して」

 郊外の酒屋、朝早くに出かけた勇者と、夜遅くまで飲んでいた一人の男が対面する。

「助けてくれよ、お願いだ。なんとか話を聞いてくれ」

 男は呆れた様子で勇者の後頭部を眺める。それから一つ息をついて、一口酒を入れてから言った。

「お前に聞くような耳はねえよ」
「そこをなんとか」
「だめだ」
「今までのことは全部なかったことにするから」
「それでもだ」

 勇者は黙り込む。やはり、彼に聞くのは間違いだったかもしれない。しかし、ここが正念場。今持ちこたえなければ、自分の今後はない。

「じゃあ、これならどうだ」
「あ?」

 男は鋭い目つきで勇者を睨む。煙草の灰がポトリと落ち、灰皿にまた一つゴミを盛った。勇者は大きく空気を吸い込んだ。

「お前を俺とともに戦った仲間として表彰する!」

 胸を張る勇者とは対照的に、男はため息をついた。

「そんなことで俺がノコノコ出てくと思ったか?」
「え?」
「だいたい、俺がどうしてこんな生活をしてるかわかってんのか?」
「……まあ」
「まあ? 俺をこうした張本人のお前がその態度かよ。わかった、じゃあ今一度説明してやる」

 男は細い目をさらに細くして、眉にシワを寄せながら、説教するように言った。

「俺はお前に見捨てられたんだ。お前一人が、俺の手柄を横取りした。そのせいで俺はこんなザマだ。おかげで今じゃあ、冒険の話を飯代と宿代にしてくれるおっさんの酒屋で入り浸りよ」

 勇者は黙り込む。今度は何も言えないようだ。それに追い打ちをかけるように、男は続けた。

「俺はな、お前がこの世界からいなくならない限り、いや、お前がいたという記憶が俺の頭からなくならない限り、この酒屋から出ていかねえ」
「……それでも、お願いなんだ」
「お前のことなんざ知らねえ。お願いが叶わずにくたばっちまえばいいさ。勇者さんよお」
「そうか……。じゃあ言うだけ言わせてくれ」

 男は片目だけを勇者に寄せる。勇者は、先程とは打って変わって、見たこともないほど真剣な顔をしている。驚き混じりのタバコを吸い、一言、

「勝手にしろ」

 とだけ言い捨てた。勇者は安心したように、また小さく、苦笑いにも見えるような笑顔を取り戻した。

「俺さ……浮気しちゃったんだ」
「……は?」

 あまりの衝撃に、動きが止まる。同時に、口元のタバコが彼の口腔に飛び込んだ。そいつが喉に達した途端、耐え難い熱さと煙が、首を突き刺されたかのような感覚が炸裂した。

 かなり高度なカウンター攻撃に、吐き気を伴った咳が追い打ちをかける。それを見た勇者はあたふたしながら声をかける。

「大丈夫か!」
「背中を叩いてくれ」

 剣術に鍛えられた右手が、背中めがけて平手打つ。咳と平手打ちのリズムにごちゃごちゃになった喉から、短いタバコがようやく脱出した。

 しばらくして咳が止むと、男は椅子にもたれかかった。勇者はまた、心配そうな顔で聞く。

「どうしたんだよ、突然」
「うるせえ気にするな。そんなことより話を続けろ」
「え?」

 思いにもなかった言葉に、ほんのしばらく思考が停止する。

「だから、さっきの話を続けろって。なんだ、浮気?」
「……うん」
「あ? 乗り気じゃねえのか。だったら俺も聞いてやんねえぞ」
「わかったわかった、話すよ。話すけど、でもどうして急に聞きたくなったんだ」

 勇者は単純に疑問をぶつける。大して男は、当たり前だというふうな態度で答えた。

「興味が湧いたんだ。俺には、人の話に興味を持つことすら許されないのか?」
「いや、そういうことじゃないけど」
「だったら話せ。全部話しきるまでここから返さん。分かったな」
「……ああ、それなら良かった、じゃあ聞いてくれ」
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