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第1章 高橋奈津美 - 夏の妖精

第4話 彼女のお礼

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 文化祭は大盛況のうちに終わり、あっという間に夏休みを迎えた。
 夏休みは課外講習に始まり、多く出される宿題と部活動であっという間に過ぎていった。その目まぐるしさは高橋さんのことを思い出す余裕がないほどだった。しかし、宿題だけは早めに終わらせるように心がけていたのでそこは問題なかった。
 問題があるとすれば、幼なじみの柚希との関係だ。夏休みに入ってからというもの、柚希が部屋に居ないことが目に見えて多くなった。最初は友達の家へ遊びに行ったのだろうと思っていたけれど、その頻度はやはりおかしいと言わざるを得なかった。
 そうして柚希と会わない日が増え、一体何があったのだろうと思っているうちに夏休みが終わった。その後も会わない日が続いたが、一昨日の土曜日になって柚希から「近所の公園に来てほしい」との連絡があった。わざわざ公園に呼び出すところから大事な話でもあるのだろうと思い、もしかしてという淡い期待を抱きながら僕は近所の公園へ向かった。
 結論から言えば、予想していた通り大事な話はされた。しかし、僕の淡い期待は見事に打ち砕かれた。

「私、沼倉ぬまくら君と付き合うようになったの」

 その言葉はあまりにもショックだった。柚希が付き合うようになったというのは、僕たちと同じ吹奏楽部の部員である沼倉ぬまくらわたるだ。韓流アイドルのような美形という点から女子人気はとても高く、柚希が惚れるのも仕方ないと思った。夏の甲子園の予選でも女子たちからちやほやされている姿を見かけていたのだから。

「そ、そうなんだ……。おめでとう」
「まぁ、別に優汰に言わなくても良かったんだけどね」
「それじゃあ、どうして呼び出してまでそのことを伝えたんだ?」
「面倒だけど、幼なじみだから。こうして会う機会を作って仲良さそうにしておかないと、お母さんから変に不仲を疑われて仲良くしなさいとかうるさいことを言われるから」
「えっ……」

 その言葉に少なからずショックを受けていると、柚希は小さくため息をついた。

「まぁ、これで幼なじみだからってことで優汰と一緒に居なくて良いと思うと嬉しいけどね」
「そ、それじゃあ中学の時に同じ部活動に入ったのって……」
「優汰と一緒の方がやりやすかったから。何もないところから交友関係を作るより、優汰を近くに置いといて幼なじみだって紹介すれば取っ掛かりが出来るから、それだけよ。それに、私はもう沼倉君とキスまで済ませているし、アンタが近くに居ると沼倉君が気を遣っちゃうから、今後は両親の前以外はあまり話しかけてこないで」

 それは、とても冷たいサヨナラだった。僕と柚希との関係はこれで終止符を打たれた。
 いつもなら『他人は他人、自分は自分』と思って細かいことは吹っ切ろうとしているはずなのに、この件だけはやはり吹っ切ることは出来なかった。
 柚希には祝福の言葉を送ったはずなのに、その内容はまったく思い出せなかった。そのまま引きずり続けて、今日まで過ぎてしまったのだ。

「はぁ……、嫌だなぁ、朝練。一昨日のことがあるから行きたくないなぁ」

 朝練自体は嫌いじゃない。だけど、今は柚希と会うのが個人的につらいし、沼倉と仲良くしているところを見てしまったら立ち直れなくなるかもしれない。
 そう思い、僕は朝一番で昇降口に着くと、いつも一緒に練習している部長にしばらく部活動を休む旨を伝えた。部長も色々察してくれたのか、理由までは話していないのにそれを許してくれた上に『無理をするなよ』というありがたいメッセージまでくれた。僕は部長に感謝しながら教室まで向かった。
 まだ早い時間だからか、教室には僕しか居なかった。いつもは朝一番で教室に入ると必ず顔を見せる後藤は、まだ教室に居なかった。僕は憂鬱な自分の姿を見られたくなかったので、そのことを嬉しく思った。しかし、自分の机にたどり着くや否や憂鬱な気分になった。

「沼倉の奴、よりによって柚希とだなんて……。『他人は他人、自分は自分』と思っても、こればっかりはへこむわ……」

 へこむ辺り、僕は知らないうちに柚希に対して友達以上の何かを感じていたのかもしれない。だけど、今更それに気づいても後の祭りだ。
 クラスメイトの大半が教室に姿を現すのは朝の予鈴が鳴る十五分前くらいだろうから、それまではここの教室はほぼ無人になる。朝のホームルームまでやることはないし、そもそも何かをやる気にもならない。僕はカバンの中身を自分の机にぶち込むと、カバンを横にかけてから机の上に突っ伏した。

「はぁ……、この街に居ること自体が憂鬱だよ。地元の大学だと柚希や沼倉に会う可能性があるし、地元の大学は止めていっそ東京の大学を狙うのが良いかもしれない。そして向こうで就職して、そのまま向こうで一生を過ごした方が……」

 そんな理由で東京の大学を狙う奴なんていないだろう。でも、今の僕にとってはそれすらも志望理由になるくらいだった。

「それなら顧問の先生や部長たちには申し訳ないけど、吹奏楽部も辞めよう。残念がられるだろうし、小泉さん辺りには辞めなくてもとは言われるかもしれないけど……」

 その時、ふと頭によぎったのは文化祭の時に出会った高橋さんのことだった。思い出す余裕すらなかったけど、文化祭での彼女の演技は圧巻の一言だった。見ていた誰もが彼女に目を奪われていただろう。

「……あの時も思ったけど、僕と彼女じゃ釣り合わないし、会う機会だってあれから一度もなかったから、良い思い出のひとつとして大切にしておこう」

 高橋さんの笑顔や握られた手の感触を思い出しながら突っ伏し続けていたその時だった。

「ユータ」

 誰かに名前を呼ばれた。けれど、顔を上げる気力はおろか返事する元気もなかったので、僕はそのまま突っ伏し続けた。

「ユータ、ユータったら」

 声の主が僕の体を揺さぶる。それに対してうるさいなと思いながらも知らないふりを続ける。そのうちに声の主も諦めたのか揺さぶるのを止め、ようやく静かになったと安堵していたその時だった。

「ユータ!」
「うわぁっ!?」

 耳元で突然大きな声を出されて、僕は顔を上げる。耳がキーンとする中で一体誰の仕業だと思いながら横を見ると、そこに居たのは怒った顔で腰に手を当てている小泉さんだった。

「……なんだ、小泉さんか」
「なんだ、とは何よ。いつもは吹奏楽部の朝練に出ているのに、どうして今日は朝早くから教室に居るのよ?」
「そっちこそ、軽音楽部だけでなくチア部にも入っているんだから朝練があるんじゃないの?」
「うちらはめったなことがない限り朝練なんてしないわよ。秋季大会などが近くなったらするかもしれないけど。今日はたまたま朝早く教室へ向かったらアンタが居てね、それで声をかけたのよ。それで、どうしてここに居るのよ?」

 僕の顔を覗き込んでくる小泉さんに対して僕は仏頂面で答える。

「出たくなかったんだよ、朝練」
「どうして?」
「実は……」

 僕は柚希との一件について話した。沼倉と付き合い始めた点については驚いていたが、その後のことはまるで自分のことのように怒っていて、そのことが不思議と嬉しかった。

「ただの幼なじみとしか見ていなかったと思っていたんだけど、ショックだったわけだし、本当は友達以上の何かを柚希に感じていたんだと思う」

 小泉さんの表情が心配そうなものに変わる中、僕はまた机に突っ伏した。

「でも、僕みたいな目立たない奴と沼倉じゃ月とスッポンだよ。だから柚希だって沼倉を好きになったんだろうし、僕なんかじゃかなわないから……」

 答えながら僕は沼倉と自分を比較していった。管楽器の上手さや普段の素行、容姿の良さに周囲からの人気といった様々なものを比較して自分の方が劣っているのだとわかり、僕の気持ちは沈んでいく。今の僕は、まるで底なし沼の中に居るようだ。

「ユータ、文化祭の時のこと、覚えているわよね?」
「……高橋さんのこと?」

 顔を上げてから答えると、小泉さんは真顔で頷く。

「ナツ、アンタにお礼がしたくてうずうずしているのよ」
「え?」

 僕は思わず立ち上がる。勢いよく立ち上がったことで椅子は後ろに倒れ、机はガタガタっと音を鳴らす。

「お礼って……、でも、僕はどうしたら……」
「アタシが手配するから、アンタはアタシの言う通りに動いて。大丈夫、悪いようにはしないから」
「言う通りに、と言われても……」
「いいから! アタシの言葉を信じてアンタは勉強に集中しなさい。ほら、今日は表現の授業があるでしょ。日野先生、アンタのことを指名するかもしれないわよ?」

 表現の日野先生を思い出しながら僕は頷く。
 日野先生はチア部の顧問をしている女性の先生で、子供っぽい顔としゃべり方をしている。その一方で、身長が高くてその大きな胸をいつも揺らしている。ひとたび授業となると真剣そのもので、そのギャップが良いと言う男子も少なくない。

「そうだね。当てられて答えられないものダサイし、予習しておくよ」
「アタシも手伝う。アタシだって当てられる可能性はあるし、みんなが教室に入ってくるまでやることないから」
「うん、それじゃあ一緒にやろうか」

 そして教室にクラスメイトたちが入ってくるまでの間、僕と小泉さんは論理表現以外も含めた予習をすることにした。
 さっきまではこの街からいなくなりたいとか吹奏楽部すら辞めようとか暗いことばかり考えていたけれど、小泉さんが予習をしながらチア部や軽音楽部のことを話してくれるから少しずつ気持ちは上向きになっていった。

「ありがとう、小泉さん」

 僕の口をついてそんな言葉が出る。ポツリと呟くほどの声だったけど、向かい合って座っていた小泉さんには聞こえていたようで、小泉さんは一瞬驚いた後に笑みを浮かべた。

「どういたしまして」

 その声と表情は優しく、見ている人を安心させると同時に勇気づけるものだった。
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