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34.魔王の前で、愛をささやく(1)

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 かつて美しい盆地だったリエナベルクに、聖騎士団の精鋭たちが展開していく。

 最後尾で怜悧な表情を崩さないマルティン様が、向かいの山岳を遠望したまま小さく呟く。

「想定よりも魔王の成熟が、速い……」

 ――魔王? 魔王、見えてるの?

 と、マルティン様の視線の先をたどるけど、黒々とした山塊が禍々しい瘴気に覆われている様子しか見えない。
 剣の魔将ヘルフェンブリンガーでさえ、あの巨体だったのだ。魔王を見逃すとは思えない。 

 ――魔法をお使いなのね……。《望遠》とか、そういう魔法があるのかしら……?

 マルティン様の方に顔を向けると、お美しい横顔にはさらに険しさが加わっている。

「だが、まだ翼は生えていない……。ギリギリ間に合ったと言うべきか……」

 翼? 翼なんか生えるんだ。
 そんなので王都に飛んで来られたら大変だ。

 と、もう一度、マルティン様と同じ方に視線を向ける……。

 ――あれっ? ……あんなところに……山が、あったっけ……?

 全身に粟立つような鳥肌が立った。
 そして、身体の震えが止まらなくなった。

 山塊に見えていた、すべてが……魔王だった。
 黒々と見えているのも魔王からあふれる瘴気だ。凝縮された濃い紫色が黒く見えていたのだ。
 細長い切れ込みの様に光る赤い線が、徐々に開いていく。

 ――目……、そして、口……。

 なんと巨大で……、なんと禍々しい……これが……魔王…………。

 マルティン様の怒声のような指示が飛ぶ。

「聖騎士団、戦闘態勢をとれ! 聖女候補は……」
「お待ちください、団長様」

 いつの間にか、ソフィアさんがマルティン様の前に進み出ていた。
 疲労困憊している中にも、柔和な微笑みを浮かべて、静かに片膝を突いて頭を下げている。

「……なにかな? 聖女候補殿……たしか……」
「ソフィアにございます」
「失礼。ソフィア殿。すでに魔王は指呼の間。お話を承る段ではないと存じるが」
「……団長様。我ら聖女候補の魔力は既に、皆、枯渇寸前。この上は、団長様にお受け取りいただき、魔王を討ち果たしていただきたく存じます」
「それは……、出来ません」

 魔力の受け渡し……。
 かつてマルティン様が、私に対して試みていた。

 ソフィアさんが、苦しげな微笑みを浮かべて顔を上げた。

「団長様……、我らの心は崩壊寸前なのです……。これ以上、どなたの命も散らしていただきたくないのです……」
「それは、我ら聖騎士とて同じこと。ですが、貴女方には、まだ使命が残されている。さらに聖女修行に励み、王国を救ってもらわねばならぬ身の上」
「でも、それでは団長様が……」
「目の前のひとりにも全力の慈悲を注ぐ……。それは、聖女を目指される身に、正しいあり方だ。だが、貴女方の慈悲は私ひとりにではなく、王国民のすべてに注がれなくてはならない」
「くっ…………」

 ソフィアさんは、涙を堪えるように頭を下げた。
 後ろに控える聖女候補たちからも、嗚咽が漏れてきた。

 ――そうか……。私の旦那様は……ここで、死ぬんだ……。

 マルティン様は、微笑みに柔らかさを取り戻して、ソフィアさんに囁きかけた。

「慈悲深さとは……、なんと過酷なものでございましょうな……」
「……もったいない、お言葉」
「もとより聖女にあらぬ聖騎士の身では、宝玉に魔力を蓄えることもできません。身体に収まるだけの魔力をもって、魔王に立ち向かうのが我らの宿命。……私も、数多の命を見殺しにして、魔力を温存して参りました。そのすべてをもって、最期まで魔王に抗いましょう」

 そうだ…………、

 最強聖騎士のマルティン様なら、きっとヘルフェンブリンガーをご自分の手で討つことも出来たはずだ。

 けれども、アンドリーが一騎打ちに向かう背中を見送り、相打ちで果てるその姿に血の涙を呑まれていたのだ。

 すべては、魔王と闘うために――。

 この場に立たれるまでに、どれほどの想いを背負われてきたことか。

 その時、

《ゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタ》

 と、恐怖と嫌悪感を全力で煽るような嗤い声が、リエナベルクの盆地全体に響き渡った。
 顔が反射的に、声のする方を向いた。

 山塊のような魔王が、おぞましく真っ赤に光る口を、グバッと大きく開けていた。

「聖騎士団、退避――――っ!」

 響き渡ったマルティン様の声も虚しく、魔王の口から発せられた赤い光線は、前衛の2万人ほどを一瞬で焼き払った……。

《ゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタゲタ》

「ソフィア殿……、猶予はありません。結界を……」
「はい…………」

 マルティン様の言葉に、力なく頷いたソフィアさんが、聖女候補たちの下に向かった。
 大きく息を吸い込んだマルティン様が、さらなる指示を飛ばした。

「聖騎士団、総員に告ぐ! 聖女はいない!! 各員、魔法障壁を全力展開! 我が一撃をもって魔王の成熟を遅らせる! その後は、聖女候補を守って全力で後退し、聖女の出現に備えよ!」

 私たちの目の前に残る聖騎士約6万人ほどの周囲で、なにかが燃えるようにチリチリと小さく光っては消え始めた。
 全力の魔法障壁と、一帯に漂う濃い瘴気とが反応しているのだと、魔力のない私にも解った。

 マルティン様が馬を寄せ、私に微笑みかけてくださった。

「アリエラ……、ここでお別れです」
「は、はい…………」

 涙は見せたくなかった。
 死ぬなと……言えなかった。

 全力を振り絞って、笑顔をつくった。

「……いって……らっしゃいませ」
「アリエラ。私は、貴女と巡り合えて……、本当に幸せだった」
「……私の方が、幸せでございましたわ」
「ふふっ。貴女と出会えて、私は……、人を愛するということを知った」
「…………ちゃんと」
「ん?」
「ちゃんと、言ってくださいませ……」
「……愛している。アリエラ」
「私も、愛しております。……マルティン様」

 マルティン様の身体が、うっすらと光に包まれ始めた。

「約束通り、必ず聖女候補たちと後退してください」
「……はい。……ご武運を」

 アンドリー……。
 私は、最後まで笑顔でいたよ。

 笑顔で、愛を伝え合うことが出来たよ。

 魔王に向かって馬を駆るマルティン様から、無数の《光の矢》が放たれ始めて、その美しさのすべてを目に焼き付けておきたくて、私は必死にまっすぐ前を向き続けた――。
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