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第十章 虜囚燎原

228.最後の主人公

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 素早く馬に乗ったアンドレアスは、右軍めがけて単騎で駆けた。

 左軍は《草原の民》を追い、中軍は将の首を獲られた。右軍をまとめ態勢を立て直すしかない。

 しかし、右軍もすでに《草原の民》の陽動にかかり、大混乱のさなかにあった。

 霧のなか、


「寝返りだ――っ!」


 という、声も響いてくる。

 そこに親衛隊の兵をまとめたマタイスが追い付いてきた。


「負けだな……」


 抑揚のないアンドレアスの声に、マタイスが顔をしかめた。


「……草原の者どもごときに」

「負けは負けだ。初めてのことでもない。まとめられるだけの兵をまとめ、南に落ちるぞ」


 アンドレアスの指示で、乱れた右軍の兵をマタイスがまとめ始める。

 戦は常に勝てるものではない。長年の内戦を勝ち残るには、負け戦を手早くたたみ損害を最小限に抑える決断力が必要であった。

 その見切りが出来るからこそ、王座にまでたどりついたとも言える。

 日が高くなり、やや薄れてきたとはいえ、曇天の霧はまだまだ深い。

 兵たちの喊声が響くなか、アンドレアスの耳がかすかな異音をとらえた。


「なんだ? ……この音は」

「音ですか?」


 問い返したマタイスが目線をあげ耳をすませる。


「地鳴りのような音が混じっている」


 と、アンドレアスが訝しんだ次の瞬間、

 霧で白くかすむ視界に、さらなる白い大波が押し寄せてきた。


「な、なんだこれは!?」


 メェメェと鳴き声を上げる無数の羊たちが、地響きを轟かせながら通り過ぎていく。

 その先頭には、羊を先導するイェヴァとラウラがいた。


「見ろよラウラ! 奴隷狩りども、呆気にとられた顔してるぜ!?」


 と、気分良さそうに笑うイェヴァ。

 ラウラがおっとりとした口調で嗜める。


「……敵兵の真ん中。油断しないで」

「でも、アイカ。私たちにも出番をつくってくれて、いいとこあるよな?」

「うん。スッキリした」

「ははっ! だよな」

「ざまあみろ」


 リーヤボルク軍の中軍をはさむように、羊の大河がふたつ通り過ぎてゆく。そして頃合いをみてイェヴァたちが羊をなだめ、そのまま居座る。

 渡ろうにも乗る馬が超えて行こうとしない。

 羊を相手にしようにも、敵に背を向ける形になってしまうため、それも出来ない。

 リーヤボルク軍の左軍、中軍、右軍は羊の大海に呑まれて、それぞれ完全に孤立した。


   *


 アイカの本陣で、タロウとジロウがすっくと立ち上がる。

 左軍の半数はチーナ率いる弓隊が北に誘い出して腹背を突き壊滅させた。のこり半数にはネビ率いる槍隊が襲いかかり、じわじわと削りながら釘付けにしている。

 中軍は司令官を失い、ニコラエ率いる精兵200が縦横無尽にかき回す。さらに正面からアーロン率いる部隊が襲いかかる。

 右軍のほとんどは誘い出されて落とし穴にかかり、足止めされた軍勢にもジョルジュ率いる部隊が突入している。

 後軍にもノルベリ率いるヴィアナ騎士団が攻撃を仕掛けたと報せが入った。

 そして、カリュに調略されていた小隊長が、そこかしこで叛旗を翻している。

 もしも見晴らしのよい晴天であれば、3分の1の兵力でしかない《草原の民》の軍勢に、リーヤボルク軍がここまで混乱させられることはなかったであろう。


「もう行けってことね」


 と、狼たちの催促に苦笑いしたアイカは、タロウの背にまたがった。

 雲の向こうで日はすでに中天を過ぎたが、霧はまだ深い。天候に詳しい長老が教えてくれた通りだ。


「カリトンさん、行きましょう! 総攻撃です!」


 アイカの本陣に温存していた《草原の民》の兵士5000人が前進をはじめる。

 ネビとチーナに訓練されたのち、見どころのある者を選抜し、あらためてカリトンが訓練した兵士たち。

 待ちに待った出撃に、みな目をギラギラと輝かせている。


 返せ……。


 家族を、返せ……。


 恋人を、返せ……。


 妻を、返せ……。


 子どもを、返せ……。


 草原を、返せ……。


 燃え上がる復讐心のまま、燎原の炎のようにリーヤボルク兵に襲いかかった――。


   *


 アイカの出撃した本陣では、サラナが落ち着かない様子で、赤縁眼鏡をクイッとあげた。


「……ほんとに、アイカ殿下を行かせて良かったんでしょうか?」

「えっ……? んー、まあ、止めても聞かないですし。こういうときのアイカは」


 先任侍女であるアイラが、戸惑うように言った。

 アイカから《公の場以外での友だち付き合い》を求められているアイラだが、侍女の大先輩であるサラナをまえに、いつも通りアイカを呼び捨てにしていいものか、迷いがある。


 ――いや、むしろサラナ様の前は公の場なのでは? え? どうなんだろ?


 しかし、そもそも『アイカ』と『サラナ様』も、なんだか変だ。


 ――ほんと、意外と面倒なこと言ってくるよな。アイカって……。殿下くらい言わせてくれたら悩むことなかったのに。


 苦笑いするアイラに、カリュが言葉を添えた。


「サラナ殿。ああ見えて、アイカ殿下は歴戦の強者におなりあそばされているのですよ?」

「歴戦の……」

「リティア殿下の王宮脱出では、あのカリトン殿を射抜いておりますし、プシャン砂漠を渡る際には、なんども賊と戦闘に及びました。その賊のなかには、ジョルジュ殿もおりましたし、決して相手が弱かったわけではありません」

「なるほど……」

「ザノクリフ内戦の終結では大軍を率いた経験もおありです。南方に《草原の民》を集めに行く旅でも、カリトン殿とオレグ、それにナーシャ様の4人だけで、なんどもリーヤボルクの小隊を退けたと聞きおよびます」

「分かりました。ながく仕えるおふたりがそう言われるのなら、間違いないのでしょう。気を揉むのはやめにします」

「私も気は揉んでますよ?」

「えっ……?」

「……アイカ殿下は急速なご成長の途上にあられます。私たちがテーブルマナーをお教えしたときとは、別人のようでしょ?」

「それは、たしかに……」

「もともと秘められていた才能が立場を得て開花したのか、お立場に追いつくために吸収されているのか、その両方なのか……。それは、もう少し経たないと分からないかもしれませんね」

「……なるほど」

「戻られたら、また別人のようかもしれませんよ? ですから、いまの私たちは私たちの役目をまっとう致しましょう」


 と、微笑んだカリュは、地図に目を落とした。

 霧のため、戦場の視認性の悪さは変わらない。伝令の報告をもとに戦況の分析をつづけていた。

 全体を見れば圧勝だが、局地的には押されている箇所もある。

 カリュは諜報に基づく敵将それぞれの性格など人的情報をもとに、サラナは地形を読み、ふたりの分析をあわせて次に来る局面を予測し、オレグを伝令に走らせるなど必要な手を打っていく。

 アイラはふたりが交わすスピーディなやり取りに目を白黒させていたが、やがて思考が追いつき、求められれば意見も言う。


 ――アイラならば侍女を務められる。


 と、アイカに勧めたのはカリュであった。

 自分の見立てに狂いはなかったと微笑みつつ、作業をつづける。

 サラナは、ふと過ぎた寂しさに襲われた。


 ――私もスパラ平原にお連れいただけたら、バシリオス殿下にあのような惨めな敗戦など味あわせはしなかったものを。


 草原を舞台にした図上演習のような作業の繰り返しは、どうしてもサラナに忘れたい過去を思い起こさせる。

 しかし、いまの主君はアイカである。


 ――主君を勝たせてこそ王国の侍女。


 と、覚悟を固めつつ、


「あれ……?」

「どうされました、サラナ殿?」

「あ、いや……、いま言うことではないのですが、この辺りの地形……」

「はい」

「灌漑農業が出来そうですねぇ……。ため池をつくって……」

「ふふっ。さすがは内政のスペシャリスト」

「……あ、すみません。つい……。いまは戦闘に集中しますね」

「はい。でも、サラナ殿の知謀はいずれ《草原の民》をおおきく救うことになりそうですね」


  *


 アイカを支える3人の侍女が微笑んだころ、壊滅した後軍のアンドレアスの天幕で、ノルベリが剣を抜いていた。

 かがやく切っ先に、口の端を歪めたマエル。


 ――儂としたことが、しくじった。


 国王アンドレアスの周囲を護る後軍は、親衛隊を核とした精鋭だけで編成されていた。それを知るマエルは、らしからぬ油断をしてしまい逃げそびれた。

 外では潰走するリーヤボルク兵をヴィアナの騎士たちが掃討にかかっている。

 その指揮はノルベリから、バシリオスの孫アメルに託されていた。

 実質的に初めて勝ち戦の指揮をとるアメルだが、声は冷静さを保ち、目は隅々まで行き届いている。また、千騎兵長や百騎兵長からあがってくる進言にも、よく耳を傾けた。

 自らの限界を認めたアメルの、急速な成長が見られる戦場となった。

 その声も徐々に遠くなってゆくのが分かり、マエルは戦況の好転が望めないことを悟る。


 ――アンドレアス坊やは生き残れるかな?


 と、髭をなでた老隊商に、ノルベリが皮肉めいた笑みを浮かべた。


「出来るだけ捕虜にとれとのご命令だが、貴様だけは許せん。あとでお叱りを受けたとてかまわぬ」

「どうぞご随意に」

「そうさせてもらおう」


 ノルベリの一閃で、稀代の梟雄は首を地に落とした。


「火をかけろ! 国王の天幕が焼ければ、戦意を失う者も出てこよう!」


 たちまち燃え上がる天幕。

 結局、マエルがここで死んだということさえ、ノルベリのほかに知る者はいなかった――。


 そして、監視の目がなくなり、羊の群れに必死で駆け込む、小麦色の肌をした少女がひとり。


 メェ~。


 という間伸びした鳴き声に、胸を撫で下ろしたそのとき――、


「ニーナ!!」

「……あぁ、イェヴァ。それにラウラも」


 羊の海のなか、引きちぎれんばかりに抱き合う3人。


「アイカが、アイカがやってくれたんだ! ニーナが託宣を降ろした、あの《無頼姫の狼少女》だ!」

「アイカちゃんが……」

「ニーナが降ろした《祖霊の託宣》のとおりになった!」


 太陽はわずかに橙色に傾き、昼間と夕刻のはざまにある。

 草原を舞台に敵味方20万人以上が殺し合う大戦おおいくさ

 その最後の主人公が姿をみせる。

 王太子バシリオスである――。
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