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第十章 虜囚燎原

227.開戦

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 のばした手の先がかすむほどの深い霧。

 緊張した面持ちのアイカが、総大将の椅子に座った。

 今朝の空気は湿気が重たく、肌がすこし汗ばんでいる。

 右手に控えるカリトンが、やさしい声音でささやいた。


「まだ敵は、我らが布陣していることにすら気付いておらぬはずです」

「はい……」


 アイカが大軍を率いるのは二度目だ。

 ザノクリフで西候セルジュの城を囲んだとき、100人ちかい太守を率い、兵士は数万を数えた。

 あの時は《山々の民》同士の内戦であった。できればセルジュには降伏してほしかったし、実戦の指揮は主要5公に任せておけば良かった。

 しかし、今回は異なる。


 ――勝たないと《草原の民》が滅びる……。


 話し合いの通じる相手ではないことは、すでに確認した。いや、勝ってからこそ話し合いが出来るのだ。

 ニーナを取り返せるとしても、それは勝利のあとだ。

 緊張をほぐすように、手を握ったり開いたりする。

 この手で、自分も落とし穴を掘った。

 策は万全のはずだ――。

 この日、この時、この場所で迎え撃つための準備を入念に進めてきた。


 リーヤボルク本軍がコノクリアに向かって進軍をはじめたと報せを受け、誘い出す必要はなくなった。

 しかし、想定よりスピードがはやい。

 長老から教えられた濃霧の朝めがけて進軍させるため、訓練を終えた《草原の民》の若者たちをジョルジュが率いてゲリラ戦を展開した。


「こちらが軍の体裁を整えていることを悟らせぬ方がよいでしょう。散発的な抵抗……、と思わせるためには《賊の兵法》が良いでしょうな」


 と、ガハハと豪快に笑うのだが、イケメンじいさんになったジョルジュには、いまひとつ似合わない。

 しかし、仕事ぶりは確かだった。

 《草原の民》が狩りに使う長弓を射かけては挑発する。

 に飢えているリーヤボルク兵たちは容易く陽動に引っ掛かり、ジョルジュたちに向けて突進してきた。

 そこには草をしばっただけの罠が仕掛けてあり、馬が引っかかり倒れる。

 隊列の乱れは、リーヤボルク軍全体の進軍を少しずつ遅らせた。

 アンドレアスはイラついたが、目のまえにが現われたと聞いてはやむを得ない。兵士たちの奴隷狩りを黙認した。

 その間にも、サラナとニコラエの指揮で、決戦の予定地に落とし穴を掘り、馬止めの柵を設け、罠を仕掛けてゆく。

 ザノクリフから来た兵たちは作業に慣れており、みるみるうちに完成してゆく。

 アイカも罠づくりを手伝い、穴を掘った。


「陛下と穴掘りとは、末代までの誉れにございますな」

「もう! おおげさですよぉ~」


 と、《山々の民》の兵士たちと笑い合う。

 この穴は敵を殺す。そうでなければ拐われ、抵抗すれば殺される。どちらも嫌だが、どちらか選ぶしかないなら答えは明らかだった。

 底に立てた、ふとく鋭い無数の杭に眉が寄る。

 《草原の民》からも部隊長を選抜し、作戦に基づいた演習を実施した。

 勝利を祈る長老たちから託された、伝統の朱旗しゅきをカリトンが握る。

 朱旗が振られれば、開戦の合図だ。

 左に控えるオレグも緊張から流れる汗をぬぐっている。

 アイカと行動をともにしてきたオレグは、戦場全体を駆ける伝令の役を任された。濃霧で互いを視認できないなか、重要な役目だ。

 カリュがあらわれ、アイカの前に膝をついた。


「そろそろ、敵が目覚め始めたようです」

「じゃあ……、はじめましょうか」


 奥歯を噛みしめたアイカが、カリトンをみた。

 朱旗しゅきが大きく振られ、各部隊に作戦開始を伝える伝令が飛び始める。

 リーヤボルク兵の《草原の民》へのこそ最大の武器だ。あえて夜襲ではなく、濃霧の朝を決戦に選んだ。

 視界をふさぐ白いヴェールを、アイカはグッと睨みつけた――。


  *


 アンドレアスが目覚めると、すでに戦闘は始まっていた。

 ただ、リーヤボルク軍にそれをだと捉えた者はいない。昨日までのゲリラ戦と同様に、狩りの獲物に遭遇したと喜色を浮かべ、


 ――今日こそ仕止めてやる!


 と、いきり立っていた。

 親衛隊長のマタイスがを伝えるため、アンドレアスの天幕で膝をついた。


「左軍の北から大量の矢を射掛けてきおりましたが、すでに左軍の半数ほどがあとを追っております」

「大量?」

「なかなかの数がおりそうです。あ奴らの聖地に我が軍が近づき、焦っておるのでしょうな。すぐ逃げだしたそうですし、無様な抵抗です」

「北か……」


 北東に向かって進軍するリーヤボルク軍の左軍は、軍勢全体の北側に位置する。

 北に獲物を追えば、中軍、右軍から離れる。

 しかし、相手は散発的な抵抗しかしてこない《草原の民》だ。と、アンドレアスはあたまを振った。


「……考え過ぎか」

「なにか?」

「いや、いい。せっかく向うから来てくれた獲物だ。すべて捕らえるよう発破をかけておけ」

「かしこましました」


 マタイスが天幕を出た頃、右軍でも、正面に現われた《草原の民》たちを追い始めていた。

 右軍を率いる将の指図ではない。

 前線の小隊長たちが功を焦って勝手に動き出したのだ。


「いけ行け! 取り逃がしてはもったいないぞ!」


 と、声だけ張り上げ、自分の隊は動かさない小隊長もいる。

 カリュからカネを握らされ、亡命の約束をとりつけている者たちだ。

 しかし、起き抜けの頭で、目のまえの獲物に心を奪われている兵士たちから怪しまれることはない。ここでをあげないと解雇されるという噂も流れている。

 数人単位でバラバラに逃げていく《草原の民》を追って、右軍もバラバラに進軍しはじめていた。

 霧のなか、つかず離れずの距離を保って逃げる《草原の民》の背中を追う。

 充分に捕えられる距離だ。


 ――あれをつかまえれば、この身は安泰のはず。


 細く一列になった《草原の民》を見て、回り込もうとしたリーヤボルク兵の姿が突然消えた。

 しかし、霧のため、つづく兵たちはそれに気づかない。

 次々に折り重なって落とし穴に転落してゆく。

 先に落ちた者は杭に貫かれ、後に転落した者はさらにのしかかる人馬に押されて圧死する。その上に落ちた者は、槍で突かれて冥府に旅立つ。


 ふかい霧のため、互いの動きは見えないが右軍が動き始めたことは、中軍にも音で伝わる。


 ――獲物を見つけたのか!?


 と、浮足立った小隊長のなかには、勝手に右軍の方向に進む者も出てくる。

 後軍に陣取るアンドレアスが気付かないうちに、15万のリーヤボルク軍はこまかくバラバラに分断されはじめていた。

 伝令に出ていたオレグが、アイカの前に駆け込んでくる。


「敵、右軍。落とし穴にかかりはじめました!」

「よし。では、そろそろ出番ですな」


 と、立ち上がったのはニコラエだ。

 淡々とした職人のような表情を浮かべたままの太守に、アイカが声をかける。


「ニコラエさん。よろしくお願いします」

「……ご武運を」

「ご、ご武運を――っ!」


 サラナにささやかれたままの言葉をなぞるアイカに、かるく手をあげて応えたニコラエは馬の腹を蹴った。

 そのまま、ザノクリフから率いてきた精兵200で、中軍のど真ん中に突撃してゆく。

 敵を斃すのが目的ではない。

 中軍をふたつに裂くため、勢いまかせに突進してゆく。

 突然現れた正規兵の攻撃に動揺した中軍は、まともに反撃することもできない。


「あ、あいつらはなんだ――っ!? 草原の者どもではないのか!?」


 喚き散らす中軍の将を見つけたニコラエ。

 逃げ腰になった軍勢をかきわけて近付き、首を刎ねた。

 転がる首を槍に刺したニコラエは、


 ――名前を知らんな……。


 と、そのまま高く掲げた。

 霧のなか、将の首を認めた者は少なかったが、


「やられた! 将軍がやられた! 首を獲られた!」


 という叫び声が、じわじわと中軍全体にひろがり、統制を失ってゆく。

 親衛隊長のマタイスが、後軍に位置するアンドレアスの天幕に駆け込んだ。


「中軍! レオナール将軍、お討ち死に!」

「なんだと!?」


 と、軽蔑するように眉間にしわを寄せるアンドレアス。

 テーブルをはさんで、マエルが茶をすすっていた。


「……草原の民を相手に、だらしないことですな」

「そ、それが……、いずこかの軍勢が現われたようにございます」


 マタイスの言葉に、即座に天幕を飛び出したアンドレアスは、そこで初めて深い霧に気がついた。

 これがならば必ず報告があったはずだ。しかし、リーヤボルクの将兵でそう考えていた者は1人もいなかった。

 愕然とするアンドレアスの耳に、突如、悲鳴のような喚き声が突き刺さった。


「敵襲! 敵襲! 後軍の背後に敵兵!」

「ええい! 狼狽えるな! 精鋭たる後軍の誇りはどうした!? 草原の者どもごとき、蹴散らせい!!」


 アンドレアスの怒声に、兵のひとりが膝を突いた。


「そ、それが……、背後に現われたのは、草原の者どもではございません……」

「どういうことだ!?」

「あの紋章はテノリア王国、ヴィアナ騎士団……」


 顔色を変えたアンドレアスがふり返ると、戦神ヴィアナの姿が染め抜かれた軍旗が霧の向こう、

 すぐ目の前にまで迫っていた――。
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