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第五章 王国動乱
108.入城(2)
しおりを挟む「クリュセとは、相性が悪い」
葡萄酒を注ぐマエルが、表情も変えずに出した名前は、北街区の娼館を取り仕切る女主人のものだった。
目の前に置かれたグラスをなみなみと満たす葡萄酒には目もくれず、ノクシアスは苦笑いを返した。
「俺もだ」
「だが、急ぎ交渉して貰わねばならぬ」
「へいへい」
肩をすくめたノクシアスは、グラスに口を付けた。
「美味いな」
「リーヤボルクで新王に立たれたアンドレアス陛下の元のご領地、フェデンシア大公国で、昨年の葡萄は作柄が良かったのだ」
「それで、王位にまで登り詰めたのか」
ノクシアスの軽口に、マエルは「それもある」と、真剣な表情を返した。
「無頼の口にまでは入らなかっただろうが、既にテノリア王国には出回り、アンドレアス陛下の軍資金となった。あながち冗談とは言えぬ」
「へぇ。王侯貴族様の味って訳だ」
「そういうことだな」
マエルも、口に含んだ葡萄酒を、満足気な表情で飲み下ろした。
「で? あのババアと交渉ってなんだ?」
「そう、悪し様に言うものではない。クリュセは、お前の母親だろう」
「家出息子の礼儀だよ」
「ふん。まあいい。王都の娼館をすべて、リーヤボルクの兵に格安で開放させたいのだ。もちろん、差額はこちらで補てんする」
「街娘を手籠めにして回る前にってことか?」
「そうだ。あの者たちは、折り紙つきにガラが悪い。急いで娼館に収めねば、なにをしでかすか分からぬ」
「無料でなくていいのか?」
「無料では褒美の使いどころがなくなる。それに、形だけでいい。王都ヴィアナの娼館が、自発的にリーヤボルク兵を歓迎するていを取ってもらいたいのだ」
「なるほどな」
ノクシアスは、柔らかいソファの背もたれに身を沈めて、皮肉気に口を歪めた。
「女にキャアキャア言わせて、いい気にさせておきたい訳だ」
「そうだ。今は抑えが効いているが、放っておけば王宮の侍女女官を犯して回ってもおかしくない連中だ」
「随分、やっかいなもんを押し付けられたな」
「それが秩序を壊し、新しい秩序を人に先んじて掴む端緒になる」
「分かった。すぐにやろう」
「頼んだ」
珍しく頭を下げたマエルに、ノクシアスも切迫した事情を感じた。
が、グラスには、まだ葡萄酒が残っている。
「しかし、ヴィアナ騎士団の万騎兵長を裏切らせるとは、さすがの手練手管だな。しかも、忠義に厚いと聞こえるスピロ様だ。旦那が手を突っ込むなら、くせ者のノルベリ様の方だと思ってたぜ」
せっかくの美酒を味わう間に、ノクシアスはマエルの腹を探りたかった。
どう言い包めたのか、ルカスの周囲にはリーヤボルク兵で溢れている。子飼いであるはずのザイチェミア騎士団も、容易には近付かせてもらえない様子が見てとれる。
王都の覇権の行方は、まだ曖昧模糊としている。
「スピロ様は、己の利得より、物事の筋目を重んじる忠義者……」
「そう聞いてるぜ?」
「スピロ様を万騎兵長に取り立てたのは、先王ファウロス陛下だ」
「それが、スピロ様の筋目……、って訳か」
「覚えておくといい。常に真っ直ぐ王道を歩みたい者には、どちらが進むべき『正面』かを教えてやるだけで良いのだ」
「ほう……」
「真っ直ぐに猪突猛進すれば、ついていけぬ者も出る」
「だから、5,000しか率いていなかったのか」
「騎士団同士で殺し合ったほかに、離脱した千騎兵長もおるやに聞く」
「怖い怖い。王国には、どこまでマエルの旦那の毒が回っていることやら」
グラスを空にしたノクシアスは席を立った。
――いや。俺自身が、その毒か。
と、暗い笑みを浮かべ、瀟洒な扉に手をかけた。
「いずれ、サミュエル様にも引き合わせよう」
送り出すマエルの言葉には返事を濁し、母親が経営する娼館に向かった。
――ノクシアスめ。聖山の民の誇りまでは売り払わぬ……、といったところか。
目を細めたマエルの脳裏に、若き日のアンドレアスの姿が浮かんだ。人としての器は段違いだが、若者の野心にはくすぐられるものがある。
王都に満ちたリーヤボルク兵の本性が知れ渡るに連れ、獣行を未然に防いだノクシアスの名も高まるであろう。そうすれば、より役に立つ手駒になる――。
思案を巡らせているマエルのもとに、ペトラ姉内親王とファイナ妹内親王が王都に帰還したとの報せが届いた。
「当面の手駒がそろったな」
そう呟いたマエルは、腰を上げ、サミュエルが陣取る国王宮殿に向かった。
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