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第二章 旧都郷愁

40.細い月の下

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 リティアが遠い地で眠りに就く頃、王太子妃エカテリニは宮殿のバルコニーで、細い月を見上げていた。

 ピンク色の髪はアイカのそれより紅に近い。濃紺の夜の闇が含む涼しさから冷たさに移り変わろうかという風が、微かに揺らしている。

 年が明ければ50になる歳とは思えぬ幼い顔立ちには、隠し切れない憂色が満ちていた。


「眠れないのか?」


 エカテリニの3倍はあろうかという体躯を白のナイトガウンで覆った夫、王太子バシリオスが、いつの間にか後ろに立っていた。


「目が、冴えてしまって……」


 と、エカテリニは眼下に広がる神殿街越しの西街区を見下ろした。深夜も深夜だというのに、まだ盛り場からは小さな灯りがいくつも漏れている。

 バシリオスはエカテリニの側に寄り、肩を抱くと、暗い夜空を見上げた。


「満ちていく月は、美しいな」


 夜空に切り傷が入ったような細い月が、青白く光っている。


「なにを憂いているのだ?」


 バシリオスは、エカテリニの肩を抱く手に力を込めた。


「……」

「もう、一緒になって長い。そのくらいは分かる」


 バシリオスは月を見上げたまま、エカテリニの身体を自分に抱き寄せた。


「私が……」


 と、エカテリニはバシリオスの厚い胸板に身を預けて、目を伏せた。


「……悪いのです」


 バシリオスは、なにが悪い? とは聞かず、30年以上共に歩んだ妃の言葉を待った。


「私が、男子を産めなかったから……。殿下にお辛い想いをさせることに……」

「アリダは、良い娘だ」


 バシリオスが答えにならない答えを口にすると、2人の間に沈黙が流れた。

 そして、エカテリニはバシリオスのナイトガウンをギュッと握って、口を開いた。


「……陛下が、殿下のことを蔑ろにされます」


 やはりエカテリニは、王太子が旧都から依代を迎える役目を解かれたことを、気に病んでいた。

 だが、実はそれだけではない。

 ここのところ、国王が王太子のことを軽んじるような出来事が続いていた。それは他の者では気付かないような、細やかな場面だけであった。

 が、今回の出来事は決定的なことだと、エカテリニは思い詰めていた。


「気にし過ぎだ」


 と、バシリオスは胸の中のエカテリニに顔を向けた。


「リティアが立派に果たしてくれる。あれは賢い」

「でも……」


 バシリオス自身も父王の異変に気付いていない訳ではない。

 だが、エカテリニの心労を増すような素振りは、微笑に包み込んで胸の内に隠すだけの懐を持っている。


「陛下は国王であり父であると同じだけ、戦友でもある」


 バシリオスは『聖山戦争』での初陣以来、14年間の月日を父王と共に戦い抜いた。その中には激戦として正史に刻まれる、ヴール戦役、アルナヴィス戦役も含まれている。

 そして、エカテリニの故郷チュケシエの参朝も、その戦歴の中に入る。


「側妃を……、お取りください」


 エカテリニは王宮の禁忌タブーに触れた。

 かつて、バシリオスは側妃を迎えようとしていた。それが、ルーファから送られたエメーウだった。次期王たる王太子の側妃に孫娘を贈り、絆を深めたい大首長セミールの思惑があった。

 しかし、王宮に到着したエメーウを謁見した国王ファウロスが、


 ――長旅、大儀であった。


 という、労いの言葉に続けて、


 ――我が宮殿に室を与えて報いる。


 と、宣した。

 その場に立ち会った全員が固まった。

 エメーウの美貌に触れた父が、息子に嫁ごうとしていた娘を、横取りしたのだ。

 『王太子の側妃』は、禁忌中の禁忌になった。

 もちろん、リティアの生まれる前の出来事であり、耳に触れることもないほど厳重に秘匿された。王宮に勤める者の中には、何故口にしてはいけないのか事情を知らない者も多い。王太子のエカテリニへの愛の深さゆえと、美談のように誤解している者もある。

 バシリオスはエカテリニの頬に手をやり、滴り落ちるものを拭った。


「私はエカテリニ、お前だけで満たされている」

「……」

「2人も愛せない」


 エカテリニは当時、夫を共有する女性が自らの宮殿に入ることへの困惑が、ない訳ではなかった。

 しかし、夫のため王室のためと心を定め、笑顔で顔を上げた。女官たちを取り仕切り、迎え入れる部屋を設え、調度を揃え、万事を整えた。

 が、その女性は夫の父に奪われた。

 惨めだった。

 事件はエカテリニにも、深い傷跡を残している。

 バシリオスは満ちつつある月を見上げ、決意せざるを得ない刻が訪れることを予感していた――。
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