あいしてるって言ってない

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いいやつだなんて言ってない

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 腕時計を手に久我邸へ向かうと、門の前に高級車が止まっていた。久我が帰ってきたのだろうか。急いでインターホンの前へ行き、チャイムを鳴らす。しばらくして、女性の声で応答があった。

 一瞬、久我の母親かと思ったが、彼女はいま、精神病院にいるのだと思い直す。
ドアが開くのを待っていたら、ガチャリという音がして、神領が顔を出した。彼は俺に目をやり、
「橘」
「久我、見つかった?」

 神領はかぶりを振り、「上がって」と俺を促した。リビングに向かうと、家政婦らしいエプロンをつけた女性──この人がさっき応答したのだろう──それから、運転手の神領さんが沈痛な面持ちで立っていた。あともう一人、貫禄のある男がソファに座っている。どこかで見たことのある顔だ。

「あっ」
 俺は思わず声をあげる。街の選挙ポスターでよく見かける顔。久我の父親である、久我正道だ。彼は俺に目を向けて、渋い声で問う。
「君は?」
俺は慌てて頭を下げた。
「橘ヒロです。久我の、友達……です」

 それ以外言いようがないのでそう口にすると、久我の父親は「正行に誠君以外の友人がいるとはな」と呟いた。誠君──神領は曖昧な笑顔を浮かべる。正確には、久我の友達は一人もいない、と思っているのだろう。

「せっかくだ、君にも協力してもらおう。正行がいなくなった」
久我の父親は、政治家らしい力強い声で言った。
「普段であれば、女のところにでも転がりこんでいると思ったろうが、今回はちょっと様子が違う」

そこで言葉を切り、
「今情報を集めているところだ。誠君は朝から音信不通だったと言ってる。神領、迎えに来た時応答はあったのか?」
「はい、学校はお休みするとのことでした」
神領さんは困ったような顔で言う。

「とても具合が悪そうで、病院に行かれるよう説得したのですが」
久我の父親が、次の言葉を引き継ぐ。
「正行はそれを拒否した、と。中田さん、あなたがここに来た時はどうですか」

 中田さんと呼ばれたのは、家政婦らしき女の人だった。
「いえ……坊ちゃんの部屋には入らないよう言われていますから、お姿は見ていませんが」
「靴はあったのかね?」
「いえ、そこまでは」
「つまり、十時の時点で正行はいなかった可能性がある。防犯カメラはチェックしたか」
「実は、石をぶつけられて、数日前から故障中でして……ただのいたずらかと思っていたのですが」
 中田さんの言葉に、久我の父親が顔を険しくする。

「計画的にカメラを壊したのか。連れ去りの線が濃厚になったな」
連れ去り、と言う言葉に、部屋の緊迫感が増す。俺はごくりと唾を飲んだ。その拍子に、あることに気づく。

「あ」
 思わず声をあげると、ばっと注目が集まった。久我の父親がじっとこちらを見る。
「何か、心辺りが?」

 俺はドギマギしながら、
「いや、久我のストーカー……ファンの子が、向かいのアパート五階に住んでるんですけど、もしかしたら何か見てるかも」
「雅美ちゃんか」
 神領が苦い顔をした。どうやらあの子が苦手らしい。俺もあまり彼女には会いたくないが。

「俺、ちょっと聞いてきます」
「俺も行くよ」
 神領がのろのろ立ち上がる。
「橘だけじゃ、立ち向かえないかもしれないし」
「怪獣みたいな扱いだな」
 俺の言葉に、神領が肩をすくめる。
「見た目は可愛いんだけどね」

 確かに。考えたら芳佳といい雅美といい、久我の周りには可愛いけど変な女の子が多い。やっぱり、可愛くて性格もいいさくらは天使なのだと実感する。

「っていうか、雅美って子が久我を拉致した可能性ない?」
「うわ、嫌なこと言わないでくれよ」
 神領が思い切り顔をしかめた。確かに、もしそうなら、誘拐犯を相手にするより大変かもしれない。


 俺たちは久我邸を出て、向かいのアパートに向かった。エレベーターで五階に上がり、角部屋のチャイムを押すと、雅美が顔を出した。彼女は俺たち二人を見比べ、目を瞬く。
「あら神領さん。それと新参者さん」
 なんなんだ、その呼び方。

「橘ヒロだっつの」
「どうされたの? はっ、まさか!」
 雅美が大袈裟に後ずさった。
「神領さんったら心変わりして、新参者に乗りかえたのですか!? がーん!」
「……」
 俺は文字通り絶句した。なぜ何も言っていないのに、そんなストーリーが組み上がるのだ。雅美のテンションを抑えるためか、神領が低い声で言う。

「雅美ちゃん、緊急事態なんだ。正行が誘拐されたかもしれない」
「!?」
 雅美が目を見開いた。
「ゆ、誘拐? 誰にですか?」
「詳しいことはわからない。雅美ちゃんが何か見てないかと思って」
「わ、私ですか? えーと、えーと」

 雅美は視線をうろつかせ、ハッとして踵を返した。馬鹿でかいカメラを手に戻ってきて、
「これ、今朝の写真です。みてください!」
 そう言って、画面を指差す。
「この、寝起きの正行さんの色っぽいこと! 素敵です!」
 俺たちは、思わずがくりとうな垂れた。

「……いや、そういうのはいいから」
 神領の言葉を遮り、雅美は続ける。
「あ、後ですね、新たなる男が現れたのです!」
「新たなる、男?」
 雅美が写真を切り替え、指を差す。
「この人!」

 俺は目を見開いた。門の前で、久我と向かいあっていたのは。すらりとした長身、濃茶の髪。見慣れたその姿は。

「恵?」
「ね? イケメンでしょ? この人、絶対正行さんのこと狙ってますよ!」
「その推測は、あながち間違ってないかもしれないね」
 神領はそうつぶやいた。たしかに、恵が久我の首筋に、何か当てているように見える。 

「スタンガンかな。この時に時計が止まったのかも」
 そんな、恵がなぜ久我を? 俺は雅美に尋ねる。
「この後の写真は!?」
「え? 私、その人が現れた時点で妄想の世界にいたので」

 肝心なところで妙な世界に入らないでほしい。
「っていうかこの人、前にも会ってるはずなんだけど」
 神領の言葉に、雅美がすばやく反応した。
「え? 何処でですか?」
「ほら、久我が橘にキスしたとき」

 雅美は眉をしかめたのち、あーっ、と声をあげた。そうして俺を振り返る。
「つまりあなたの相手ですか!? まあっ、私としたことが、正行さん絡み以外は目に入らないもので!」
「あのね……」
 俺は掛け合いをする神領と雅美をよそに、恵に電話をする。しかし、コール音が鳴り響くだけだ。

「出ない……」
 雅美がふむ、と頷いた。
「なんだか、読めてきましたね」
「何が?」
 神領の問いに、雅美は得意げに答えた。 

「恵という人は、橘さんを正行さんに渡したくなかった。だから拉致し、自分の性奴隷にしようと」
「雅美ちゃん、ストップ。これはファンタジーじゃないからね」
「私、真面目に言ってるんですよ!」
 なら尚更まずい、と言いたげに、神領は咳払いする。

「とにかく……高野が関わってることは間違いない。あと、その時計を持ってた『スクエア』の店長も」
「でも、なんでわざわざ時計を渡してきたんだ? 証拠になるようなもの」

 俺は文字盤の止まった腕時計に目を落とす。十時ちょうどで針が止まっていた。写真の時刻と一致する。
「監視カメラを壊して安心してたんだろう」
と神領。彼は続けて、
「とにかく、これで確定した。警察に通報したほうがいいな」
 その言葉に、俺はギクリとする。

「ちょっと待て、恵を警察に突き出すのか!?」
「橘……理由はわからないけど、これは犯罪だ」
 俺は早口で言った。
「場所はわかってるんだ、俺が行く。恵を説得する」
「高野だけじゃなく、大人もいる。無理だ」
 神領はそう言って首を振る。

「頼む、一時間だけ時間をくれ」
 俺はそう言って、勢いよく頭を下げる。こめかみがどくどくなる音が聞こえた。長い沈黙があって、神領がため息をもらす。
「……三十分待つ。それ以上は誤魔化せない」
 俺はパッと顔をあげた。

「ありがとう!」
 急いで玄関に向かうと、雅美が背後から呼び止めてきた。
「待って、新参者さん」
「橘ヒロだっつの」
雅美がすっ、と何かを差し出してくる。ちいさなお守りだ。しかも……
「な、なんで安産祈願?」
「必ず正行さんを助けてくださいね」 
 そう言って、真剣な目で俺を見る。俺はちょっと感心した。この子は変わってるけど、本当に久我のことが好きなんだなあ……。
「うん、任せて」

 俺は安産のお守りと久我の時計を手に、アパートを飛び出した。手を挙げて、通りがかったタクシーを止める。急いで乗り込み、
「すいません、スクエアって店に行ってください」
「スクエア? ああ、繁華街にあるクラブね。でもあそこ夜八時からだよ」
「いいんです。お願いします」

 俺は店につくまで車内でジリジリと時をすごした。早くつけ、早く、早く……。久我は無事なのかとか、恵がなぜあんなことをしたのかとか、あの煙草の男とはどういう間柄なのかとか、色々なことが気になって仕方ない。

 タクシーが店の前についたので、金を払って素早く降りた。店のドアが開きかけたのが見え、慌てて電柱の後ろに隠れる。

 店長が店の戸締りをし、くるくる鍵を回しながら歩いていく。俺は唾をごくりと飲んで、彼の姿が見えなくなるのを待った。それから、素早く店の前へ行く。ドアに手をかけるが、当然鍵がかかっているので、びくともしない。

「くそ……」
 俺は店の裏に回ってみた。非常階段があり、二階にあるドアへ続いている。音を立てないよう、静かに階段を上っていき、そっとドアノブを握った。軽く回すと、動く感触がした。──開いてる。

 ごくりと息を飲み、そっとドアを開いた。中は薄暗く、壁際に酒ビンのケースや新聞紙、雑誌の束も積んである。俺は物音を立てないよう、そっと狭い通路を歩く。ふと、人の話し声が聞こえてきて、足を止めた。

「薬を飲んだほうがいい。死にそうな顔してる」

 恵の声だ! 俺は高鳴る心臓を抑え、慎重に足を勧める。自分の鼓動で、足音すらかき消されそうだ。

 二階の突き当たりに部屋があり、ドアの隙間から明かりが漏れている。俺はその隙間から、中の様子をそっと覗いた。
 部屋の奥に、布団が積まれているのが見える。そこに、久我がもたれかかっていた。猿轡をされていて、怠そうに目を瞑っている。顔色は悪く、汗がにじんでいた。

 やっぱり、熱があるんだろうか。俺は喉を鳴らす。恵は、久我の口を塞いでいた布をとって尋ねた。
「聞いてる?」
 久我は気だるそうに恵を見て、バカにしたように笑った。
「こんなことするとヒロに嫌われるぜ、恵」
「名前で呼ばないで」
 恵は固い声で言った。
「俺をそう呼んでいいのは、ヒロだけだ」
「……つまり、本当の名前は違うんだな?」

 久我は探るように恵を見る。
「なんで俺をさらった? あの男は誰だ」
「……前原智。俺の叔父」
 前原、と久我がつぶやいた。切れ長の瞳がきらめく。

「ああ、わかった。おまえ恵一けいいちだろ」
 恵は、びくりと震えて久我を見た。
「図星か?」
「……あんた、覚えてるのか、昔のこと」

 久我はそれには答えず、
「叔父って、おまえを殴ってた?」
「俺のこと、調べたのか」
「施設にいた頃までだ。それ以来消息が不明だったからな。秘密なんちゃら法で」
「ケースワーカーが、名前を変えろって言った」
「ふうん。罰も受けずに死んだ、犯罪者の息子だから?」

 久我の言葉に、恵はぎゅっと眉をしかめた。
「お金を払えば、あの人は満足するから、大人しくしてて」
「どうかな。俺の経験では、金が絡むと人間は何するかわかんないからな、オマエの父親みたいに」
「俺に父親なんていない」
「奇遇だな。俺も母親はいない」
「いるだろ。俺の父親を殺した女が、まだのうのうと生きてる」

 俺ははっとした。まさか、恵が、久我をさらった運転手の、息子? そんな偶然って──いや、これは偶然なのか?

久我は眉をあげ、
「まさか父親の復讐、とか寝ぼけたこと言わないよな?」
「違う。俺の心の平穏を取り戻すため」
「さっきの叔父がなんかするって?」
「学校に、父親の過去をバラすって」
 恵は震えるように笑う。

「信じられる? そんなやつが俺の親戚。誘拐犯に脅迫者。それが俺の縁者」
「気の毒にな。おまえには共感するよ」
「共感なんて、されたくない」

 恵は吐き捨てるように言った。久我は目を細めて囁く。
「話を聞けよ、恵一。あの叔父だけ刑務所にブチ込めるよう、俺がうまく話してやる。おまえはここにいなかったことにしてやるよ」
「そんなこと、信じない」
「おまえに共感した、って言ったろ?」
 優し気な笑みを、久我が浮かべる。

「おまえは、ヒロの友達だからな」

 俺は息を飲んで、ノブに手をかけた。そのまま扉を開く。ギイ、という音がして、恵がハッとして振り向いた。

「ヒロ……」
 俺は、恵のほうへ一歩近づく。
「恵、久我の言う通りだ。こんなこと、もうやめよう」
 恵はナイフを取り出して、久我の首に突きつける。

「来ないで」
「そんなの捨てろよ。恵は人を傷つけたりできないだろ」
「できる。俺には犯罪者の血が流れてる」
 恵はそう言って久我をにらむ。

「俺は、こいつが憎い。こいつのせいで父親が死んだ。しかも、ヒロまで奪おうとする。まるで、厄病神」
「じゃあ刺せよ」
 久我が平坦な声で言った。

「能書き垂れてないでさっさと俺を殺せばいいだろ?」
「何言ってんだ、久我!」
 恵は手を震わせ、「ああ、そうだな」と呟き、ナイフをかざす。久我は、ひどく冷たい目でその様子を見ていた。俺はゾッとかする。なんでこいつは、こんな目ができるんだ──。恵は唇を噛み、そのまま一気に腕を振り下ろす。

 俺は咄嗟に駆け出して、背後から恵に抱きついた。金属音を立て、ナイフが床に落ちる。

 次の瞬間、ドアが開いて、警官達がわっ、と走り込んできた。
「!?」
 警官たちは、あっという間に恵を拘束して、床に倒す。俺はあっけにとられていたが、確保! という声に、はっ、と我に返った。組み伏せられている恵に向かい、手を伸ばす。

「恵!」
 警官達は、俺と久我を部屋の外に引きずり出した。
「ああ……だりい」
 久我はそう呟いて壁にもたれる。顔色がひどく悪かった。俺は連れて行かれる恵の背中に向かい、「恵!」と叫ぶ。
 恵は振り向いて、悲しげに微笑んだ。

「ばいばい、ヒロ」
 そんな──こんなのってない。恵が行ってしまう。いやだ。こんなの、いやだ。

「いやだ! 恵、待て、っ離せよっ!」
 俺は、拘束してくる警官を振りほどこうともがく。
「ぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃねえよ、耳が痛い」
 眉をしかめた久我に、俺はすがりついた。

「なあ、恵を助けてくれるんだよな? おまえ、そう言ったよな!」
「なんで俺があいつを助けなきゃならないんだよ」
 久我はそう言って笑う。首筋に汗がにじんでいた。

「おまえ、まさかあんなの信じたのか。あいつだって、自分が無罪になるなんて思ってねえだろ」
「……じゃあ、なんであんなこと」
「油断させるためだよ。警察に話が行ってるだろうし、もうそろそろ突入する頃合いかと思ってな。まさかおまえが入ってくるとは思わなかったが」

 久我は目を細め、く、と笑う。悪魔みたいな顔。ああそうだ。久我正行はこういうやつなんだ──。

「まさにあいつの注意をそらす、格好の餌だったな」
 俺は喉を震わせて、久我の頬を思い切り叩いた。乾いた音に、警官たちが振り向く。
「……恵の言う通りだ」
 頬を赤くした久我を睨みつけて、叫ぶ。

「おまえは最低だ!」
 久我はじっと俺を見て、嘲笑を浮かべた。
「知らなかったのかよ、バーカ」

 悪魔みたいな男。ひどいやつ。冷たくて、人の心がわからない。こんなやつ、大嫌いだ。俺はもう一度手のひらを振り上げ、その手を震わせる。
「殴らないのか?」
そう尋ねた久我を、きっ、と睨みつけた。

「おまえなんか嫌いだ! この冷酷人間! 大バカ!」
 非常階段を駆け下りて、雨に濡れた路地を走る。ちょうどパトカーが、雨水を跳ね上げ、走っていくところだった。

「恵!」
 雨にけぶる人だかりの中に、神領の姿が見えた。俺は走って行き、彼の襟首を掴む。
「おまえ……三十分待つって言ったじゃねーか!」
 神領は目をそらす。彼が差している傘から、雨粒がポツリと落ちた。

「俺の一存で、そんなこと決められないよ」
 なんで。俺は神領の襟首を離し、よろよろと後退した。毛布を被った久我が、警官達に支えられ、店から出てくる。久我の父親が車の窓を開け、声をかけた。
「乗りなさい、正行」

 久我はちらりと俺を見て、車へ歩いていく。久我だって、ひどい目にあった。わかってる。だけど、あいつは悪魔なんだ。血も涙もないんだ。だから、どんな目にあったって傷ついたりしない。そう思うのに、ふらつく久我を見ていると胸が軋む。

 痛いって、悲しいって、苦しいっていえよ。そしたら俺も一緒に、おまえの痛みに向き合うから。だけど久我は、俺なんか必要としない。いつだって周りを拒絶して、一人で立っている。

 ふらついて倒れかけた久我に、俺はとっさに駆け寄りそうになる。だが、俺が助ける必要もなく、神領が久我を支えた。

「君も乗るか」
 久我の父親が、俺に向かって尋ねる。俺は黙って首を振った。その拍子に、髪から垂れた雨粒が跳ねる。
 運転席に座った神領さんが、痛ましそうにこちらを見ている。

「また後日、事情聴取にご協力頂けると……」
 警官と久我の父親が話しているのが聞こえてきた。その声が、だんだん遠ざかる。

 もう、俺にできることは何もないんだろうか。警官のひとりがやってきて、傘を差し出してくれた。

 店の入り口に座りこんでいると、ポツポツと雨の跳ねる音がした。
 雨が降りそうな日、俺は傘を持ってくるのをよく忘れた。そんなときは、恵が家まで入れていってくれた。

 相合傘だ、俺とで残念だな。そう言うと、恵は曖昧に笑っていた。あのとき恵は、どんな気持ちだったんだろう?

「ちくしょう……」
 拳を握りしめ、俺は声を震わせた。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!」
 何が親友だ。俺はなんにも気付かなかった。恵が苦しんでいるのにも、久我とのことも。
 側にいたのに、何も見えていなかった。恵を助けてやれなかった。

 遠ざかっていくサイレンの赤が、涙でにじんで見える。
 偽善者。久我に言われたせりふが、今になって胸を刺す。雨と涙がまざりあって、ほおを伝った。警官が、きみ、もうかえりなさい、と言う。
 雨脚が強くなる中、俺は傘をおろし、ふらふら家へと歩いていった。
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