最上の番い

あた

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壊れた眼鏡

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ああ、なんだか盛大に疲れたぜ。俺は庭のベンチに腰掛けて、タバコを吸っていた。
あの雲、なんかアレみたいだな。俺は空に浮かぶ、マツタケのような雲をみてぼんやり思った。
まずい、ニールのせいで、頭の中が完全に爛れている。走ってすっきりしてこようか。ふと、回廊を歩いてくるアドラスの姿を見かけた。そうだった。武器を手に入れようと思っていたんだった。俺は片手をあげて、アドラスを呼ぼうとする。
「おい、アドラス……」

俺はアドラスの隣に誰かいるのに気づいて、言葉を止めた。アドラスは華奢な男と一緒にいた。あの男には見覚えがある。たしか、ハーレムの中にいた一人だ。職業柄、人の名前と顔を覚えるのは得意だ。彼らはなにか密談しているようだった。俺は彼らに近づいていって、茂みの後ろに隠れて様子を伺った。オメガは必死になってアドラスに懇願している。
「アドラス様、お願いします。陛下に選ばれなかった以上、あなた様に選んでいただかなければ、家に帰れません」
「そうは言っても、おまえは俺の趣味じゃないからな」
アドラスはしれっとした顔で答える。オメガなら、誰でも構わないのだと思っていたが……意外と貞操観念がしっかりしているのか?いや――そうじゃないな。結婚を迫られて、面倒になっている女たらしみたいなものだろう。我ながら的確なたとえである。オメガはぎゅっと拳を握りしめ、何も言わずにその場から走り去った。俺がその後姿を見送っていたら、アドラスがひょいっと覗き込んできた。

「覗きはよくないだろ、ヤツカ」
「……つい癖でな」
そう言ったら、アドラスが笑った。彼は懐から出した手紙の束をひらひらと揺らした。
「陛下がおまえを選んだせいで、朝からモテモテだよ」
「よかったじゃないか。選定に呼ばれたオメガは美形ばっかりだし、ズノーメーセキらしいじゃん」
「遊びならいいけど、あんまり重いのはちょっとな」

わかってはいたけど、こいつクズだな。こんなやつに頼らなければならないオメガも気の毒だ。そういえば――まともそうなアルファなら、ダニエルがいるじゃないか。俺だったらこいつよりダニエルがいい。副騎士団長ならそれなりの稼ぎもあるだろうしな。アドラスは鎮痛そうな表情でため息をついた。
「ああ、しかし惜しいな。もうおまえを鳴かせる機会もないかと思うと」
「そんな機会は最初から無いんだよ」
こいつと会話していると余計に思考回路がただれていく。リセットするために、ヨグのところにでも行こう。武器を召喚してもらいたいしな。俺が扱えるのは警棒と拳銃ぐらいだ。しばらく撃っていないから練習が必要だろう。それから、タバコをワンカートン。一度にどれだけ呼べるかわからないが、とりあえずメモ帳にほしいものを書いた。あとは食うものだな。シエルの菓子は絶品だが、久しぶりにスナック菓子が食べたい気分だ。何を召喚してもらおうか。やっぱりポテチかな。のりしお味なんかいいかもしれない。どんどん項目が増えるメモを片手に、ヨグの研究室に向かった俺の耳に、がしゃん、という音が聞こえた。何かあったのか? 俺は部屋に走り込もうとして、息を飲んだ。

そこにはダニエルが立っていた。彼の前にはヨグがいる。それだけなら、驚くこともなかったのだが――。ダニエルは、ヨグをテーブルに押さえつけて犯していた。ヨグは顔を朱に染め、苦しげな表情を浮かべている。折れそうな細い手首は麻縄で縛られていた。やったのは目の前にいる男だろう。
無理矢理縛り付けてことに及ぶなんて、明らかに、友人にする行為ではない。俺が声をあげようととしたら、誰かが腕を引いた。振り向いた俺はギョッとする。そこにはアドラスが立っていたのだ。
「な、にし、ぐっ」
アドラスはしーっと指を立て、俺の口を塞ぐ。ダニエルは緩やかに腰を揺らしながら、ヨグの耳元で囁いた。
「締まってるよ。こんなふうにされて濡れちゃうなんて、君ってかわいいね」
「この、鬼畜……っ」
ヨグに罵倒されて、ダニエルの突き上げが激しくなる。ヨグが甘い声を上げ、射精した。
「激しくされていっちゃった? かわいいよ、ヨグ」
「あ、や、め、ろ。もうやめて……っ」

ダニエルはヨグの脚を持ち上げ、再び突き上げ始めた。ヨグは見るからに体力がない。快感が過ぎて辛いのか、涙をこぼしている。なんでアドラスはヨグを助けないのだ。睨みつけると、アドラスが囁いた。
「人様の恋路を邪魔するなよ」
「恋路って、無理矢理にしか見えないぞ」
「ああいうプレイだろ?」
そうは見えないが。だいたい、ヨグはセックスには興味がないはずなのだ。あんな過激なことをしたがるだろうか。俺が怪訝な目で見たら、アドラスが肩をすくめた。
「ダニエルは見た目と違って相当腹黒いからな。執念深いし、欲しいものは必ず手に入れるぜ。邪魔したらこっちがひどい目に合わされる」

まさか、あのダニエルが、そんなやつだったとは。人の裏を見るのが仕事なのに、気づかなかったぜ。結局、アルファは全員異常に性欲が強いってことだ。ガッカリしていると、アドラスが俺の身体をまさぐってきた。
「おい、何してんだ」
「あの声聞いてたら、興奮してきた」
「アホか、離せよ」
アドラスを押しのけていたら、ダニエルがひょいっと俺の顔を覗き込んできた。
「何してるんです、二人とも」
「うおっ」
「ヨグはいいのか?ダニエル」
「気絶しちゃったんですよ」

ダニエルはそう言って、肩に背負ったヨグを見た。ヨグの頰には涙の跡がついている。普段が普段なだけに、その姿はひどく痛ましく見えた。俺はダニエルを睨みつけた。
「おい、おまえ。ヨグを変な趣味で痛めつけるな」
「痛めつけるだなんて、人聞きが悪いな。これは愛情表現だよ」
「ふざけんな変態」
俺はダニエルの襟首を掴んだ。
「友達とか言って、ただ性欲処理に使ってるだけじゃねえか。そいつはおまえのおもちゃじゃないんだ。さっさと離せ」
ダニエルはまじまじと俺を見て、微笑んだ。拍子抜けするぐらい素直に、背中から下ろしたヨグを俺に預ける。ヨグの身体は、びっくりするぐらい軽かった。彼の全身にはアルファの──ダニエルの匂いが染み付いている。これって……。俺は瞠目してダニエルを見た。ダニエルは肩をすくめる。

「マーキングだよ。彼はオメガだってことに無自覚だからね。変な虫にたかられても気づかない」
「番いにすりゃいいだろ」
「舌を噛んで死ぬって言われたんだ」
アドラスに対して、そう言ったダニエルは少し悲しそうだった。だからといって、あんなやり方をする必要はあるのか。俺が憮然としていたら、ダニエルが笑いかけてきた。
「ああそうだ。君の手相、もうすぐ死ぬって出てたよ」
俺はあっけに取られた後、ダニエルに指を突きつけた。
「……なんなんだあいつ!?」
「だから、ああいうやつなんだって」

アドラスはあくまで人ごとのような顔をしている。こいつがちゃんと注意しないから、ダニエルが増長するのではないのか。仮にも騎士団の長ならば、部下の行動を把握しろと言っておいた。アドラスは俺の説教に嫌気がさしたのか、さっさと退散した。散らかった床を片付けていると、ベッドに寝かされていたヨグが身動ぎした。俺は彼に駆け寄って、ベッドから起き上がるのを手助けする。ショックが抜けきらないのだろうか。ヨグはまだぼんやりしていた。

「大丈夫か、ヨグ」
「……眼鏡……」
俺は床に落ちていた眼鏡を拾い上げた。つるが曲がっている上に、分厚いレンズには、ヒビが入ってしまっている。ヨグは構わずに、壊れた眼鏡をかけた。つるが歪んでいるせいでうまくフィットせず、少し浮いている。その様子を見たら、ますますダニエルが許せなくなった。俺は薬茶を淹れてヨグに差し出す。
「ダニエルがあんなやつだとは思わなかったぜ。なあ」
「アルファはそんなものだよ。力が彼らより断然劣るオメガは抵抗できない」
ヨグは極めて冷静な口調で言った。彼の声には、心の乱れは全く見られなかった。
「しかし、あの男は変わっているね。私じゃなく他のオメガを誘えばいいのに。あまりにしつこいから、二度と来るなと言ったらああなった」
「なんでそんなに平然としてるんだよ……」
「あの男に犯された所で、私には変わりがないからだよ。眠れば元通り」

あれだけ泣いていたのに、ヨグは何事もなかったかのような顔をしている。こいつもしかして……眠ることで、嫌な記憶を頭の中で全部リセットしてるのか? 薬茶を飲んだヨグが肩をすくめた。
「ああまでして番いが欲しいのかね。私には理解できない」
アドラスみたいなことを言っている。こいつとアドラスなら、利害の一致でうまく……いかないか。
翌日、ヨグの様子を見るために研究室に向かうと、彼の眼鏡が元に戻っていた。
「あれ、眼鏡治ったのか」
「朝起きたら治っていたんだよ」

ヨグはそう言って、ひっひっ、といつもの笑い方をした。俺はほっと息を吐き、彼のために薬茶を淹れてやった。
「元気そうで安心した」
ヨグは薬茶を受け取って、ずず、と啜る。彼はカップから唇を離し、上目遣いで俺の方を見た。
「そういえば、陛下の番いに選ばれたってね。おめでとう」
「おまえからすれば、番い制度なんて理解できないんだろ?」
「子が生まれないと、この世界は立ち行かないからね。だけど私にとっては、未知なる世界のほうが興味の対象だよ」
ヨグの視線は鏡に注いでいる。その瞳には、いまにも向こうの世界に行ってしまいそうな危うさがあった。不安になった俺は彼を引き戻すべく、声をかけた。
「なあ、おまえ、ダニエルのこと、どう思ってるんだ」
「別に、どうとも思っていない」
その言葉には何の含みもないように思えた。言葉通り、ヨグはダニエルには関心がないのだ。
「ああ、これ、ダニエルに返しといてくれ。忘れ物だ」
ヨグはそう言って、ハンカチを差し出してきた。

平和だ。俺は白い犬が走り回る様子を見て、そう思った。
シエルが用事があるというので、代わりにまるをあずかって散歩させていた。リードがないので、俺のことなど構わずに走り回っている。犬は良いよな、気楽で。ふと、まるが向かった先に見知った人物がいるのに気づいた。俺は素振りをしているダニエルに近づいて行った。俺に気づいたダニエルは、素振りの手を止めて笑いかけてきた。俺はハンカチを差し出した。
「これ、預かりもの」
ダニエルは俺から受け取ったハンカチを見つめ、懐にしまった。俺はダニエルをじっと見て、こう言った。

「ヨグの眼鏡、あんたが治したのか」
「よくわかったね」
「俺は、初めて会ったとき、あんたが悪人だとは思わなかった」
「じゃあ見る目がないのかもね」
だが、一対一で向きあって話せばピンとくるものだ。そいつが悪人なのか、それともそうではないのか。俺のカンでは、こいつは極悪人ではない。かといって、善人とは言い切れないが。ダニエルは地面に膝をついて、まるを撫でた。まるはダニエルを見上げ、しっぽを振っている。
「ヨグは、周りのことに興味がないんだ」
「興味がないって……」
「言葉通りの意味だよ。彼は研究以外には無関心。俺が好きだって言っても、無理やりことに及んでも、彼には響かない。素振りを延々やってるみたいなものだね」
素振りは筋力を鍛える効果があるが、反応のない相手に求愛し続けるのは酷だろう。それで相手を傷つけるなんて、不毛としか思えない。諦めたほうがいいんじゃないか。そう言おうとしてダニエルに目を向けると、彼は空に浮かぶ目玉を眺めていた。

「あの目、なにか知ってる?」
「周遊魔法っていうんだろ。気持ちわるいけど、3日で慣れたな」
「あれはね、陛下が動かしているんだ。すごいよね」
ダニエルはそうつぶやいた。
「この城では、悪いことはできないなって思うよ」
巨大な目玉を見上げるその表情は柔らかかった。ヨグを無理やり犯すのは悪いことではないというのか。こいつ、やっぱりおかしいな。俺はダニエルの横顔を見ながら、気になっていたことを尋ねた。
「……あんた、手相占いが得意なんだろ。ヨグに言えば良いんだ。おまえは俺の運命の相手だ、って」
「──彼がそんなの、信じると思う?」
ダニエルはそう言って微笑んだ。ああ、そうか。ヨグは運命という言葉を信じていないから、番い制度に興味がないんだろうな。俺はダニエルからまるを受け取って言った。

「あんたに頼みがある。武器を調達したいんだ」
「武器ねえ……魔法が使えない人間に扱える武器といったら、刃物ぐらいかな。剣は使えないの?」
「使えない。拳銃はないのか?」
「拳銃? さあ……聞いたことないね」
やはり、ヨグに召喚してもらうしかないか。拳銃が好きなわけではないが、俺はこの世界では貧弱な部類に入る。自分の身を守るにはそれぐらいの武器が必要なのだ。七瀬を殺したのは、スミス・アンドウエッソンの45口径。極めて殺傷能力の高い武器だ。血まみれの七瀬を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。――武器が悪いわけではない。それを使う人間が悪いのだ。踵を返そうとした俺の背に、ダニエルがこう言った。
「多分だけど、君は殺しても死なないと思う」
「昨日は死ぬって言ってただろ」
「ヤキモチだよ。君はヨグと仲がいいようだったから」
「――ああ、そうかい」
俺はそう返事をし、肩をすくめた。男の嫉妬ってものは、女よりもよっぽどやっかいなのかもしれないと思った。
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