虫愛る姫君の結婚

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秘密

すぐそばにあったもの

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王宮に戻ったシルフィーは、今回の刃傷沙汰について事情聴取を受けた。目撃者は何人もいたものの、シルフィーの身体には傷が残っていなかったので、そもそも事件自体を証明することは難しいと判断された。精神に異常をきたしたエリンは、しばらく、王族が持つ領地で療養することになった。シルフィーはエリンの部屋のベッドに腰をおろし、部屋を見回した。主を失ったエリンの部屋は、どこか寂しく見える。可愛らしいぬいぐるみも花々もすべて撤去され、部屋に残されていたのはメロニア王妃の自伝だけだった。シルフィーは自伝を手に取って、パラパラとめくった。幼い頃はただ恐ろしいことをした、という印象だった。だけど、メロニアは寂しい人だったのかもしれない。エリンはメロニアの自伝を暖炉にくべて、火をつけた。燃え盛る炎が、ページをなめていく。この本が悪いわけではない。だけど、エリンを歪ませた一端には間違いない。死んでなお影響を与え続けるメロニアが、ひどく恐ろしく思えた。
もう二度と、彼女に影響を受ける人がいませんように。そう願いながら、シルフィーは炭化していく本を眺めていた。




エントは副官のバッチを胸につけ、錬金術師庁の庁舎を歩いていた。すれ違うたびに、錬金術師たちが頭を下げる。つい数ヶ月前と同じ状況に戻ったことが、なんだか不思議だった。パラスケスの像を横目に廊下を通り、長官室へ向かう。部屋の前にたどりつき、ノックをすると、ダミ声が返ってきた。ドアが開けると、爪にやすりをかけているがエントを出迎えた。こちらに気づいた長官は、大きく手を広げて見せた。
「よく戻ってきた、エント・ヨークシャー」
「まさか長官に歓迎していただけるとは、驚きました」
「おまえを叩き潰すのはあのチンケな男ではない。この私だからな」
エドヴィアはそう言って歪んだ笑みを浮かべた。チンケな男、というのはラルガのことだろうか。
「彼は人間的には問題があるかもしれませんが、錬金術師としてはあなたより上ですよ」
「好きに言っていればいい。錬金術など使えない方がいいのだ。おまえにはまた私の手足となって働いてもらう。私がいる限りおまえは副官。退官したあとは、このポストはマルゴーに継がせる。その息子がまた長官になる。つまり貴様は一生涯副官だ!」

彼はそう言ってげろげろと笑い声を上げた。エントにそうやってプレッシャーをかけることで、大ダメージを与えているつもりのようだ。言いたいことだけ言ってすっきりしたのか、エドヴィアはもう行っていい、と顎をしゃくった。エントは肩をすくめ、「まだ私の用事が済んでいないのですが」と言った。
「なんだ、復帰の挨拶に来たんじゃないのか」
「王妃様から言付けがあります」
エントは封書を差し出した。エドヴィアは爪やすりで封を切って手紙を取り出す。彼は便箋に目を通すなり真っ青になった。
「どういうことだっ、なぜ私がベールズになど行かねばならないのだ!」
「最近地盤沈下が起きているそうなので、原因を探るようにとのことです」
「だからなぜ私がやらねばならない! 私は長官だぞ。中央にいるべき男だ」
「では、私に錬金術師庁を一任していただけますか」
エントは書面を取り出し、エドヴィアに差し出した。早期退官の書面だ。エドヴィアは青ざめてエントを見上げてくる。
「な、なんだと……早期退官!? 女王は私を追い出す気か」
「王妃様は長官の手腕を確かめたいそうです。ただ権力にしがみつくだけの存在は必要ない、と」
「おまえには管理官としての手腕があるというのか! たかがキメラビーを討伐しただけだろうが!」
「王妃様は私と約束してくださったのです。エリクサーを発見すれば長官の地位を約束する、とね」

エドヴィアはポカンとしたあと笑い出した。
「エリクサー!? いつそんなものを発見した! 貴様が村でやっていたことといえば魚釣りと、村長の娘の結婚式に参列したことぐらいだろう!」
「なぜご存知なんです?」
エントの問いに、エドヴィアが笑うのをやめた。
「村長から聞きました。長官は非常に私のことを心配し、手紙で逐一様子を尋ねてきたと。ですが、先ほどの発言を加味しても、あなたに心配していただく理由が見当たらない」
「部下の状況を把握するのは長官の務めだ」
実際には何かへまをやらかさないかと監視していたのだろう。村長は人がいいので、 そんなことには全く気づいていないようだったが。とてもいい上司をお持ちなんですねえ。村長はそう言って朗らかに笑っていた。エントは机の上に置かれているワインのボトルに視線を向けた。おそらくあれは村から送られてきたものだ。エドヴィアはそれを傍によけ、ふんぞり返っている。

「あなたは間違っている。観察すべきは私ではなく、シルフィーです」
「あの変な娘がなんだというんだ」
「彼女はエリン姫に刺され、井戸に落ちたが死ななかった。そのうえ、錬成石がなくても錬金術が使える」
「バカな。どんなに高名な錬金術師でも、錬成石は必要なはずだ。ましてやあの娘は素人だろう」
だからです、とエントは言った。あの日──温室で本を読んでいるシルフィーを見た時に気づいた。彼女は光や雨、雪、そういった自然から生まれるものを自然に化学反応させ、熱を発生させることができる。だから媒体がいらないのだ。エントはエドヴィアを見据え、静かにこう告げた。
「彼女自身がエリクサーなのです」
長官はしばらくぽかんと口を開けていたが、真っ赤になって反論した。
「バカな! エリクサーは万能物質だ!」
「その概念が間違っていた。エリクサーは作ろうと思って作れるものではないのです。シルフィーは実の母親によって殺される運命でしたが、土壇場で奇跡が起きたのです。その日は雪が降っていた。シルフィーはエリクサーの力によって熱を発生させ、思いとどまらせた。そのことに、彼女は自分でも気づいていません」
エドヴィアはしばらく椅子にもたれかかっていたが、やがて唸るような声でこう言った。
「君の仮説が正しいとして、なんなんだ」
「先ほどの話を聞いてらっしゃらなかったのでしょうか。この事実を王妃様にお伝えすれば、私は長官の地位を得ます」
エントはエドヴィアに身を寄せて、その耳元で囁いた。

「私に手柄を立てさせた上でみじめに退官するか、自主退官して退職金を受け取り、田舎で悠々自適な生活を送るか、どちらがお望みですか」
エドヴィアは苦渋の表情を浮かべた。彼は何も言わなかったが、脳内で激しく葛藤しているのがよくわかった。額には脂汗が滲んでいる。ここまで悩んでいる彼は初めて見たかもしれなかった。もっと仕事のことで悩めよ。そう思っていると、エドヴィアが口を開いた。
「──結局おまえも出世に取り憑かれていたということだな」
エントはその言葉を否定しなかった。死にかけている仲間をみたとき思ったのだ。守りたいものを守るために、権力は必要なのだと。エドヴィアは書面を奪うようにして手にし、サインを書き殴った。それをこちらに投げつけてくる。エントはそれを受け取って、懐にしまった。

「では、長官はこのまま続けてください」
エントの言葉に、長官が怪訝な顔をした。
「なんだと?」
「欲しいのはポストではなく権力なので。エリクサーの研究を兼ねて、私はサイレージ村で副官として暮らします」
「バカな、あんな田舎にいて中央を管理できるはずがない」
「アレックスに報告させます。あなたが隠蔽しても彼が知らせてくれるでしょう」
エントはそう言って振り向いた。ドアの隙間から覗いているアレックスと視線が合う。ドアノブに手をかけると、エドヴィアが吠えた。
「なぜ王妃様にシルフィー・ドレーンのことを進言しないんだ。長官に収まるチャンスだろう」
エントは振り向いて微笑んだ。
「私の妻が田舎暮らしが好きなので」
長官が苦虫を噛んだような顔をしているのを見て、気分がすっとした。エントはドアを閉めて、廊下を歩いていった。背後からついてくるアレックスが興奮気味に言う。

「影の権力者って感じでかっこいいですね!」
「それじゃ悪人だろう」
ふと、言い争いをしているマルゴーとリサの姿が目に入った。
「ねえ、どういうことなのよ、錬金術師をやめて田舎に行くって」
「田舎で酪農するのが夢だったんだ」
「私は嫌よ!」
「じゃあこなくていい。子供も一人で産んだらいい」
わめいているリサを無視し、マルゴーがこちらにやってきた。彼は軽く会釈し、通り過ぎようとする。すれ違い様に、アレックスが吐き捨てた。
「男ならちゃんと責任を取れよ。そんなんだからいじめられたんだぞ、おまえ」
「君にとやかく言われたくないよ。自分の行為を正当化しないでくれる?」
マルゴーは冷たい目でアレックスを見た。

「錬金術師なんてゴミみたいな連中ばっかりじゃないか。君とか、僕の父親。ラルガさんだって」
怒りをあらわにしたアレックスを、エントが抑えた。マルゴーはひどく疲れた顔をしていた。
「君は──シルフィーのことを知ってたのか?」
「ええ。彼女、普通じゃないから」
「そりゃわかってたことだろ」
マルゴーは憐れみの目でアレックスを見て、そういう意味じゃないよ、と言った。シルフィーがエリクサーの力を持つと知っているのはおそらく、エントとマルゴーだけなのだ。彼は自分で言うほど、錬金術師として劣っているわけではない。エントは彼をじっと見て、こう言った。
「本当にやめるのか」
「ええ。もううんざりなんです」
エントはそうか、とつぶやいて、マルゴーに笑顔を向けた。
「酪農は錬金術師よりずっと大変だぞ。朝は早い、仕事はきつい。休みもない。君みたいなやつはどうせ逃げ出すだろうが、がんばって」
彼の反応を確かめずに踵を返す。追いかけてきたアレックスが囁いてきた。
「副官って、怒ってる時笑顔なんですね」
「シルフィーがあんな男に惚れてたと思うと腹が立つんだ」
おーい、と聞こえてきた声に視線をあげると、手を振っているシルフィーの姿が目に入った。窓から差し込む光を浴びた彼女が、きらきらと輝いて見える。思わず頬を緩めると、隣にいたアレックスが、あんな変な女にベタ惚れなんですねえ、としみじみつぶやいた。
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