虫愛る姫君の結婚

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悪女の娘

出会い

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その日から、シルフィーはヒマを見つけては、オズワルドからもらったノートを読んだ。ノートには膨大な書き込みがされていて、何度もめくったせいか紙がたわんでいた。シルフィーはそもそも字が読めないので、何が書いてあるかはよくわからなかったが、不可解な図式や計算式には興味を惹かれた。掃除の合間、ぎしぎしときしむ汚い床に、その図式を真似て書いてみたりもした。シルフィーは男がやっていたのと同じように「賢者の石」の指輪を嵌めた。なんとか完成した図式を前に、ポーズを決めて見せる。

「いでよ、ドラゴン!」
 当然ながら、何も起こらなかった。シルフィーはへへっと笑って、掃除に戻った。天井裏に住むネズミがちゅう、と鳴き、蜘蛛がカサカサと床を這っていった。
 その夜、シルフィーは妙な物音で目を覚ました。床がぎしぎしと鳴って、そのたびにほこりが床に落ちている。
「ん~……」
 ベッドから起き上がったシルフィーは、ぎょっとした。真っ暗な闇の中、何か巨大なものがこちらを見下ろしている。それは天井まで届くほどの大きさの蜘蛛だった。
「も、もしかして、バロン?」
 そう尋ねたら、蜘蛛が前足を上げた。
 シルフィーはそっと手を伸ばし、バロンの前脚を撫でた。ふわふわとした感触にうっとりしていたその時、階段を登る音が聞こえてきた。ドアが開いて、女主人が顔を出す。

「ちょっとシルフィー。あんた、なにばたばたさわいでるんだい──」
 バロンを見た女主人は、しばらく呆然としたあと、甲高い悲鳴をあげた。階段を駆け上がる音がして、銃を持った夫が現れた。彼がバロンに銃口を向けたので、シルフィーは慌ててバロンの前に立ち塞がった。
「やめて! バロンは何もしないわ!」
「あんたが連れてきたのかい! なんなんだ、その化け物はっ」
「屋根裏に住んでる蜘蛛です。名前はバロン」
「そんなもんが住んでた!? バカを言うんじゃないよ! 撃ちな、レイル!」
 レイルが引き金を引くと、弾が発射された。シルフィーはポケットに入っていた賢者の石を取り出し、近くにあったハンガーで盾を錬成して、突き出した。盾に当たった弾が床に落ちて、空虚な音を立てる。夫婦はポカンとした表情でシルフィーを見ていた。
 数十分後、シルフィーは椅子にしばりつけられた。バロンは心配そうにシルフィーのそばをうろついている。シルフィーはバロンを見上げて、大丈夫だというように笑って見せた。その時、ドアが開いて、見知らぬ男が現れた。三人は一斉にそちらへ視線を向ける。美しい銀髪に、深いグリーンの瞳。真っ黒なロングコートをまとっている。賢者の石の指輪を嵌めた指をかざして唱える。
「神が与えし賢者の石よ、我が手に剣を」
 男の掌から氷の剣が出てきた。彼が剣を振ると、空気が急激に冷えて、バロンがフリーズした。シルフィーは息を飲んだ。男はバロンに近づいていき、しげしげと見上げた。
「これは驚いたな。キメラインセクト──いや、本物の蜘蛛か?」
 男がバロンを剣先で突いたので、シルフィーは叫んだ。
「殺さないで!」
彼はチラッとシルフィーを見て、剣を下ろした。
「運んでくれ」
 男は背後からやってきた人々にそう命じた。シルフィーはとっさに、持っていた賢者の石をバロンに投げつけた。次の瞬間、フリーズが解ける。それを見た男たちがどよめいた。
「嘘だろ、エント副官の凍結を解除するなんて」
 エントと呼ばれた男は、深緑の瞳でじっとシルフィーを見た。
「君は何者だ?」
「シルフィー・ドレーンです」
「俺は錬金術庁副官のエント・ヨークシャー。長官が最期にここに立ち寄ったと聞いて来た」
「長官……?」
 シルフィーはぎゅっとバロンを抱きしめた。

「よくわからないけど、バロンを殺さないで」
「わかったから、そっちも落ち着いてくれ」
 エントはどうどうと手をかざし、シルフィーの拘束を解いた。シルフィーを連れて階下へ降りて行った彼は、食堂の椅子を引き寄せて座った。それから女主人に「コーヒーを淹れてくれないか」と言う。彼女は引き攣った顔で、シルフィーとエントを見比べている。エントは肩をすくめ、カウンターに入った。彼はお湯を沸かし、コーヒーを淹れて、笑顔でシルフィーを見た。
「君も何か飲む?」
 シルフィーがかぶりを振った。エントはコーヒーを一口飲んで息を吐いた。
「やっぱりコーヒーは自分で淹れたほうがうまい。そう思うだろ?」
「私、コーヒー飲んだことないので……」
「そうか。大人になったらわかるよ」
 エントはそう言って、カップを置いた。
「さてと──シルフィーだったか? 君、長官から何か預かっていないか」
 長官とは誰かと尋ねたら、先日ここで亡くなった男だと返って来た。
「彼は錬金術師長官のオズワルド・キングス。史上最高の錬金術師と呼ばれていたが、身体を壊して療養中だった」
「あのおじさん、そんなに偉い人だったんですか」
「名乗らなかったんだな。あの人らしいが」
 エントは悲しみと誇らしさが入り混じった顔をした。シルフィーがノートを差し出すと、エントはそれを受け取ってめくった。

「間違いない。長官の研究ノートだ」
 彼はさっと立ち上がり、部下を引き連れてその場を去ろうとした。女主人が慌てて彼に声をかける。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。この蜘蛛はどうするんだい」
 エントはちらっとシルフィーを見て、皮肉っぽく唇を緩めた。
「さあね。ここの名物にしたらどうですか。でかい蜘蛛なんて、珍しいですし」
「冗談じゃないよっ、その娘ごと持ってってくんな」
 女主人は憤慨しながらシルフィーの背中を押した。シルフィーはたたらを踏んで、エントの腕の中に倒れ込む。シルフィーは鼻を押さえ、困惑しながらエントを見た。エントはふっと笑って指を鳴らした。とたんに、バロンが肩に乗れるほどのサイズに変わる。
「一緒に来るか、シルフィー」
 シルフィーは頷いて、エントの手を取った。
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