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8話

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「喜んでくれ。君のIQ、ずいぶん高かったんだよ」
二回目の診察の時、〝先生〟が嬉しそうな顔で言った。周りの診察室の様子は以前と変わることなく、木の温もりに満ちていた。

「じゃぁ、さっそくだけど脱いで。今日も脳波を見るから……どうした?」
動かない私を見て、〝先生〟はデスクから顔を上げた。

「具合でも悪い? 顔色が悪いよ」
「……ちょっと、寒気がして」
「どれ」

〝先生〟が私の首筋に手をおいた。私はこれ以上鼓動が速くならないよう、必死に心臓に言い聞かせる。

寒気がするなど嘘だった。
本当は、見られたくなかったのだ。身体に残った痕や傷を。

(……〝先生〟に嘘をつくなど、許されないのに)
頭ではそうわかっていながらも、私は黙り続けた。

「確かに、ちょっと脈が速いね」
〝先生〟は手を離すと、デスクに向き直りカルテにペンを走らせた。

「風邪の初期症状かもしれない。急な環境の変化で、疲れが出たんだろう。今日はここまでにしておくから、あとは部屋でゆっくり休みなさい。念のため、薬も出しておこう」
〝先生〟は、デスク脇にある引き出しから一錠の薬を取り出し、差し出してきた。

「飲んで。神経を休める薬だから」
「ここで、ですか……?」
「うん。効いてくるまでに少し時間がかかるからね。今飲んでおけば、部屋でぐっすり眠れるだろう」
〝先生〟は私の掌の上に錠剤を置くと、再びカルテに目を向ける。サラサラとペンが走る音を聞きながら、私の意識は掌の上のものに注がれていた。

飲むべきか、飲まないべきか。
〝王様〟は出された薬は飲むなと言った。
だがそんなのは狂人の言葉だ。あんなことをされたのに、彼を信じる必要がどこにある?

「〇一番?」
ハッと我に返ると、〝先生〟が不思議そうにこちらを見ていた。

そこまで年はいっていないはずなのに白髪が目立つ〝先生〟の容貌は、老神のようにどこか超然とした雰囲気を感じさせた。
(大丈夫だ。この人に任せておけば)

錠剤を口に運び、飲みこもうとした、その時。
「うがぁぁあぁぁあああッ……!」
耳をつんざく絶叫が、小さな診察室中に響いた。

私はびくりとして、デスクの斜め後ろにあるスチール製の扉を見た。どうやら声は、そこから響いてくるようだ。

現在は使われていないはずのその治療室からは、他にも多くの音がもれ聞こえていた。
ひそひそと話す人の声。高い金属器具の音。唸る機械の作動音。

だが何より、耳をとらえて離さなかったのは──。

「あああぁぁっ……!」
全ての音を打ち消してしまうほどの大叫喚。
誰の悲鳴かはすぐわかった。

──〝王様〟だ。

彼の叫び声など、これまで何度も聞いているからわかる。だが今のは、これまで以上の苦痛と狂気に満ちた声だった。

「一体、何が……?」
扉を見つめたまま動かない私に、〝先生〟がのんびりとした口調で言う。

「〝王様〟の新しい治療だよ。脳に電流を流して細胞を刺激してやるんだ」
「脳に電流を? そんなことして、大丈夫なんですか?」
「命に危険のないレベルで綿密に計算してあるから、大丈夫」

再び、〝王様〟の絶叫が上がった。その声は徐々にかすれ、最後には声にならない声になる。
「……すごく苦しそうだ」

思わず呟いてしまった言葉に、〝先生〟が重々しく頷く。
「そりゃね。だが苦痛に見合うだけの効果はある。君がそんな顔をする必要などないんだ」

悲鳴が上がる度、眉を寄せていく私を見て〝先生〟が言った。
「君は他人の痛みなど感じないはずだ。むしろ自分の痛みすら感じない。なのにどうしてそんな顔をしている? どんな気持ちだ?」

答えられずにいると、〝先生〟は長いため息をついた。
「今日はもう帰りなさい。また明日おいで」

ふっと微笑んだ〝先生〟の後ろで、再び絶叫が上がる。
吐き気を覚えるほど気持ち悪い光景だった。

私はこれ以上ここにいたくなくて、フラフラと席を立った。
(〝王様〟は自業自得なんだ)
そう何度も自分自身に言い聞かせながら、診察室のノブを回す。

「待って」
後ろから〝先生〟が私の腕を掴み、袖を捲ってきた。

「この腕の傷は何かな? それにこの匂い──」
〝先生〟が、おもむろに私の首もとに鼻先を近づける。

「バラだね。それも噎せかえるように強い。こんなに匂いが染みつくまで、あそこで何をしていたのかな?」
探るような 〝先生〟の目に、ギクリと身体が強ばる。

「〝先生〟、これは──」
「いや、いい」
〝先生〟はふるふると首を振ると、デスクに戻った。

「追求するのは止めておこう。病院内でなら、どこへ行こうと何をしようと許すと言ったのは、僕だからね。ただし、あんまりオイタはいけないよ。さあ、もう行きなさい」

ドアの前で立ち尽くす私を見て、〝先生〟はカルテから顔を上げずに言う。私は小さく頭を下げると、脇目も振らずに診察室から出ていった。

診察室のドアを閉めると、〝王様〟の絶叫はもう聞こえなくなった。廊下を歩きながら、私は言い知れぬ不安を感じた。

〝先生〟は何も言わない。
彼はいつも曖昧な言い方をして、こちらにもはっきりとした答えを求めない。

だが、そうされればされるだけ、不安は増す一方だということを、〝先生〟は知っているのだろうか?
この時初めて、私は〝先生〟へのほのかな不信感を抱いた。


昼間ということもあってか、閉鎖病棟に他の患者はいなかった。いつもなら近くにいるはずの〝笑い犬〟も、今日は見当たらない。

私は病室に入るなり、辺りを見回した。そして誰もいないことを確認すると、奥歯の奥に隠してあった錠剤を取り出し、備え付けの洗面所にそれを流した。

決して、〝王様〟の言葉を信じている訳ではない。
ただ、時間が欲しかったのだ。
一体誰を、何を信じていいのか判断する時間が。



目を覚ますと、辺りは闇に沈んでいた。診察のあと、うたた寝のつもりが寝すぎてしまったらしい。
消灯時間を過ぎた病室は、天窓からもれる月の光で、ぼうっと青白く浮きあがって見えた。

カタリ。
小さな物音がして、ベッドから身体を起こす。鉄格子の前で、誰かがジッと私を見ていた。両の目の鈍い光だけが、闇に浮かんでいる。

「〝眠り男〟かい? どうし──」
「なぜ、あんなことをしたんだっ!」

鋭く震える怒声が、夜の静寂を切り裂いた。房の前に立っていたのは、〝笑い犬〟だった。暗くてよく見えないが、その肩はいかり、ハァハァと荒い息遣いで激しく上下している。

私は驚いた。彼がこんなに感情を露わにすることなど、初めてだったから。
呆然としていると、ガチャリと鍵が開く音がして、〝笑い犬〟が病室に入ってきた。カツ、カツという硬い足音がゆっくりと近づいてくる。

「わ、〝笑い犬〟……?」
異様な相手の雰囲気に圧倒され、ベッドの隅へと逃げる。すると相手の腕が伸びてきて、勢い良くベッドに押さえつけられてしまう。

「どうして、あんなことをっ……!」
〝笑い犬〟は私の身体の上に四つん這いになると、威嚇する犬のように歯を剥き出しにして顔を近づけてきた。血走った目が、薄暗闇の中、ギラギラと光る。

「あなたは〝人形〟だ。〝先生〟の言うことだけ聞いていればいい。それなのに、どうして、どうして薬を捨てたんですっ!」
「!? 何で、それをっ……?」

あの時は、確かに周りには誰もいなかったはずだ。

「いいから、答えて下さいっ、どうして、どうして……!?」
追い立てるように肩を揺さぶられ、息を呑む。

「……ッ、わ、わからない……自分でも……なんで、あんなことをしたのか……」
ぴたりと〝笑い犬〟の手が止まった。

「……〝王様〟だな」
伏せられた口元から、低い唸り声がもれる。

「〝王様〟のせいだろうっ! いつもそうだっ! 貴方はなぜ、あんな人の言うことを信じるんですっ! あの人は狂っているっ! どうして、それがわからない!? 昨日も、あんな目にあったというのに!」
〝笑い犬〟の口ぶりは、昨日、〝王様〟と私との間にあったことを知っているかのようだった。

(もしかして、あれも見られていたのか?)
カッと顔が熱くなる。それを見て、ピクリと 〝笑い犬〟の眉がつり上がった。ドンと、私の顔の横のシーツに拳を叩きつける。

「どうして……! どうして貴方にそんな顔をさせられるのは、〝王様〟だけなんだ!」
〝笑い犬〟は、私の髪を掴み上げると、顔を近づけてきた。

「貴方は〝人形〟だ。人を人とも思わず、顔色一つ変えることなく精神を解剖し、切り刻む冷酷無比な〝人形〟。私は貴方がずっと憎くて仕方がなかった。そのすました顔をグチャグチャに歪ませてみたかった。泣き叫ぶ顔や、恥辱で汚れた顔を見てみたかった。でもあの頃、それが出来たのは〝先生〟だけだった。だから私は〝先生〟の側についた。それなのに、〝王様〟はいつも突然現れては、貴方をさらっていくっ! どうして! どうしてっ!」

一際大きな声で吠えたと思うと、〝笑い犬〟は私の首もとに噛みついてきた。

「……うっ!」
敏感な肌をえぐる歯の感触に、私は身震いをした。滴り落ちた血を、〝笑い犬〟は一滴たりとも零さぬようにピチャピチャと舐めとる。

「昨日はどうでした? 無理矢理だったっていうのに、貴方は随分と悦さそうな顔をしていましたね。〝王様〟は優しいな。もし私が彼だったら、これ以上ないほど痛めつけて、貴方が許し乞うまで責め立てるのに。そして、とことんまで教えて上げるんだ。痛みこそが真の快楽だと」

〝笑い犬〟が、唇をめくれさせるように笑った。
苦痛でも快楽でもない。何とも言えない、奇妙な笑い方。

私はこの時になって初めて、彼がどうして 〝笑い犬〟などという名がつけられたのかを知った。
主人を窺う媚びと、獲物をねらう肉食動物の鋭さ──被虐と嗜虐が入り交じった犬のような笑い方は、確かに一度見たら容易に忘れることはできない。

「離、せっ……!」
私は相手の肩を押し返そうと、ガムシャラに拳を振った。そのうちの一つが〝笑い犬〟の頬に当たる。

「……ッ」
〝笑い犬〟はしばらく殴られた頬を手で押さえていたかと思ったら、さらに笑みを深くした。

「いいですよ。もっとやって下さい。もっと私を痛めつけて下さい。昔、貴方が私にしたように。貴方は、私の心をズタズタにした。だから、次は私の番です。今度は、私が貴方をズタズタにしてあげます。大丈夫。すぐに、悦くなるから」
「……ンッ!?」

腹に冷たいものが当たった。青白い部屋の中、銀の光が不気味に冴える。
ナイフだ。身を固くした私を、〝笑い犬〟は熱っぽい視線で見下した。

「いいですね。もっと見せて下さい。貴方が恐怖を感じている顔を」
全身を舐め回すように見ていた〝笑い犬〟の視線が、あるところで止まった。

「この髪、邪魔ですね。〝人形〟はこんなに長くはなかった。いっそのこと、切ってしまいましょう」
ナイフの刃が、私の襟足の毛にあてられる。ビクリと私の身体が、電流が流れたように勝手に動いた。

「い、嫌だっ……! 止めろっ……!」
ナイフを掴み取ろうと、手を伸ばす。怪我することなど、一辺たりとも頭に浮かばなかった。

ただ守りたかった。
あの日、〝王様〟がここに優しく触れた記憶を。

「檻に戻れ! 〝笑い犬〟!」
突然、隣の部屋からドンと壁を叩く音が聞こえた。びくりと〝笑い犬〟の身体が痙攣し、信じられないものを見るかのように向かいの壁を凝視した。

「この声……まさか〝王様〟……!? いや、そんなはずはない……貴方はあの治療で気を失って……二三日は目を覚まさないと〝先生〟が……」
「そりゃ、残念だったな。お前の〝先生〟も間違うことはある訳だ」

かすれたせせら笑いに〝笑い犬〟は顔を赤くしたが、〝王様〟が苦しげに咳き込み出すと、ほっと息をついた。

「なんだ、やはり〝先生〟は正しかったようだ。まったく驚かせないで下さい。気丈に振る舞っても無駄です。声が震えていますよ?」
「黙れ。〝笑い犬〟。無駄吠えしていないで、そろそろ自分の犬小屋に戻ったらどうだ? まさか興奮しすぎて忘れたっていうんじゃないだろうな? それなら教えてやろうか? お前の部屋は──」
「言うなっ……!」

〝笑い犬〟がギクリとして、下に横たわる私の方を見た。

「ふん。どうしてだ? 〝笑い犬〟──いや、〇三番。お前の病室は俺の隣、〇三号室だろう?」

○●----------------------------------------------------●○
3/13(日)

本日、PV数がそろいましたので
『マイ・フェア・マスター』『白い檻』どちらも更新させていただきます。

動画を見てくださった方、いつもありがとうございます!!

〈現在レース更新中〉
↓↓以下の作品の動画のPV増加数に応じて、
その日更新する作品を決めさせていただいていますm

◆『マイ・フェア・マスター』(SM主従BL)
https://youtu.be/L_ejA7vBPxc

◆『白い檻』(閉鎖病棟BL)
https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ
○●----------------------------------------------------●○
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