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「あいな様を探すため彼女の目撃情報を得つつ私達が暮らしていく方法があります。私は過去に医師免許を取りました。その資格を生かし、巡業をするのです」
「え!?お前、医師免許持ってたっけ?初耳だぞ!医術を学んでいるとは聞いていたが……」
「報告する必要性がなかったので。城には常駐の医師が居ましたしね」
「医師免許取るのって難しいだろ?いつ取ったんだよ」
「二十歳の頃に取りました。専属執事になるまでの見習い期間を思えば、医術を吸収するのは簡単なことでした。執事は強い精神力が必要ですから」
「お前のそういうとこ、時々寂しくなるよ。資格取った時に教えてくれてたら、お祝いのひとつやふたつできたのに」
「その資格を、今生かすのです」
「俺の心情はスルーかっ!」

 ガックリうなだれるシャルをさらりとかわし、ルイスは涼しい顔で説明した。城下町を中心に、貧しい人々の病を診て歩く。その先々で、運が良ければあいなの目撃情報を得られるかもしれない。

「いい案だな!」

 シャルは気を取り直す。

「俺も簡単な治癒魔法なら使えるし。でも、何だがまどろっこしいやり方な気もするな。そんな悠長(ゆうちょう)にやっていたらあいなはどんどん遠くに行ってしまうんじゃないか?」
「そうですが、かといって表立ってあいな様を探して回るのはもっと良くありません。私達に会いたくない事情があるからあいな様は黙って城を出ていかれたのです。私達に捜索されていることを知ったら、それこそあいな様は遠くに逃げてしまうでしょう」
「そうだが、でも……」

 安心させるように穏やかな顔で、ルイスはシャルを見据(みす)えた。

「ハロルド様は、あいな様を影で守っているとおっしゃっていました。それに、居場所は聞き出せませんでしたがいくつか手がかりは得られました」

 シャルやルイスには見付けられない場所にあいなはいる。ハロルドはそう言っていた。

「城で暮らしている私達が普段行かない場所はたくさんあります。城下町の酒場、武器屋、宿に食堂、魔法学校、武術学校、宿舎。
 王族の間(ま)に移られた日、あいな様には必要なお金を充分にお渡しいたしましたが、さすがにそれだけで暮らし続けていけるほど城の外の暮らしは甘くありません」
「そうか…!酒場や宿、あいなはそういう所で働いている可能性があるということだな?あいなは、地球に居た時もバイトをしてると言っていたし」
「そういうことです。今朝に城を出られたのだとしても、それほど遠くには行っていないと思います」
「よし!そうなったらさっそく、明日から医者として巡業の旅の始まりだな!希望が見えてきたぞ!!」

 瞳を輝かせるシャルに、ルイスは思わず笑みをこぼした。

「全くもう、シャル様にはかないませんね。あなたがそう言うと、本当に何でもうまくいくような気がします」
「当たり前だ。俺に出来ることは何でもするから、遠慮なく指示してくれよ?」

 微笑していたルイスは、次の瞬間わざと厳しい顔を見せシャルに念を押す。

「協力的なのはありがたいですが、あなたは将来一国を治めるお方なのですよ?城で何かあった場合は即刻帰っていただきますからね?」
「分かってるって!その物言い、専属執事を辞めたとは思えないぞ?」
「そんなことを言うともう知りませんよ?やはりシャル様は置いていきます」
「ちょ、待てって!悪かったよ、見捨てないでくれぇっ」
「分かって下さればいいのです」

 ルイスのおかげで、どうにか今夜の宿が見つかった。城での生活と比べると寂れた部屋だが、二人部屋で解放感があるし、城とは違う雰囲気が二人の心を穏やかにしてくれた。バスルームもついているし不便はない。

 軽くシャワーを済ませたシャルは、窓辺で夜景を見ているルイスに声をかける。

「悪いな、ルイス。お前はもう俺の執事じゃないんだし、こんなのいけないよな」
「はい?」
「やっぱり、明日からは別行動しよう。俺も多少の金は持ってきたし、当分は一人でも何とかなる。甘えて悪かった」
「今さらですよ。旅は道連れと言うでしょう?」
「執事を辞めたのに俺と行動するの、嫌じゃないのか?」
「嫌だったら、こうして二人分の宿を取ったり共に巡業する提案などしませんよ」

 ルイスは窓辺に手をつきシャルに背を向けたままだが、その声音はどこか優しい。シャルは目を丸くしてルイスの顔を覗き込む。

「もしかして、お前も一人旅は寂しいのか?」
「な、何をおっしゃるのかと思えば…!そんなわけないでしょう?孤独には慣れています」
「本当か?強がりじゃなくて?」
「無防備過ぎるシャル様を放っておくのは人としてどうかと思っただけです。城内と違って、旅には様々な危険がつきものです。王子の自覚に欠ける、しかも攻撃魔法を完全な形で習得していないあなたを野放しにしておくわけにはいかないのですよっ」
「心配してくれるのはありがたいけど、もうちょっと素直になってもいいんじゃないか?長年執事をしてきたから仕方ないのかもしれないが、そんな身(み)も蓋(ふた)もない事ばっか言ってると、せっかく恋人になったあいなにも振られるぞ?」
「余計なお世話です!こんなこと、あなたにしか言いませんっ」

 執事を辞めたからなのか、心理的距離が縮んだからなのか、シャルに対するルイスの口調はだいぶ砕けたものになっている。それを嬉しく思いつつ、シャルはいじけた顔で言った。

「恋のライバルだけど、それでも、お前とこうして一緒にあいなを探せるの、嬉しいと思ってるんだ」
「シャル様は相変わらずお人好し過ぎます……。一歩外へ出たら簡単に詐欺(さぎ)に遇いそうで、こちらは心労が尽きません」
「言ってくれるな」

 ため息と共に片手で頭を抑えるルイスに、シャルは柔らかい視線を向ける。

「俺はともかく、あいなも相当お人好しで騙されやすそうなタイプだよな。クロエに嫌味言われてもケロッとしてたし、泣き言なんて言わないし。お前は、あいなのそういう部分には呆れたりしないんだな。俺には口うるさく注意するクセに」
「王子がそんな風では国民の生活に影響するでしょう。外交問題にも発展しかねません、いい迷惑です。それに、あなたとあいな様は性別が違うのですから対応が違って当然です。あいな様にはもっと迷惑をかけていただきたいくらいですよ」
「その十分(じゅうぶん)の一(いち)でもいいから、たまには俺にも甘い言葉をくれよ」
「男を甘やかす趣味はありません」

 ルイスは冷たい瞳で容赦なく厳しいことを言う。しかし、次の瞬間、柔らかい物言いになる。

「でも、さきほどシャル様がハロルド様におっしゃっていたことは、立場を越えて惹き付けられました。王子としては最低の発言ですが、あいな様の居場所を聞き出すためにロールシャイン王国の領土や魔法技術の件を持ち出すとは……」
「王子の器じゃないのかもしれない。最低だな、俺は。ルイスが王子だったら、どうしてた?」
「私もきっと、シャル様と同じことをハロルド様に申し上げたと思います」

 どちらかともなく笑みを交わし、二人そろって窓際のソファーに腰を下ろした。

「国王様がさっき言ってたこと、どう思った?」
「カロス様が昔私の母親と深い仲にあった、というお話ですか?」
「ああ」
「それは……」
 ルイスは答えに詰まる。カロスの息子であるシャルを前に自分が何かを言うのは厚かましいと感じたからだ。
「遠慮せずに言ってくれ。お前はもう、執事じゃないんだ」
「それでも、私に言えることは何も……」

 何を言ってもシャルに対し無神経になる。ルイスは口を閉ざした。

「俺、その話知ってたんだ」
「そうなのですか?」
 ルイスは驚き、シャルの横顔に見入る。
「偶然、国王様の執務室でそういう資料を見つけてしまって……。あいなが昔城に現れた後のことだった」
「よく、今まで黙っておられましたね。あなたにとってカロス様はたった一人の父親です。おつらかったでしょう?」
「ああ……。正直最初はショックだったよ。一瞬だけど、国王様に裏切られた気がしたし、自分の知らない父親の女関係って、なんかそれだけで嫌な感じがした。コソコソ調査してたことも腑(ふ)に落ちなかったし。でも、それは本当に一瞬だったんだ」

 座り直し、シャルはまっすぐルイスを見る。

「お前と異母兄弟なのかもしれないって考えがよぎった時、ただただ、嬉しかった」
「嬉しかった……のですか?」
「ルイスみたいな兄がいたらすっごい心強いしさ。実際今も、お前が居てくれて良かったって思ってる」
「シャル様……」
「ま、血は繋がってなかったから異母兄弟でも何でもないわけだけど。でも、生まれた時からそばにいるお前は、俺にとって兄も同然。大切な家族なんだ。執事でなくても」

 シャルの曇りないまっすぐな目に、ルイスは胸を貫かれた。痛みとぬくもり、優しい感情で胸が満ちる。

「あいな様の想い人があなたでなければ良かったのに」
「え?あいなはお前を好きなんだろう?」
「仮の恋人は本命には敵いませんよ」
「ルイス……?」

 あいなすら気付いていない彼女の心を見透かし、ルイスは一人でそれを受け入れている。シャルはそう感じた。

「あいなの気持ちは俺にあるというのか?」
「さあ、それは私には分かりません」
 何かをごまかすように、ルイスは意地悪な笑みを浮かべる。
「シャル様が相手であろうと私は最後まで諦めませんよ?」
「分かってるって。どうしたんだよ、改まって」
「カロス様のお話、本当のことを言わせていただくと衝撃的でした」

 不自然な流れで、ルイスは話題を戻した。

「母は、私を産む前にカロス様と恋をし、悲しい別れを経験していたのですね。そう知ると、ただ事実としてしか知らなかった両親の存在がとても身近に思えて……。なんと言いますか……。何とも言えない感情で胸が染め上げられます」
 片手で胸を押さえ、ルイスは目を閉じる。
「両親が生きていたこと、その時間を、初めて生(なま)の感情で実感できた気がします」

 泣いて、笑って、恋をし、別れ、子供を宿し、命を終えた。記憶にすら残っていない両親に人間らしさを感じることで、ルイスは、自分に欠けていた何かを埋められらような気がした。

「そうか。お前を満たすことができたのなら俺も嬉しい。良かった」

 思いやるように笑うシャルに、ルイスは肩を下げため息をつく。
(シャル様……。やっぱり私は、あなたには敵わない。あなたがライバルだということを忘れてしまいそうになる。)

「なぁ、ルイス。せっかくこうして旅をすることになったんだ。旅立ちを祝して、朝が来るまで語り明かさないか?ボーイズトークというやつだ」
「余計なことを語り合っても意味がありません」
「なっ、冷たいぞ!?これから旅をする仲間だろ?意味のない会話こそ絆の強さに影響したりするんだぞ??」
「立場上シャル様は離脱する可能性が高いので仲間ではありません、臨時要員です」
「臨時要員って、ひどいな。さっきまで優しかったのに、どうしてあのソフトな感じを保ってくれないんだよ。そんなんでどうやってあいなを恋人にしたんだ?仮とはいえ」
「誰に対しても平等に接することが出来るシャル様には理解できない部分ですよ」
「そうなのか!?平等になんて、そんなつもりないんだが」
「自覚なしですか。シャル様はそのままでいて下さい。私には無理なことですし」

 立ち上がり、ルイスはバスルームに向かおうとする。

「ちょっ、本当にもう寝るのか!?」
「私は一刻も早くあいな様に会いたいのです。一秒も無駄にはできません」
「それは俺も同じだけど、こういう機会、俺はずっと待ってた気がするんだ。お前ともっと話したい。だから……」
 小さく息をつき、ルイスは渋々しぶしぶうなずいた。
「仕方ありませんね。11時にはチェックアウトですから、それまでですよ?」



 その頃、あいなは古びたベッドに背中から倒れ込んだ。とある家屋の二階。薄く埃(ほこり)の積もった木製の床は、所々|剥(は)がれている。

「疲れた……」

 つぶやき、あいなは目を閉じる。カスティタ城を出てからすぐ、城下町で住み込みの仕事を探し回った。未成年、しかも、この国に馴染まない服装をしているあいなを雇ってくれる場所は無かった。
 自活は無理かもしれない。諦めかけた夕方頃、ダメ元で訪ねた大衆レストランで仕事をさせてもらえることになった。昼間はレストラン、夜は酒場になる店である。
(すぐに仕事が見つかって良かった。調理のバイト経験がこんなところで役に立つなんて、バイトやってて良かった。)
 老夫婦二人で経営している大衆レストランなので店内はそんなに広いわけではないが、料理も酒も美味しいと評判の店なので客足は絶えず働き手が足りない、そういった事情であいなはすぐに採用された。今までも何人かの若者が働いていたらしいが、この店には城下町の人々だけでなく流れの旅人や質の悪い傭兵(ようへい)も立ち寄るので、店員の定着率は悪く、どれだけ時給を上げても客の非常識さについていけず、皆すぐに辞めていってしまうそうだ。
 マナーのある常識的な客ばかりならいいが、そういうわけにもいかない。先進国のロールシャイン王国の城下町となると、様々な人間が集まってくる。

 あいなは、厨房の仕事だけでなく接客係も任されることになった。
(調理の仕事は経験あるけど、接客はあんまり自信ないなぁ……。でも、城でのことを考えずに済みそう。頑張ろっと!)
 気合いとは裏腹に、眠たくなってくる。初日なので皿洗いをやらせてもらったのだが、これが思っていたよりハードで、夕方から夜まで全く休む暇(ひま)がなかった。
 おかけで、夕食を出されても食べる気力すら湧かずこうして部屋に戻ってきた。
(カスティタ城では毎日何もせずに暮らしてたし、よけい、体がなまってたのかも。)

 結婚には反対していたが、カロスは城に滞在することを許してくれた。あいなも、城に留まりたいと申し出た。とはいえ、エトリアの指輪を持つ権利を無くした以上、カスティタ城に居るのは間違っていることのような気がした。いたたまれなかったのである。

 保護されている身で自由に城を出入り出来なかったので、ハロルドに頼んでカスティタ城に迎えに来てもらった。頑(かたく)なにあいなの外出を許さなかった使用人達も、保護の協力者であるハロルドと一緒ならと、すんなり外出を許してくれた。
 あいなが城を出たいと話すとハロルドは驚いていたが、仕事を見つけるまで付き添ってくれたし、シャルやルイスにもこのことを黙っていてほしいと頼むと、躊躇(ためら)いながらも首を縦に振ってくれた。


 翌日から、あいなは慌ただしく働いた。幸い、昼間は優しい客に恵まれ、慣れなかった接客もじょじょにこなせるようになった。明るい対応や気配りのできる性格を見込まれ、厨房での仕事より接客を多く任される。

(良かった。レジとかテーブルセットとか覚えなきゃならないことはいっぱいあるけど、人の役に立てるってやっぱり嬉しいな。)
 経営者の老夫婦が穏やかに笑む姿を見て、あいなは喜びを覚えた。

 昼過ぎ、ようやく店が空いてくると、あいなにも客の雑談を耳にする余裕が出てきた。若い女性客が二人、スイーツを口にしながら窓際の席で楽しげに話している。身なりからして、魔法学校に通う町娘らしかった。あいなは、反射的に秋葉(あきは)を思い出す。
(私達も、学校帰りによくファーストフードやカフェに寄って何時間もしゃべってたな。……秋葉、無事に地球に戻れたかな?龍河(りゅうが)と仲良くしてるといいな。)
 しんみりした気分で空いたテーブルをフキンで拭いていると、彼女達の会話が聞こえてくる。
「知ってる?かっこいい医者がこの辺りで巡業始めたの!」
「医者の巡業?何それ、知らない」
「うち、病気で寝たきりのおじいちゃんがいるんだけど、その人達、今朝うちに訪ねてきて、おじいちゃんの病気を診てくれたの。医術と治癒魔法を使って治療するんだけど、おじいちゃん、ビックリするくらい元気になったんだよ。ロールシャイン王国の病院ってどこも治療費や薬代が高いのに、その医者は安く治してくれたんだ」
「そうなんだ、良かったね。寝たきりだとなかなか病院にも連れていけないもんね。『人達』ってことは、その医者一人じゃないの?」
「うん、二人で来たよ。黒髪で長身の男の医者と、助手っぽい人が一人。どっちもかっこよかったなぁ」
「助手も男なの?」
「うん、黒髪の医者より年下っぽかったけど、ブロンドの髪にエメラルドグリーンの目をしてて……。そう、シャル様にそっくりだったの!だから忘れられなくて」

 シャル。女性が口にした名前にあいなはひどく動揺し、テーブル上の調味料ケースに入ったソースを落としてしまった。落下する音に反応して、店内にいた客の視線があいなに集中する。
「申し訳ありません…!」
 頭を下げ、震える手で床にこぼれたソースとケースを片付ける。胸がバクバクと激しい音を立てていた。

 あいなを見ていた女性客は、しばらくすると視線を外し何事もなかったかのように会話を再開する。
「で、助手がシャル様に似てたって話だったっけ?」
「うん。うちなんかにシャル様が来るわけないんだけど、最初は本人かと思ったくらいそっくりでさ!『王子に似てますね』って言ったら、『よく言われます』って返されたよ」
「シャル様って言えば、この前婚約会見開いてたよね。相手の女性のことはまだ公開されてないけど、恋愛結婚だって言ってた」
「うんうん、私もその会見見た!シャル様って、高貴でプライド高そうなのに実はものすごい謙虚で純情なんだよね?政略結婚はしたくないって言い切るような人だし。相手、どんな人なんだろ?」
「気になるよね。もうすぐシャル様の誕生日パーティーが開かれるし、その場で婚約者の紹介もあるだろうって噂だけど」
「シャル様みたいな人と結婚できるなんて羨ましいなぁ」
「シャル様もいいけど、専属執事もかっこいいって話だよ?シャル様と違って、あまり表には出てこないから顔は知られてないけど、シャル様と並んでも劣らないくらいかっこいいって友達が言ってた。前、公務でこの辺来た時に見たって……」
「専属執事かぁ、なんかいい響きだよね。尽くしてくれそう。私も、自分だけの執事が欲しいなぁ」
「毎日ワガママ言って甘えたいよね。たまに叱られたりしてさ!」

 全身が凍りついたみたいに、あいなは動けずにいた。
(シャルとルイスの話……。)
 今頃、彼らはどうしているのだろう。国民に婚約を発表した以上、あいなに代わる他の女性を探し、シャルは結婚することになるだろう。
(胸が、痛い……。)
 ルイスと唇を重ねた夜も、シャルに抱きしめられて眠った夜も、遠い日の出来事に思える。息が苦しくなった。
(エトリアの指輪を外したんだから、カロス様が言ってた薬の効果はもう出ないはずなのに、何で?)
 頭から血の気が引き、目眩(めまい)がした。床掃除をするフリをして、あいなは症状が治まるまでじっと耐えた。


 新人ということで許してもらえたが、その日あいなは仕事に集中できずミスを繰り返してしまった。時折、割れるように頭が痛くなるのも原因だった。

 店に顔見知りの人物が訪れたのは、夜、店が酒場モードに切り替わって数分が経った頃だった。

「こんばんは。勤務2日目はどう?」
「ハロルド…!来てくれたんだ!ありがとう!」
 嬉しそうに笑うあいなの顔には、今までにないほどの疲労が見て取れた。顔色も悪い。
「あいな……。大丈夫?無理してない?」
「元気だよ。席、カウンターでもいい?」
「うん、いいよ。さくらんぼのカクテルをもらおうかな」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
「店の制服、似合ってる」
「そうかな?」

 紺色を基調としたロングドレス。フリル付きの白いエプロン。メイド喫茶のコスプレだと錯覚(さっかく)してしまいそうな格好がこの店の制服だった。店員の定着しづらい店柄、今まで制服など無かったのだが、老夫婦が知り合いにもらったこの服はあいなの体型にもちょうど合ったので、そのまま制服になったのである。

「可愛い制服でけっこうだけど、男性客に変なことされたら抵抗しなきゃダメだよ?」
 いたずらな瞳で軽やかに注意するハロルドに、あいなは苦笑する。
「私にそんな気起こす人いないよ。着るってより、着せられてる感するし」
「あいなは、自分を低く評価してるけど……」
 案内された席に座ると、ハロルドは伺うように上目遣いであいなを見つめ、
「その服の下に隠れた肌を見たいって思う男がいるかもしれないこと、少しは意識した方がいいよ?あいなは女性なんだから」
「なっ、ないない!たしかに、かろうじて女だけどっ」
 両手をブンブン横に振り、あいなは恥ずかしそうに顔を赤くした。
「シャルにだって色気皆無って言われたくらいだし!ね?」
「……あいな」
「あっ……」
 とっさに出してしまったシャルの名前。あいなはごまかすように、
「頼まれたもの、持ってくるね?もうしばらくお待ちくださいっ」
 ハロルドの元を離れた。

 離れていくあいなの背中を見つめ、ハロルドは頬杖をついた。ヴィクトリアに聞いた話が頭を巡る。あいな自身も覚えていない彼女の過去。あいなのことは気の合う友達であり兄弟みたいな存在だと思っていたのに、知らなかった一面を知ってしまったからか、彼女に対する感情が急激に赤みを増した。
(あいな。君の気持ち、過去、全部理解できてる自信はないけど、僕じゃダメ?)

 慣れないことを懸命にし、頑張って働くあいなの姿。注文したカクテルを少しずつ口にしながら、ハロルドは愛しげに彼女を見つめていた。
「女性に対してこんな気持ちになる日が来るなんてね……」
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