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1巻
1-2
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それに一成さんは副社長。そんな偉い人の秘書なんて、私なんかで務まるかどうかも不安なのに、一成さんに恥をかかせないかも心配で仕方がない。
「千咲がいいからオファーした。なにか問題でも?」
「い、いえ……」
そんな風に言われると悪い気はしない。むしろ良いように捉えてしまって落ち着かなくなる。
「それに……」
「……?」
言い淀んで、一成さんは困ったようにほんの少しだけ眉尻を下げた。
「俺の秘書は、俺が嫌になってすぐに辞める。俺に原因がある……とは思っているが、いまだに改善できない」
一成さんを嫌になる? そんなことあるの?
「だから千咲には、長く働いてもらいたいと思っているのだが……」
「えっと、はい、頑張ります」
せっかくもらったご縁だもの。頑張って働かなくちゃ。
深々と下げた私の頭に、一成さんはポンポンと優しく手を置いた。たったそれだけのことなのに、触れられた部分が熱を持つかのようにぽわんと温かくなった。
秘書の仕事は副社長である一成さんのスケジュール管理から始まる。ほかにも、電話やメール、来客対応や情報管理、そして環境整備などといった業務内容があり、まずは社長の秘書を務める時東茜さんが私の教育係となった。
時東さんは二十七歳。新卒で塚本屋に就職したエリート社員だ。グレーのパンツスーツがよく似合う美人さん。くっきりとした目元が印象的で、けれど決して派手ではなく知的な印象を与える。
「先に言っておくけど、副社長に恋心は抱かないこと」
「こ、恋ですか……?」
ドキッと肩が震える。なにか見透かされているのかと緊張が走ったが、どうやらそうではなさそうだ。
「そう、ここだけの話、罪な男なのよ、副社長は。秘書になった子を毎回泣かせてダメにする」
「泣かせる?」
「あの容姿とスペックの良さで、女子はみんな恋焦がれるんだけどね、反面仕事に厳しいし、視線だけで人を殺しにかかるから、間違って告白した日にはくだらないって一蹴されて泣きを見るの」
「う、うわぁ……」
と言いつつ、視線で人を殺しにかかるって……想像もつかない。まあ確かに見た目は不愛想で冷たい印象はあるけど、笑わないわけではないし、昔も今もそんな怖い思いはしたことがない。
「片山さんはここが初めての就職先だって聞いたわ。大変なこともあると思うけど一緒に頑張りましょうね」
「はい、お願いします」
時東さんは優しく微笑んでくれ、私はほっとした。
面接と同じように初対面の人と話すことは緊張するけれど、こうしてフレンドリーに接してもらえると私も落ち着いて受け答えができるのだ。とてもありがたい。
「今日は十時から来客があるから、まずは準備をしましょう」
時東さんに言われるがまま、仕事に取り掛かる。
いきなり来客とかハードルが高い……なんて思ったけれど、それよりも会議室の準備や呈茶の確認など覚えることが多すぎて、時東さんについていくだけで精一杯。受付までお迎えに上がるのも、会議室までご案内するのも、時東さんの丁寧でスマートな所作にただただ感服するばかり。
ちゃちなリクルートスーツを着た私は、その差をまざまざと見せつけられたのだった。
これは一成さんの殺しにかかる視線よりも、時東さんのキャリアウーマンな仕事ぶりに心がやられそうな気がする。
初日から時東さんにバリバリ仕事を教えられ頭がパンパンの私は、定時を告げるチャイムとともに大きく息を吐いた。
ぐったりしている私とは対照的に、時東さんは一日働いてもしゃんとしている。化粧崩れもないし姿勢だって綺麗。このまま明日を迎えても平気そう。すごいな……と感心していると、ふとあることに気付いた。
私、明日からスーツどうしよう。
今日は初日だからリクルートスーツできたけれど、よく考えたらこのままじゃやばいのでは? 時東さんみたいにおしゃれスーツじゃないといけないのかも。
……一枚も持ってませんけど?
「どうかしたか?」
ふと声をかけられて視線を上げる。こちらにも、朝となんら変わらない凛とした姿の一成さんが、不思議そうな顔をして私を見ていた。
「いえ、あの……服装って、時東さんみたいなスーツを着たらいいでしょうか」
「服装? 別にこだわらないが?」
「いや、こだわりとかではなく……」
「特に規定はないから、人前に出て恥ずかしくない格好ならなんでもいい」
だからそれが難しいんだってば。いっそのこと制服でもあればいいのに。
「千咲は可愛いからなんでも似合うよ」
「ぐっ……!」
思わず耳を疑った。
さらりとすごいことを言われた気がする。けれど一成さんはまったくもって気にしていない様子。
可愛いだなんて言われ慣れてない。そう、慣れていないだけだから過剰に反応してしまっただけよ。はー、落ち着け私。
考えれば考えるほど動揺が顔に出そうになって、慌てて顔を伏せた。
なのに、一成さんは私の頭を優しく撫でて、「お疲れ様」と一言残して副社長室へ入っていった。
おかしい……
一成さんってあんな人だったっけ? もっとクールでツンツンしていた気が……夏菜なんて「お兄は冷徹無慈悲」なんて言っちゃうくらいだし。あ、いや、でも会えば優しく話しかけてくれるし、笑ってくれてもいたけど。
今の一成さんからは、そんなの微塵も感じない。
私はそっと頭に触れる。撫でられた部分が熱をもって、しばらく顔を上げることができなかった。
「夏菜ぁ、買い物付き合って」
仕事帰りの夏菜を捕まえて、私は早々に文句を言った。
「ねえ、夏菜の家、塚本屋だなんて聞いてないんですけど。まさかそんなお嬢様だなんて知らなかったよ」
「まあ、言ってなかったからねぇ」
「そうならそうって言ってよ。今日出勤して本当にびっくりしたんだから。お父さんが社長でお兄さんが副社長って、もうすごすぎでしょ!」
「そうかな?」
「そうだよ! まさか大企業で働けるなんて思ってもみなかった」
「でもお兄の部下なんて絶対嫌じゃん。冷徹無慈悲にこき使われるだけよ」
「ちょっとちょっと、それを紹介したのは夏菜じゃないの……」
吐き捨てるように言う夏菜に思わず苦笑いだ。少なくとも、今のところまったく冷徹無慈悲にこき使われてはいない。
「一成さん、優しいよ」
「ほう。じゃあその優しいエピソードを聞こうではないか」
夏菜は疑いの眼差しで私を見る。
そうだなぁと、今日あったことを思い返してみると、唐突に躓いて転びそうになった私を支えてくれたり、可愛いって言ってくれたり、頭を撫でてくれたり……
あれ?
一成さんが優しいっていうか、私の恥ずかしいエピソードばかりなんですけど。
思い出して徐々に顔が赤くなる私に、夏菜は冷ややかな視線とともに「ほら、ないじゃん」と勝ち誇った顔をした。
冷徹無慈悲なのは夏菜の方なんじゃないかと疑いたくなったけど、口に出すと怒られそうなので心の中にとどめておく。
「ま、でも、千咲はお兄のお気に入りだし、悪いようにはしないんじゃない?」
「……は?」
お気に入り?
はて?
「千咲は小動物みたいで可愛いって、昔言ってた」
「小動物……」
「うちで飼ってるハムスターに似てる」
「ペットじゃん」
「あはは、ほんとだ。案外、餌付けされてたりして」
「されてません!」
もう意味がわからない。
一成さんが私を小動物みたいで可愛いだなんて、思うわけないじゃん。
だって私は一成さんにフラれているんだから。
……まあ、そのことを夏菜は知らない。
いくら親友でも、これだけは秘密にしている。私の黒歴史。
ぷりぷり怒りながらもスーツを何枚か選ぶ。鏡の前で合わせてみるけれど、どうにもしっくりこなくて気分が落ち込んできた。
よく考えたら私は背も低くて胸もぺったんこ。特別スタイルがいいわけでもないし、顔だってどちらかというと童顔タイプ。私がスーツなんて着ても、背伸びした子供みたいになる。
そんな私が一成さんの秘書でいいの?
時東さんみたいに美しいプロポーションの美人さんはなにを着ても似合うだろうけど。
「いらっしゃいませ。スーツをお探しですか?」
突然に声を掛けられ私はびくっと肩を震わせた。
「あ、えっと……」
「スーツというか、この子に、働くオフィスレディ的な似合うもの、ありますか?」
尻込みした私に代わり、夏菜がずずいと店員さんと会話を始める。こういうのも本当に苦手。夏菜はなんでも器用にこなしてしまうけど、私は上手く言葉が出てこない。もはやコミュ障かも……なんてうっすら思ったりもする。
「そうですね、スーツにこだわらず、黒のパンツに上は色物のジャケットを合わせてみてはいかがでしょう? 例えばこちらのベージュとか」
「ジャケットの丈は短めの方がいいんじゃない? 足が長く見えるかもよ」
店員さんと夏菜が、代わる代わる私に服を見立ててくる。
目が回るような勢いで、勧められるがまま何着か購入し、まだ初任給も入ってないくせに散財してしまったのだった。
いや、これは致し方ない出費だ。社会人としての身だしなみ。
これで少しは、一成さんや時東さんに近付けるといいのだけど。
翌日、さっそく購入したパンツにジャケットを羽織り、ようやくリクルートスーツから卒業した私は、ドキドキしながら出勤した。
リクルートスーツの昨日は「新人が入ってきた」という好奇の目で見られていたことがプレッシャーになっていたけど、これはこれで緊張する。
昨日見立ててもらった白のVネックブラウスにダークグレーのジャケット。少しは知的に見えるだろうか。
「おはようございます」
「おはよう」
一成さんは私よりも早く出勤し、始業前だというのにもうパソコンに向かって仕事をしている。
私は空調をチェックし、副社長室を簡単に掃除。それが終わるとスケジュールの確認とメールのチェックをするためにパソコンを開いた。
「ずいぶん早いんだな」
「はい、緊張して。遅れたら嫌だなって思ってたら早く着いてしまいました」
「まだ始業までだいぶ時間がある。ちょっと付き合ってくれ」
「あ、はい」
私は慌てて手帳とペンを抱えるが、一成さんは「なにも持ってこなくていい」と手で制し、スタスタと歩いていく。遅れないようにと小走りでついていくと、チラリとこちらを見て速度を落としてくれた。
後ろをついていくつもりだったのに、横並びになり心臓が跳ねる。
隣に立つ一成さんは背が高くて今日もスーツがよく似合っていて、大人の魅力がたっぷり。隣に立つのが私なんかで申し訳ない気持ちになってしまう。
だけど、こんなに近くにいられるのも貴重な気がして、ひとときの時間をありがたく思った。
……のも束の間。
「えっ、えっ?」
やってきたのは二階のカフェ。
目の前にはモーニングセット。
目をぱちくりさせている私に、一成さんは淡々と言う。
「コーヒー? 紅茶?」
「あ、コーヒーで……って、いや、あのっ」
困惑する私をよそに、店員さんがコーヒーを運んでくる。
ふわりと湯気が立つカップからはとても良い香りが漂い、鼻をくすぐった。
「すごくいい香り」
「コーヒーは種類で香りが変わる。これはブルーマウンテンでリラックス効果がある」
カップを両手で持ち上げ香りを楽しむ。すうっと体に入り込んできて浸透していく。確かにリラックス効果がありそうだ。
メニューを見ると、コーヒーだけでなく紅茶や日本茶の説明も書かれていて、気分に合わせて選ぶことができるようになっている。
「やっぱり手帳を持ってくるべきでした。勉強しなきゃ」
きっとそのために連れて来てくれたに違いない。塚本屋の副社長の秘書としてお茶の知識が皆無ではいけない。だから私への教育の一環なのだろう。
なるほど、これも秘書の務めなのかなんて納得しかけたのだが、
「そういう意味で誘ったんじゃない。朝食がまだなんだ、付き合ってくれ」
と言われ、治まっていたドキドキが呼び起こされてしまった。
カフェは朝早くから開いているようで、モーニング目的のお客さんがチラホラと見受けられる。とても落ち着いた色合いの空間は、時間の経過を忘れてしまいそうになるほど居心地が良い。さすがお茶の老舗だけあって、緑茶や抹茶、ほうじ茶などを使ったスイーツも充実していた。
「甘味の方が良かったか?」
あまりにもメニューを凝視していたからだろうか、一成さんに気を遣われてしまって慌てて首を横に振る。
「いいえ。実は緊張しすぎて、朝食を抜いてきたんです。いただきます」
「そうか。なら毎日ここで朝食をとろう」
「……えっ?」
「ここで落ち着いてから業務に取り組む方が効率が上がるだろう」
「あっ、はい、そ、そうですね」
私はそう頷いて、コーヒーカップに視線を落とした。
こんなことをされては心臓がもたない。というか、また私は一成さんを好きになってしまいそうな気がしてならない。だって、働き始めてからまだ二日目の朝だというのに、もうこんなにもドキドキしているのだから。
そんなソワソワした気持ちの私とは対照的に、一成さんはクールにコーヒーを飲んでいる。
きっと一成さんはなんとも思っていないんだろうな。私と違ってぎこちなさだってまったくないし、もしかしたら、昔私が告白したことだって忘れているのかもしれない。自分の元で働かないかとオファーしてくるくらいなのだから、私みたいにいつまでも過去のことを気にしたりはしないのかも。
まったく、自分の心が大騒ぎで忙しい。
もう社会人となったのだから、落ち着いた女性を目指そう。
そう心に決めた瞬間、耳に入ってくる言葉――
「ねえ、あれって副社長じゃない?」
「やだ、本当だぁ。かっこいい!」
「一緒にいるの誰だろう?」
「さあ? なんか釣り合わないね」
聞こえるか聞こえないかくらいの声の音量とともに、クスクスと笑い声。
居たたまれない気持ちになってカップに視線を落とす。
一成さんがかっこいいのはわかる。本当に、男らしさと相まって目を惹くような美しさがあるのだから。私も遠巻きで見ているなら「キャー、かっこいい!」だなんて騒いでいるに違いない。
問題は私だ。釣り合わないだなんて、私が一番よくわかっている。自分が平凡すぎることは自覚してるんだから、わざわざ聞こえるボリュームで言わないでよ。
「――さき、千咲」
「は、はいっ!」
呼ばれていることに気付き、姿勢を正す。
「そろそろ行こうか」
「あ、そうですね。お会計は……?」
「もう済ませてある」
「えっ!?」
一成さんはすっと立ち上がるとスタスタと行ってしまう。慌ててついていくと、先ほどこそこそとこちらを見ながら話をしていた女性たちが、
「やばっ! 生副社長、イケメンすぎる!」
「これは眼福だわ!」
と黄色い声を上げているのが耳に入った。
それには激しく同意だ。本当に一成さんったら、たった数年でどれだけかっこ良くなったら気が済むの。昔からかっこ良かったけど、今はさらに磨きがかかって大人の魅力もパワーアップしている。近くで仕事する私の身がもたないよ。
「今日は午後から外出する。わからないことは時東に聞いてくれ。定時になったら帰っていい」
「はい」
「それから……」
一成さんは考え込むように言い淀み、急にこちらに視線を向けた。じっと見つめられ何事かと思わず身構える。
「……あまり首元が開いた服は着るな」
「え?」
「悪い虫がつく」
「虫……?」
「なんでもない。行くぞ」
そんなに首元が開いていただろうか。思わず視線を下に落とすと、ぺちゃんこの胸のせいで変な隙間ができていた。
これは……情けない。もっと胸が大きくて、谷間でもできているなら見映えがいいものを。
やっぱり私に大人っぽい服は似合わないんだなぁなどと一人落ち込みつつ、デスクへ戻った。
第二章 副社長の婚約者
あれから毎日、一成さんと二階のカフェで朝食をとることが日課になった。
早く来ることは苦ではないし、なにより一成さんとこうしてお茶を飲みながらたわいもない話ができるのがとても嬉しい。
ただ、支払いが毎回一成さんなので、その点は心苦しいのだけど。そこはどうしても譲ってくれないのだ。
仕方がないのでこれも業務の一環と思って割りきることにした。
様々な種類のコーヒーや紅茶、そしてたまにお茶漬けなど、いろいろなパターンを試している。改めて塚本屋のスケールの大きさを思い知ると同時に、自分なりにお茶の知識を深めようと努力しているのだ。
いつだか夏菜が言っていた。
『案外、餌付けされてたりして』
今なら思い切り首を縦に振る。
私、餌付けされている自覚がある。
でもそれが嫌じゃなくて心地良い。
思わぬ形で一成さんの側にいることができるこのご縁に、改めて感謝だ。
「千咲、今日は来客が立て込んでいたはずだから、よろしく頼む」
「はい、わかりました」
一成さんの言うとおり、今日は午前も午後も来客で予定が詰まっている。
お迎えに上がって会議室へご案内し、一成さんに声をかけてお茶を出す。そして合間にメールの確認。とにかく息つく暇もない。そんなときに限って電話対応も多く、目が回る忙しさに頭を抱えたくなった。だけど仕事にも慣れてきたのだろうか。自分なりになんとかこなせている気がする。
一成さんとは朝のカフェで顔を合わせているものの、それ以外の時間帯で一緒に仕事をすることはない。
それもそのはず、一成さんは副社長なので多忙を極めるのだ。
私はそんな一成さんをサポートする秘書。足手まといにならないように業務をこなす。一成さんの仕事に対する真剣な表情は、凛々しすぎて眩しすぎて、まさに眼福だ。たまにこっそり眺めている。
ふいにスマホが鳴り、私はパソコンの手を止めて通話ボタンを押した。
「はい、片山で……」
名乗っている途中で時東さんの緊迫した声が聞こえてくる。
『片山さん? 十五時からのお客様、どこにお連れしたの?』
「えっと、305会議室ですけど……」
『そういうことか。あのね、503会議室の間違いよ』
「えっ!?」
慌ててスケジュールを確認するが、そこには305会議室と登録されている。併せて会議室予約を確認すれば、そちらは503会議室となっていた。
「す、すみませんっ! 登録ミスしちゃったみたいで……あの、すぐ行きます!」
『私が今向かってるからいいわ。あなたは副社長へ連絡しておいて。待ってると思うから』
「は、はいっっっ!」
「千咲がいいからオファーした。なにか問題でも?」
「い、いえ……」
そんな風に言われると悪い気はしない。むしろ良いように捉えてしまって落ち着かなくなる。
「それに……」
「……?」
言い淀んで、一成さんは困ったようにほんの少しだけ眉尻を下げた。
「俺の秘書は、俺が嫌になってすぐに辞める。俺に原因がある……とは思っているが、いまだに改善できない」
一成さんを嫌になる? そんなことあるの?
「だから千咲には、長く働いてもらいたいと思っているのだが……」
「えっと、はい、頑張ります」
せっかくもらったご縁だもの。頑張って働かなくちゃ。
深々と下げた私の頭に、一成さんはポンポンと優しく手を置いた。たったそれだけのことなのに、触れられた部分が熱を持つかのようにぽわんと温かくなった。
秘書の仕事は副社長である一成さんのスケジュール管理から始まる。ほかにも、電話やメール、来客対応や情報管理、そして環境整備などといった業務内容があり、まずは社長の秘書を務める時東茜さんが私の教育係となった。
時東さんは二十七歳。新卒で塚本屋に就職したエリート社員だ。グレーのパンツスーツがよく似合う美人さん。くっきりとした目元が印象的で、けれど決して派手ではなく知的な印象を与える。
「先に言っておくけど、副社長に恋心は抱かないこと」
「こ、恋ですか……?」
ドキッと肩が震える。なにか見透かされているのかと緊張が走ったが、どうやらそうではなさそうだ。
「そう、ここだけの話、罪な男なのよ、副社長は。秘書になった子を毎回泣かせてダメにする」
「泣かせる?」
「あの容姿とスペックの良さで、女子はみんな恋焦がれるんだけどね、反面仕事に厳しいし、視線だけで人を殺しにかかるから、間違って告白した日にはくだらないって一蹴されて泣きを見るの」
「う、うわぁ……」
と言いつつ、視線で人を殺しにかかるって……想像もつかない。まあ確かに見た目は不愛想で冷たい印象はあるけど、笑わないわけではないし、昔も今もそんな怖い思いはしたことがない。
「片山さんはここが初めての就職先だって聞いたわ。大変なこともあると思うけど一緒に頑張りましょうね」
「はい、お願いします」
時東さんは優しく微笑んでくれ、私はほっとした。
面接と同じように初対面の人と話すことは緊張するけれど、こうしてフレンドリーに接してもらえると私も落ち着いて受け答えができるのだ。とてもありがたい。
「今日は十時から来客があるから、まずは準備をしましょう」
時東さんに言われるがまま、仕事に取り掛かる。
いきなり来客とかハードルが高い……なんて思ったけれど、それよりも会議室の準備や呈茶の確認など覚えることが多すぎて、時東さんについていくだけで精一杯。受付までお迎えに上がるのも、会議室までご案内するのも、時東さんの丁寧でスマートな所作にただただ感服するばかり。
ちゃちなリクルートスーツを着た私は、その差をまざまざと見せつけられたのだった。
これは一成さんの殺しにかかる視線よりも、時東さんのキャリアウーマンな仕事ぶりに心がやられそうな気がする。
初日から時東さんにバリバリ仕事を教えられ頭がパンパンの私は、定時を告げるチャイムとともに大きく息を吐いた。
ぐったりしている私とは対照的に、時東さんは一日働いてもしゃんとしている。化粧崩れもないし姿勢だって綺麗。このまま明日を迎えても平気そう。すごいな……と感心していると、ふとあることに気付いた。
私、明日からスーツどうしよう。
今日は初日だからリクルートスーツできたけれど、よく考えたらこのままじゃやばいのでは? 時東さんみたいにおしゃれスーツじゃないといけないのかも。
……一枚も持ってませんけど?
「どうかしたか?」
ふと声をかけられて視線を上げる。こちらにも、朝となんら変わらない凛とした姿の一成さんが、不思議そうな顔をして私を見ていた。
「いえ、あの……服装って、時東さんみたいなスーツを着たらいいでしょうか」
「服装? 別にこだわらないが?」
「いや、こだわりとかではなく……」
「特に規定はないから、人前に出て恥ずかしくない格好ならなんでもいい」
だからそれが難しいんだってば。いっそのこと制服でもあればいいのに。
「千咲は可愛いからなんでも似合うよ」
「ぐっ……!」
思わず耳を疑った。
さらりとすごいことを言われた気がする。けれど一成さんはまったくもって気にしていない様子。
可愛いだなんて言われ慣れてない。そう、慣れていないだけだから過剰に反応してしまっただけよ。はー、落ち着け私。
考えれば考えるほど動揺が顔に出そうになって、慌てて顔を伏せた。
なのに、一成さんは私の頭を優しく撫でて、「お疲れ様」と一言残して副社長室へ入っていった。
おかしい……
一成さんってあんな人だったっけ? もっとクールでツンツンしていた気が……夏菜なんて「お兄は冷徹無慈悲」なんて言っちゃうくらいだし。あ、いや、でも会えば優しく話しかけてくれるし、笑ってくれてもいたけど。
今の一成さんからは、そんなの微塵も感じない。
私はそっと頭に触れる。撫でられた部分が熱をもって、しばらく顔を上げることができなかった。
「夏菜ぁ、買い物付き合って」
仕事帰りの夏菜を捕まえて、私は早々に文句を言った。
「ねえ、夏菜の家、塚本屋だなんて聞いてないんですけど。まさかそんなお嬢様だなんて知らなかったよ」
「まあ、言ってなかったからねぇ」
「そうならそうって言ってよ。今日出勤して本当にびっくりしたんだから。お父さんが社長でお兄さんが副社長って、もうすごすぎでしょ!」
「そうかな?」
「そうだよ! まさか大企業で働けるなんて思ってもみなかった」
「でもお兄の部下なんて絶対嫌じゃん。冷徹無慈悲にこき使われるだけよ」
「ちょっとちょっと、それを紹介したのは夏菜じゃないの……」
吐き捨てるように言う夏菜に思わず苦笑いだ。少なくとも、今のところまったく冷徹無慈悲にこき使われてはいない。
「一成さん、優しいよ」
「ほう。じゃあその優しいエピソードを聞こうではないか」
夏菜は疑いの眼差しで私を見る。
そうだなぁと、今日あったことを思い返してみると、唐突に躓いて転びそうになった私を支えてくれたり、可愛いって言ってくれたり、頭を撫でてくれたり……
あれ?
一成さんが優しいっていうか、私の恥ずかしいエピソードばかりなんですけど。
思い出して徐々に顔が赤くなる私に、夏菜は冷ややかな視線とともに「ほら、ないじゃん」と勝ち誇った顔をした。
冷徹無慈悲なのは夏菜の方なんじゃないかと疑いたくなったけど、口に出すと怒られそうなので心の中にとどめておく。
「ま、でも、千咲はお兄のお気に入りだし、悪いようにはしないんじゃない?」
「……は?」
お気に入り?
はて?
「千咲は小動物みたいで可愛いって、昔言ってた」
「小動物……」
「うちで飼ってるハムスターに似てる」
「ペットじゃん」
「あはは、ほんとだ。案外、餌付けされてたりして」
「されてません!」
もう意味がわからない。
一成さんが私を小動物みたいで可愛いだなんて、思うわけないじゃん。
だって私は一成さんにフラれているんだから。
……まあ、そのことを夏菜は知らない。
いくら親友でも、これだけは秘密にしている。私の黒歴史。
ぷりぷり怒りながらもスーツを何枚か選ぶ。鏡の前で合わせてみるけれど、どうにもしっくりこなくて気分が落ち込んできた。
よく考えたら私は背も低くて胸もぺったんこ。特別スタイルがいいわけでもないし、顔だってどちらかというと童顔タイプ。私がスーツなんて着ても、背伸びした子供みたいになる。
そんな私が一成さんの秘書でいいの?
時東さんみたいに美しいプロポーションの美人さんはなにを着ても似合うだろうけど。
「いらっしゃいませ。スーツをお探しですか?」
突然に声を掛けられ私はびくっと肩を震わせた。
「あ、えっと……」
「スーツというか、この子に、働くオフィスレディ的な似合うもの、ありますか?」
尻込みした私に代わり、夏菜がずずいと店員さんと会話を始める。こういうのも本当に苦手。夏菜はなんでも器用にこなしてしまうけど、私は上手く言葉が出てこない。もはやコミュ障かも……なんてうっすら思ったりもする。
「そうですね、スーツにこだわらず、黒のパンツに上は色物のジャケットを合わせてみてはいかがでしょう? 例えばこちらのベージュとか」
「ジャケットの丈は短めの方がいいんじゃない? 足が長く見えるかもよ」
店員さんと夏菜が、代わる代わる私に服を見立ててくる。
目が回るような勢いで、勧められるがまま何着か購入し、まだ初任給も入ってないくせに散財してしまったのだった。
いや、これは致し方ない出費だ。社会人としての身だしなみ。
これで少しは、一成さんや時東さんに近付けるといいのだけど。
翌日、さっそく購入したパンツにジャケットを羽織り、ようやくリクルートスーツから卒業した私は、ドキドキしながら出勤した。
リクルートスーツの昨日は「新人が入ってきた」という好奇の目で見られていたことがプレッシャーになっていたけど、これはこれで緊張する。
昨日見立ててもらった白のVネックブラウスにダークグレーのジャケット。少しは知的に見えるだろうか。
「おはようございます」
「おはよう」
一成さんは私よりも早く出勤し、始業前だというのにもうパソコンに向かって仕事をしている。
私は空調をチェックし、副社長室を簡単に掃除。それが終わるとスケジュールの確認とメールのチェックをするためにパソコンを開いた。
「ずいぶん早いんだな」
「はい、緊張して。遅れたら嫌だなって思ってたら早く着いてしまいました」
「まだ始業までだいぶ時間がある。ちょっと付き合ってくれ」
「あ、はい」
私は慌てて手帳とペンを抱えるが、一成さんは「なにも持ってこなくていい」と手で制し、スタスタと歩いていく。遅れないようにと小走りでついていくと、チラリとこちらを見て速度を落としてくれた。
後ろをついていくつもりだったのに、横並びになり心臓が跳ねる。
隣に立つ一成さんは背が高くて今日もスーツがよく似合っていて、大人の魅力がたっぷり。隣に立つのが私なんかで申し訳ない気持ちになってしまう。
だけど、こんなに近くにいられるのも貴重な気がして、ひとときの時間をありがたく思った。
……のも束の間。
「えっ、えっ?」
やってきたのは二階のカフェ。
目の前にはモーニングセット。
目をぱちくりさせている私に、一成さんは淡々と言う。
「コーヒー? 紅茶?」
「あ、コーヒーで……って、いや、あのっ」
困惑する私をよそに、店員さんがコーヒーを運んでくる。
ふわりと湯気が立つカップからはとても良い香りが漂い、鼻をくすぐった。
「すごくいい香り」
「コーヒーは種類で香りが変わる。これはブルーマウンテンでリラックス効果がある」
カップを両手で持ち上げ香りを楽しむ。すうっと体に入り込んできて浸透していく。確かにリラックス効果がありそうだ。
メニューを見ると、コーヒーだけでなく紅茶や日本茶の説明も書かれていて、気分に合わせて選ぶことができるようになっている。
「やっぱり手帳を持ってくるべきでした。勉強しなきゃ」
きっとそのために連れて来てくれたに違いない。塚本屋の副社長の秘書としてお茶の知識が皆無ではいけない。だから私への教育の一環なのだろう。
なるほど、これも秘書の務めなのかなんて納得しかけたのだが、
「そういう意味で誘ったんじゃない。朝食がまだなんだ、付き合ってくれ」
と言われ、治まっていたドキドキが呼び起こされてしまった。
カフェは朝早くから開いているようで、モーニング目的のお客さんがチラホラと見受けられる。とても落ち着いた色合いの空間は、時間の経過を忘れてしまいそうになるほど居心地が良い。さすがお茶の老舗だけあって、緑茶や抹茶、ほうじ茶などを使ったスイーツも充実していた。
「甘味の方が良かったか?」
あまりにもメニューを凝視していたからだろうか、一成さんに気を遣われてしまって慌てて首を横に振る。
「いいえ。実は緊張しすぎて、朝食を抜いてきたんです。いただきます」
「そうか。なら毎日ここで朝食をとろう」
「……えっ?」
「ここで落ち着いてから業務に取り組む方が効率が上がるだろう」
「あっ、はい、そ、そうですね」
私はそう頷いて、コーヒーカップに視線を落とした。
こんなことをされては心臓がもたない。というか、また私は一成さんを好きになってしまいそうな気がしてならない。だって、働き始めてからまだ二日目の朝だというのに、もうこんなにもドキドキしているのだから。
そんなソワソワした気持ちの私とは対照的に、一成さんはクールにコーヒーを飲んでいる。
きっと一成さんはなんとも思っていないんだろうな。私と違ってぎこちなさだってまったくないし、もしかしたら、昔私が告白したことだって忘れているのかもしれない。自分の元で働かないかとオファーしてくるくらいなのだから、私みたいにいつまでも過去のことを気にしたりはしないのかも。
まったく、自分の心が大騒ぎで忙しい。
もう社会人となったのだから、落ち着いた女性を目指そう。
そう心に決めた瞬間、耳に入ってくる言葉――
「ねえ、あれって副社長じゃない?」
「やだ、本当だぁ。かっこいい!」
「一緒にいるの誰だろう?」
「さあ? なんか釣り合わないね」
聞こえるか聞こえないかくらいの声の音量とともに、クスクスと笑い声。
居たたまれない気持ちになってカップに視線を落とす。
一成さんがかっこいいのはわかる。本当に、男らしさと相まって目を惹くような美しさがあるのだから。私も遠巻きで見ているなら「キャー、かっこいい!」だなんて騒いでいるに違いない。
問題は私だ。釣り合わないだなんて、私が一番よくわかっている。自分が平凡すぎることは自覚してるんだから、わざわざ聞こえるボリュームで言わないでよ。
「――さき、千咲」
「は、はいっ!」
呼ばれていることに気付き、姿勢を正す。
「そろそろ行こうか」
「あ、そうですね。お会計は……?」
「もう済ませてある」
「えっ!?」
一成さんはすっと立ち上がるとスタスタと行ってしまう。慌ててついていくと、先ほどこそこそとこちらを見ながら話をしていた女性たちが、
「やばっ! 生副社長、イケメンすぎる!」
「これは眼福だわ!」
と黄色い声を上げているのが耳に入った。
それには激しく同意だ。本当に一成さんったら、たった数年でどれだけかっこ良くなったら気が済むの。昔からかっこ良かったけど、今はさらに磨きがかかって大人の魅力もパワーアップしている。近くで仕事する私の身がもたないよ。
「今日は午後から外出する。わからないことは時東に聞いてくれ。定時になったら帰っていい」
「はい」
「それから……」
一成さんは考え込むように言い淀み、急にこちらに視線を向けた。じっと見つめられ何事かと思わず身構える。
「……あまり首元が開いた服は着るな」
「え?」
「悪い虫がつく」
「虫……?」
「なんでもない。行くぞ」
そんなに首元が開いていただろうか。思わず視線を下に落とすと、ぺちゃんこの胸のせいで変な隙間ができていた。
これは……情けない。もっと胸が大きくて、谷間でもできているなら見映えがいいものを。
やっぱり私に大人っぽい服は似合わないんだなぁなどと一人落ち込みつつ、デスクへ戻った。
第二章 副社長の婚約者
あれから毎日、一成さんと二階のカフェで朝食をとることが日課になった。
早く来ることは苦ではないし、なにより一成さんとこうしてお茶を飲みながらたわいもない話ができるのがとても嬉しい。
ただ、支払いが毎回一成さんなので、その点は心苦しいのだけど。そこはどうしても譲ってくれないのだ。
仕方がないのでこれも業務の一環と思って割りきることにした。
様々な種類のコーヒーや紅茶、そしてたまにお茶漬けなど、いろいろなパターンを試している。改めて塚本屋のスケールの大きさを思い知ると同時に、自分なりにお茶の知識を深めようと努力しているのだ。
いつだか夏菜が言っていた。
『案外、餌付けされてたりして』
今なら思い切り首を縦に振る。
私、餌付けされている自覚がある。
でもそれが嫌じゃなくて心地良い。
思わぬ形で一成さんの側にいることができるこのご縁に、改めて感謝だ。
「千咲、今日は来客が立て込んでいたはずだから、よろしく頼む」
「はい、わかりました」
一成さんの言うとおり、今日は午前も午後も来客で予定が詰まっている。
お迎えに上がって会議室へご案内し、一成さんに声をかけてお茶を出す。そして合間にメールの確認。とにかく息つく暇もない。そんなときに限って電話対応も多く、目が回る忙しさに頭を抱えたくなった。だけど仕事にも慣れてきたのだろうか。自分なりになんとかこなせている気がする。
一成さんとは朝のカフェで顔を合わせているものの、それ以外の時間帯で一緒に仕事をすることはない。
それもそのはず、一成さんは副社長なので多忙を極めるのだ。
私はそんな一成さんをサポートする秘書。足手まといにならないように業務をこなす。一成さんの仕事に対する真剣な表情は、凛々しすぎて眩しすぎて、まさに眼福だ。たまにこっそり眺めている。
ふいにスマホが鳴り、私はパソコンの手を止めて通話ボタンを押した。
「はい、片山で……」
名乗っている途中で時東さんの緊迫した声が聞こえてくる。
『片山さん? 十五時からのお客様、どこにお連れしたの?』
「えっと、305会議室ですけど……」
『そういうことか。あのね、503会議室の間違いよ』
「えっ!?」
慌ててスケジュールを確認するが、そこには305会議室と登録されている。併せて会議室予約を確認すれば、そちらは503会議室となっていた。
「す、すみませんっ! 登録ミスしちゃったみたいで……あの、すぐ行きます!」
『私が今向かってるからいいわ。あなたは副社長へ連絡しておいて。待ってると思うから』
「は、はいっっっ!」
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