ネジバナ

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17.左馬

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「兄さん、これありがとうな」
  私は鞄から小箱を取り出す。
「わざわざ持ってきたん」
 姉さんが上京したときに、兄さんから言付けられた。あの小箱だ。
 中には子供のこぶしほどの大きさの将棋の駒が入っていた。飾り駒だ。将棋の駒に、馬と彫られているのだが、その馬は左右逆に書かれている。諸説はあるようだが、うまを反対から読むとまう。舞うというのは、古来から縁起のいいときで、それが転じて左馬というものができたらしい。この左馬には、ちょっとした思い出がある。
 小学生のとき、兄さんと私はよく二人で将棋をやっていた。地区で大会があるということで、二人揃って、小学生の部に出場したのだ。結果は私が優勝、兄さんは、三位だった。そのときの優勝商品は、名人の揮毫された色紙だった。将棋の名人の直筆の揮毫だから貴重なものである。一方、三位の兄さんの賞品が、この左馬だったのだ。当時の私は左馬の方が魅力的だった。優勝したはずの私は帰りの車の中で、兄さんの左馬が羨ましくて泣いていた。結果、兄さんは最後まで左馬をくれなかった。あの時の駒だ。
「お守りがわりにいつも持ち歩いてる」
「そっか」
「久しぶりに指すか?」

 私は大学を休職中ということもあり、しばらく実家で過ごすことにした。治療中だから仕方ないのだけれど、都会で治療に専念しながら、ある意味自堕落に過ごす日々からの逃避だったのかもしれない。純粋に父さんと過ごしたかったこともある。
 私と父さんの共同の闘病生活が始まることになった。
 私の注射は二カ月に一度しか打てないし、薬も月単位で処方されていたので、東京へはしばらく戻らなくて済む。
 毎日、バスに乗って海沿いの病院に通った。その頃には、私は杖を突かなくても、歩けるようになっていた。症状は少し緩和されたかもしれない。ただ、相変わらず、頭は右を向こうとするので、この状態に慣れただけの気がしないでもなかった。
 父さんの具合がいいときは色々と会話した。不思議と私の気も休まり、首の調子さえもいい気がした。
「そういえば、父さんは何でお寺の仕事以外に歴史学者になろうと思ったん?」
「高校の教員の影響やな。歩の祖父、つまり俺の親父が新聞社に勤めよったやろ?今はネットの時代に変わってきたけど、新聞社と将棋は関わりが強いんや。今でも、将棋のタイトル戦の主催者は新聞社やけん。親父は将棋の観戦記者もやりおったし、元々、大学の将棋部の部長やったからな」
 それは初耳だった。
「高校の日本史の先生がな、『松尾芭蕉と伊藤看寿を生んだ江戸時代は、それだけで意味がある』っち授業中に言った言葉が印象深くてな。人生なんて単純なもんやな。それで歴史の研究しようと思ったんよ。まぁ、結局どちらも中途半端になってしもうたな」
「やっぱり、血は争えんね。大学は将棋部やったけん。専攻は、歴史じゃないし、時代は少し違うけど近現代文学を研究しちょるからな」
「歩の方は、首の調子はどうなん?」
「そうやね。最初はエクソシストかと思うくらい首がどこまでも回ろうとしていたけど、少しずつ落ち着いてはきた。でも、軽い拷問を延々受けているみたいや。これ俺のキラーフレーズ」
「そりゃ、大変やな」と父さんが笑う。
「ううん、父さんの方が大変やろ」
 これまでは、父さんと話す機会も少なくなっていた。まさかお互いが病気になったことで、父さんと会話が多くなるとは皮肉なものだ。
「お前はまだまだこれからやからな。焦らんでしっかり病気治さな」
「正直、焦ってる」
 しばらく、病室に沈黙が流れた。
「焦る必要はねぇけん。あと、絶対お前は生きて、生きて、生き抜け。人間はな、正念場に立たされて、それを乗り越えたとき、きっと芯から強くなるけん」
 私は「わかった」と短く答えた。
 
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