規格外の螺子

cassisband

文字の大きさ
上 下
27 / 36

26.

しおりを挟む
 朝の環七は仕事場へと急ぐ車でいっぱいだ。早い時間のうちはいいが、時間が経つに連れて、どこからともなく台数が増えていく。健一も先輩が運転するトラックで現場の大学を目指して環七を走っていた。揺れるトラックの助手席の窓から、数多の乗用車の流れる様を見下ろしていと、何かの生き物の群れのように思えてくる。そして、自分もその群れの一部になる。
 追いついたり、追い抜かれたり、ウインカーの瞬きと共に目の前に滑り込んだり、左に折れたり。健一の目には、すっかり馴染んだ当たり前の風景が、視神経を通して脳に心地よい刺激を与える。
「がんばったって、どうにもならないことって、世の中多いよなあ」
 いかにもガテン系の先輩がそうつぶやいた。
 先輩のつぶやきはたいてい、車の進み方が遅いとか、前の車のブレーキの踏み方が悪いとか、独り言のようなものばかりだったから、いつもは大半を聞き流している。しかし、今回は健一に向けて発せられた言葉だとすぐにわかった。カーステレオから流れるラジオの音に紛れて、聞き流してしまいそうなほどのつぶやきであったが、その言葉は健一の頭にずきんと響いていた。
 昨日、急に飲みたいと言い出した早苗もそんな思いだったのではないか。
 横目で見る先輩の横顔と早苗の表情は同じ種類の憂いを称えているように思えた。
「何がいけないんだろうなあ?真面目にやってたって、ダメな時はダメなんだよな」
「何が?」と聞きながら、それに対する答えなどないということをわかっている口調だった。先輩は自分の兄が勤める工場が経営不振で、辞めざる得ない状況だということをポツリポツリと話した。
「兄貴は俺と違って、真面目なやつでさ、区内の工業高校出たら、すぐに地元で働き口みつけて働きはじめてさ。俺は、この仕事に就くまでは、ほんといい加減な人間でさ、ぶらぶら好きなことしてたっていうのによ。今は一人で定年迎えた親父とお袋の面倒までみていやがる」
 先輩は結婚していて、子供もいるのだから、未婚の兄が親と暮らして生活を支えるのも自然なように思えたが、どうやらそのことも自分が兄に感じている負い目の一つであるようだった。
「毎日毎日、自宅と工場を行ったり来たりで。仕事は相当誠実にやってたと思うぜ。それを、不景気だからって、いきなりクビになるって、どういうことだよな」
 兄のことを本気で尊敬していて、その兄が不当な扱いを受けていることが堪らなく許せないという思いが伝わってきた。
「兄貴、足立区からでたこともないんじゃないかな?そんな人生ありかよ?こんなことなら、真面目なんてほどほどにして、もっと好きなことして暮らせばよかったのに」
 そうですね、ひどいですね、と健一が相槌を打つと、先輩はそうだよと乱暴に言い、ハンドルをパシリと叩いた。
 早苗は今頃どうしているだろうか?表情に虚しさを漂わせながら、区民相手の窓口に出て働いているのだろうか。
 それから、先輩の兄のことを思った。足立区からでたこともない真面目な兄は、どうにもならない現実をどう受け入れるのだろうか?毎日足を運んだ仕事場へ、もう明日から来なくてよいと通告されることはあまりに残酷なことに思えた。年老いた両親を両方の肩に背負い、狭い世界の中で生きる道を探すのだろうか?
「仕事があるだけでありがたい」とは同僚の言葉だった。何も悪いことをしたわけではないのに、突然職を失うなんていう馬鹿げていると思えるほど不条理に思える。しかし、事態は深刻で、馬鹿げていると言い飛ばせるような雰囲気にはない。
 これは抗いようのない大波のようだ。考えても打開策も何も浮かばない。早苗がメールしてきたような、虚しい気分に襲われた。その虚しさに心を覆われてしまわないように、深く息を吸い込む。
 ふいにフロントミラーにぶら下がった交通安全祈願のお守りが目に入る。健一は膝の上に掴んでいたかばんのポケットの部分に手を当てた。そこには健一の大事なお守りの感触があった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

裏切りの代償

志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。 家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。 連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。 しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。 他サイトでも掲載しています。 R15を保険で追加しました。 表紙は写真AC様よりダウンロードしました。

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

人生負け組のスローライフ

雪那 由多
青春
バアちゃんが体調を悪くした! 俺は長男だからバアちゃんの面倒みなくては!! ある日オヤジの叫びと共に突如引越しが決まって隣の家まで車で十分以上、ライフラインはあれどメインは湧水、ぼっとん便所に鍵のない家。 じゃあバアちゃんを頼むなと言って一人単身赴任で東京に帰るオヤジと新しいパート見つけたから実家から通うけど高校受験をすててまで来た俺に高校生なら一人でも大丈夫よね?と言って育児拒否をするオフクロ。  ほぼ病院生活となったバアちゃんが他界してから築百年以上の古民家で一人引きこもる俺の日常。 ―――――――――――――――――――――― 第12回ドリーム小説大賞 読者賞を頂きました! 皆様の応援ありがとうございます! ――――――――――――――――――――――

だってお義姉様が

砂月ちゃん
恋愛
『だってお義姉様が…… 』『いつもお屋敷でお義姉様にいじめられているの!』と言って、高位貴族令息達に助けを求めて来た可憐な伯爵令嬢。 ところが正義感あふれる彼らが、その意地悪な義姉に会いに行ってみると…… 他サイトでも掲載中。

(完結)お姉様を選んだことを今更後悔しても遅いです!

青空一夏
恋愛
私はブロッサム・ビアス。ビアス候爵家の次女で、私の婚約者はフロイド・ターナー伯爵令息だった。結婚式を一ヶ月後に控え、私は仕上がってきたドレスをお父様達に見せていた。 すると、お母様達は思いがけない言葉を口にする。 「まぁ、素敵! そのドレスはお腹周りをカバーできて良いわね。コーデリアにぴったりよ」 「まだ、コーデリアのお腹は目立たないが、それなら大丈夫だろう」 なぜ、お姉様の名前がでてくるの? なんと、お姉様は私の婚約者の子供を妊娠していると言い出して、フロイドは私に婚約破棄をつきつけたのだった。 ※タグの追加や変更あるかもしれません。 ※因果応報的ざまぁのはず。 ※作者独自の世界のゆるふわ設定。 ※過去作のリメイク版です。過去作品は非公開にしました。 ※表紙は作者作成AIイラスト。ブロッサムのイメージイラストです。

処理中です...