犬の駅長

cassisband

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第1章

16.

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 足立区の自宅に健治が帰宅した時には、午後十時を回っていた。ただいまも言わずに、玄関に入り靴を脱ぐ。居間の扉が半分ほど開いており、中から母親の明るい話し声が漏れ聞こえてくる。いつもの長電話だろう。町内の友人に土産を渡す約束でもしているのかもしれない。時折、笑い声をたてている。旅行帰りだというのに、元気なものだ。
 反対に全く元気がなかった。居間には立ち入らず、そのまま二階に続く階段を上がると、バッグを机の上に放り投げて、ベッドに倒れ込んだ。
 元気がないどころか、今まで経験したことがないくらい気分がすぐれない。今朝の駅での出来事のせいだ。一時間目の授業は結局ぎりぎり間に合った。急いで電車を乗り継いだからだ。しかし、あのことが頭を離れずに、身体中をもやもやと不安な思いが浸蝕していたため、どんな内容の講義を受けたのか、さっぱり記憶に残っていない。さらに、その嫌な感覚は一日中続いた。午前中の講義を終えてもいっこうに収まりはせず、むしろもやもやは増殖しているかのようだった。昼休みに学食で友人と昼食をとったが、いつもつい選んでしまう揚げ物丼などは到底食べる食欲もなく、月見うどんをすすった。それも、途中で気持ち悪くなって残してしまった。
 午後の講義も身が入らず、上の空だった。そのあと、シフトの予定通り大学傍のコンビニのアルバイトに出たが、いっそのこと、仮病でも使って休めばよかった。レジ打ち間違いのミスを連発して、いやみな店長にねちねちと怒られた。割り箸やスプーンのつけ忘れも気づかずにかなりしたかもしれない。あとでクレームが来たら、また呼び出されるだろう。
 散々な日だった。ふうっと深いため息をつく。誰のせいなのだ。自分にひいき目をして考えてみても、こんなに良心の呵責に苛まれているのだから、やはり自分は無関係ではないのだろう。それは、あの瞬間からきっとわかっていたことなのだ。それなのに、自分の心の中でなんだかんだ理由をつけて、無関係をよそおった。それが間違いだということは、誰でもなく自分が一番よくわかっていたのに。
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