ガーデン【加筆修正版】

いとくめ

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2・庭で失くしたもの

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朝五時。

セットしたアラームが鳴るより先に杏は目を覚ます。
ざっと身支度を整えて台所へ行くと、かっぽう着姿の祖母・咲子さきこが炊事に取りかかろうとしていた。

「おばあちゃん!今日は休んでって言ったのに」

「なあに大丈夫よう」

そう言って咲子は孫娘に明るく笑ったが、ひざのあたりをかばうように歩いている。

昨日商店街の買い物帰りに転び、地面に打ちつけた所がまだ痛むのだ。

「あとはわたしがやるから」

祖母を椅子にかけさせた杏は、慣れた手つきで炊事の続きに取りかかった。
しばらくすると、寝癖頭の父・大地だいちがのっそり起き出して大きく伸びをした。
大柄な父がそうする様は、まるで冬眠明けのクマみたいだ。

「パパは優しいクマ。それから杏はちっちゃなかわいい子グマ」

今日のような春の朝、母がそう言って幼い自分を抱き上げて頬ずりしたことを杏は思い出す。

杏たちが朝食を終えた頃、庭に面した縁側からごま塩頭に手ぬぐいを巻きつけた作業着姿のミノルさんが現れた。

「おはようございます」

「ミノルさん、今日も早いね」

杏の父が声をかけると、御年八十歳とは思えぬ身軽さでミノルさんはひょいと縁側に腰を下ろした。
昼用の弁当と水筒が入ったナップサックを肩から外したミノルさんは、庭のほうに視線を向けて大地に言った。

「社長、今朝は庭が穴だらけだよ」

「えっ?」

縁側から庭を見渡してみると、ミノルさんの言う通り地面にはいくつも小さな穴が空いている。

「たぶんアズマモグラだ」

「ありゃー、見事にやられたな」

ふたりの会話を横で聞いていた祖母が笑って言った。

「まったく、紺屋の白袴とはこのことだね」

「このところ忙しかったから、うちの庭まで気が回らなかったなあ。今日帰ったら俺が様子を見るよ」

父はそう言って、もう一度庭のほうを見た。

「おはよーみんな」

のんびりした声と共に現れたのは、杏の叔母・若葉わかばだ。
昨夜は久しぶりに友人たちと酒を飲みに出かけ、だいぶ帰りが遅かった。
作業着を着込んで仕事に行く準備は万端だが、二日酔いと寝不足で顔色が悪い。

「ごめーん、朝ごはんはパスさせて」

その様子を見た咲子があきれ顔をする。

「まったくこの子はまた飲み過ぎて。息抜きは結構だけど、もう若くないんだから適当に切り上げろって言ったでしょ?」

「はいはいごめんなさーい」

咲子の小言に適当な返事をしてそのまま仕事に出かけようとする叔母を、杏はあわてて引き止めた。

「若葉ちゃん、これ飲んでいって」

杏は手にしていたグラスを若葉に渡した。
グラスを満たす緑色の液体を目にした若葉は、おそるおそる尋ねた。

「えーと、これは何かな?」

「この前テレビで紹介されてたから作ってみたの。これ一杯で二日酔いにも効くし栄養バランスもばっちりなんだって。だから仕事に行く前に飲んで行って」

「う…わ、わかった」

若葉はなみなみと注がれた健康ジュースに口をつけた。
見るからにそれは苦そうで、そばにいた大地や咲子たちが心配そうに見守っている。

長年聞き続けた母親の小言などまったく気にならない若葉だが、かわいい姪っ子の頼みとなると別だ。 
どうにか緑色の液体を飲み干した若葉は「不思議な味だね、おかげで目が覚めた」と感想を述べて杏に笑いかけた。

その言葉に、杏はにっこりほほえんだ。

そう、15歳にして杏は筋金入りの健康オタクだった。
それは小学校低学年の頃から始まった。
雑誌やテレビで紹介される健康情報を欠かさずチェックして、園田家の暮らしに取り入れる。
春から高校に入学する若い娘が夢中になるにはいささか渋すぎる趣味だが、杏は真剣だった。

「若葉も復活したようだし出発しようか。さあて今日も忙しくなるぞ」

父が宣言し、ミノルさんと若葉と共に出て行った。

園田家は、代々この町で造園業を営んでいる。
5年前亡くなった祖父のあとを父・大地が継いだ。
祖父の代から働いてきた大ベテランのミノルさん、杏の叔母・若葉がそれを支えている。

外で働く彼らを支えるのが、祖母の咲子そして杏だった。
杏は弁当と水筒を父と叔母に手渡した。
メタボが気になる父と酒好きの叔母のために、あれこれ調べて塩分油分控えめに作った自信作の弁当だ。

「いってらっしゃい、みんな気をつけて」

仕事へ出かける父や叔母を見送り、ひざを痛めた祖母を休ませて、杏は再び家事にとりかかる。

春休みは始まったばかりだった。
今日は家事を終えたら定期購読している健康雑誌のスクラップでも作ろう。
そんなことを考えながら縁側に立った杏は、穴だらけの庭に気づいた。

父が話していたようにアズマモグラの仕業なのか、緑の芝は掘り起こされて泥にまみれ、花壇の花は倒れ無残に荒されている。

あれ?

庭を見た杏は思った。
アズマモグラにしてはやけに穴の大きさにばらつきがある。
もしかしたら他にも庭に悪さをしている生き物がいるのかもしれない。
こんなとき母がいたら、と杏は思う。

すぐに原因を突き止めて、庭を元通りにしてくれるだろう。
ちょっと見てみようかな。
杏は庭に出ようとしたが、思い直してくるりと向きを変えた。

「もうわたしには関係ないことだもの」

杏はつぶやくと家事の続きに戻った。
それきり一度も庭のほうを見ようとはしなかった。


母の魔法を最後に見たあの日、5歳の杏は自分の部屋で目覚めた。

あの大きな石のそばで丸くなって眠っていたところを父に発見されたのだ。
落葉の季節でもないのに杏の周りはたくさんの葉っぱが降り積もっていた。
まるで何かから隠そうとしたかのように、杏はすっぽりと落ち葉の中に入っていたのだった。

泣きはらした目の父から母の死を知らされた杏は、空っぽの自分の手のひらを不思議そうに見ていた。
母が握らせてくれたはずのごほうびは消えていた。

ポケットに入れたはずのおはじき、お祭りで買ったおもちゃの指輪、雪の日の手袋片方。
それまでも杏はたくさんのものを庭でなくしていた。

見つかったものも、見つからなかったものある。
広い庭のどこかにあるのは確かだから、本気で探せばきっと見つかるはずだ。

だがもう杏は探そうとは思わない。

あの日以来、杏は庭で過ごすのをやめたのだ。
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