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ルイとマリ ―邂逅―

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ルイと “マリ” のは、思いのほか静かなものになった。

ルイは、とても落ち着いていて……大きな感情の揺れは、なかった。
涙はもとより、感激の歓声さえ。


これは少し……意外だった。

で始まったにしては。

正直なところ、ルイを『緑の部屋』の中へ入れる直前までの僕は、何が起きるんだろうかと、戦々恐々せんせんきょうきょう
心の中で身構えていた。
だから、拍子抜けしてしまったぐらいだ。あまりの静けさに。


僕が絵を用意していると―――ルイは、勝手に言い張った。

まぁ、確かに準備はしていたのだが。

『金の間』を出る前から、僕の手を取り、引っ張ったルイ。
まるでピクニックに少女だった。
なのに、すぐ近くの『緑のサロン』の鍵を開ける時には、静かになった。
それまでとは打って変わって。

扉の内側に足を踏み入れる時、痛いほどに伝わって来た。彼女の緊張が。

裏を返せば、それは彼女がどれほど期待して来たかということだ。この “邂逅” に。


『緑のサロン』の中……

“マリ” の前にルイを案内し、僕はライトの光量を上げた。
ふつうは、そんなことは絶対にしない。
でも、目が悪いという彼女のための、特別措置だ。

古い絵画を披露する時……特に研究者が見る時などは、アクリルカバーを取り付ける。
人の呼吸いきには、さまざまな有害物質が含まれているから。
酸性やアルカリ性の分泌ぶんぴつ物、微細なバクテリアといったもの。
でも僕は、特別な許可をルイに与えた。
マスクと手袋を渡しながら。


「これをつけて、ルイ。数分だけなら、ひとつ分……だいたい20センチぐらいまでかな。それぐらい、絵の表面に近づいて見ていいよ」


もちろん、顔を近づけている間は話さないことが絶対条件。
くしゃみや咳なんて、もってのほかだ。


それからの数分間、彼女は “マリ” をじかにながめた。
長く呼吸いきを止め、まばたきすら我慢して。
カバーをつけると、さらに数十分。
顔を寄せ、食い入るように絵の表面を確認している。
隅から隅まで。


僕はというと、彼女の視界に自分が入らないように、少し離れて立っていた。
彼女自身がしきりと僕に言っていたような “心の対話” ができるように、と。



やがて、僕は、息を呑んだ。
“マリ” から顔を離したルイの顔が、活き活きと……いや、燦然さんぜんと、輝いて見えたから。

「伯爵……彼女が初めてフランス宮廷に入った時、“醜いlaide”って言われたことは、ご存知?」

「え? えー、ああ、まぁ……」

僕は、彼女に目を奪われていたという事実に狼狽うろたえ、しどろもどろになった。

「―――私にはそれがすごく不思議だったの。だって、この絵を見て、ぜんぜん “醜い” とは思わないから」

僕は、答えられない。
僕だって、思わないさ。“醜い” だなんて。
―――“マリ” のことも。君のことも。

僕の沈黙にはお構いなしに、ルイはすべてのイーゼルを指した。

そう。僕は並べていたのだ。
ジェイコブ=フェルディナンド・フートの連作……つまりマンシーニ家の5人姉妹の肖像画のすべて……すなわち、ロール=ヴィットリア、オランプ、マリ、オルタンス、そしてマリ=アンヌの5人の絵を。

「ロール=ヴィットリアは金髪だから美人扱いなのはいいわ。でも、2番目のオランプと、末っ子のマリ=アンヌは、どう見ても……当時の美人の基準をいくら考慮しても、マリより美人とは言えない」

17世紀の美人の基準は、金髪、白いふくよかな肌、ばら色の頬。
だから、ロール=ヴィットリア以外、まるで該当しない。

そして……確かに、オランプとマリ=アンヌの顔は……目が小さくて、バランスがあんまり

ことにオランプの目は……あくまでも僕の主観だが、野心がのぞいているというか、何か、“おだやかならぬ感じ” がある。禍々まがまがしさが。

ルイは、立ち上がった。そして5人の中の2枚の絵を指した。

「見て、伯爵! いつもマリが比べられていた、“引く手あまた” のオルタンスを」

オルタンス・マンシーニ。
数多くの男が競い合って求婚したという、マザリネットいちの

「マリをどう違う? オルタンスと比べて? むしろでしょう?」

「ああ……確かに……」

これまでそういう観点で見たことがなかったが、言われてみれば、確かにそうだ。
このふたり……顔つきが、似ている。
この館にはないけれど、ふたりを並べて描いた絵は、いくつか残っている。
フートの代表作も、このふたりを描いた作品だ。

「ああ……それで!」

やっと、解った。

ルイの言葉がヒントになった。

僕が気になっていたこと……世の中には、マリを描いたものをオルタンスと紹介していたり、その逆があったり、間違った情報がものすごく多くて、その理由が謎だった。

オルタンスは、マリより7つも年下なのだ。
だけど……顔つきは、確かに似ている。


「つまり、マリ・マンシーニに向けられていた “醜いlaide” っていう形容詞は、容姿にかかるものではなかったのよ!」


王妃になれなかったマリ。

太陽王ロワ・ソレイユの初恋の相手とあって、テレビドラマや映画で度々題材に取り上げられるけれど、どれもみな、彼女を “姿の頭の良い女” という描き方をしている。
美しくない、と、から決めつけている。

それは、マリを “醜いlaide” と形容する文書が存在していたからだ。

でも、そうした先入観なしに見れば、オルタンスとマリ、このふたりは似ている。

ルイの言葉で、僕の目から、うろこが落ちた。
僕自身、惑わされ過ぎていたのだ。“醜いlaide” という、有名な形容に。


遠い極東の国から来た女性が、マリを擁護ようごしている。
熱く……まるで、自分のことのように。


―――ルイは、“マリ” の代弁者ポルト・パロールだ。


僕も、解き放たれた……


これまでは、僕自身、目をふさいでいた。
恥じていたのだ。マリを好きだという自分を。
いつの間にか、無意識のうちに……
人が作った既成概念によって。
醜い、と、マリを揶揄からかう無数の風刺歌の存在や、歪曲されたイメージの歴史ドラマのせいで。


―――ああ、ルイ。
やっぱり君はすごいよ。

僕は……勇気づけられた気分だ。
堂々としていいんだと……マリに惹かれたことを公言していいんだと。

やっと巡り合えた、僕の同志。僕の仲間によって。
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