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最終話

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 ────お父さまが来たあの日から、二ヶ月が経過した。

 その間、わたしは無事にのんびりと過ごせているが、あの後お父さまは全ての罪を洗いざらい話したらしく、牢に入れられることになったらしい。そして死ぬまで牢から出ることは無くなったと、改めて挨拶にいらっしゃったザック様が言っていた。
 あのお父さまが全てを話すなんてと不思議に思い、ザック様に詳細を聞いてみたのだけど、旦那さまがザック様を追い出してしまい話が中断してしまった。


 それから──ニーナは罪を犯した人達が更生する場所で働くことになったとのこと。
 それは長時間労働に十分な食事も与えられないという過酷さで、特に女性にとっては大変らしいのだが、ニーナ自信がそう望んだとか。
 どうしてニーナがそう望んだのかは分からないが、ニーナ自身が望んだことだからこれで良かったのかもしれない。

 それに、ニーナともう二度と会うことは無いだろうから。されたことを完全に忘れもしないし、許せる訳でもない。

 ニーナが経験した辛いことを考えれば、誰かは許せるかもしれない。でもそれを許せるほどわたしは優しくはない。わたしはただ一人の人間なのだから。

 ──でも。でも。わたしはニーナがあの時見せた辛い顔を忘れることは出来ない。だからニーナがどこかで幸せを見つけることを祈らずにはいられないのだ。








 そして今のわたしはというと、暖炉が炊かれた暖かい部屋で大量の毛布とクッションに包まれながら、ほかほかと湯気を立てているスープの前に座っている。


 あれから、おかげでみんなとはもっと話せるようになって、仲良くなった。
 怖さも全然無くなった訳ではないが、旦那さまがいるというだけで安心して生活できるようにもなった。
 旦那さまとも普通に話せるようになって、昔思っていたような感情は完全に無くなった。
 今あるのは嬉しくて、幸せな気持ち。ただそれだけでいい、んだけど……。

 みんなは優しい。だけどとにかく過保護で、わたしが1回くしゃみをしただけで毛布にくるまれて暖かい部屋に入れられる。
 ………今みたいに。
 ………けれど少し、いやだいぶ行き過ぎてるような気もする。


「奥様、どうかしたんですか? 寒いならもう一枚毛布をお持ちします」
 ──ハンナ。
「違うわよ、暖かいスープですよね? 新しいのを、もっと暖かいものをお持ちします」
 ──アニー。
「何を言ってるの、もっと部屋を暖かくしないと」
 ──テレーゼ。

 三人とも、わたしが冷や汗をかいたのを見たとたんテキパキと動き出す。
 皆のそれももちろんありがたいのだけれど、ただ一回くしゃみをしただけなのだ。だからもう大丈夫なのだけれど……暖かいものを異様に勧めてくる。


「も、もう大丈夫だから…」

「そんなこと言っても、自分では分からないことも多いんですよ? もしかしなくても風邪かもしれないじゃないですか」

 首を振ってもそう言われながら、勿体ないからとスープを食べているとまた1枚と毛布をかけられた。

 もう暖かいじゃなくて暑くなってきている。

 暑さのせいか、なんだか頭がくらくらしてきた。息が上がる。毛布をせめて一枚でもどかそうとするが、上手く手が動かない。
 そして、ぐらりと景色が傾く。 
 おかしいな。そう思った時には、慌て始める周りの声は聞こえていなかった。



********


「──風邪ですね」

 公爵家の侍医にそう言われたのは、わたしが倒れてすぐあとのお昼。
 侍医と言ってもこの国での医者は貴重で、他の貴族と掛け持ちしているはずなのに、倒れた後にくるなんてびっくりした。

「一日安静にしておけば熱は下がって、念の為翌日まで安静にしておけば完治しますよ。薬は一日二回で、食間に飲んでくださいね」

「はい…ありがとうございました」

 そう説明を受けて、お医者さまは薬をテレーゼに渡すと部屋を出ていった。

「ほら、みんなの言う通りになりましたよ。やっぱり風邪じゃないですか」
「う……ごめんなさい…」

 口を尖らせたアニーから当たり前の事を言われる。やっぱり自分では分からないこともあるんだなと感心してしまった。

「あ、奥様。ロベルトさんから旦那様には連絡したそうです」
「そう…ありがとう、ハンナ」

 ハンナがスープを片付けながら言う。
 既に旦那さまには連絡がいったらしいが、心配かけてしまっただろうか。もう心配かけるようなことはしたくなかったのだけれど、こればかりは仕方ない。だから早く治すようにしなければ。


「奥様、もう休みましょう」
「でも、まだそんなに眠くない…」
「そんなこと言わずに体を休めるんです。水分をとって横になるだけで眠くなりますよ」

 テレーゼにそう言われると、もうベッドで休むことにした。手渡された水は果実水なのだろうか、ほんのりと甘くて美味しかった。

 横たわるとテレーゼの言う通りどんどんとまぶたが重くなって、いつのまにかわたしは眠っていたのだった。





******

「う……ん…?」

 ゆっくりと目を開ける。窓から差し込んでいたのはオレンジ色の光。
 風邪が判明したのはお昼前だったのに、既に夕方になっていた。

 寝る前のだるさは随分軽くなったけど、まだぼんやりする。ゆっくりと瞬きをすると、喉の乾きを感じた。水を飲もうと手を伸ばした、その時。

 パシリ、と手を掴まれた。

「…起きたのか? クレア…」
「だ、旦那さま…?」

 驚いて見てみると、ベッド横には旦那さまが居た。旦那さまも驚いた顔をしている。

「っ、よかった…」

 心底ほっとしたような顔をした旦那さまが、わたしの手をぎゅっと握る。その手は暖かくて、じんわりと手に響いていった。

「旦那さま…」
「クレアが倒れたと聞いて心配した。…今は大丈夫なのか? 熱は? 容態は? 何か欲しいものは?」

 旦那さまはきゅっと眉を顰める。

「お、大袈裟です、そんな大したことじゃ…」
「大袈裟なんかじゃない。ただの熱でも酷いことになるかもしれないだろう?」

 すごく心配そうな顔をしている旦那さまにハッとさせられる。そんな旦那さまに、すごく申し訳なく思う。自分が大したことと思っていなくても、他の人には心配をかけてしまっていることを思い知らされたから。

「っ…すみません、ご心配をお掛けしました。熱はもう大丈夫です」

 心配させないようににこりと笑う。なんだか最近は力まなくても自然に笑えるようになった。

「…そうならいいが……何かあったら絶対に言ってくれ。クレアは我儘を言わないからな。欲しいものでもしたいことでも、なんでもだ」
「はい」

 欲しいものもしたいことも、正直思いつかないから言わないだけなのだが、それが逆に心配させてしまったのだろうか。
 なんだか、心配かけること日に日に多くなっているような気がする。これ以上心配をかけないようにと思っているのに、と思った時、旦那さまに抱きしめられた。

「…!?!?」

 突然のことに驚く。多分、いや絶対顔が赤くなっている。
 顔だけじゃない。じわじわと身体中に熱を持っていく。
 恥ずかしいだけだと思ったけど、抱きしめられることがこんなに嬉しいとは思っていなかった。だって旦那さまはわたしのことを本当に心配してくれているから。そうじゃ無かったら大人しく抱き締められるなんてことは無い、だから、わたしも旦那さまの背中に手を伸ばした。

「…もう、あんな思いはしたくないんだ。二度と会えなくなるなんて考えたくもない。…他人から見たら、こんな気持ちはつまらないことかもしれないが、クレアと出会ってやっと幸せだと感じたんだ、嬉しいと思ったんだ。……だから、大したことなんて言わないでくれ」
「旦那さま…」

 ああ……旦那さまも同じ気持ちだったんだ。わたしと出会って、幸せだと感じてくれたんだ。嬉しいと思ってくれたんだ。
 それだけで胸がいっぱいになって、ぎゅっと締め付けられた。目頭が熱くなったと思ったら、いつの間にか涙がこぼれていた。

「あ、あの、でしたら、一つだけお願いしてもいいですか…?」
「なんだ? 何でも言ってくれ」

 旦那さまはじっと、わたしを見つめてお願いを待っている。こんなお願い事は初めてだし、恥ずかしいから少しだけ言い淀んでしまいそうだったけど、そっと口を開いた。

「っ……ふ、ふたりでお出かけデートがしたいんです……」
「! 分かった」

 わたしのお願いに旦那さまは少し驚いたけど、すぐに了承してくれた。
 旦那さまは「完璧な準備をしよう」と張り切っているようで、それに嬉しくなってつい、ふふという声が漏れる。
 ぴくりと旦那さまの肩が動いたので、旦那さまを見上げると、ゆっくりと旦那さまの顔が近づいて来るのがわかった。

「!」

 必然的に目がいくのは旦那さまの唇。これは、まさか、と、顔に熱が集まるのが分かりながらも、ぎゅっと目を瞑ってその瞬間を待とうとしていた時。
 ──コンコンと、ノック音が聞こえてきた。

 その瞬間慌てて旦那さまと離れ、真っ赤な顔を隠すように後ろを向いた。その時の旦那さまも、少し赤くした目頭を手で覆い隠していた。

「……? どうかしましたか…?」

 まだわたしが寝ていると思っていて、返事をそう待たずにドアを開けたテレーゼが不思議そうな顔をする。

「な、なんでもないのっ…!」
「そう、ですか? お薬をお持ちしましたが…」

 薬と水が乗ったトレイを持ったテレーゼが、近くまで近づいてくる。まだ熱が収まらない顔を見られるのは余計に恥ずかしいから、わたしはシーツまで被った。

「あっ、後でのっ、飲むから…」
「な、ならもう俺は戻る。……また後でな…」
「は、はい…っ」

 カタンと音を立てて旦那さまが立ち上がって、私にしか聞こえない程度の声で、目を細めた。目だけ出してちらりと見たその微笑みにも、ボンっと音がなりそうな程顔を真っ赤にさせられてしまった。


 旦那さまが出ていったあと、入れ違いでハンナとアニーもやって来て、何があったのと根掘り葉掘り聞かれたのは恥ずかしい思い出となった。




 薬を飲んで、旦那さまと夕食を一緒に食べて。旦那さまはお仕事に向かった。

 見送りをしたあと、後ろから「奥様」と声をかけられた。振り返った先にいたのは、なんだか嬉しそうなロベルトさんだった。

「奥様、今少しだけよろしいでしょうか」
「はい。どうか、したんですか?」
「いえ、奥様に少しだけお礼を、と」
「お礼?」

 お礼を言われるほどのことをわたしはしただろうか、と考える。礼を言うのはこちらの方だ、と疑問の視線をロベルトさんに向けると、ロベルトさんはその心を見透かしたように「いいえ」と首を振った。

「…奥様のおかげで、あんなに嬉しそうな旦那様の顔が見られたのです」
「え…?」
「……旦那様はずっと、つまらなさそうにしていました。生きていくための食事も、睡眠も、仕事も、作業のように、ただ、淡々と。しかしそれが、奥様に出会われて変わりました。旦那様が嬉しそうにして下さるのが、私も嬉しいのです。それは奥様のお陰です。だから、ずっとお礼を言いたかったのです」

 「ありがとうございます」と本当に嬉しそうな顔で、ロベルトさんが深く腰を折った。

「そんな…お礼を言うのはこちらも同じです。…わたしも、旦那さまと出会って、この屋敷に来て…変われたんです。だから、うれしいのはわたしもなんです」

 あの日の自分が見たらきっと羨ましがる、そんな今の自分がいる場所が大好きだ。また嬉しくなって、自然に口角が上がる。

「奥様……」
「…だから、これからもよろしくお願いします」
「…はい。こちらこそ、よろしくお願い致します」

 顔を上げたロベルトさんに、笑って言った。そうしたらロベルトさんも涙を浮かべて笑った。

 もう一度お礼を言ったロベルトさんと別れて、わたしは傍で待機していたハンナ達と一緒に部屋に戻ることにした。

 部屋に戻る途中、ロベルトさんの話が脳裏に浮かんだ。

『──旦那様はずっと、つまらなさそうにしていました』
『──君を見て、初めて誰かに夢中になれた』

 そして、あの時の旦那さまの声が浮かんだ。
 ついピタリと足を止めてしまった。

 わたしがここに来て旦那さまに影響を与えただなんて、嬉しいけれどなんだかむず痒い。わたしでも出来ることはあったんだなって少し恥ずかしくなってしまう。

「奥様?」

 もう部屋はすぐそこなのに動かないわたしに、ハンナが不思議そうな顔をしている。
 わたしはハッとして、なんでもないと笑って首を振った。





 ****

 それから数日後、わたしは早速旦那さまと街に出ていた。

「クレア、どこか行きたいところはあるか?」

 旦那さまにそう聞かれて、わたしはとあるお店の名前を言った。そのお店の名前を聞いた旦那さまは苦笑しながら、行こう、と手を差し出してきたので、わたしはその手に恥ずかしながら自分の手を重ねた。


「ここだ」
「ありがとうございます、旦那さま……あ、ノーラさん!」
「あ…奥様!? 公爵様も!」

 わたしが行きたかったお店は、ノーラさんのお店。ノーラさんにぜひ来てと言われてから随分と経ってしまったが、行ってみたいと思っていたのだ。

ノーラさんはお店の入口にいたのだが、わたしたちを見ると駆け寄ってきてくれた。

「ごめんなさい、ノーラさん。遅くなってしまって…」
「いえいえ!来てくれただけで嬉しいです。さ、ぜひ中を見ていってください。と言っても公爵様の奥様ですので満足する品があるかどうか分かりませんが…」
「そんなことないわ。わたしだって旦那さまと結婚する前はもっと身分は低かったのだから。おすすめの商品はありますか?」
「奥様…! はい、ぜひ案内させて頂きます!!」

 冗談交じりに話すノーラさんと、一緒にお店の中に入っていく。その時にちらりと旦那さまを見上げると、「時間はたっぷりあるから、気にしないでゆっくり見てくるといい」と言われたので、お言葉に甘えることにした。





 お店では、ノーラさんオススメの商品と、とあるものを買うことにした。そして、お会計を済ませて外に出るとなんだかガヤガヤ騒がしい。集まっている人々の視線の先には──旦那さまがいた。

「モテてますねぇ、あの人は」
「だ、旦那さま…」

 ノーラさんが呟く。わたしはというと、困惑が隠せない。
 旦那さまが多くの人に好意を持たれるのはなんとなく分かっていたけれど、こう目の当たりにすると困惑してしまう。

「大丈夫ですよ、奥様。公爵様は奥様一筋なんですから。さ、行って下さい!」
「え、ええ…」

 ノーラさんに背中を押されて足を一歩踏み出す。


「……クレア…!」
「だ、旦那さま」
「買い物はもういいのか?」
「はい…」

 わたしが旦那さま、と声をかけると少しザワついたのがわかった。
 周りの人から痛いほど視線を感じる。好奇心や、嫉妬の眼差しが来てるのだと理解した。
 こんな地味なわたしが格好良い旦那さまと一緒にいるなんて気に入らないだろうか。
 旦那さまは優しい眼差しで微笑んでくれるけれど、周りの女性が黄色い悲鳴をあげたのを聞いてしまい、恐縮してしまった。

「っ………………」
「…クレア。…ん"んっ、少し行きたいところがあるんだが…いいか?」
「…? はい」

 黙っていたわたしに声をかけた旦那さまは、わざとらしく咳払いをするとわたしの手を取り──抱き上げた。

「──っ!?」

 突然のことに驚いて声も出ない。
 旦那さまと顔も近いし、さらに黄色い悲鳴があがったのが分かった。視界に写ったノーラさんさえもニヤニヤしているし、恥ずかしさで顔が赤くなった。

「だ、旦那さまっ? お、降ろしてくださいっ」
「すまないが少し急いでるんでな」
「っ?」

 スタスタと早歩きで進む旦那さま。さっき時間はたっぷりあると言っていたのは何だったのだろうか。
 そう思ってると後ろからノーラさんの「ありがとうございましたー!」という声が聞こえた。しかしわたしはノーラさんにお礼というお礼も言えないまま、あっという間に馬車へと辿り着いてしまった。

「あ、あの……?」

 馬車へと乗り込み、向かい合って座った。
 出発すると、旦那さまが口を開き出した。

「…すまない、あの場では目立ってしまっていたからな」
「い、いえ! 旦那さまが謝るほどでは…!」
「だが、まだ買い物したかったのでは無いのか?」
「あ、い、いえ買い物ではなく…ノーラさんにお礼を言えなかったので…」
「ああ……ノーラなら、また店に行けばいいだろう。あいつはそういえことは気にしない性格だろうからな」
「は、はい」



 ────それから他愛もない話をしながら、旦那さまの行きたいという場所へ着いた。
 旦那さまに手を支えてもらいながら馬車を降りると、そこは街外れの小さな教会だった。

「ここは…教会、ですか?」
「ああ」

 どうしてここに?と思いながらも、旦那さまにエスコートされるまま教会へ向かう。
 旦那さまがギィィと重そうな扉を開ける。
 中に入るとそこはステンドガラスが太陽の光に反射していて、赤や青、色んな色が床や壁に映し出されていている。思わずすごい、と歓喜の声を漏らした。
 わたしはステンドガラスがよく見えるであろうレッドカーペットの先に向かおうとしようとした、その時。

「…ずっと、やり直したいと思っていたんだ」
「え?」

 その声に振り返り、真剣な顔をした旦那さまと目が合う。旦那さまはわたしの手を取り、その手に引かれるままレッドカーペットの先、壇上に向かった。

「…クレア、俺は君が好きだ」
「っ…!?」

 壇上で膝をつけ、旦那さまはわたしの左手に口付けた。想像してもないことに驚く。

「だ、旦那さま?」
「……あの時はお互いを知らずに結婚した。そしてお互い嫌われていると思っていただろう。だから俺はクレアのことを見れずにいた。無理やり結婚してしまったことから目を背けていたんだ。だが、今なら…やり直せるんじゃないかと思ったんだ」

 わたしを見上げる旦那さま。その顔は少し悲しそうで。胸がきゅっと締め付けられた気がした。

「旦那さま…」
「…もちろん、自惚れていないならな」
「自惚れ?」
「クレアが俺の事を好いていているか、だ」
「っ、ぁ…」

 ──ああ、わたしはまた。旦那さまに悲しそうな顔をさせてしまった。どうしてわたしはこんなにも不甲斐ないのだろう。あの時、想いを告げていたのなら、きっと。こんな顔させていないのに。

「クレア、悲しそうな顔をしないでくれ」

 悲しそうな顔をしているのは旦那さまの方なのに。そう思ってても心配させてしまう顔になってしまう。

「…すまないクレア」

 どうして謝るの? わたしが悪いのに。こんなわたしを好いてくれているのはなんでなのだろう。
 どうして、なんで、そんな言葉が溢れてくる。
 悔しい。こんな自分が。
 でも、わたしは変わりたい。以前の弱虫で、泣いてばかりのわたしでは無いのだから。

 立ち上がろうとする旦那さまに、意を決して、口を開いた。

「旦那さま、わたしは…」

 決意したはずなのに、そこから先の言葉が出てこない。ただ「好き」と言えばいいだけ、なのに。
 こわい。好きだと言って断られるのが。嘲笑われるのが。裏切られるのが。

「…クレア、無理しなくていい。ここには俺が来たかっただけだから。…さぁ、もう行こうか」
「っ……」

 壇上から降りて、手を差し出される。

 こんなに与えて貰ってるのに、わたしは何一つ返せない。

「…ごめんなさい」
「どうしてクレアが謝るんだ? 悪いのは俺だ。…クレアの返事を待てなかった、俺のせいだ」

 その言葉にハッとさせられる。
 わたしはもう既に待ってもらっていたんだ、って。

「っ…!ま、待って、ください!」

 いやだ、これ以上待ってもらうのは。いま、ここで、言うんだ。
 そうじゃないといつまで待ってもらうことなんてできない。いつか、呆れて捨てられる。嫌だけど、捨てられたって構わないくらいには旦那さまのことが好きだから。だから、言うんだ。

「だんな、さまっ……っ、わたしっ……もう、嫌なんです。素直になれない、こんな、わたしが、旦那さまの妻でいることが…」
「っ、クレア……すまない、俺のせいで…」
「っ違います、そうじゃなくて、わたしは、素直になりたいんです。わたしは、旦那さまのことが────好き、だから…」

 やっと言えたことが嬉しいはずなのに、涙が溢れて止まらない。

「ご、ごめんなさ──」
「──すまない」

 涙を隠すように俯くと、旦那さまに抱きしめられた。その暖かさに嬉しくなる。

「…簡単に口に出せないことだと知っていたはずなのにな…」
「いいえ……わたしが、弱気なせいです。もっと早く言えたなら…」
「いいや、不甲斐ないのは俺のせいだ。最初から素直になっていればここまで引きずることもなかった」

 また一段とぎゅっと抱き締められた。でも苦しくない。すごく、嬉しいから。

「…しかし、言ってくれて嬉しいよ。…ありがとう。…愛してるよ、クレア」
「っ、! わ、わたしも、好きと言ってくれて嬉しかったです…」

 今はまだ、愛してるとは恥ずかしくて言えないけれど。きっといつか言うのだと、幸せを噛み締めるように、わたしも手を伸ばし抱き合う。

 そして、しばらくたったあと。わたしはもうひとつ心残りが頭をよぎった。

「…旦那さま、あとひとつだけ…お願いしたいことがあります」
「どうした?」
「…わたしと、旦那さまの、が欲しいんです」
「…!」

 その命が生まれることは無かった、わたしたちの子供。男の子か女の子さえもわからない、居なくなってしまった子。
 あの子を思い出すと今でも胸が苦しくなる。本当はわたしを恨んでるのではないかと夢を見ることだってある。
 でも、だからといって忘れたくない。ちゃんと覚えていたい。わたしのお腹に確かにいたのだから、温かったのだから。
 このままあの子のことを引きづるのだったら、より多くの人に覚えていて欲しい。そしてその子のことを覚えて欲しいのは、私たちの子ども。だから、新たな命をつくりたい。決して、あの子の代わりではない。あの子のことを覚えていてもらいたいから。

 その事を旦那さまに伝えると、旦那さまは泣きそうな顔で頷いた。そして微笑んでこう言った。

「勿論だ。あの子の、妹か弟を。きっと可愛い子だ」
「…はい、そうですよね。きっと、可愛い子です」



 その後、二人で屋敷に帰った。屋敷ではロベルトさん、ハンナ、アニー、テレーゼやみんなが出迎えてくれた。
 その暖かさに改めて嬉しくなって、泣いてしまったのはわたしだけの秘密。

 そしてその夜旦那さまと約束した。死んでもあの子のことを忘れないと。

 その夜。夢を見た。草原にひとりの子供がいて、声をかけると振り返って笑顔でこう言った。
 『ありがとう。でも、もうだいじょうぶだよ』って。許して欲しいと、わたしの欲望が見せた都合のいい夢かもしれないけど、きっとあの子だ。そうわたしの勘が告げていた。


















 ──あの日とあの夢のことを忘れることは無い。それはもちろん、2年後にあの子の妹が生まれたのだから。そして、そのまた3年後には弟が。

 そして必ずあの子のことを覚えていてもらうのだ。あの子がきっと見守ってくれていると信じて。

 子供たちが成長して、一段落したと思ったらアニーが好きだった庭師見習いの男性と恋人になったり、テレーゼがとある男性にプロポーズされていて満更でもない顔をしていたり、ハンナがその様子に愚痴りながらもアプローチしたら婚約できたと嬉しそうに報告していたりしていた。
 ロベルトさんはひ孫ができたと嬉しそうに話したりした。

 みんな嬉しそうでわたしは嬉しい。



 そう思えるから、わたしはもう怖くない。1人で泣くことも無くなった。わたしには旦那さまやみんながいるから。

 嫌な思いでも、怖い思い出も、全部わたしを構成する1部。忘れないでそれを抱えて生きていく。
 それがあの子にできる唯一の贖罪ではないだろうか。


「クレア」
「旦那さま?」
「ユリアとマルクが早く早くとうるさいんだ。一緒に行こう」
「分かりました。では行きましょうか」
「ああ。…なぁクレア」
「はい」
「何か悩んでいるなら言ってくれ。俺はクレアを支えていきたいから」
「旦那さま…わたしはその気持ちだけで嬉しいです。でも、何かあったら頼らせてくださいね」
「…ああ、勿論だ」

 微笑んだ旦那さまの手を取り子供たちの方へ行く。

 遠くから子供たちの声がする。ユリアはもう10歳で、マルクは7歳。まだまだ元気な子供たちの成長を見守りながら、旦那さまと寄り添っていくんだ。
 旦那さまは今でも愛を囁いてくれるし、わたしもいくらかは返せるようになっていってるし、すごく嬉しい。

 これから子供たちと、旦那さま、みんなと生きていく。



 ありがとう、わたしを産んでくれたお母さま。
 これから成長を見守る、わたしたちの子供たち。
 さようなら、わたしに辛さを教えてくれたニーナ。
 そして、これまでも、これからもずっと大好きな、幸せと愛をくれた旦那さま。


 ──ああ、わたしはいま、幸せだ。
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