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14話

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遅くなりましたm(_ _)m💦
長めです。最終話は多分年越します。




 目が覚めると、隣に旦那さまはもう居なかった。

 体を起こして窓を見て、太陽はもう高く登っていたことに驚く。

 そして昨日、旦那さまに恥ずかしいところを見られてしまったこと、一緒に寝たこと、旦那さまにもう少し寝ていて、と頭を撫でられたことを思いだし顔が赤くなってしまった。火照る顔を冷めようとベッドサイドの棚の上にあった水差しで水を飲んだ。乾いた喉に冷たい水が染みていく。

 喉をこくりと鳴らすと、扉を叩くノックの音がして一拍してから扉が開いた。



「「「おはようございます、奥様」」」



 昨日わたしに着いてくれた三人の侍女が一礼した。



 真ん中でにこりと笑って挨拶をしたのは、新米侍女のアニー。

 色々物が入ったワゴンを押しているのは、ハンナ。

 直ぐに着替えの準備をしているのは、テレーゼ。



 三人ともこんなわたしでも優しくしてくれるいい人たちだと思う。



 ニーナの件があって、まだ侍女というのが少し怖い。

 また裏切られるかもしれないということが恐ろしくて、体が震えてしまうこともあるけど、侍女が三人付くというのがそういうことを防ぐことにもなるらしい。三人もいたら、裏切るという行為はしないだろうからと。

 それに、まだ出会ったばかりだけど、この三人は信頼できる気がする。



「今日はとってもいい天気ですよ! 後でお庭をお散歩してもいいかもしれませんね」

「……ええ」



 弱々しい返事だったかもしれないが、みんな気にしないようにしてくれる。それだけでも救われて、申し訳なく思いながら三人に手伝ってもらい着替える。



「はいっ、終わりましたよ。ガーゼ取り替えましょうね!」



 着替え終わったら、怪我のガーゼを取り替えてもらった。まだ怪我を見るのは怖かったので、もちろん目を瞑ったまま。



 手当が終わったら早速食堂に向かうことにした。



 ハンナが席に座らせてくれて、あっという間に朝食、もとい昼食が運ばれてきた。

 湯気をたてるスープや、鮮やかなサラダにホカホカのパン。でも一際身震い目をひいたのは、色鮮やかな果物。



「綺麗…」



 オレンジの綺麗な色をした、大粒の実がおいしそうで、感激の息を漏らす。



「たくさん食べてくださいね。これ、旦那様がご用意したんですよ。まだそんなに食べられないかもだから、食べやすい果物だそうです」

「旦那さまが?」

「栄養たっぷりの果物らしいです。奥様に是非と」



 実を手にとって見とれていると、ハンナが説明してくれる。補足はテレーゼが。

 旦那さまが、わたしのためを思ってくれていることに嬉しく思いながら、一粒口に入れてみる。

 「これ、すごくおいしい…」



 じわじわと体の底から回復していくような…うまく説明できないけど、すごく美味しかった。



「これ、全部奥様が食べていいんですからね?」

「でも……わたし一人じゃこれだけは食べられないわ」



 アニーはそういってくれるけど、そのオレンジ色の果物だけでもたくさんある。食べきれないのはもったいないかな、と思っていると妙案を思い付く。



「…ねぇ、三人も食べない…? これ、まだたくさん──」

「──いやいやいや、それは奥様が食べてくださいって!」

「──そうですよ、そんな恐れ多いことっ!」



 もっと仲良くなりたいとの意味も込めていったのだが、提案すると三人はいきなり目を見開いて慌て出した。ハンナとアニーがどうぞどうぞと手を動かして、テレーゼも口には出していないけれど、慌てているのが分かる。

 けれどアニーが言ったおそれ多いとはわたしと食事を共にすることなのかと、少ししょんぼりしてしまう。



「──その果物は、旦那様が、奥様にと、出されたもの、です。ぜひ、奥様が、お食べください」



 クールなタイプのテレーゼがやけに強調して言ってくる。その圧に思わず頷いた。



「は、はい……」



 思わず敬語になってしまったがこれは仕方ないと思う。

 しぶしぶ食事を再開する。パンを毟りながらじっとその実を見ていると、ふとその名前を聞いていないことを思い出した。



「ねぇ、そういえばこの実、なんて名前なの?」

「えっ……」



 皆に聞いてみると、何故か皆はまた慌て出して三人でこそこそと話し出した。



「…ねぇ、言っていいのかな?」

「でも言わないと…なにか分からないまま食べるってことでしょ?」

「でも、あの…………なのよ?」

「…もういっそのこと言ってしまいましょ。………………だと思うし、なんとかなるわよ」

「…そうね」



「……?」



 何と言っているかはわからなかったけれど、話が終わったのか三人は何でもないように見たことも無い満面の笑みで振り返ってきた。



「それはポポという名前の果実です」

「ポポ? かわいい名前…」



 わたしがそう答えると、三人はホッとしたように大きなため息を吐いた。

 思わず不思議そうな顔をするけど、三人はニコニコと笑って何も答えてくれない。



「何かあるの…?」

「「「いえいえ、何でもありません」」」

「…??」



 よく分からないまま部屋にもどり、さっと着替えてからアニーが朝言っていた、庭に出ることにした。



「…暖かい…」

 もうすぐ春になる。まだ朝と夜は寒いけれど、お昼は暖かくなる。ポカポカしてうとうとしてしまうくらいに。



 テレーゼが椅子を引いてくれて、ハンナがハーブティーを入れてくれた。アニーはひざ掛けを掛けてくれて、いたせりつくせりなことがなんだか緊張してしまう。



「どうしたんですか?」

「体調が悪いのなら……お部屋に戻りますか?」

「う、ううん、なんでもないの。ありがとうね」



 三人とも心配してくれるけど心配かけるわけにはいかないし、何より迷惑だろう。だからそうしないようにわたしはお茶を一口啜った。









「──おーい、誰か手の空いてるやつはいないか?」



 のんびりしていると、ふと、遠くから男の人の声が聞こえた。たぶん、公爵家お抱えの庭師ではないだろうか。すると、声が聞こえた場所から一番近くにいたアニーが少し頬を赤く染めた。



「あの…行ってきてもよろしいでしょうか?」

「? え、ええ、いいわよ?」

「では、行ってきます」



 アニーは更に頬を赤くしながら一礼して駆けて行った。



 アニーの姿が見えなくなった頃、ハンナがニマニマしながら顔をこっそり近づけて「ふふ、アニーはあの庭師の彼が好きなんですよ」と囁いた。

 どうやらハンナはアニーと昔からの知り合いらしくて、アニーの話を教えてくれた。



 「私が言ったことは秘密ですよ」



 なんと、本人が聞いたら恥ずかしいような話まで聞かせてくれた。

 テレーゼまで笑っていて、バレたら怒られるかなと談笑していると、いきなりドンっと、遠くで何かがぶつかったような大きな物音がした。

 その音に驚いていると、すぐさまテレーゼが様子を見てきますと物音がした場所へと駆けていってしまった。



 しかしそのあとテレーゼは十分経っても戻ってこない。さすがに不安になってしまう。



「テレーゼ、大丈夫かな……」

「…確かに、心配ですね…」



 様子を見に行きましょうと立ち上がったが、ハンナは目を見開いて慌てて首を降った。



「いいえ、奥様はここにいてください! 何かあったらどうするんですか? ここは私が見てきます。あっ、でも奥様を一人にするのは…」

「大丈夫よ、これくらい…」



 そう言うとハンナは困った顔をして「何かあったら大声で助けを呼んでくださいね!」と言いながら小走りで掛けて行った。







 あっという間に一人になってしまった。さっきまでは賑やかだったのに静かになると、どうにも心が不安定になってしまう。



 どうにか落ち着かせようとお茶を飲む。しかしお茶の香りでは無い、どこからか香ってきたのだろうか、薔薇の香りがつんと鼻をついた。

 今飲んでるのはハーブティーなのに、と、かぶりをふった、その瞬間とき、あの時嗅いだ薔薇の香りが脳裏に宿った。ビニールハウスの中のじりじりとする暑さと、その中で嗅いだむわりとむせ返るような薔薇の香り。そしてニーナがくれた、あの香水の香り。

 でも、あの香水はわたしを眠らせるためのもので。

 少しだけ、仲良くなれたと嬉しかったのに。

 期待を裏切られて、連れ去られて、暴力を受けて。

 怖くて辛くて、どうして自分だけがこんな目に遭うんだと自分の運命を呪って。



 ──でも、それは違う。



 辛いなんて、比べられる事じゃない。お母さまだって、ニーナだって苦しんだはずだから。もっと辛い目にあってるひとだって。



 今ならそれは間違いだと気づけたけれど、もし、気づかないままだったら今頃部屋の中で蹲っていただろう。

 そして、お母様のことを信じられずにいた。今なら分かる、きっとお母さまは私のことを愛してくれていたんだと。



 公爵家に来てからわたしは変われた。来て本当に良かった。



 そう思っていた時、後ろでがさりと音がした。あのことを考えていたから、思わずびくりとしてしまった。

 恐る恐る見てみると、そこにはアニーがいつの間にか戻っていた。本人はきょとんとしているが、アニーであったことに良かったとほっとする。



「すみません、奥様、今戻ってきました……けれど、ハンナとテレーゼはどこにいかれたのですか?」

「あ…おかえりなさい、アニー。二人は今物音がしたから様子を見に行ってくれていて…」

「そうなんですか? ですが、何も二人とも行かなくてもいいのに…」

「あ…最初はテレーゼが行ったのだけれど、戻りが遅いからってハンナが様子を見に行ってくれたの。……でも、二人とも遅いわね…」

「…今度は私が様子を見に行ってきましょうか?」



 もう少し待ってみよう、と返事を返そうとすると遠くからハンナの声が聞こえてきた。

 そちらを見てみると駆け寄ってくるハンナ、その隣のテレーゼの腕には、何か白いものが抱かれていた。



「すみませんっ、遅くなってしまって…」



 はぁはぁと息を切らしながらハンナが謝る。テレーゼもぺこりと一礼する。

 すると、そのテレーゼの腕に抱かれているものがもぞもぞと動いた。

 何かと見てみると、それは顔をぴょこりと顔を出してきた。その正体は白い猫。

 白くて、触らずともわかるくらいもふもふしていて、アイスブルーの瞳をしている子猫だった。



 どうして猫を抱っこしているのかと疑問に思い二人を見上げると、二人は説明を始めた。



「実は、この猫が物置の古い椅子を地下階段から落としたみたいです。あの音は多分その音かと…」

「それで一応子猫を外に出そうとしたら何度か逃げられてしまって、時間がかかったんです。本当にすみません…」



 テレーゼとハンナが掻い摘んで説明してくれた。すみませんと何度も謝ってくるけど、謝ることじゃないと首を振る。



「ううん、二人は悪くないわ。……もちろん子猫も」



 恐る恐るツンと子猫をつついてみる。そうしたら子猫はその差し出した指をチロチロと小さな舌で舐めてきた。くすぐったさに思わず口角が上がる。



「可愛い……ふふ、きっと怖かったのかな?」

「可愛いですね…!」



 アニーとハンナも同じように可愛いと子猫を触る。その行動に、子猫を抱えているテレーゼは顔を顰めた。



「テレーゼ、どうかしたの?」

「……なんでもありません」

「もしかして猫、苦手だった?」

「…いえ、そんなことは」



 わたしとアニーが聞いてみるけど、多少狼狽えるだけでテレーゼはなんでもないとしか言わない。

 でもそのテレーゼの頬は少し赤くなっていた。

 もしかするとと、わたしが答えに至った時、ハンナも答えに至ったのだろうか、意地悪そうにニヤリと笑った。



「その猫テレーゼにしか近づかなかったんです。私には引っ掻かれちゃって抱っこすら出来なくて……なのにテレーゼは猫が苦手って言ってるんですよ? ならその猫、私たちに譲ってくれてもいいじゃないですか~」



 ハンナが意地悪そうにテレーゼの猫を抱っこしている腕をつつく。テレーゼは、ハンナがつついてくるのを嫌そうに顔を顰めると抱っこしている腕に力を込めてハンナに背を向けた。



「……奥様になら渡してもいいですが」

「なら早く渡せばいいじゃない」

「…嫌です」



 口をとがらせて文句を言うハンナに向けて、テレーゼはぽつりと呟く。



「……? ならテレーゼも皆と同じように撫でればいいじゃない」



 イマイチピンと来てないアニーが、「こんなにかわいいのにね」と近づいて子猫を撫でる。



 まだ小さい子猫がアイスブルーの瞳で無言を貫くテレーゼを見上げて、ミーミーと鳴く。

 テレーゼはそれに狼狽えて、子猫とわたしを交互に見た。



「…テレーゼ、その子猫もきっとテレーゼに撫でて欲しいよ」



 きっとそんな気がすると、そう思ってテレーゼを見つめてみる。

 すると、周りの視線に耐えきらなくなったのか、テレーゼかそっと腕を外した。テレーゼが恐る恐る小さな頭をそっと撫でると、子猫は気持ちよさそうに目を細めた。

 その時のテレーゼの顔と言ったらすごく嬉しそうにしてて、ついわたしも嬉しくなった。



 テレーゼはひとしきり撫で終わったあと、子猫をわたしの膝にそっと乗せてくれた。

 子猫は人懐っこいみたいで、前足をわたしのお腹にかけて顔を近づけてきた。

 子猫をは近づくとよく分かるくらいに綺麗なアイスブルーの瞳をしている。それが何だか旦那さまみたいで、思わず呟いた。

「ふふ、なんだか旦那さまみたい…」



 子猫はミーミーと鳴いて、胸に頭を擦りつけてきた。

「可愛い…!」

「わあ! いいですね…」

「きゃあー! いいな、私もそれされたい…」

 テレーゼは頬を染めて、ハンナは羨ましそうに、アニーははしゃいでいる。子猫の可愛さに、四人で盛り上がった。



 しかし、楽しいはずの会話ははどこからともなく聞こえてきた、たった一言でガラガラと崩れてしまった。



















「──おい、あいつはどこにいる!?」



 その声の正体に体がガタガタと震え出す。



「な、なんで…」



 ──あの人が、ここに…?



 わたしの恐怖を感じとったのか、膝の上にいた子猫は怯えて遠くに逃げていった。それくらい、怖かったのだろう。わたしだって、体が震えてしまうもの。





 あの人がズンズンと足音を立てながらこちらに近づいてきている。



 その事が分かると、自分でもわかるくらい顔が青くなってしまった。体が強ばって、上手く動かない。息も、上手く出来なくなる。



 そんなわたしの手をアニーがそっと握って、大丈夫ですと微笑んでくれた。おかげで少し力が抜ける。

 その後すぐにアニーたちは私を庇うようにして立ってくれた。それだけで、少しだけ安心出来た。



「なんだ、こんなところにいたんだな」



「お、お・父・さ・ま・…」





 そう言ってニヤリと笑ったのは、お父さまだった。



 久しぶりに見たお父さまの姿はすごく変わっていた。元々丸かったのにさらに丸くなっていて、ジャラジャラと音を立てる装飾は太陽の光で反射してやけに派手になっていた。



「っ…ど、どうしてここに…?」



「フン、そんなもの…お前を家に戻すために決まっているだろう。あ?なんだその傷は…まあどうでもいいか」



 お父さまは小馬鹿にしたように笑う。



「ど、うして…?」



 カラカラと口が乾いていく。手をぎゅっと握りしめて、絞り出すように声を出す。結局は掠れた声しか出なかったけれど、なんとか喋れたはずだ。







「フン、喜べよ? お前を愛・人・にしたいという方がいるんだ。もう契約はしてある。さっさと行くぞ」



 そうしてわたしに近づいてくる。すると、テレーゼがわたしの前に出た。



「失礼ながら……奥様には既に旦那様がいらっしゃいます。愛人というのは些か問題ではありませんか?」



「ちっ、うるさいな…侍女のくせに口答えするな!」

「あっ…!」

「っ、テレーゼ…!」



 わたしを庇ってくれたテレーゼを、お父さまはドンっと押した。

 アニーが倒れたテレーゼに駆け寄る。幸い怪我はないようで、すぐにテレーゼは立ち上がった。





「っ……」



 今、この瞬間。お父さまが幸せを破壊する化け物のように思えて、体が震える。



 ──やっと幸せな日常になるんだと、そう信じて疑わなかった。なのにどうしてこんなことになってしまったのだろう。





 それでもやっと手にした幸せを、この生活を、奪われたくない。

 それにいつまでも守ってもらってばかりじゃ、きっと旦那さまに嫌われてしまうから。震える体を叱咤するように、手をぎゅっと握りしめて立ち上がった。



「っ、お、お父さま……わたし、は、行きません…!」



「ハッ、お前なんかが公爵に好かれるわけないだろう? だからこの私が折角煩わしい契約までしてここまで来てやったというのに、その言い草はなんだ?」



「っ……そんなこと、頼んでません…! それに旦那さまはわたしのこと…大事にして、あ、愛して、もらってます、から…」



 少し自信がなくて弱々しくなってしまった。でも、本当だとは思ったから。

 しかしお父さまは少しキョトンとした顔をすると、突然大声で笑い始めた。



「ハハハっ! あの公爵が? 奴隷卑しいの血を半分持っているお前なんかを大事にするわけないだろ?

勘違いも甚だしいな。誰がお前を育ててやったと思ってるんだ? 反抗なんてするのもいい加減にしろ」



「っ…!!」



 そうして、ついにお父さまが私の腕を掴んだ。無理やり立たされた時、わたしは旦那さまの事が頭に浮かんだ。



 ──ごめんなさい、旦那さま…っ



 ギュッと目を瞑って、泣きたくなるのを我慢した、その時。



「─その手を離せ」



 何よりも大切な、愛おしいひと─旦那さまの、声が聞こえた。



 こんな時にまで旦那さまの声が聞こえるなんて、幻聴かと思った。今はお仕事のはずだし、何よりもわたしを助けに来てくれるわけないと思っていたから。



 ──でも。



「聞こえなかったのか? その手を離せ」



 すぐ隣で声が聞こえて、お父様の手が離れる感覚があって、まさか、と声の聞こえる上を向いた。



「だんな、さま…?」

「遅くなってしまってすまない、クレア」



 旦那さまは目を細めて微笑んだ。それがなんだか嬉しくて。胸の底からじわじわと何かが滲み出てくるような感じだった。



「怪我はないか?」

「っ……いいえ…ありません…ッ!」



 あんなにお父さまが怖かったのに、旦那さまがそばに居てくれるだけで怖くなくった。そのおかげなのか、崩壊したようにぼろぼろと涙が溢れ出てきてしまった。



「ク、クレアっ? ど、どうしたんだ?」



 旦那さまが慌ててハンカチを取り出して、涙を拭ってくれる。



「すみません……嬉しくて…つい。旦那さま…来てくれてありがとうございます…」

「クレア……」



 旦那さまが何かを言いかけた時、お父さまがわなわなと顔を真っ赤にさせて叫ぶように言った。



「公爵様! 一体、何をしておるのですか?」

「…何を、とは?」



 旦那さまは少し呆れたような表情でお父さまを見る。

 お父さまはわたしを一瞥すると、ニヤリと嘲笑した。その視線にぶるりと体が震えた。



「その娘は奴隷の血を持っているんですよ? そんな奴に優しくする必要などありません。なんなら手酷くしたって──」



 ──奴隷の血。

 わたしのことはいいけれど、大好きなお母さまを馬鹿にされて悲しくなった。俯いたわたしの腰を旦那さまが抱いて、そっと抱き寄せた。



「伯爵。貴様は愚かだな」

「…は…? こ、公爵様?」

「伯爵。クレアを妻に出来るということで見逃してやったが……もう見逃すことは出来ないな」

「え…?」

「実の子供の虐待に奴隷達の違法売買、拷問、違法賭博……」



 思わず顔を上げる。

 旦那さまが次々と言う罪…悪いことを言う。するとお父さまは焦り始めたように見えた。



「な、なんのことですかな? それは私には関係ありません。証拠も──」

「全て、貴様がやった事だ。覚えているだろう?」



 驚きを隠せない。すると、旦那さまは思い出したかのようにロベルトさんを呼んだ。



「ああ、他にもあるな。ロベルト、書類を」



 直ぐにロベルトさんが書類を旦那さまに渡す。そうして読み上げる罪と証拠は沢山あって、どんどんとお父さまは青ざめていった。



「これでも言い逃れはできるか?」

「っ…!!」

「……捕まえろ」



 じりじりと後ずさりするお父さまを、直ぐに屋敷の衛兵が捕まえた。



「っ貴様ら、私は伯爵だぞ!」



 バタバタと暴れるお父さまはわたしと旦那さまを見上げると、何故か、ニヤリと笑った。



「…八ハハッ! 若造が…甘かったな! 貴様は大事なことを忘れているぞ?」



 気性が荒くなったお父さまが怖くて後ずさりしてしまう。旦那さまは怪訝な顔をしながらも、わたしの腰を抱いている腕に力を込めて、ぎゅっと抱き寄せてくれた。



「公爵は随分とうちの娘を溺愛しているようだが…政・略・結・婚・ということを忘れないで頂きたいな!」



「政略、結婚…?」



 思わず口に出る。またお父さまの嘘だと思いたいけど、隣にいる旦那さまが反応したのに気づいてしまった。それは、言葉に詰まったような、そんな感じで。

 お父さまの言っていることは正しいのだと、そう思ってしまう。



 否定して欲しい。違うって、昨日言ったことの方が正しいのだと─そう思って旦那さまを見上げる。



「……旦那さま…」



 わたしがそう呟くと、旦那さまはびくりと肩を揺らした。



「クレア……違うんだ、それは…」

「は、はははっ! どうしたんだ、公爵?」

「……──連れて行け」



 そう命令して衛兵がお父さまを連れていった。お父さまは最後まで何か言っていたけど聞き取れなかった。たぶん王宮に連れていかれるんじゃないだろうか。最後のことは本当か分からないけど、きっとあの罪は本当だろうから。



「……クレア」

「っ…!?」



 ぐいっと腰を引っ張られたと思ったら、わたしは旦那さまの胸の中にいた。抱きしめられたのだと分かった時には、既に遅かった。もう真っ赤になっていたし、強く抱きしめられているため離れることも出来なかったから。



「あ、あのっ…?」



「聞いてくれ、クレア。今回のことは確かに政略結婚だが、政略結婚ではないんだ」



「えっ…?」



 ──政略結婚だけど政略結婚ではない?

 どういう意味だろうか。不思議に思って旦那さまを見上げる。



「ああ、いや、なんというか………」



 旦那さまは視線を迷わせて悩んでいた様子だったけど、わたしを見ると決意したように目を閉じた。



 そうして、旦那さまはゆっくりと説明しだした。



 まず、旦那さまはわたしとの結婚をお父さまに頼んだ。

 しかし、お父さまはわたしをやるのなら同等の金を寄越せと要求したらしい。

 そして旦那さまはその通りお金を渡し、わたしと結婚した。

 お父さまはおそらくその時のことをいっているのだと。





「クレアを望んだが結局は金が絡んでしまった。

だが俺は政略結婚だなんて思っていない。金は絡んだかもしれないが、クレアを望んだのは事実だからだ。……屁理屈、だろうか」



 わたしの肩に顔を埋めて「本当にダメだな…」と呟く旦那さま。わたしは赤い顔のまま微笑んだ。それはきっと心からの微笑みだったと思う。なんだか旦那さまが可愛く見えて、嬉しかったから。



「…旦那さま。顔をあげてください」



 ゆっくりと顔をあげる旦那さまは、わたしと話すためにか少し離れてくれた。



「わたし、そう言って貰えてすごく嬉しかったです。

なのに……昨日色々あってからわたしは旦那さまを信じようとしたのに…疑ってしまいました。旦那さまが嘘を言ったのだと…。旦那さまはわたしのこと、こんなに考えてくれているのに……わたしこそ、本当にダメですね」



 すみません─そう言おうとした時、ポロリと暖かいものが顔に流れた。涙とわかった時には既にボロボロと涙が溢れ出てきていた。



「っ…す、すみません、わたし、昨日から泣いてばっかりでっ…」



「っ…いいんだ。泣いて、いいんだ」



 そういう旦那さまも少しだけ泣きそうな顔をしていて。

 ──わたしたちは少しだけ泣きあった。













「…いつの間にか皆いなくなってるな」

「えっ? …あ、本当…」



 涙が止まった頃、やっと周りがいなくなっていることに気がついた。

 二人で見合うと、なんだか恥ずかしくなってきてお互い恥ずかしさを隠すように、何となく始まった昔話をした。



 わたしと会った時の話や、その時の心情。恥ずかしい所もあったけど、お互い誤解していたんだと、分かり合えてなかったと自覚することも出来た。それが嬉しかったから、わたしも話したいこと全部を話した。

 旦那さまはそれを静かに受け止めて、これからのことも考えることも出来た。



「旦那さま…わたし、ここに来て良かったです。そう思えたのは旦那さまやみんなのおかげです。皆には優しくしてもらえて、暖かさを知りました。だからこの屋敷から離れたくなくないと思えたんです。

……わたし、もしお父さまに連れていかれるってなったら、こう言おうと思っていました。…いえ正確に言うと"今なら"です。今ならこう言えるんだって、そう思うんです」



「クレア……」



 旦那さまは少し驚いた顔をすると、決意したように私の手を取った。



「旦那さま?」



「…今度、クレアに見て欲しいものがあるんだ。……一緒に行ってくれるだろうか」



「…! はい!」



 旦那さまと一緒にまたお出かけできるのだと知って、嬉しさのあまり頬が赤くなったまま返事をした。



「…そろそろ戻ろう。みんな待っているだろうからな」



「はい」



 屋敷に向かう前にふと、庭を振り返る。あれだけ怖かったバラの香りはもうしてなかった。

 それが何だか嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちになった。

 でももう後ろを振り向くことはしない。悲しい過去ばかりに囚われたら、きっと前は向けないから。

 これから旦那さまと一緒にいるならば、そんな弱々しい自分を見せたくないから。



 ─だから、わたしは前を向く。



「クレア?」



 旦那さまは、立ち止まったわたしの名を訝しげに呼ぶ。それに「なんでもありません」と言いながらまた二人で歩き出した。



 多分わたしはもう、なにも怖くない。



 ──旦那さまがいるから。



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