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しおりを挟む「残りの金額四十万円は、私が身体で払います」
中学校という教育の場において、凡そ相応しくない発言が校長室に響いた。
それは生徒の父兄でもある山下美央から発せられたものだった。長きに渡って不毛な議論、堂々巡りの話し合いで心身ともに疲労した教師二人は揃って彫像のごとく硬直した。体と思考が固まった二人は美央の爆弾発言に対して即座の反論ができなかった。
「ええと、美央ちゃん。ちょっと説明を省き過ぎだ。このままだと先生方にも理解されない、イタイ発言で終わってしまうぞ」
「ああ、野原さん。・・・そうですね。我ながらいいアイデアを思い付いたので、結論を急ぎ過ぎました。それでは順を追って説明させていただきます。
私の祖父は趣味の剣道好きが高じて早めに仕事をリタイアして小さな道場を構えてしまったのです。長らく道場主というか館長を務めてきましたが今では
高齢の為、名誉館長になっています。元は門下生だった父が後を継いで名目上の館長になりましたが、同期の門下生も会社勤めをしているので集まれるのは夜だけなのです。私も幼い頃から剣道を習っていたこともあり名目上は師範代となってますが、実質的には昼の間道場天元館を切り盛りする館長でもあります」
実家が道場をしていると事前に知っていた野原だからこそ、理解ができたが。
思考まで硬直した二人の教師の頭には滔々と語る美央の言葉が流れ過ぎるのみであった。名誉館長、名目上の館長、師範代にして実質的、館長。解ったのは目の前にいる父兄、というか母親だが。凡そ一般的ではない一面を備えているということだけだった。
一方で野原は別な勘定をしていた。美央の言う、体で払う、とは四十万円分をコーチとして無償で着任するという意味だろう。館長相当とすれば一か月の間でもおかしくはないが相手が中学校となると割高感がする。三か月から四か月くらいが、所謂学割価格になるのだろう。
気になるのは美央の指導力だ。経験を生かしたそれは低い事はないだろう。
満を持して臨む試合なら連戦連破も夢ではなく、評価も人気も右肩上がりになりそうだ。女子部員も増加となると。竹刀の打撃を緩和する緩衝パッドや湿布、傷薬、果ては制汗スプレーや消臭スプレーの販売好機が到来となる。
学校からの受注を独占するには品ぞろえに物をいわせるか。高品質のモノを安く仕入れるためには大胆な注文が必要になる。店の将来と女子剣道部の未来を天秤にかけて、頭を抱えながら算盤をはじく野原だった。
山下登、美央夫妻の間でも息子哲也の犯した罪は悩みの種だった。ごく普通に子育てをしてきたつもりだが、どこで何を間違えたのか。はっきりとした原因を掴めないまま、父親の登が互いに正座して哲也に説教をしたに過ぎない。中学生という未成年の犯した犯罪故、保護者である山下登、美央達が責任を取ることになるが当然山下哲也自身の反省も不可欠である。特にどのような罰を与えるかが難しい。
罰が軽すぎれば、説教の割にこの程度かと反省にならず、同じような罪を犯しかねない。
罰が重すぎれば、精神的には子供なだけに相手を逆恨みしかねない。
父親である登は賠償金の立て替え、つまり哲也の小遣いから、完済までの徴収を言い出したが美央は反対をした。決められた小遣いのなかでやりくりをする習慣をつけたい気持ちもあったが自分だけ小遣いがゼロという状況は別の犯罪を犯す原因になりかねない。それに、全額徴収にしろ半額徴収にしろ、中学生の
小遣いだ。完済までには何年も掛かるしその間友達も出来るだろう。大学生の時或いは高校生の時でも、勉強そっちのけで交友とバイトに明け暮れる可能性もある。労働の体験は大事だが、勉強をないがしろにされては本末転倒だ。
ひとつの案としては在校中、受験勉強で部活動を自粛するまでは、常に一年生と同じ扱いで過ごす、というものも考えた。
概ね二年生になれば、後輩に素振りをしろ、走り込めと指示を出し、自身はそれを監督のように眺めてしまうことが多い。監督役は同級生に任せて自分は常に後輩の先頭を走る事を誓わせる。自らも同じメニューを熟すとなれば無茶なシゴキの防止になるし、右も左もわからない新入生に目指す道を示す引率となるだろう。
一年生も同じメニューを先輩が熟していれば理不尽なシゴキとは思わず自らの未熟に気が付くに違いない。結果としては後輩達からは信頼され自己研鑽もできる。いいことづくめの案に見えるが問題もあった。哲也自身が自分に課した約束を守れるかどうか、である。自分がしでかした事に対する懲罰なのは明白で周りから揶揄われるなど哲也が反発することも考えられる。抜き打ちの視察が出来るようにと中学校への立ち入り許可を求めたい美央だったのだが女子剣道部のコーチになれば心配事はまるっと解決、なのだった。
諸々のダメージで判断力が低下した教師二人に自分をコーチとして採用するよう、強引に売り込みを果たした美央は野原と肩を並べてそれぞれの車へ戻るところだった。当初は難色を示した江口だったが、他人よりは剣道に詳しい程度で引き受けたクラブ顧問である。現役の師範代以上の指導が出来ると思い込むほど身の程知らずではない。何よりも本人の意向でコーチ代はタダ、である。
プロの指導を見学できる機会と思えばこれ以上反対する理由もなかったのだ。
「要望通りにコーチ就任が決まったけど、おめでとう、でいいのかい」
一見、四十万円の出費が減ったように見えるが後に待つのはタダ働きのコーチ就任である。美央の性格からしても来年三月くらいまでは通いそうだ。十か月としても月四万円の換算か。手当てとしては妥当な気もするが学校にロッカーを持たない美央は道場とやらで着替えて防具を持ち出すのであろう。車を使えばガソリン代で半分は飛ぶな。いや、報酬なしだから、毎月約二万の赤字になる。
「こちらの要望ですから。部活のある日は通うつもりです。息子の成長を間近に見られるんですよ。面白いじゃないですか、毎日授業参観みたいで」
「待て待て。着替えやら防具の移動やらで車を使うんだろうけど、毎日なんて通ったらとんでもない持ち出しになるぞ。どうせ年度末まで面倒見る気だろう」
「日曜日はお休みしますよ。毎日はまあ、言葉の綾ですが」
「せいぜい週に二日か三日にしておかないと。経費がかかって息切れしますよ。
いくら息子がいる部活だからって、なんでそう入れ込むんだか」
「それは、まあ、営業活動?うちの道場は父と同年配の方しかいませんから。
学校のコーチをした縁で若い生徒さんが増えるかも?です」
「理由があるなら止めはしないが。疑問形が多くないか」
面識もあるだけに心配する野原に対して言葉を濁す彼女の真の狙いは学校にいる間の自分の息子の監視である。理由も含めてさすがに家族でもない野原に話せることではなかった。もちろん監視対象である息子の哲也にもだが。
ほかにいいアイデアが出てこなかったこともあるが、明日から毎日中学校で剣道のコーチをすることになった。それもボランティアでだ。夫への報告も含め傍から見てもユーウツ極まりない状況のはずの美央だったが。帰宅のために車のハンドルを握るその顔には何故か楽し気な笑みをたたえていた。
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