月の隣

満月

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番外編-満月といろは唄-

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俺には昔、大好きだった女の子がいた。
名前は彩葉。蓮見彩葉。
言葉の響きが綺麗で、口にする度に嬉しくなった。幼い頃に親に教えてもらったいろは唄を、何度も何度も歌った。
もちろん小さい頃の感情なのでそのときは不明瞭だったのだけれど、彩葉から「引っ越す」という報告を受けて幼いながらに俺は相当なショックを受けた。
俺は、彩葉と離れたくなかった。彩葉と離れる自分を想像できなかったのだ。
彩葉は俺よりずっと強くて、格好良くて、いじめっ子から助けてくれる俺のヒーローのような存在だった。その憧れの対象が実は「宝物」だったと気付いたときには、彩葉はもう街を出ていた。
よく遊んでいた公園に行けば、彩葉の声が聞こえるような気がして。彩葉が俺の手を引っ張ってくれるような気もして。
当然ながらそんなことはなく、何ならいじめっ子に捕まって彩葉が引っ越す前よりも泣くことになって。彩葉の名前を涙声で呼びながら家に帰っては、母親に泣きついた。
彩葉が引っ越したという街は、あまり離れてはいなかったけれど近くもなかった。まだ小学生の俺が行くには十分遠い街だった。少ないお小遣いを持ってバスに乗ろうとしたこともあった。
早く大人になりたいと、漠然と願っていた。


そんな俺に転機が訪れた。
俺は昔から体が弱く、それがいじめっ子たちから目をつけられたわけでもあるのだけれど、彩葉と結びつけてくれた要素でもある。
それがまた俺と彩葉を近づけようとしてくれたのかと思った。高校生になった頃、何の偶然か彩葉の住んでいる街にある病院に通うことになったのだ。地元から通うには距離があるということで、両親共々引っ越すことになった。喫驚と歓喜が交互に俺の胸を弾ませる。
また、彩葉に会えるかもしれない。
そう思えば、体が弱いのも悪くないと思えてしまうから不思議だ。
彩葉の後を追うように、俺たち家族も街を出た。新しい家の近くには公園があった。昔彩葉と出会ったのも公園が最初だったことを思い出し、いつしか散歩に行くのが日課となっていた。学校に行って帰って、週何回か病院に行って家に戻り、それから公園へ出かける。
夜の八時半頃のことだ。


その日も例の如く1日のスケジュールをこなし、公園へ出かける。季節は初冬。
そろそろ寒くなってきた。吐く息が白い。マフラーを巻く。
今日は満月だと母が言っていた。楽しみに出てきたのに、分厚い雲に覆われているのか、空はぽっかりと穴が空いたように何も見せてくれない。
満月は、俺にとっては大切な日だ。
昔、彩葉が母親と喧嘩して俺を訪ねて来たことがあった。あのときも二人で公園に行って、ブランコに座って空を見上げた。その日は満月だった。
彩葉が「お月様、まんまるだね」と声を大きくした。それで気がついたのだ。
確かにあの日の月は満月で、大きくて、まるで手を伸ばせばしっかりと握れてしまいそうなほど近くに見えた。
「きれい」を「うつくしい」とも言えることを覚えたばかりの俺は、彼女にそう伝えた。
「うつくしい」という字を何て書くかのかは覚えきれていなかったけれど、「み」と読むのだということだけは覚えていたのでそれも伝えた。
すると彩葉は「あっ、じゃあ、みづきだ!」と俺の頬を両手で包んで笑った。俺の名前は瑞季だからと、発音が同じことを喜んでくれた。
あれから、満月の日には空を見上げて彩葉を思い出している。今、この街のどこでどんな風に過ごしているのだろうか。彩葉の記憶に、俺はどのくらい残っているだろう。


公園に着いた。束の間、入り口のようなところから真っ直ぐ行ったところにあるベンチに人が座っているように見えた。
この時間に外に出るなんて、どんな人だろう。
最初はなんてことない好奇心で近付いて行った。ベンチに座っているのが女性だということがわかった。
もう少し近く。
その人はベンチから足を投げ出し、背もたれに頭を預けるような形で空を見上げていた。満月を探しているのだろうか。俺と同じく落胆しているのかもしれない。
女の人がふと俺を見た。いや、正確には俺がいる方、つまり彼女にとっての正面に視線を戻しただけなのだけれど。人がいるとは思わなかったのか、驚いたような声が聞こえた。
その声をどこかで聞いたような、そんな気がしてもう少しだけ近付いた。無言で近付くのも無粋だし、かといって何か話しながらというのも薄気味悪く、取り敢えず会釈をしてから。
街灯がベンチを照らす範囲に入った。彼女の顔がはっきりと見て取れた。今度は満月だ。満月が引き寄せてくれたのかと思った。
ベンチに座っているその人は、明らかに俺の初恋の人なのだ。大人っぽくなってはいるけれど、顔立ちは変わっていない。俺を見上げる目も、色素の薄い茶色い髪も、俺が知っている彩葉そのままなのだ。嬉しさのあまり勢いで話しかけてもし人違いだったとすれば恐ろしいことになるので、声をかける。

「隣」

「となり?」

ああ、やっぱり「座っても?」
彩葉がいる。


俺の体の弱さと、あのときのようには姿の見えない満月が俺と彩葉を結びつけてくれた。
そう考えれば偶然だとは思えず、男なのに「運命」という言葉が頭から離れなくて浮かれそうになる。彩葉に知られたら、女々しいと笑われるだろうか。笑われたっていいや。
その中で一つ、残念なこともあった。
彩葉は、俺が「瑞季」だと気付いていない。背も伸びて声も顔つきも髪色も変わってしまったので当然といえば当然なのだけれど、やはり少しショックではあった。けれど俺は彼女に、俺が瑞季だと言うことはできなかった。何故かは、自分でもよくわからない。
彩葉は「見ず知らずの人」に手を握られても不快そうな顔はせず、どちらかというと安心したような顔をした。嬉しかったけれど、同時に不安にもなった。俺以外の誰かだったとしても、同じように小さく微笑むのだろうか。もしそうなら、無防備すぎる。
複雑な気分だった。
彩葉を家まで送っていこうと思った。途中で思い改める。家までの道を知るのもそうだが、家の場所を知れば、本当に会いたくなってしまうから。インターホンを鳴らしてしまいそうだ。してはいけない。今の彩葉にとって、俺は「見ず知らずの人」なのだから。


彩葉が来てくれるという確証はないのに、俺は次の日も公園に行った。
いつものように散歩を口実に家を出て、毎日彩葉に会いたくて。俺は何度も彩葉にマフラーを巻いたし、何度も彩葉の手を握った。そのうち、少しでも彩葉に俺を残したくてマフラーを貸すのではなくあげることにした。毎日巻いて来てくれる彩葉を、どうしようもなく抱きしめたかった。
休みの日の話を聞かれた。あまり長時間体を動かすこともしない方がいい俺は、休日も特にすることはなかった。そのまま言った。彩葉は何も聞かなかったけれど、俺は笑っていることを止めなられなかった。
その日、手袋を片方預けた。手が繋ぎたかった。彩葉もそう思ってくれているのかはわからなかったけれど、俺の手を握り返してくれた。彩葉の中で俺はいつまで「知らない人」でいるのか、検討はつかない。彩葉と一緒にいられるなら、それでもいいと思っていた。


父の体調が優れない、と彩葉が言った。
病気かもしれない。説得したいけれど、頑固な父に聞いてもらえるか分からない。
ポツリポツリと落とす彩葉に、俺は「俺と会ってていいの?」だなんて。
言いたくも聞かせたくもない言葉を口にしてしまって、彩葉が傷ついたような顔をした。明らかな失敗だった。
彩葉の母は病気で亡くなったのだと親に聞いた俺には、どうか父を大事にしてほしかった。俺自身が体が弱いということもあって、「病気」には敏感になっていた。
「親父さんを大切にしてね」と言えばよかったのに、幼稚な俺の気は回らなかった。
翌日、嫌な予感がしてその日の予定にはなかった病院へ行った。案の定、少し悪い状態になってしまっているようで、入院しろと言われた。明日からにしてくれと頼み込み、その旨を伝えるために公園まで歩いた。
彩葉はまだ来ておらず、いつもは彩葉が先に座っているベンチで大人しく待つことにした。
彩葉は来なかった。
明日から入院しなければならないのに、しばらく会えないのに、彩葉にそれを伝えられない。俺の体よりも彩葉のことが気になった。彩葉自身になにかあったのだろうか、親父さんの容態が悪化したのだろうか。
次、いつ彩葉に会えるのか。分からなくて、彩葉に俺が瑞季だと言わなかったことを悔やみ、連絡先を聞くのが怖かったことには涙が出そうになった。


病院には慣れたはずなのに、彩葉のいない左隣は妙に寒く感じて。布団にくるまっているのに、体が温まった気はしない。
彩葉はどうしているだろう。
公園まで歩いていたらどうしよう。待ってくれているなら、今すぐにでも病院を飛び出して駆けつけたい。走って、走って、息を切らして、倒れたって、体が壊れたって。

彩葉、ここからは星が見えないんだ。
彩葉には星空も月も見えてるかな。
見えてるといいな。

退院したとき、彩葉に会いに公園まで走ろう。彩葉が来てくれる保証はないのに、そればかり考えていた。


無事に退院した。公園まで走った。苦しくて喉が千切れそうだった。その日、彩葉はいなかった。
明日また、出直そう。また明日、また明日。
それを毎日繰り返した。悪くならないように、病院に行く回数は増やした。それでも彩葉を求めて公園に行く方が、よっぽど多かった。
退院してから二週間ほど経った。今日もいないかもしれない。それでも諦められなくて、俺はまた片方だけの手袋を持って公園へ向かうのだ。
今日は満月らしい。彩葉に再会したあの日と違うのは、大きな空に浮かぶ満月がよく見えること。
また引き寄せてくれないかな。
都合よすぎか。
そんなことを考えながら、公園に辿り着く。いつもここで目をつぶって息を整えてから、ゆっくりと開いて公園の中を確認する。今日もそうだ。目を閉じ、息を吸い込んで、吐き出す。それを2回ほど繰り返して、ゆっくりと目を開けた。

「…っ」

いた、いた。彩葉だ。
あのときと同じように、ベンチに浅く腰掛けて空を見上げる彩葉が、俺の目にはっきりと映った。走り出したい気持ちをぐっと堪え、あのときと同じように近づいて行く。かける言葉は、もう決まっていた。

「い、ろ、は、に、ほ、へ、と」

大きな満月の下、昔よく歌っていたいろは歌を口ずさむ。彩葉はまだ俺を見ない。

「ごめんください」早く遊ぼう、とでも言うように声をかける。
彩葉は徐にこちらを向いて、大きく目を瞠った。
大好きだと伝えたくなるのも堪える。
それより先に、まず言うことがあるのだ。

「隣」

胸が焼けそうに熱い。
満月は俺の味方をしてくれた。いろは歌は、頭に浮かんだまま消えやしない。

「座っても?」


飛びつく彩葉を抱きしめて髪を撫でながら、ずっと言いたかった「好き」の二文字を、そっと腕の中に閉じ込めた。
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